受け入れる

 今は金曜日の夕方、より少し早い時刻である。天気予報とは違って、曇り空で小雨は降っているが、傘も必要ないような天気である。猛暑のような高温でもなく、ジトジトした妙な天候だが、いつものように2階の書斎から空を眺めている。先ほどスポーツジムから帰って来たばかりで、1階の居間で老夫婦が今年初めてのスイカを食べた。「夏だなあ」と話しながら、汗をかいた後の果汁の味はまた格別である。町内会の回覧板が回ってきて、そこに盆踊りのお知らせがあった。我が家からすぐ近くに弘法大師のお堂があり、銀杏の木に囲まれ、カモが住んでいる小川とスーパーマーケットに両側を挟まれている小さな広場がある。例年ここが盆踊りの会場である。

 今日金曜日はどの学校も終業式で、明日からの3連休から夏休みが始まる。嬉しそうな子供の笑顔が見えるようだ。私は昨年からフリーランスになって、正式に所属する職場はない。いくつかの団体の役員はやっているが、自分の身分を証明するような役職ではなく、名誉職に過ぎない。気持ち的にも時間的にも自分が労力をかけているのは、市内の学校訪問である。市の教育センターのアドバイザーと呼んでもよいが、職員ではない。1学期最後の学校訪問が、今週の火曜日だった。これからの夏休み期間には、いくつかのイベント等に参加もするが、時間的にはかなり暇になる。ホッとするような寂しいような夏休みだが、それも良かろう。

 火曜日に訪問した学校で、私が授業参観をしていると、一人の先生らしき人が教室に入ってきた。なぜその先生が入ってきたのか、そもそも先生なのか職員なのか、この学校外の人なのか補助員なのか、何も分からず授業を参観していると、私に何度か笑顔で頭を下げていた。意味がわからないが、私も何度も授業中にお辞儀をした。授業が終わった後、廊下に出たら「先生、本当にありがとうございました」と言われた。私も「いいえ、とんでもない。私もお世話になりました」と相づちを打った。その後、校長室で教頭先生と打ち合わせをした。「あの先生は、どのような方でしょうか」と聞いたら、「4月の授業で、私が参観した先生です」と言われた。「あの先生は、私に何か言いたいことがあったのでしょうか」と聞いたら、「あの先生は本校に転任間近で、いろいろな諸事情があって少し落ち込んでおられました。4月の授業で自分の授業を、と自ら名乗り出られて、私の参観を希望されました。そして私が書いて送ったコメントを読んで、どこか吹っ切れたような、少し自分に自信を取り戻したような様子に見えました。彼はそれから変わったのです。だから先生にお礼を言いたかったのだろうと思います」と言われた。

 それを聞いて、私の方が驚いた。自分は小中学校の授業に対して、コメントを書けるほどの力は全くない。だからこうした方が授業が良くなるという改善案は、一切書いていない。書いていないのではなく、書けないのだ。経験がないことを書くのは、欺瞞である。だから私は、授業をありのまま見てそのまま受け入れている。自分が知らない世界を教えてもらっている。ありのままを受け入れると、どこか見えてくることがある。この先生の言いたかったこと、生徒に伝えたかったこと、教材のここが本質だと考えていること、先生の生徒想いの愛情などを感じるのである。それをコメントに書いて添付ファイルで送っている。だからそれは授業改善でも指導でもなく、私の感想に過ぎない。授業を参観した一コマごとに、これまで蓄積してきた経験知や研究知見などが呼び起こされて、つながって見えることがある。だから私の方こそ教えてもらっているのである。

 「これは謙遜でもなんでもなく、もう少し改善提案などできればよいのだが」と言い、「私の劣等感です」とも言っている。長い間自分は何をしてきたのだろうかなどと、悔やんだり後悔したりして落ち込んだ。時々自分の同僚や弟子などに、なにげなく言うこともあったが、誰も、謙遜か、他人へのリップサービスか、本心ではないだろうと思っていたようだ。しかし昨年からフリーランスになって、悔やむことも反省することも要らないと思えるようになった。長い間、家内から「あなたは反省病だ」と何度も言われていた。フリーランスとは自由業であり、組織に縛られることは何もない。自分は自由の身なのだと、まるで刑務所から出てきたようなことを自分自身に言うこともあったが、今ではありのままでよいと思える。小中学校の授業を参観して、自分は素人だから、ありのままを受け入れていたが、それが今思えば良かったのかもしれない。自分の書いた感想が一人の教師に自信を持たせたとすれば、こんなに嬉しいことはない。それはその先生と私が共感しているとも言える。その先生は「そうそう、自分はこう思っていたのだ。ここを生徒に伝えたかったのだ」と、私に訴えたかったとしたら、私がそれを受け取って「その通りだ。自分はそこはこう思う」と書いたことで、よく分かってくれたという安心感が生まれたのではないだろうか。

 文脈は逸れるが、新聞に「消しゴムの消しあと黒し梅雨に入る」(塚本文武) の句があった。梅雨の季節になると、湿気が多いせいか消しゴムで消してもきれいには消えず、黒くなってしまうという句なのだが、消しゴムで消す必要もないではないかと私は思ったりする。ありのままの自分だとすれば、消す必要も修正する必要もない。かつて算数や数学の計算で、消しゴムを使うなという指導があったと聞いている。間違っていれば、そこに二重線を引いて追加すればよい、という考えであった。消せば残らないが、消さなければその時の思考過程が見えるからだという理由である。どちらがよいかは分からないが、反省病であった自分が今思うことは、その時はその時で良かったのだ、むしろ最善であったのだ、何も修正したり反省したりすることもない、ありのままを受け入れれば良いということである。過去にもこれからも、自分の思い通りにならないことが必ず起きる。その時には、ありのまま受け入れようと今は思っている。

