足し算

今は、4月1日土曜日の夕方で、先ほど、スポーツジムから帰宅したばかりである。いつも、書き出しが似たような文章になるのは、夕方だから仕方がないが、ホッとする時刻で、書斎の西窓から外を見るのが好きだ。季節の早さに驚くが、今日は4月1日で、新年度の始まりである。スポーツジムの行き帰りでは、いろいろな事が頭に浮かんでくる。プールで泳いでいる時もそうだが、泳ぐときは、ターンの回数を数えているので、あまり複雑なことは考えないようにしている。考えると言っても、ほとんど雑念に近いが、あの案件はどうだとか、あの資料はどうだとか、仕事のことばかりだ。歳を取っても、仕事に生きるのは良いが、現役の頃から、ズッーと同じような気がする。だから、子供たちが、何でも良いから、仕事をさせておけばボケないから、と家内に言っているらしい。それは、事実だろう。ただ、今の自分は、昔のような現役ではない、現役の定義は知らないが、決まった時刻に出勤し同じ時刻に退勤するようなスタイルではない。コロナ禍以降、オンラインになって、出勤という概念もなく、自宅の書斎が仕事場である。仕事も、どこからかオファーがあって、その依頼に対して仕事をするスタイルなので、非常勤であり、フリーランスとも言えるが、自由業の用語が気に入っているので、人には、団体役員か自由業と、多少の格好をつけて言っている。その点は、タレント業とも似ている。彼らも、決まった給料ではなく、オファーによって仕事をしているので、非常勤で自由業だとも言える。だから、忙しい時と暇な時の差が、激しい。いつオファーが切れるか、一寸先は闇のような世界に生きているから、オファーがあると、どんな内容であっても、決して断らないと言う。自分も青色申告をしているので、源泉徴収票を見ると、給料の記載もあるので、よく分からない。いづれにしても、今の自分の境遇が気に入っている。当然ながら、年齢と共に止める仕事もあれば、新たなオファーもある。好きな面白い内容もあれば、苦手でやる気のおきない内容もある、そして、うまく行く時と行かない時がある、のは、世の常である。自分も例外ではない。今日も、行き帰りで、面白くないこと、うまくいかないこと、などが脳裏をかすめたが、それでも、こうして、スポーツジムに通えるだけ、帰宅したら、夕食が食べられるだけ、安らかに身体を休めるベッドがあるだけ、幸せではないか、と思ったりする。今日は、最近のオファーを考えながら歩いたが、これは楽しい。過ぎ去った、終わった仕事のことは意味がない、これから始まる仕事のほうが面白い、常に、足し算で考えるほうが、楽しいのだ。新聞に、検診の数値主治医に褒められて花屋の春にちょっと寄り道(緒方英精)の句があった。いくつになっても、褒められることは嬉しい、数値が良くなることは、足し算なのだ。引き算もあるが、それは勘定しなくてもよい。昔は、よく家内から、あなたは反省病だ、と言われた。今は、言われなくなった。現役と自由業の違いなのか、責任の重さの違いなのか、否、どうも歳と共に、引き算から足し算の思考が多くなってきたからだろう。

