あわれ

 今は土曜日の夕方、今日の午後はずっと雨が降って少し肌寒かったが、晴れたり雨が降ったりするのが自然で、晴ればかりでも困るし雨ばかりでも困る。その意味では心地よい春雨である。今日明日は土日で、春休み最後の休日とすれば、親子連れで桜の下で花見などと洒落て楽しむ計画をしていた家族も多いだろう。しかし天気予報によれば、明日も晴れではなく曇り空なので、絶好の花見日和とはいかないだろう。自分たちのような年寄りになれば、若い頃のような期待感はない。

 思えばコロナが起きる前までは、老夫婦で航空公園の桜の下で花見に行ったが、コロナのせいで足が遠のいた。それでも所沢祭りと航空公園の市民フェスティバルと花見は、恒例のように出向いていった。昔は防衛医科大学の大学祭にも、陸上自衛隊か海上自衛隊の音楽隊がやってきて素晴らしい演奏を生で聞けるので、出向いていった。花見の方は、自宅からビニールの敷物を持って、公園前のお店でビールと寿司や唐揚げなどを買って、満開の桜の下で花を愛で飲んだり食べたりした。

 我が家で犬を飼っていた頃は、犬も連れて花見をした。犬は特に唐揚げが大好きで、お辞儀をしたりしっぽを振って催促した。不思議と、娘と息子を連れて航空公園で花見をした経験はない。そんな昔のことは忘れてしまったのだろう。数年前に、乳母車に乗せた三つ子を連れた家族と隣り合わせで花見をした。三つ子はそれぞれ芝生の上を駆け回るので、父親と母親は追っかけてハーハー言いながら花見をしていた。実際は花見どころではなく、どこかに行ってしまうので、1人の子は乳母車に、あと2人を夫婦で見ていた。こんなにも忙しいのかと思って、手伝いましょうかと言いたかったが、年寄り夫婦がと思って、言いそびれてしまった。

 今日はこんな花見の事を書くつもりではなかった。先ほどスポーツジムから帰って来たばかりで、けだるい春の1日をぼうっとした頭でブログを書いていたので、どこか泡の立たないビールのような文章になってしまい申し訳ない。ただ当たり前なのだが、歳を取ると若い頃のようにはいかない。歯科医と眼科は3か月に1回、内科は毎月、検診してもらったり薬をもらいに出かけている。体は確実に衰える、人の名前や地名など固有名詞は驚くほどの勢いで忘れていく、さらには最近では普通名詞も思い出せず、あれこれなどと代名詞で夫婦で会話している。もちろん収入はフリーランスの身なので、若い頃とは比べものにならない。同窓会の名簿を見ると、1/4は物故者になっている。知識も体もすべて衰えていくのだ。考えてみれば高齢者とは寂しい存在なのかもしれない。

 それに逆らうように、スポーツジムに行ったりジョギングをしたり、本を読んだり原稿を書いたりしている。なぜか専門的知識だけは忘れることもなく、衰えていく感覚もない。体は弱っても、物事を見通したり判断したりする能力は、そんなに低下していないようだ。自分に似た高齢者は意外と多いと思う。だから多くの高齢者は多分活動の場を求めているのだ。それだけの能力も保持している。ただオファーが無くなっていく。文脈は離れるが新聞に、「廃校の桜今年も校門に来るはずのない子等待ち膨らむ」(渡辺照夫)の句があった。廃校になっても桜は今年も咲き誇っている。まるで学校にやってくる子供たちを待っているかのように、手を広げている。どこか高齢者の姿に似ている。ただ自分はこの短歌を読んで、寂しさを詠んだのではないと思う。そこに、もののあわれを感じたのではないだろうか。あわれとは、寂しさを乗り越えて、その寂しさを味わうことだと思う。高齢者になれば、健康も収入も家族も友達も少しずつ減っていく。それはどうにもならない自然の営みだとすれば、寂しがる必要はないのだ。昔の日本人はもののあわれという素晴らしい見方を知っていた。前回のブログで、「楽しいときは楽しむがよい」と書いた。その流れで言えば、「寂しい時は寂しさを味わえばよい、苦しいときは苦しさを味わえばよい」のだ。自然の流れという、どうにもならないことをくよくよ考えることは意味がない。味わうことで、深くその意味を知ることができる。知れば現在を感謝することに気が付く。

 

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21名誉会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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