子ガモ

 今は木曜日の夕方、ではなく、正確には夕方前の真昼である。金曜日ではなく木曜日、そして夕方ではなく真昼にブログを書くのは、当然ながら理由がある。明日金曜日の午後は、都内に出かけなければならない。珍しく取材が入って夕方には間に合わない。対面での取材はどこかときめき感があって、浮き立っている自分に気づいて、「この年で」と苦笑する。それでいいのだ、仕事が来るだけ、オファーがあるだけで、フリーランスはありがたいと思う。今日の夕方は私的な用事なので大した内容ではない。いつものように南側の窓から外を見れば、入道雲ではないが、真夏を連想させる青空に少しばかりの白い雲が浮かんでいる。もう夏なのかと嘆息するほどの青空である。

 先ほど地元の学校の役員会議があって、帰ってきたばかりである。歩いて行ける距離なので大したことはないと思っていたが、帰宅した時はもう汗びっしょりで、家内の作ってくれた梅ジュースが角氷の冷たさと一緒になって、喉を通って、ようやく一息つけた。書斎で、さて1週間を振り返って何があったかと思い出すと、一昨日のテレビ番組が浮かんできた。民放の番組で、カモの引っ越しのドキュメンタリーだった。1キロばかり離れた神社に、親ガモ1羽と子ガモ11羽が移動するだけの映像なのだが、なぜか1時間釘付けになった。自然そのものの光景で、人工的な作為は何もなかった。しかしそこに物語が隠されていた。

 11羽のうち1羽だけ1日後に生まれたので体力もなく、子ガモ10羽の後に距離を置いてついて行くのである。親ガモが移動する途中に壁があって、子ガモはその壁に飛びついてなんとか上の場所に移ろうとするが、壁が高いと何度やっても失敗する。親ガモはじっとそれを見ている。やがて11羽のうち数羽が飛び越えると、他の子ガモもそれが合図であるかのように、飛び越えていった。しかし11番目の子ガモだけは、何回挑戦しても無理だった。それでもようやく飛び越えることができた。生まれた時のハンデがあるので体力が弱く、他の子ガモより倍以上の努力が必要だった。

 しかし壁は何度も続いた。最大の難関はカラスであった。数羽のカラスが子ガモを狙って、電線の上に留まっていた。子ガモが食べられてしまう、なんとかできないのか、と視聴者の自分もテレビの出演者もそう思った。映像の中に、近所の人たちがカモの引っ越しを見守っていた。カモに直接手を触れたり手助けすることはできないのだが、数羽のカラスが狙っている時だけは、いてもたってもおられず、カラスに向かってまるで太鼓を叩くように音を出したり、中にはCDを自宅から持ってきて、太陽の反射光をカラスの方向に向けて動かした。それが功を奏したのか、数羽のカラスはやがて逃げていった。やれやれこれで一安心と、視聴者の自分もそしてスタジオにいる出演者も口々につぶやいた。これはもう何としてでも無事に目的地まで辿り着いてもらわなければ、それを確認するまでは、この映像から離れることはできない。心配なのは11番目の子ガモである。相変わらずよたよたしながらなんとかついていった。

 親ガモと10羽の子ガモが引っ越し先である神社の池に辿り着いた時、ホッとため息が出たが、11番目の子ガモはどうなっているのだと気になって仕方がない。出演者も同じ気持ちのようだった。記憶は曖昧だが30分くらい遅れたが、無事に池に飛び込んだ。出演者が、ああ疲れた、とつぶやいた。本音だろうと思う。私もまったく同感だった。11番目の子ガモが道に迷って辿り着けなかったら、この世に神も仏もあるものか、と思うに違いない。これは自然そのものの姿であり、人工的に作ったものではない。自然はなんという素晴らしい物語を演出するのか。最後になって視聴者も出演者もみんな喜びで満たされた。

 話は変わるが、テレビ番組を見た日の午前に小学校を訪問した。1年生の国語の時間だった。外国籍の子供が体験入学で後ろの席に座っていた。隣同士で話をしようという課題だったが、ひと言も日本語が喋れないのに話せる訳ないではないか、と思っていたら、先生がやってきて個別に対応していた。しかしそれにも限界がある。所在なく辺りを見回して、後ろで参観している自分と目が合った。自分がニコッと笑ったら、その子供も笑った。どう手助けしていいかわからないが、何もできないのだ。やがて授業の途中で、じゃんけんをする場面があった。その時、子供は見事としか言いようがないほど素晴らしいじゃんけんをしたのだ。言葉は話せない分だけ、じゃんけんができることに喜びを感じたのだろう。授業が終わって帰る時、自分と握手をした。嬉しそうな笑顔が忘れられない。この子供は11番目の子ガモなのだ。しかし皆が応援している。心配することはないと言いたかった。

 文脈は逸れるが、新聞に「百人の陽キャといても変われない僕はなんだとイオンを学ぶ」(登ゆう)の句があった。評者は、陽キャは陽キャラの略で、イオンにも陽イオンと陰イオンがあると述べていた。中学なのか高校なのかわからないが、心配しなくてよい、必ず孤独を感じない日がきっとくる。11番目の子ガモがちゃんと神社の池に辿り着いたではないか。そんな孤独な君ならきっとみんなが応援している。

 

 

生きる勇気

 今は7月3日金曜日の午前である。金曜日にブログを書いて1週間を振り返るのはよいのだが、通常は夕方に書いている。この時間にパソコン画面に向かっているのは、午後から私的な用事が入っているからで、いつものように書斎の窓から空を見ている。曇り空であるといっても、どんよりとした灰色ではなく、白色で雲の切れ目はない。梅雨の季節なので、ほぼ毎日このような天候である。少量でも良いので雨が降った方が野菜の育ちはよく、農家も喜ぶだろう。私もたまには小さな菜園の雑草などを取っているが、この時期は伸び方が早い。名も知らぬ雑草やドクダミなどは、放っておくと外から見れば、この家人は手を抜いていることがすぐばれる。しかし曇り空や小雨が降る日は、腰が重くなって眺めるだけである。