枯れていく

今は、3月29日水曜日の夕方、書斎の窓から見える西空が、まだ明るい。平凡ながら月日の経つ早さに、驚かされる。もう3月も数日で終わり、新しい年度を迎える。ブログは、昨日書く日なのだが、例によって、時間が取れず、今日に持ち越した。3月中は、忙しく、年度末と言うこともあるが、理事会などの会議や、学会の大会や研究会、原稿や報告書等の締め切りなどが重なるので、忙しいのだが、およそ、3の倍数月は、なにかと儀礼的な会議が重なる。次は6月だが、会議や締め切りなどで、せかされる、そうして、いつの間にか時間が経過していき、嬉しいことも、苦しいことも、いろいろな思いを乗せたまま、快速電車のように走り去る。これが人生か、と嘆息しても仕方がない、忙しいだけ幸せなのだから、と思えば、反面、感謝する。今日は、数週間ぶり、だと思うが、スポーツジムに行った。ずっと行けなかったから、何か新鮮な感じがしたが、このジムには、小さいながらゴルフ練習場があり、プールがあり、筋トレマシーンがあり、ヨガ施設があり、と豊富な設備が揃っている。以前は、筋トレをよくやっていたが、あれは我慢比べのような精神力が必要なので、今は中断している。ランニングマシーンよりも、晴れた日に街中をジョギングするほうが、周りの景色に癒されて、楽しい、時に、口笛を吹きたくなるような気持にさえなる。この年齢になると、楽しい時間の積み重ねが、生きている時間から引き算すると、極めて貴重になることは、言うまでもない。だから、筋トレやランニングではなく、下手なゴルフの練習をして、その後、汗を流すために、プールに入って泳ぎ、ジャグジーに浸かりながら、街中を見晴らし、リゾート気分を味会うほうが、良い。下手なゴルフと書いたが、その通りで、下手な、という形容詞を付けないと、とても人様には言えない。誰でも、同じような思いをするのかと、新聞を読んで知った。みづからを運動音痴と人前で言へたる歳となりにけるかも(原田浩生)の句の作者も、自分と同じような心境らしい。運動音痴は、小中学生の時、特に男の子にとっては、勉強ができないこと以上に、悩みであって、それはコンプレックスである。中高生の時代は、勉強の成績で優劣が決まり、厳しい振り分けが始まる。世の中に出ると、学校の通信簿とは別の厳しい評定が下される。業績という名の評価によって、否応もなく烙印を押され、それが生活レベルまでも規定するのだから、同情などの余地はないのだ。しかし、人生の終わりのページに近づくと、足腰が弱ったり、入院生活を送ったり、仕事を引退したり、老後の文字が現実味を帯びてくると、誰もが同じような生活を送る。つまり、勝った負けたではなく、誰もが似たような平等的な世界に住むことになる。すると、運動神経の良し悪しだの、学校の成績のことなど、ほとんど意味がなくなってくる。意味があるのは、日々をつつがなく、できるだけ楽しく過ごし、子や孫が幸せになることを願い、大波が来ないように、平穏であることぐらいだろう。野心に燃えて、などは、どうも相応しくない。振り返ってみれば、自分は、特に大きな不安はなく、徐々に歳を取っていくようで、この地に住み、このままで生きれたら、これ以上の贅沢は要らない。それは、枯れていくことなのか。

若さ、その2

今は、3月25日土曜日の夕方、春とはいえ、まるで冬に戻ったような肌寒い気温である。今日の午後は、ずっとオンラインでの発表会に参加した。それが終わったら、終日椅子に座りっぱなしでは、身体が硬直するので、小雨ではないが、傘をもって、ジャンバーを着て、散歩して帰ってきた。と言っても、20分も歩いていないだろうが、近所の神社に行って、桜を観て、小さな公園に、数人の子供たちが遊んでいる光景を見ながら、戻ってきた。桜も、連日の雨で、満開を過ぎて散り始め、花びらで小道にまだら模様ができている。寒い、と言いながら、帰宅すると、ほっとして、グレープフルーツを食べた。好きなのだ、少しでも身体を動かさないと、と思い、身体を動かした後は、酸味が欲しくなり、それを食べながら、家内と話す。給湯器が壊れて、業者が点検をしている時で、たわいもない平凡な話をすると、半時間くらいは、すぐに経ってしまう。それで、ブログを書く時間だ、と2階に駆け上がった。今日は、どんな日だったのか、先ほどの発表会は、高校生だった、優れた内容で、すべてが胸に入ってきた。それぞれの発表に、専門的な立場の先生がコメントをして、最後に、自分が総括的な話をして、主催者の挨拶で終わったが、3時間近くかかった。その間、よく飽きないな、と思うが、まったく退屈することは無かった。何故だろうと思うが、高校生だからからもしれない。若いとは、純粋で、怖さを知らず、真っすぐで、失敗を乗り越えていく、その姿に、大人は惹かれるからだろう。この前のブログも、似たような内容を書いたかもしれないが、自分の年齢からみれば、高校生などは、宝石のように光り輝いている、思えば、自分は、若い人を相手に、仕事をしてきたのだから、世間の皆様には、申し訳ないような、幸せな時間を過ごしてきた。そして、今でもその延長で、仕事をさせてもらっている。だから、講評で、最後に、思わず、高校生諸君、ありがとう、と、つい言葉になった。本心だから、構わないだろう、別に、若者に、お世辞を言ったのではない、自分にないものに触れた時、人は、相手に敬意を抱き、自然に、感謝の言葉が出て、頭を下げたくなる。新聞に、放課後の校舎の階段を上下するリュック背負った山岳部員(久保田洋二)の句があった。部活の光景である。よくまあ、重いリュックを背負って、さぞかし、胸も足も苦しいだろう、息も切れるだろうに、そんなことをして面白いか、という馬鹿な質問は止めよう。山登りが好きな人は、それがこの上なく楽しい時間なのだ、それにしても、若いとは、なんと純粋なのか、それほど夢中になれるのか、高校生の頭によぎるものは、大学受験でも、期末試験の結果でも、人間関係でも、家庭の事情でも、すべて関係なく、ただただ、歯を食いしばって、夢中で、階段を上下する運動だけである。若さとは、なんと魅力的なものなのだろうか。

