捨てる

 今は金曜日の夕方、いつものように書斎の窓から空を眺めているが、夕方とは思えないような明るい日差しで家々が包まれている。ブログを書くのは久しぶりである。つまり1週間ぶりなのだが、私的日記の公開なので、読んでいただいている読者のことを思うと、私的と言えどもあまりいい加減なことは書けないという制御信号が脳をよぎる。この4月から週2回ではなく1回にしようかと思っている。1週間を振り返って、自分の姿や感じたことを赤裸々に述べようと思う。ただ書けることと書けないことがあるのは、世の常であるから、歯切れが悪い文章になることもお許しいただきたい。今日のブログは、そんな内容かもしれない。

 先ほどオンラインの研究会が終わったばかりである。いつも思うのは、この年になっても、優れた研究に出会うと、若い頃の自分に戻ったような気持ちがして、胸がときめく。今日の研究会はそんな内容だった。この先生はまるで自分が若かった頃のようで、夢中になって取り組んでいるのか、その姿が美しい。文脈は変わるが、自分が独身だった頃の流行歌を、昨日聞くことがあった。題名は書かないが、聞いているだけで若い頃の自分に戻った。未知の世界に入っていく、ときめきと懐かしさと、世間を何も知らない初心な自分がそこにいた。そして教育実践に夢中になって、若気の至りのような教育論を振りかざしていたのだろうか、やがて教育研究という豊穣な世界に関わることが出来て幸せだった。なんだ研究に関しては、自分はまだ若い頃と変わってないではないかと、研究に触れるたびに思う。

 それは純粋に、自分を全て投影することができる対象なのだ。しかし世の中の仕事とか生活などは、研究とはまるで異なる。それでも優れた企業人や政治家などは、理想を求め夢中になってそのことに取り組んでいる。その姿は研究と同じだろう。自分は研究が好きで往生するまで離れたくない。しかし仕事はいろいろな要素が絡み、組織が関わり、いろいろな立場の人の考えが反映されている。だから誰も、自分の思った通りにならないことは当たり前である。しかし自分の思いを変えることは容易ではない。数日前、ふとしたことで家内にそんな愚痴をこぼした。「研究は楽しそうだが仕事はそうでもなく、不器用な人だね」と家内に言われた。「どうせなら面倒なことは捨てればいいではないか」と言われた。それができれば苦労はしないよ、と言いたかったが、ふとそうかもしれないと思った。

 研究はどこかしがみついても見つけるまで諦めない、という信条というか信念がある。しかし世の中の一般の仕事は、研究とは違うのだ。むしろ諦める方がよいこともある。捨てる方がうまくいく場合もある。家内との話で、何故自分はこんなにまで頑固に守ろうとするのか、捨てても構わないではないか、いや捨てる方がこの仕事にとってはふさわしいのだ、と思った時、なぜかまるで心の中が空っぽになったように軽くなった。なぜこんな簡単なことが、自分は気づかなかったのだろうか、数か月間どうして意味のないものを大事そうにして持ち歩いていたのか、今は本心で納得している。もったいないと思って捨てているのではない。それはまだ未練がある証拠だ。そうではなく本当にその通りだと思った途端、事態は好転していった。

 文脈は離れるが新聞に、「今は只とても仕合はせ母子草」(木田博幸)の句があった。自分の仕事の内容と同じで、作者がなぜ今は幸せなのかは、推測するしかない。親子で、これまで何かぎくしゃくした確執があったのかもしれない。どのような経緯なのか、どのくらいの年月だったのか、分からないが、ある時親子は、その邪魔な老廃物のような思いを捨てたのだ。心が空っぽになった時、親子は相手のことがよく見えるようになった。俳句の選者は、「只(ただ)」の一字が味わい深いと評していた。その通りである。この親子に言葉はいらない、気持ちが通じるだけで、こんなにも幸せなのかと思っているのだ。自分は仕事のことだが、心境は似ている。不要な確執を捨てれば、本来の自分に戻れる、目を覆いかぶさっているゴミを捨てればよいのだ。

 

 

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21名誉会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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