 1週間を振り返って気になったことといえば、新聞の掲載記事である。それぞれの時代を精一杯生きて、世に名を挙げた人の生き様の連載であるが、一昨日から柔道家山下氏が登場した。言うまでもなくロスアンゼルスオリンピックの柔道の金メダリストであり、その後も日本オリンピック委員会JOCの会長を長く勤めたと聞いている。ただ自分の脳裏には、オリンピックの決勝戦が強く残っている。この時、山下氏は足の怪我をしたので、少し足を引きずっているような印象があった。この不利な状況の中で、よくぞ優勝できたと感慨深かった。それは私だけでなく、日本中の人々が精一杯の拍手を送った。勝った瞬間、山下氏は両手を上げて、そして涙を流していたと記録している。テレビ画面なのでうろ覚えではあるが、私は深い感銘を受けた。

 その後、山下氏がJOCの会長になったことは知っていたが、山下氏は柔道家としてだけでなく、日本のスポーツ界を背負っていく至宝として尊敬されていたと思う。日本の伝統スポーツである柔道を代表する人物として、誰もが日本人らしい好漢山下氏を応援している。しかし新聞記事には、「逆境を背負い、前へ」のタイトルがついていた。山下氏にも逆境があったのかと思った。新聞記事には、数年前に温泉で突然の病に倒れ、現在もまだ手足が不自由で、車椅子でリハビリを続けていると報道していた。まさかあの山下氏がと思ったが、順風満帆はいつまでも続かないのか、天に情けはないのか、と思った。あの人懐っこい笑顔と、日本中の期待を背負って怪我をしても頑張り抜いた山下氏の人柄は、誰でも好感を持っている。あのような素晴らしい人でも、神は情け容赦はしないのかと思った。

 しかし新聞記事を読んで、さらに山下氏の考え方に共鳴した。「あの時死んでいてもおかしくなかったのに、今生きていることはまだすべき事がある」と語っていた。頑健な身体に鍛え上げただけでなく、精神までも力強く鍛えたのだ。そしてその鍛え方は、鋼のような強さではなく、しなやかな強さなのだ。「柔よく剛を制す」の言葉通り、気負うことなく、不自由な自分の体を支えてくれる人たちに感謝しながら、自分ができる精一杯の努力をしたいと語っていた。山下氏には柔道の真髄がしっかりと根付いているに違いない。その道を極めた人は、どこか達観した人生観を持っているようだ。誰にも幸不幸はやってくる。しかしその受け止め方が大切なのだ。そのことは誰もわかっているが、本音でそう思っているかどうかは別である。それはどこか仏教用語で言えば「悟り」のような気がする。

 新聞に「むきたてのゆで玉子だよと頭撫で治療のりきる娘の笑顔」(梅川さりい)の句があった。がん手術の後の治療薬の後遺症なのだろうか、滅入りたくなるような辛さを乗り越えて、笑顔で母親に話している。本当にこの人は偉いなと思った。自分ならとても真似できないと思いながら、人は誰でもこのようにして、苦しいこともつらいことも乗り越えていくのだと思った時、人間とはどんなことも頑張っていける力を本来的に持っているのではないかと思った。ワールドカップで日本選手がブラジルに負けた時、ある選手は「四年後を目指して鍛えて優勝する、まだまだ自分たちの力量が低かったのだ」と語った。日本を代表するような選手たちは、素晴らしい精神力を持っている。がん治療を受けた娘さんもサッカー選手もそして山下氏も、こうして起きてくる出来事と戦っている。自分も生きる勇気をもらった。

であること

 今は金曜日の昼間なのだが、今日は一日中小雨が降って、今も空はどんよりとした曇り空である。週末である金曜日にブログを書くことにしているが、夕方にオンラインの仕事が入っているので、前倒しで昼間に書くことにした。今はワールドカップのサッカーに日本中が湧いているような雰囲気であるが、私は、午前中に学校訪問があり、昼間は先ほどまで諸々の仕事をして、この時間をブログの時間に当てた。そしてこの1週間を振り返って、気になったことなどを書き残している。

 気になるほどのことはないのだが、家内のスマホがどうにも調子が悪くなった。もう寿命である。ちょうど五年も使ったのだから、すぐに機種変更したいのだが、頭痛の種はアプリの継続である。そのためにはIDパスワードなど、きちんと整理しておかなければならないが、どうも家内の場合はそれが心もとない。私も手伝って、なんとか機種変更してもうまく接続できるように、パスワードのメモなどを私のパソコンにも保存した。そして電気量販店のスマホコーナーに行って、担当者と相談した。家内はYouTubeをよく見ているが、自分はほとんど見ないので五年間経ってもまだ十分使える。私はパソコン派で家内はスマホ派である。たぶん世間でも同じようなものだろう。

 二人で担当者と相談しながらやりとりしたが、はじめはなんとなく高価な機種を売り込みたいような印象を受けた。それはこの担当者だけでなく、スマホの設定などは高齢者にとってはかなり面倒なので、どこか上から目線でビジネスをしているような気がした。高齢者はスマホやパソコンになると自己肯定感が下がって、相手の言うなりになってしまう傾向がある。だからそのイメージが自分にあって、担当者に騙されないように、どこか身構えている自分がいた。家内は、とにかく面倒なことはやめて、早く新しい機種を手に入れたい、新しいカバーを買いたいなどと思っている。多分ほとんどの人はその通りだろう。自分はスマホはあまり好きではないが、パソコンは仕事上多少のことは知っている。だから、少したかをくくっていた。