若さ

今は、3月20日月曜日の夕方、書斎でパソコンの画面に向かっている。月曜日にブログを書くのは、変則的なのだが、明日火曜日は祝日だが、都内に1日中縛られる。小さな学会だが、講演をすること、学会の総会を仕切ること、などなどで、朝から夕方まで、忙しい、帰宅しても時間がなく、明後日の水曜日も、定例の水曜サロンというオンラインセミナーがあって、自分はホスト役なので、ゲストと対談をしなければならない、とてもブログを書く暇はない。有難いことだと、この歳で、と思いつつ、毎日を過ごしている。今日も、4つのオンライン会議をこなして、先ほど、すべて終わった。ほっとして、1階の居間に降りて、コーヒーを入れて、今、飲んでいるが、脳と心を癒してくれる。その上、今日は郵便物も多く、その処理をしていると、あっという間に時間が経つ。今日は、その中で、ふと目に留まった書類があった。自分は、地元の学校の評議員を引き受けているので、学校便りが送られてくる。毎月のことなので、あまり気にしないのだが、ふと読みたくなった。卒業式について、記されていたのだが、この忙しいのに、読む気はなかったのだが、ふと目に入って、読んだ。コロナ禍のために、評議員は、ここ数年間は、卒業式に出席できない。別に楽しみにしているわけではなく、長い式、寒い体育館、のためか、トイレに行きたいが、途中では退席できないので、むしろ出席したくないのが、本音であった。ただ、例外に、楽しみにしていることが、卒業生の別れの言葉、と、在校生の送る言葉、である。これは、凄い、さすがに、代表ともなれば、言葉の格調が違う、それは美文という意味ではなく、生徒が感じたそのままを、美しく表現するのだ、それは、大人ではできない、教師にもできない。卒業する生徒しか、在校生の生徒しか、語れない言葉の魅力なのだ。その言葉が、今日受け取った学校便りに、書かれていた。生徒の思いが、紙面から伝わってくる、胸の中に飛び込んでくる、たぶん、別れの言葉も、送る言葉も、全国の学校で、展開されているのだから、それらしい文法もあるだろう、春の季節から始まって、友達や先生のことなど、似たような言葉が、巻物のような紙に書かれているだろう、だが、それでも人の心を打つのだ。何故だろうか、分からないが、それは、生徒だからだろう。大人や教師が作った作文なら、陳腐な作り話でしか過ぎない、本物の生徒ではないからだ。今朝の新聞に、限界までしびれた足を投げだせば笑いに満ちる琴部の和室(武田奈々)の句を読んだ。作者は、学生であると言う。たぶん、女子高生だろう、琴部の部活があって、長い演奏で、足がしびれて、その恰好に、笑い転げた、なんと若くて、はつらつとしているのか、なんと楽しそうな光景なのか、なるほど、若さとは、この上なく美しく、他人に幸せをもたらすのだ。いつまでも、そのままで生きてほしい、と願うのは、教師の常であるが、笑い転げる生徒だけでなく、うつむいて悩む生徒もいるだろう。大丈夫、君たちは、若さという宝物を持っているではないか。

