今は金曜日の夕方、いつものように2階の書斎の窓から外を眺めている。薄曇りの空だが、夜中に降った雨はすっかり上がって、昼間は晴天だった。前回のブログで書いたように、週末にブログを書こうと思う。つまり週1回にして、その週の出来事を振り返るようにしたい。4月ももう後半である。先週からようやく学校も授業が始まった。私事ながら、市の教育センターに協力して学校訪問をしている。学校訪問といっても、視察などのような、いかめしいものではなく、授業を参観するだけである。そして自分がコメントを書いてその学校に送るので、授業開始と共に自分の仕事も動いていく。
私は別に教育センターの公的な役職ではなく、ボランティア活動と言ってもよい。もちろん無報酬で、地元の学校への自分なりのお礼奉公のようなものである。ただ教育センターの活動として位置づけられているので、教育センターから学校に依頼をする。授業参観をして、先生方も忙しいので、その後の研究協議などを行う暇はなく、1600文字程度のコメントを書いて添付メールで送っている。それが授業者の先生に届けられるのだが、学校によっては全ての先生方に配布されることもある。毎月一回小中学校それぞれ三校ずつ訪問している。それが五年間続き今年は六年目に入った。その成果や課題は何かなどと言われてもここでは述べない。自分は、このボランティアであることが素晴らしいと思っている。
しかしこの活動に、自分は忸怩たる思いがある。高等学校の経験はあるが、小学校中学校で教鞭をとったことはない。だからコメントに、「自分は専門家ではないので参考としてお読みいただきたい」と断り書きをしている。今日も私と教育センターの指導主事と学校長が授業参観をした。英語の授業だった。授業の前半はドリルだった。英単語帳を大きくしたような厚紙を使って、英語と日本語を交互に見せて記憶させていた。なんだこんな授業なのかと、誰でも思うだろう。正直自分もそう思った。ただ生徒たちを見ると、ずいぶん集中して記憶している。こんなことで飽きないのかと思ったが、生徒たちは飽きるどころか、ますます夢中になって学んでいた。生徒たちの話す英単語のスピードが増し、全員が即答した。先生が厚紙を表裏にするスピードが、だんだん速くなっていたのである。そのスピードに遅れまいと、生徒たちは英単語に集中した。それは文字通り夢中であった。ドリルの練習が終わってすべての単語を記憶した時、全員の生徒たちは満足げだった。
そういえば、小学校一年生の早口言葉の授業を思い出した。新人の女性の先生で、子供たちの扱いにはまだ不慣れだったが、早口言葉を先生が両手を叩きながら言わせていた。その時子供たちの中から、「先生もっと早く」という声があがった。「では少し早く話してみよう」と言って両手を叩くスピードを上げた。それが何回続いたのだろうか。子供たちは「もっと早く」と口々に叫んだ。新人の先生は夢中になって手を叩いた。後ろで参観している自分の目にも、先生の両手が真っ赤になって少し腫れているように見えた。そして「皆さんは本当に偉いね、こんなにも速いスピードで早口言葉が言えるのだね」と先生は言って涙を拭いた。「これまでどのように子供たちに接したらよいか分からなかったが、垣根が低くなった、見えない糸でしっかりと結びついたような気がした」と後で自分に感想を述べた。
言われてみれば、英単語の記憶も早口言葉も繰り返しのドリルであり、今日の学習観からすれば、過去の遺物のような授業方法である。そして教師主導型であり、英語のコミュニカティブアプローチからすれば、昔型の指導方法だと言われるだろう。しかし現実はどうだろうか、中学生も小学生も夢中になって取り組んだ。少しオーバーに言えば、我を忘れて英単語の記憶と早口言葉に取り組んだのだ。学習効果は確実にあった。今日の英語の授業の後半では生徒同士の英会話の練習があって、ここでも生徒たちは満足げであった。授業が終わった後、廊下に出た私に先生が近づいてこられたので、「生徒たちは熱心に夢中になって学んでいました」と本当の自分の気持ちを言った。先生は「本当に本当に素晴らしい生徒なのです」と自分に告げた。授業中の先生の表情を見ると緊張していた様子がよくわかった。鼻に汗をにじませて一生懸命この授業に取り組んだのだ。自分ごとき人間が評価などとてもできない。ただただ生徒想いの先生の姿が、生徒を動かし、自分にドリルの意味を教えてくれたのである。
文脈は変わるが新聞に、「春分やリバーシブルのぬいぐるみ」(村松譲)の句があった。リバーシブルとは表裏でも通用するという意味らしいが、教育理念や指導法にも通じるのではないだろうか。この学習観、この指導観、この教育理念でなければならないとは断言できないだろう。古典的な学習観も日本的な指導法も、また意味がある。それはリバーシブルの関係である。時に応じ状況に応じ、子供や生徒の幸せを願って伝えていくしかないのだ。こんな風にして、自分は教師から子供や生徒たちから、学んでいる。先週から本年度の自分の学びが始まった。