 専門家とはよく言ったもので、担当者はスマホのプロである。IDとパスワードを知らなければ、家内のアプリをすべて新しい機種にインストールすることはできないのは当然だが、プロにはプロのやり方がある。クラウドを活用するのだが、なるほどと思う場面があった。そこから少し自分の考えが変わった。ふと担当者の上着のポケットを見ると、10本近くのボールペンがひっかけてあった。こんな光景は初めてだったので、思わず「こんなにもボールペンを使うことがあるのですか」と驚いた口調で聞いた。担当者は半分恥ずかしそうに、そして半分嬉しそうに「これが結構便利なのですよ」と答えた。それから私と担当者の間の空気が変わった。量販店を出るときは、「本当に優秀な担当者に出会って良かった」と家内に伝えた。

 最近自分の専門とは程遠い「日本と西洋の思想関連の文献」を読んでいる。抽象的な内容が難しいのだが、自分の研究や仕事上理解しておきたいからなのだが、高校の教科書に出てくる丸山眞男の「であること」と「すること」の単行本を読んでいる。表面は知っていても原文を読んだことはなかったので、面白いといえば面白いが、本質まで理解できているかどうかはわからない。ただその中で、例えば量販店の店員「である」という状態から、私たちはなるべく高く売りたいのではないかという気持ちを抱く。それは「であること」からくるイメージである。しかし実際の手際よい仕事ぶりを見たり話しあってみると、やはりこの人は専門家なのだと自分の考えが変わる。それは「すること」によって変わったのである。少しこじつけ的な解釈だがなるほどと納得した。

 文脈は逸れるが、新聞に「武者人形の前に思ふか逝きし子を小さくなった妻の丸き背」(角田兼勝)の句があった。毎週月曜日に掲載される短歌や俳句を読んでいるが、脈絡もなくこの句が気になった。外見は何事もない普通の生活であったとしても、内面は逝ってしまった我が子への思いが捨てられないのだろう。武者人形を見たときの奥さんの寂しさが、ご主人にも痛いほど伝わってきたのだろう。人は誰でもそんな悲しみや悩みや辛さを持っている。裕福で立派な企業に勤め家族にも健康にも恵まれていたとしても、その「であること」という状態だけからは本当のことはわからない。ふとしたことからその人の本音を聞くこともある。ただ自分は、いろいろなことがあったとしても、雨露を防ぐ家があり、暖かい布団で体を休め、三度の食事ができれば、これ以上は贅沢だと思っている。我が子を亡くした人の悲しみは分からないが、きっと良いこともある、自分が生きていて良かったと思える日が来る、亡くなった子供も喜んでいると思える日がきっとくる。教育の仕事に長い間関わっていると、なぜかそんな気がする。

マイムマイム

 今は金曜日の夕方、いつものように2階の書斎の窓から空を眺めている。まだ空は西日がまぶしく夕方とは思えないほどの明るさで、マンションや近所の家々の屋根が照らされている。そうか、そういえば6月21日の日曜日が夏至だから、昼間のような日差しは当然である。この暑い昼間に、先ほど小さなジョギングをして帰ってきた。何か無性に体を動かしたくなって、ゆっくりとした足取りながら45分間、西の方角に向かって走って戻ってきた。とは言っても年寄りのことなので、気恥ずかしいような走りだが、それでも自分の体に多少の負荷をかけないと、運動をした気にならない。この暑さだと汗をいっぱいかくので冷水が美味しい。そして今書斎でコーヒーを飲んでいる。

 さて今週は何か印象深かったことはあるかと、振り返った。今週は4日間午前中ずっと市内の学校訪問をした。水曜日に、ある中学校に行ったら1限目は体育の時間だった。指導案が用意されていて、フォークダンスの単元と書いてあった。指導主事と教頭と私の3人で授業参観をした。フォークダンスの基礎練習なのだが、初めての参観だった。はじめは5、6人のグループが数珠つなぎになって、先頭のリーダーが手を振ったり足をあげたりしながら歩くのだが、後ろのグループはそれと同じ動作をするのだ。なんだそんなことかと思っていたが、生徒たち全員が嬉しそうに歩いている、いやダンスをしている。言われてみれば、ダンスは全員が同じ動き方をするという当たり前のことに気がついた。そして同じ歩き方ができるだけで、妙に人は嬉しくなるのだ。たぶんそれは同じ動作をすることで、気持ちも共有化され連帯感が生まれるからだろう。

 次が、マイムマイムのフォークダンスの練習だった。自分も中学生の頃習った、あのダンスである。若い中学生が、男子生徒と女子生徒が手をつなぎ合って、円陣を組んでマイムマイムと言いながら踊っていた。昔聞き慣れたあの音楽が体育館に響いた。「マイム、マイム、マイム、マイム、マイム、ベッサッソン」の歌声が聞こえてきた。生徒たちはもちろん、先生も教育実習生もそして我々まで、マイムの音楽に揺り動かされた。それは身も心もすべて無条件にマイムの世界に入っていった。そして生徒たちは満面の笑顔を浮かべて、楽しそうに動いていた。彼らは今何の屈託もない幸せの瞬間を生きているのだ。中学生時代とはこのような時代なのかと、ふと思った。

 先生が、マイムとは水のことだと説明された。帰宅してネットで調べたら、イスラエル民謡でマイムはヘブライ語だそうだ。中東地域は、かなりの面積が砂漠である。水は貴重であり、開拓しながら生活をする人たちが、湧き上がる水を見つけた時の喜びの歌が、マイムマイムである。「水だ、水だ、素晴らしい水を見つけた」と男も女も老いも若きも、嬉しくて嬉しくてその喜びを歌にして踊りにして喜びを分かち合ったのだ。このフォークソングに含まれる人々の水を得た喜びが、私たちに伝わってくるのだろう。多感な中学生も、歌いながら踊りながらその喜びを感じただろう。中東で暮らす人々の生活は厳しい。その苦しさの中に、宝石のような水を見つけて喜びを分かち合ったのだ。中学生もやがて大人になり仕事をするようになれば、中東の人々と同じように、喜びと苦しさを味わうだろう。