作品作り

今は、3月17日金曜日の夕方、いつもは、明日土曜日にブログを書くのだが、あいにくと、夕方は都心で会合があって、正確には懇親会があって、時間がなく、今書いている。有難いことに、前のオンライン会議が、早めに終わった、文字通りラッキーで、時間が取れた。今日も、今週もいろいろあった、また、明日もある。先のオンライン会議の前に、自分の所属する団体の理事会があって、これは、代表をしている関係で、最重要な会議だが、楽しく終わった。普通、総会とか理事会などというと、滞りなくとか、無事にとか、シャンシャンと異議なく終わることが、良しとされているようだが、それでは、詰まらない。参加した理事全員が、発言することを、自分は信条としている。何も発言しないで、良かったなどは、本来はないはずで、何か意見を言うから、参加する意味がある。そうでなければ、代理の人形かロボットでも用は足せる。という訳で、今回の理事会も、全員が発言出来て良かった。無難に終わるのは、消極的すぎて、好きではない、もちろん波乱が起きることを望んでいるわけではないが、議論することが、大切なのだ。大学関係者は、比較的、よく発言する、企業関係者は、遠慮する傾向があるのは、背負っている文化の違いだろう。大学の研究は、相手の地位などは全く関係なく、真理の追究なので、遠慮する意味はないのだ。こうして、今日も暮れていく、今日はお昼に数分間の散歩をしただけで、運動もする時間がなかった。今日中に送信する原稿があったから、午前中にそれに取り組んで、どうにかお昼に出版社に送れたので、ほっとした。すると、コーヒーでも飲みたくなのは、どこか、気が和らいで、その心情に浸りたいからだろう。原稿を書いたり、校正をしたり、資料を作ったりしている時、そして、一息つく時、それは自分の書斎で過ごす時間なのだが、その時間が好きだ。自分は、それを作品作りと言っているが、ならばその人は、作者とか作家と呼ぶほうが、相応しい。モノを作る時、モノだけでなく、絵でも、彫刻でも、木工でも、論文でも、発表資料でも、何らかの作品を作る時、誰でもワクワクするだろう。新聞に、春近しドア全開の画材店(高橋まさお)の句があった。あまり画材店などに入ったことはないが、絵を描く時の画材を売っている店なのか、ほとんどは、駅前の大きな店舗やデパートなどにあるだろう、絵の具などを見ると、子供の頃を思い出す。天気の良い日に、校庭か近くの風景の良い場所で、写生する時間があった。確かに、冬の寒い日では、写生はやりにくく、暖かい春がやってこないと、絵を画く気持ちにならないだろう。そういう季節がやってきたのか、理事会で発言を促すのも、今日、原稿を送ったのも、考えてみれば、自分の作品つくりなのだ。縮こまっていては、作品はできない、発言する気も起きない、春の暖かさが、心のコートを外してくれるのか、だから、人は活動したくなるのか。良い季節になった。

3.11雑感

今は、3月14日火曜日の夕方で、西向きの窓から見える空はまだ明るく、日が長くなった、と実感する。季節は、人間の意思とは関係なく、いつでもどこでも、平等に、自然の法則にしたがって、やってくる。空が明るいと、気持ちも明るく、何か良いことがあるような、嬉しいことが起きそうな、そんなことはまったくないのだが、どこか夢想する。今日も忙しかった、午前は学校訪問があって、午後はオンライン会議があって、その間に、事務的な書類を確認して、ブログを書く時刻までに、1時間半程度の余裕があったので、ジョギングもした。今日は、東方向の航空公園で、約1時間、それでも、汗をしっかりかいて、帰宅して、家内が食べやすいように切ってくれたグレープフルーツを口に入れる、その酸味が、喉と胃の中に入って、極上の美味しさになる。なるべく、1日に1時間くらいは運動したいと思って、なんとか時間を工夫している。この晴れた日の公園は、昼から夕方まで、大勢の若者や幼子の親子連れで賑わう。サッカーに興じているグループが多く、年配者は、ベンチに腰掛けて、所在なく眺めている、若者は、スポーツか芝生に寝転んでいる。もう春なのだ、芝生に身を委ねるのも、悪くはないだろう、柔らかい草の感触が、人の意識を自然と一体化させる。平日なのに、かなりの人がいる、そう言えば、もうじき、卒業式なのか、旅立ちの季節か、この季節には、どこか青春の名に相応しい歌が多いのは、別れのもの悲しさと新しい出会いに向かう不安が、人の心を感傷的にさせるからなのか。自分にも、そんな時代があったのか、すっかり忘れてしまったが、青春時代は、どの若者も美しい。夢に向かって生きているからか、目が輝いている、年老いても、その輝きだけは、忘れたくない。まだやりたいことは、胸にいっぱい閉まっている。書斎から空を見ると、この仕事場で、自分はやれるような気がする。しかし、世の中は、いろいろで、同僚は、ほとんどが引退している。新聞に、靴箱に一足残る上履きは卒業式の翌日の朝(奥村和子)の句があった。この作者は、学校の先生だろうか、卒業式に出れなかった子供は、どうしてだろうか、病気か家庭の事情か心の病か、同じ学び舎で過ごした子供が、1人だけ残された、皆と一緒に飛び立てなかった、それを見送る先生の心情は、せつない。教師であれば、誰一人取り残すことなく、すべての子供に、幸せになってもらいたい、と願っているはずだ。しかし、まだ先は永く、希望はある、この子供も、これから青春を生きるはずだ。そう言えば、数日前は、3.11から12年経ったのだ。大勢の人が亡くなった、生きていれば、花も実もある人生を送れたはずで、楽しいことも、時に悲しいこともあるが、生きていれば、それもなんとか乗り切れる。自分のような老人であっても、まだ希望という船に乗って、航海できる。3.11で亡くなられた人々にご冥福を祈りながら、現在の自分の境遇に感謝しながら、世界が平和であることを願いたい。

保存し忘れ

今日は、ブログを書く日だ、だが、今日は頭がどうかしている。せっかく書いたブログを、保存せずに終わってしまった、まったく影も形もなくなった。しかし、もう書く時間がなくなった。お風呂と夕食の時間が迫っている、が、今日書かないと、明日は予定があって書けない。昨日は、ではなく、今朝早く目が覚めて、その後、なかなか寝付かれなかった、だから、暖かい書斎でパソコンに向かっていると、つい、うとうとして、頭が朦朧としていたので、うっかり保存を忘れた。だが、少し言い訳をしよう。例えば、googleカレンダーでは、自動保存になっていて、保存ボタンを押さなくても、というより、ボタン自身がない、また、文章をオンライン上で書くと、自動保存の機能があって、クラウド上に保存されているから、つまり、便利になっているので、今日のような寝不足の状態では、うっかりミスが生じるのだ。では、何を書いていたのか、およそ、計画性のないブログだから、筆の向くままで、脳が指示するままで、しかし、その脳が、信頼できない状態なので、あまりお見せできるような内容ではないが、WBCの野球観戦の内容だった。テレビは、このWBCで盛り上がっている、若い人は、素晴らしい、色とりどりのバラの花が、咲き誇っているように、テレビ画面は、華やかさで満ちている。大谷選手を始め、その姿に、拍手を送り、歓声を上げ、日本中の、老いも若きも、華やいでいる。しかし、その陰で、画面に出られない、多くの無名のプロ選手たちがいる。新聞に、着膨れの路上ライブのアンコール(加藤剛司)の句があって、引用した。コロナ禍以前には、よく見かけたが、いずれテレビに出て、スポットライトを浴びることを夢見て、路上ライブをしているのだろうが、なかなか世に出るのは難しいだろう、否、ほとんど確率はゼロに近い。若者は、ある面で無謀なこともあるし、純粋な所もあるが、じっくりと人生を見ることは、不慣れである。ワカモノはバカモノに通じるのだが、成功するのかどうか、誰も分からない。WBCや昨年のサッカーの世界大会を観るにつけ、多くの人々に、幸せの花を届ける役割は、そんなに要らないのだ、運と努力と類まれな才能の持ち主だけである。庶民は、暖かい部屋で、美味しい夕餉を楽しみ、テレビ観戦をするのだ、思えば、なんと贅沢なことだろう。これから、その呑気な土曜の夜を楽しもう、というような内容だった。今日は、二度書きなので、短い文章でお許しいただきたい。