 文脈は逸れるが、新聞に「理科室のにおいを愛した少年は化学会社で定年むかえ(中路修平)の句があった。たぶんその少年はこの句の作者だろう。中学生の頃この少年は理科が大好きだった。念願叶って好きな仕事ができて、今定年を迎えた。私が見学した中学校の生徒たちも、そんな人生を送ってほしい。しかしこの句の作者も平坦な道だけではなかったはずで、山あり谷ありの道を乗り越えてきただろう。マイムマイムはイスラエル民謡である。イスラエルは今、戦争をしている。イスラエルもイランもガザも関係ないのだ。人が人を殺し合う必要はどこにあるのか。砂漠で水を見つけた喜びは、イスラエルもガザも関係ない。どの国でも、幼子が若者になり、そして大人になって笑顔で生活できるような社会になってもらいたいと願っている。それが叶わぬ夢とは知りながら、子どものような願いと知りながら、マイムマイムを踊る中学生たちが、そのまま笑顔で生きられる人生であってほしい。

自由

 今は金曜日の夕方、いつものように書斎の窓から外を見ている。今日の天気予報はどこかおかしく、朝は太陽が照りつけるような上天気であったが、昼食後、買い物で外に出たら西の方角の雲行きが怪しくなり、灰色が濃くなったと思ったら、急に雨が降り出した。背中にしょっているリュックには傘が入っているので濡れずにすんだが、自宅に帰ると本降りになって雷が鳴りだした。無事帰って来られてよかったと思って玄関から外を見ると、ずぶぬれになった人が走って行く。その雷雨がかなり長く続いた。1階の居間から庭を見ていると、隣の家やマンションなどは、雨煙というのか靄がかかったようで、小雨にすっぽりと覆われたような感じであった。今日はどこにも出られないと思っていたら、2時間もしたらすっかり晴れ上がった。青空だけではなく太陽が照りつけて外に出たら、真夏のような日差しであった。今日の天気はどこか変わっている。

 家内が、「自然は全くめちゃくちゃだ」と呟いたが、そういえばもしこれが人間だったら、相当へそ曲がりというか、周囲から激しい非難を受けるだろう。ルール無視の自分勝手な振る舞いだからだ。そういえば人はなぜ自分勝手な事は出来ないのだろうか。当たり前の疑問が起きた。「当然じゃないか、我々が生活しているということは、勝手な事は出来ない制約の中で生きているからだ」と誰でも思う。そうか仕方がないのかと思う反面、某大国の権力者たちは、自分の思うがままに世界を動かしてるような気がする。かわいそうなのは庶民だ。戦争の犠牲者である庶民は、今日の天気のように、大国だから仕方がないのだと諦めているのだろうか。それでも時折テレビでその映像が映し出される。いつになったら幸せが来るのかと、訴えている。

 大河ドラマでも権力者の側の映像が放映されて、城の周囲に住んで生活している人の苦労は見えてこない。あれほどの戦いをして、大火事を起こし殺戮の日々を過ごしていれば、武士も戦うことしか眼中に無いだろう。その合戦の後ろで、庶民は嘆きそして諦めている。だからこの世が地獄なら、あの世の極楽に行きたいと仏教にすがるのかもしれない。現在でも戦争で苦しめられている人々は、どのように考えているのだろうか。自分の力ではどうにもならない出来事に諦観しているとすれば、人はどのように生きればいいのだろうか。

 最近、自分の仕事の関係上いくつかの現代思想の文献を読んでいる。ポスト構造主義と呼ばれる内容だが、現代社会はいろいろな仕組みが構造化されて、目には見えなくても何らかの形で私たちの生活を制約し、無意識的に諦めて従っている状況になっているのだろう。自分はフリーランスだから、そのような制約からは逃れて自由に生きているように見えるけれども、経済的な制約、家族という制約、住んでいる地域からの制約、教育の仕事からの制約など、多くの制限の中で生きている。ポスト構造主義では、その制約から離れて個人が自由に生きることを許すとも読めるのだが、実際のところはどうなのだろうか。今日は平日だからゴルフに出かけるのは気が引ける。しかしフリーランスだから自由に行動しても良いのだが、背中をチクリと棒で突かれているような気がする。自由といっても、自由に行動すればたちまち非難されるだけではなく、自分自身がそのことに引け目を感じる。つまり自由ではないのである。

 文脈は逸れるが、新聞に「楽しげに水面を走る水馬(みずすまし)癌治療をせず兄は逝きたり」(小沢まさみつ)の句があった。作者のお兄さんは、癌だと告知されても手術を受けず旅立ったのだ。それがお兄さんの自由な選択だったのだろう。もし自分がその状況であったとしたら、同じ選択するかもしれない。生きながらえることが良いことだという命題は、当たり前ではない。医者にとっては長生きをさせることが善であっても、患者にとっては善であるかどうかはわからない。その人の自由であり、その人の個人的な生き方である。学校でも同じかもしれない。学校に来ることは善であるということは学校や教師にとっては善かもしれないが、個人にとっては自明ではない。自分自身を考えれば、制約を制約と感じないで自由に生きたい。それが私のフリーランスの立場である。

奇蹟

 今は土曜日の朝であり書斎の窓から、白い雲は広がっているが、青空が見えて、すがすがしい朝である。数日前に台風が襲ってきたが、それほど豪雨でもなく強風でもなかったので、災害はなかった。天気予報によれば今日は一日中曇りであるが、春から初夏にかけてそよ風が吹くような典型的な気候で、どこか気持ちがワクワクする。珍しくこのブログを朝に書いている。それには事情があり、今週はずっと夕方に時間がとれなかった。空いている時間は、土曜日の午前中だけだった。朝食を取って庭に出ると、家内が洗濯物を干している。シャツやズボンやタオルなどが朝日を浴びて小さな光を反射している。洗濯竿の後ろに小さな花壇があって、今はバラが満開である。緑の葉っぱをバックにして、赤やピンクの花が埋もれていて、そのコントラストが目に優しい。