面白いこと

今は、火曜日の夕方、ブログを書く予定日である。午前中は、市内の学校訪問の用事があり、午後はオンライン会議と電話があって、仕事を終了した後、なるべく運動をして健康維持を図りたいので、スポーツジムに行ったが、どうも時間が取れず、プールには入れなかった。いろいろな用事が重なって、スポーツジムで過ごしたのは、1時間たらず、ブログを書く日なので、それも気になって、帰宅した。明日には延ばせない、夕方に自分がホストのオンラインセミナーがあって、重要な仕事が入っているので、どうしても今日中なのだ。たかが、ブログと言っても、一度さぼったら、後が怖い、まあ、いいかという、悪魔の囁きが聞こえてきて、ついに、止めてしまう、という事態になる。自分のような年齢では、どうしても、昔かたぎの考え方が支配するので、子供たちや孫たちには、煙たがられるだろう。実際、そのようで、かつて指導した学生達や、今所属している団体でも、変わらないようで、かなり厳しめの言い方をしているかもしれない。孫には優しい好々爺でいたい、という気持ちはあるが、生まれついた性分なのか、頑張れ、とか、しっかりしろ、とか、努力しろ、とか、どうも、優しい言葉をかけていないようだ。仕方がない、許してほしい、のだが、毎日メールを読んだり、電話がかかってくる内容は、優しいばかりではいられない用事がほとんどで、世間とは、こんなふうに、仕事をするのか、と思う。午前中の学校は、まるで違う。NHKの方に聞いたことがあるが、鬼の報道、華の芸能、仏の教育、と言うそうで、教育の世界は、優しさが代名詞なのだ。だから、学校に行くと、心が救われるような気がして、小学生低学年の子供たちを見ると、天使に見える。だが、世間では、空気も言葉も目つきも違う、明日もあまり出たくない会議も出るし、言いたくない発言もするし、嫌われる役も引き受けるし、まあ、そんなものだ。しかし、自分は、何故仕事を続けているのだろうか、自問すると、面白いこともあるよ、お金じゃないよ、山登りみたいなものだよ、と自答したくなる。サラリーマンが、かつて暖簾で一杯、という光景があったが、あれは、愚痴もあるかもしれないが、面白いこともあるよ、と言っているように思える。新聞に、亡き父のセーター着るや凪(なぎ)の湾(平田雅一)の句があった。どこかの海岸なのか、海の仕事をしていた父親だったのか、セーターを着たら、父親が語りかけてくれたのか、赤ちょうちんで一杯、という訳ではないが、仕事の厳しさと喜びを、親子で語り合いたいのか、男には、どこかそんな瞬間がある。こんなことを書くと、ジェンダーバイアスだと言われそうだが、お許しいただきたい。振り返ってみると、自分は、父親とはそんなに多く話はしなかったが、たぶん、子供には言えないような苦労もしただろう、だが、それでいいのだ、どこの家庭も同じようなものだろう、語らなくても、分かる。こうして、自分も父親の年齢に近づいていく。この世の中は、いろいろあるが、面白いことも、いっぱいあるよ、と、自分の子供たちには、伝えるだろう。

春よ来い

今は、土曜日の夕方だが、まだ外は明るい、日が長くなったと、実感する。外が明るいだけで、気持ちまで、どこか春めいた嬉しさがある。人間も、単純で、外の環境に左右されやすい。土曜日だから、オンラインはなく、午前に原稿執筆やメールチェックなどを済ませて、午後はスポーツジムに行った。明日も日曜日なので、ますます気が楽で、ワクワク感がある。原稿書きも、楽しい、というのも、出版の編集代表は知人で、自分はその分担執筆者なので、責任も薄らいで、締め切り日を守れば良い、という気楽さがあるからだ。1人ですべて執筆するのは、多くの時間を要し、精力的でなければ完成しない。何より、出版社に対して、販売数という責任がある。出版社は何も言わないが、自分の方が気を遣うので、売れないと申し訳ないのである。ボランティアで出版業をやっているわけではないので、利益が出ないと、単なる学者の自己満足のためだけになって、誠に申し訳ないのである。自分が代表でなければ、余分なことは考えないで、ただ良い原稿を書くだけである、今日も、自分なりに評価できる原稿が書けたように思う。原稿を書くこと、それは大勢の人の目に触れることが前提なので、何か少しでも気になる内容を書くと、後々まで残ることになる。それは、書き手としては恥であり、自分の無知を公開したことになる。それでもいいじゃないか、と言われても、慰めにはならない、だから、自分で納得できない原稿は見たくないし、うん、これならいいだろう、とか、なかなかいいじゃないか、と思える原稿は、読み返したくなる。だが、ここにも、矛盾があって、一旦、出版社に送った後は、急に愛着が無くなって、興味が薄れる。出版原稿を書いている時、夢中になるのは、その時間だけで、後は別の世界になる。原稿書きも、講演資料作成も、自分の好きな趣味のような仕事なので、定例的な会議とか理事会や総会などの、形式的な決め事の仕事とは、違う。好きな仕事だけやれる人は、別世界に生きている人で、芸術家とか作家とか類まれな学者などであろう。自分などは、職人芸を磨いていると思っているので、この世の垢にまみれ、日常生活に埋没し、たまに行く温泉などが極上の喜びなので、平凡な生き方をしていて、芸術的な美を求めているわけではない。新聞に、菩薩彫る志功(しこう)の瓶底眼鏡(びんぞこめがね)春(相坂康)の句があった。棟方志功は、極度の近眼だったから、まるで瓶底のような眼鏡をかけて、板にしがみついて、懸命に菩薩像を彫っている、そんな光景を、どこかの写真集などで紹介されていたから、思い出す。彼は、芸術家であり、その作品は、多くの人々を魅了して、世界中に名声を広げた。彼には、その時間は、没我の状態であり、常人とは思えないだろう。春が来ると、彼の創作意欲は、ますます高くなるのか、分からないが、暖かい季節になれば、芸術家も職人も市井の人も、動物も植物も、すべての生き物が活気づくのだ。1日ごとに、春に近づいてくる、良い季節になる、やがて卒業式が来て、若者は旅立ち、入学式になれば、新入生となって、新しい世界が始まる。そして、それぞれの作品を作って、足跡を残していく。春よ来い。