 スマホと小銭だけ持って、近所をぐるっと散歩してきた。近所に小川が流れていて、その橋向こうに弘法大師のお堂がある。たまにお賽銭を入れたり、家族の安全や自分の仕事のことなどをお願いすることもある。今日は頭を下げただけで通った。土曜日の朝は気持ちが良いのか、ジョギングをする数人とすれ違った。颯爽と走る姿は、土曜日の朝によく似合う。近所には大きなスーパーと小さなコンビニがある。そのコンビニまでは小さな坂になっていて、上っていくとかなり広い駐車場があって、この時間でも車が8台ほど駐車していた。なぜかその光景が好きで、駐車場でおにぎりを食べている人、タバコを吸っている人などもいる。そのコンビニから下っていくと、住宅やアパートなどがあって、元の小川に戻る。子供のようにキョロキョロしながら、10分程度の散歩を終えた。

 ブログは1週間を振り返って書いているが、印象に残っているのは、水曜日の夕方のオンラインでのセミナーである。セミナーといっても、自分はホスト役で毎回ゲストを呼んで講演をしてもらう。一時間の尺の約半分がゲストによる講演で、残りが自分も含めた参加者との質疑応答である。もう長く続いている。私が発案したものではなく、当初は都内のオフィスに来てもらって、対面でのセミナーであった。コロナの関係もあるが、対面からやがてオンラインに変わり、多分五年以上続いていると思う。振り返ってみれば、これは自分のライフワークかなどと思うほど、思い出がある。もちろん自分ひとりで企画して実施しているわけではなく、数人でゲストを候補に挙げて、承諾を得て広報をし当日を迎える段取りである。今週の水曜日は、長い間教育に携わり実践をしそして教育研究も続けてこられた先生で、私の尊敬している先生の一人である。

 セミナーが終わって、なぜ自分はこの先生の話が胸に響いてくるのだろうかと思った。ベッドの中でも考えていたが、それはこの先生の生き様だからではないかと思った。私も長い経験上、いろいろな多くの講演や話を聞いた。そして質疑応答したり対談することも数え切れないほどある。何が心に残るのだろうか、自分の知らない未知の世界や、物事の真理を突くような深い内容や、自分の専門に直接響くような研究などは、当然ながらいつまでも心に残っている。それが自分の仕事や研究の方法などに影響を与えている。しかしもうひとつ別のタイプの講演や話がある。それがこの前のセミナーであり、その内容は、その先生のこれまで辿ってきた道、そして現在の仕事や研究の内容へのつながりであり、そこに自分の考えや価値観がどのように変化してきたかの講演であった。自分の心の中に入ってきたのは、一言で言えば、その先生の生き方であり感じ方であった。

 それは自己の物語(ナラティブ)といってよいだろう。誰でも他人に語って聞かせる自分の物語を持っている。それはその人の生きてきた証であり、本心を語る物語である。そのナラティブは人を共感を呼ぶ能力を持っている。感動するような素晴らしい研究の講演もある。そしてもう一つは、その人の生き方に触れて共感するような話である。前者を認知的な語りとすれば、後者は非認知的な語りである。どちらが優れているかというより、私たちはその両方が必要であり、それらの内容を、羅針盤としながら自分の仕事や生き方を模索しているのだろう。

 文脈は逸れるが、新聞に「人はみな奇蹟を生きて花万朶」(米山明博)の句があった。万朶(ばんだ)とは満開に咲く花の様子を示す。この言葉は、自分が通った高等学校の古色蒼然たる第二応援歌に「健児脾肉(ひにく)を 嘆ぜしが、万朶花咲く櫻花」の歌詞があったので知っている。作者は、桜が満開になるのも、その桜を愛でることができるのも、そして今生きて生活できていることも、全ては奇蹟の連続であると、哲学的な句を詠んでいる。言われてみればその通りかもしれない。洗濯物を干すことも、朝の散歩も、水曜日のセミナーで感銘を受けたことも、そして今ブログを書いていることも、すべては奇蹟の連続なのだろう。そしてふと思う。ニュースを見れば、戦争やら殺人やらむごいことばかりのこの世の中で、朝食をいただき、暖かい布団に体を休め、人の話に感動し、今ここでブログを書けることは、実は極めて小さな確率的出来事なのかもしれない。 

 

体育祭

 今は木曜日の夕方、いつものように書斎の窓から外を見ているが、いつもと違うのは金曜日でなく木曜日ということである。もちろんこれには事情がある。明日金曜日はほぼ一日中都内でイベントがあって、そこに出席するので時間がとれないのだ。しかも二つの行事が重なっていて、一つは午前のオンライン会議、それが終わって午後のセレモニーに参加するのである。どちらも大切な仕事なので、遅刻することも早退することもできないが、タイミングがよく午前と午後に分かれていたので、両方に出席できるのはありがたい。そんなわけで明日の夕方に帰宅できず、ブログを今日に早送りした。

 私のブログは週1回なので1週間を振り返るのだが、その間に感じたことや心に残ったことなど、何らかの自分の心の変化があることを書き留めたいと思う。年齢を重ねても、何も変化がないということはない。若い人でも高齢者であっても、これは凄いとか、世の中には素晴らしい人もいるし苦労している人もいるし、華やかな活動をしている人もいれば落ち込んでいる人もいるので、それらを見聞きしたりすると、我が身を振り返って自分はどうなんだろうと心の中にさざ波が起きる。心の変化がなくただ見過ごすだけならば、無機物のようなものだから、認知症に近いのかもしれない。そうであれば、嬉しいことや悲しいこと、楽しいことや落ち込むことのあるほうが、健康である。