変化

今は、もう水曜日の夕暮れ、夕暮れは構わないが、水曜日が遅れたことを表している。本来は火曜日だったが、この世の中はままならず、昨日はどうしても時間が取れなかった。生きている限り、それは仕方ない、と考えれば、予定を立てても、予定通りには事は進まない、それで、トラブルが起きたり、意に染まないこともあるが、すべて順調にいくはずがない、と思えば、大したことではないので、時の流れに身を任せ、という心境に辿りつく。半面、予定しなかったが、意外にうまくいった、とか、自分で思っていた嫌な事は起きなかった、思い違いだった、なども起きてくるから、世の中はうまくできている。そうして、時が過ぎて、歳を取っていくのだ。もう、今日は3月1日、2月も過ぎ去っていったのか、なんと早い時間なのだ、と驚くしかない。思い出せば、今日の午前中は原稿を書いていた、出版の分担執筆だが、目次ができているから、意外に筆の流れは速い、お昼はオンライン会議で、可もなく不可もなく、予想通りの展開で、まあ、これを平凡と言うなら、その通りで、結構なことである。その後、メールを読んでいると、いろいろ物騒な出来事が起きている。ブログでは紹介できないが、これからどう展開するのか、しかし、あまり差し障りのない程度に、関わっていくか、などと考えている。そして、数日前に出した重要な返信がまだ来ていない、どうしているのだ、こんな時、人は良くない結果を予測するようで、多少不安が頭をよぎるが、催促はできない、そのまま、なすがままに、待つしかない。LINEを見ると、良かった、孫に朗報があった、家内が喜ぶだろう、などと、嬉しい知らせもある。考えてみれば、喜んだり、悲しんだり、ほったらかしにしたり、逃げたり、憤慨したり、人とは、絶えず感情に翻弄されて生きているようだ。感情の起伏も変化だから、そこに埋没すると、時間を忘れるのだろう、だから、あっと言う間に時が過ぎて、いつの間にか3月になって、もうすぐ春がやってくる、満開の桜に酔いしれる日は、もうすぐそこなのか、と思う。変化とは、時を忘れさせる特効薬らしい。変化がない人生は、どこか侘しさがある。新聞に、「このまんま年を取るのか」「ほんとにね」会話続かずあとは寝るだけ(大森由紀子)の句があった。気持ちは分かる、所在ない雰囲気が漂っていて、時が静かに、そして長く感じられるのかもしれない。それが平凡でいいような、物足りない人生のような、しかし、そのような人は多いのではないだろうか。自分はどうだろうか、振り返ってみる、少し違うようで、まだ話したいことも、やりたいことも、いっぱいある。それが、うまくいって有頂天になる時も、失敗して途方に暮れる時も、あるだろう、どうも、自分には、死ぬ間際まで、そんな変化がつきまとっているような気がする。