 この1週間では、昨日の出来事が最も印象に残っている。私が役員をしている地元の中学校の体育祭があった。ありがたいことに役員席でテントのある座席なので、直射日光を避け、快適に生徒たちの競技を見ることができた。この中学校は全校生徒780名を超す、今時では珍しい大規模校である。そのせいか自分たちの経験した体育祭の面影が色濃く残っていて、どこか若かった頃の自分を思い出した。それは中学や高校時代ではなく、自分が高校教師の時の体育祭だった。初めて就職した赴任先は、自分と同じような学校を出たての若い教師が大勢いた。進学校で中堅どころの普通高校だったから、やみくもに大学進学などと言わず、生徒たちも高校生活を楽しんでいたような気がする。若い教師たちは生徒たちと距離が近かった。兄貴分や弟分のような気持ちがして、毎日が青春ドラマのような雰囲気で暮らしていた。私は狭い長屋のようなアパートに住んでいたから、部活の生徒たちもよく遊びに来ていた。

 私も、授業は当然ながら、体育祭や合唱祭などイベントには情熱を燃やした。それと同じ光景が昨日の体育祭で繰り広げられた。青い空と白い雲、クラスごとの赤や青や白などのハチマキ、学校行事を撮影するカメラマン、リレーのための400mトラック、きれいに描かれた白いコース、ピストルを持ってスタート合図をする先生や生徒、応援団、そして校庭を取り巻く大勢の保護者、団体競技で勝って飛び上がって喜ぶ生徒など、昔と同じだった。各学年ごとのクラス対抗リレーは、体育祭の華だった。男子も女子も、足の早い生徒も遅い生徒も、バトンを受け取ったら懸命に走った。トップでテープを切る生徒も、最後にゴールする生徒も、全力で駆け抜けた。勝ち負けなど大したことではないのだ。最後まで諦めず、今にすべてをかける生徒たちに、保護者も役員も教師もみんな感動の渦に巻き込まれた。私の横にいた役員は、我が子が走る姿を懸命にビデオ撮影をしていた。何も言葉はいらないのだ。このひと時の我が子の姿に、目を潤ませていた。

 中学校の先生方は、全員が学校の名前の入ったシャツを着て、体育祭が成功するように運営を支えようと奔走していた。生徒たちは、頑張れ、ファイトの声を掛け合っていた。そこにはもう教師も生徒もなかった。そんな垣根はもはや必要ないのだ。ただただこの瞬間を生き抜き、その姿を保護者の皆さんに見てもらうのだ。応援合戦も圧巻だった。そして自分が高校教師の時、生徒たちと一緒に練り上げた応援のことを思い出した。若いということは純粋だということなのだろう。あれから何年経ったのか。自分は今でも、中学生という最も伸び盛りの生徒たちが全力をかけて繰り広げる体育祭を参観しているのだ。なんと素晴らしいことなのだろう。

 文脈は離れるが新聞に、「両足の指それぞれに力込めわが初孫は立ち初(そ)めにけり」(榊原勘一)の句があった。初孫が必死になって十本の指に力を入れて一人で立とうとしている。その姿を祖父の作者は見て感動を覚えた。孫は一人で立てた時どんなにか嬉しかったであろう。そして作者はどんなにか孫に愛情を感じただろう。健気にも全力をかけて立ち上がる姿は、作者にとってこれ以上はないほどの宝のような姿であった。それは体育祭で全力を尽くす生徒たちと同じである。生徒たちも先生もそして保護者も我々も、忘れがたい体育祭であった。

 

肩こり

 今日は金曜日の夕方、週末である。書斎の窓からいつものように空を見ると曇天で、昨日も今日も小雨がずっと降っていた。そして今日は肌寒く、天気予報は3月下旬の気温だという。先ほど西の方向にジョギングをして帰ってきた。若い人のような走りではなく、ゆっくりとした足取りだが、それでも汗をかいて1階の居間で、家内が八つ切りにしたグレープフルーツを食べた。口の中に味がしみわたり、喉を通るときビタミンCが体内に入って行くのを感じた。そして2階に上がってきた。

 1週間を振り返ると、いろいろなことがある。先週の土曜か日曜に、突然右肩が痛くなった。正しくは肩こりである。肩こりなど誰でも経験するが、急に痛くなった。パソコンに向き合う時間が長いのは仕事上なので、肩こりは今に始まったことではなく、長い付き合いである。週1回整体院に行っているが、「肩がこって硬いですね」とよく言われるが、痛くはなかった。しかし突然に痛くなった。土曜と日曜はスポーツジムに行っているが、プールでクロールで右腕を回すとき、初めて痛みを感じた。これは普通の肩こりとは違うなと思ったが、素人なので自宅に帰って家内に聞いた。家内はかなりの医療通である。「大したことではないから、電気マッサージ器で肩をほぐしたらどうか」と子ども扱いのように軽く言った。

 そういえば昔に父の日のプレゼントとして、子供からもらった電気マッサージ器があった。スイッチを入れて右肩に乗せたら電気振動がそのまま伝わって、肩の筋肉が少しずつ柔らかくなるような気がした。これで血行が良くなり、肩の痛みもなくなるのかと思った。ほんの数分だったが確かに肩が軽くなった。なるほど家内の言う通りで、大したことはないのかと思って、いつものように書斎でパソコンに対面した。しばらくするとまた肩が痛くなった。電気マッサージ器は1階にあるから、居間に降りていった。家内が「2階に持って行けば」と言ったが、なぜか2階と1階を何回か往復した。

 そして今でも、時折1階に行って電気マッサージ器で肩をもんでいる。効果はあるのだ。今はほとんど痛くはない。ほとんど治っているのだが、その時思った。どこか一箇所でも痛いところがあると、なぜか気になって、少し憂鬱になる。痛みが取れると体全体に血流が良くなるのか、やる気が出てくる。たかが肩こりといえども実は大切なのだ。昨日木曜日に都内である理事会があって、昼食に音響について雑談をした。音響の専門家がいて、「イヤホンをつけて音楽を聴いてもほとんど意味がない。音楽や音響は、体全体で聴くものだ。そうでないと音の良さはわからない」と言った。プロ中のプロのような専門家なので、説得力があった。その通りなのだ。逆を言えば、肩こり一つでも、体全体いや気持ちまでも影響を受ける。肩だけの問題ではないと思った。ピーター・センゲは、人は頭だけでなく体全体で学ぶのだと言っている。

 GIGA端末の活用が全国の学校で実施されている。温度差は大きいようだが、できれば活用してもらいたいと思っている。ある生徒がGIGA端末で英語の発音をしたら、そのまま画面上に単語が映し出された。それが嬉しくて知っている単語をすべて発音した。そして何度も何度も繰り返した。それで英単語を完璧に覚えた。やがて英語が好きになった。それがきっかけで勉強することに意欲が出てきた。このような実践を見聞きすると、少しでも苦手なことが克服できれば、すべてに広がっていくのである。そこに必要なのは道具である。自分の場合は電気マッサージ器であった。この道具のお陰で、いつの間にか肩の痛みがなくなり、元気が出てきた。痛みがなくなるだけで、人は以前より元気になれるのだ。

 文脈は逸れるが新聞に、「病院の長き廊下を痛みなく歩けた日には母に会いたい」(清水明子)の句があった。リハビリで入院されているのか分からないが、作者は痛みと戦っている。痛みが取れたら作者は笑顔になるだろう。顔だけでなく、身も心も嬉しさと明るさで満ちているだろう。その姿で母親と会いたい。幸せな気持ちを母親と分かち合いたい。母親に届けたいのは、痛みだけでなく、病気が治り、やがて退院する日が来る希望に満ちた自分の姿である。その日を指折り数えて待っている。必ず作者にその日がやってくるだろう。

 

思い過ごし

 今は金曜日の夕方だが、夕方と言うにはまだ空が明るく、日が長くなったと実感する。金曜日のブログは1週間を振り返るのだが、いろんなことが起きては過ぎ去っていく。一番印象深く思ったのは一昨日水曜日の午後である。都内でイベントがあり、自分も講演、正確には対談があった。対談なので当然ながら相手がいる。相手の方は自分の尊敬する先生で、丁寧に資料を準備され会場に来られた。相手の先生がゲスト役、自分はホスト役なので、どこかあまり責任を感じなくてもよいなどの不遜な思いがあったかもしれない。

 正直に言えば、自分はこのイベントに出るのが不安だった。いやイベントだけではなく、いろいろな仕事にも活動にもどこか自信を失っていた。なぜだろうと自問自答していたが、多分年のせいだろうと思っていた。ふと晩年の自分の父親を思い出した。「わしはもう何もできない、つまらん男じゃから」とよく言っていた。自分から見れば、身内ながら自慢の父親だった。社会的な地位や名誉などはなかったかもしれないが、人間としての生き様は誰にも恥じることはなかった。貧乏だったが、自分も大学に行かせてもらった。戦争に行って生きて帰ってきて、子供たちのために戦後の混乱期を頑張ってきたではないか。それを思えば、自分などは呑気な生活だったのだ。

 自分が自信を失ったり自己肯定感が低くなったりするのは、父親の遺伝なのかと思うことがある。一昨日水曜日のイベントで多くの人と出会った。「おうおう久しぶり、元気そうで何より」などと声を掛け合い、名刺をもらって、「さすがに立派で、すごい」などと話した。もちろん社交辞令ではなく、本心でそう思った。本当に久しぶりの人たちと会話した。その中でふと思ったことがあった。相手の人が自分を見て、「元気で昔と変わらない、どうしたらそんなに健康になれるのか」などと質問された。はじめは気休めのような言葉だと思っていたが、自分が本音で話をしているならば、相手も本音かもしれないと思ったのである。そうでないと論理的に辻褄が合わないからだ。確かに病気もせず入院もせず、なんとか仕事もして毎日を過ごしている。たまにはこのようなイベントにも出させてもらっている。そして一昨日は、イベントとすれば初めての懇親会があった。その懇親会の最後に中締めの挨拶をした。ふと思った。自分が現役の時の気持ちの高ぶりと同じじゃないか、自分をそんなに自己卑下しなくてもいいではないかと思えたのである。

 昨日は午前中オンラインの会議があって、役割上会議を仕切った。自分の専門外の会議だったので、どこか腰が引けたような、愛想笑いをするような遠慮があった。会議が進行するにつれて、皆さんが本音で発言され、それに自分も引きずられ、自分が素人だということも忘れ、流れの中で議論した。そしてふと気づいた。会議の皆さんは、私自身が素人であることなど何の気にも留めていないのだ。自分がそう思っていただけなのだ。それは自分の父親が、自分はつまらん人間だと思っているだけで、周りから見れば全くの的外れだと同じなのだ。一昨日のイベントから今日まで、どこか自分を縛り付けている呪縛の糸が切れたような気がした。もういいのだ、人は何も気にしていないのだ。

 今日も午前中は学校訪問があった。廊下で、ある先生に出会ったら、握手してくださいと言われ、「先生の最近の本を買いました」とニコニコされたのを見て、気恥ずかしさもあったが嬉しかった。まだ自分は先生方のお役に立てるならば、生きている限り精一杯頑張ろうと思った。文脈は逸れるが新聞に、「夕暮れの未(いま)だ明るき春の日を惜しみてカーテン引くをためらふ」(光谷三智子)の句があった。書斎の窓から見る今日の夕方のように、春の日差しはまだまだマンションや木々を照らしている。カーテンを引くのはもったいないので、自分も窓を開けたまま時々目を外に移す。ここ数日で、自分の思い過ごしや悲観することの愚に気が付いた。その自分の思い過ごしの糸をほどいてくれるのは、他人である。他によって自分の価値を知るのだ。社会構成主義のガーゲンもそう言っている。もう大丈夫、長い間この道を歩んできて良かった。息を引き取るその日までこの道で生きたい。