気づくこと

「生徒の気づきと学び」を最大化するPJに、参加している。PJとはプロジェクトの略で、ベネッセが主催していて、高校生や高校の先生方が中心メンバーで、遠隔TV会議で議論するプロジェクトだが、入れてもらっている。実感としては、参加しているというより、入れてもらうという表現のほうが合っている。というのも、中学生も混じって高校生や先生方の話を直に聞けることは、私の年齢ではほとんどないからだ。私の就職のスタートは、高校の物理の教員だった。大学院にいたが乏しい研究能力を自覚しており、しかも大学紛争のど真ん中、全学バリケード封鎖の中で勉強も研究も身が入らず、都市の論理やチェゲバラなどの本を読んでいたのだから、まともな学生ではなかったろう。だから高校の教員に拾ってもらったのは、嬉しかった。ただ夢中で過ごし仲の良い教員仲間が多かった。まだ学生のような気分だったのだろう。今思えば、勉強しようと思えばいくらでもできる、というぜいたくな環境の中にいた。自分の環境のことは、後になってみなければ気づかないか、他人に言われなければ分からない。このPJのもう一つの魅力は、生徒の気づき、という言葉が入っていることである。生徒自身がコロナ禍の中で気づいたことを是非聞きたいし、生徒自身も大切にしてもらいたいと思う。この年になっても、毎日が気付きの連続である。後悔する気づきもあれば、発見と呼びたいような気づきもある。人は、気付きの中で生きている。

アプリの操作とは

単純なことだが、アプリの操作でわからないことがある。誰でも経験したことがあると思うが、プロに聞くとすぐに答えてくれて、その場にいれば操作までしてくれる。ただ感心するだけである。例えば、スマホの調子が悪くて、スマホショップに行って相談するとアッという間に直してしまう。あれほど苦労して、どうしてもできなかったことが、いとも簡単に、手品のように見せてくれる。PCでもスマホでもおよそ機械や道具は、人によってやさしくしたり難しくしたり、相手を見て態度を変える高等動物のような気もする。一度機嫌が直ると、それ以来まるで飼いなれたペットのように従順で、こんな便利なものはない、といつも手元に置く。利用者は素人なので、スマホに翻弄されても仕方がないが、スマホショップの店員さんは若いのに、何でも知っている。どうしてそんなプロになれるのか、不思議で仕方がない。絶えず触れているからだろうか。もしそうなら、練習や経験だけでプロになるのだろうか。ショップに行って横で話を聞いていると、的確な推論が働いているような気がする。ではその推論はどこから生じたのか、と考えると、科学的なスマホの構造についての知識が必要だが、本当だろうか、という気もする。現代はテクノロジーの時代である。ショップの店員さんのような使いこなすプロになるための最短時間の講習会があれば、参加したい。実は、その原理と言うかプロの推論の仕組みを知りたいのだが。

緩んだ一日

今日は久しぶりに都内で会議、ある団体の理事会だが、があって出かけた。午後の会議なので、行きは電車が空いて本も読めたが、帰りは立っている人もいるくらいだが、コロナ禍以前ほどではない。乗客全員がマスクをしていることや、肩と肩は両隣と触れているので、多少ぎこちなさが残ることが、コロナ禍の後遺症であろう。しかし、あまり気にするほどでもない。会議といっても、決まった議題を承認するだけで、形式的な儀式が終わって、最後に雑談となった。考えてみれば気楽な会議であり、電車に乗ってと言っても、混んでいるわけでもなく、肩が触れ合うが座席に座れるほどの緩さがある。座席に座れば読みたい本を鞄に入れているので、読むのが習慣だが、今日は居眠りをしていて、駅で止まる度に目が覚めた。気持ちもどこか弛緩しているので、多少コロナ禍で感染数が気になるが、それほど神経質でもない。窓の外は時折小雨が降る曇天だが、はっきりしない。気持ちも、天気も、会議も、電車の混み具合も、すべてがゆるんでいた。こんな日があってもいいだろう。人は、いつも元気とは限らず、いつも失望しているわけでもない。はっきりしない緩んだ1日を過ごすのも、また一興である。

曇り空の光景

毎日雨が降る。梅雨だから当然だが、九州などは大変な事態になっており、日本は本当に自然災害の多い国だと思うし、これからが心配になる。毎年、被害が大きくなりつつあるようで、どこか不安がよぎる。人知を超えた自然のなせる仕業なので、待つしかないし、後始末しか手が出ない。いつか大きな天地異変が起きないか、いや既に起きつつあるような気がする。しかし、決定的な打つ手はなく、昔の人の神頼みや仏頼みの心境に似ているようだ。昨日の朝8時ごろ散歩していたら、曇り空にちょっとだけ青い空がマンションの向こうに見えた。いたずらをした子供がそっとドアからのぞくような感じの青空だったが、その美しさにほっとした。そのマンションにつながる川の道路を、小学生が列を作って登校していた。全員がマスクをつけて、たぶん6年生を先頭にして、傘を持って、きょろきょろしながら、話をしながら、何も屈託がなく歩く姿は、コロカ禍の前と変わっていない。少しだけの青空と小学生の登校風景に、安らぎを覚え、こんなにも美しい光景とは思ってもみなかった。災害のない日常とは、なんと有難いことだろう。

専門外のこと

今朝、学校図書館協議会のパフレットが届いて、ふと目にした。活字文化推進に関する記事で有識者会議が開かれたという記事で、アピール文が掲載されていた。普段あまり目を止めないことが多く、見逃している。活字文化を大切にすることは当然だが、現実はデジタル化が進み、子供たちも図書や新聞などを読まなくなって、PISAの読解力の成績も下がったから、あまりにも当然なので普段は目に入らないのだろう。今朝は、どうして目が留まったのだろうか、と詰まらぬことを考えた。以前に北海道教育大の姫野先生の研究を、このブログで紹介したことがあった。授業における教師の見え方の研究で、見ることと見えることの違いであった。優れた教師は、子供たちの背景をよく見るのだと言う。じっとよく見ることの研究に興味を持った。文章でも写真でも映画でも何でも、専門家はじっと奥を見る、偽物と本物を見分けるような鑑識眼を持っている、と考えれば、納得がいく。しかし、今朝はどうだろうか。当たり前のことだから見ないはずだが、アピール文を読んでなるほどと思った理由はなんだろう、と考えた。年を経るにしたがって、自分の専門を深める、というより、専門外にも広げる、という変化が起きている。アピール文を読んで、この分野の人たちは、活字を大切にしたいのか、確かにそうだろうな、と趣旨に添っている自分に気が付いた。年を経ると言うことは、専門外にも優しくなれることかもしれない。もっとそうなりたい。

宝探し

長い時間をかけて方法を考え、関連する資料を探して熟読し、ようやく実験や観察や調査などの研究が始まる。右往左往しながら、ともかく制約された時間の中でデータを収集し分析して結果を得る。文献を調べると、特に新しい知見が得られているわけではないが、しかし対象者も違うし、多少の結果の新しさもありそうなので、発表に応募する。面白そうな内容なら、参加者から質問やコメントが送られて、評価されれば少し自信を持つので、論文として投稿する。たぶん、こんな営みが研究者の常ではないかと思うが、なんと気の長い仕事だろうと思うことがある。多くの研究発表は、よほどでないと引用もされず、物置に閉まったオモチャのように置きざれにされてしまう。なんと無駄な作業だと思うこともあるが、わずかでも良い評価を得ると、嬉しくなってまた走り出す。どこか宝探しの子供に似ている。小学生の孫が友達と秘密基地を作るのに夢中になって砂だらけの真っ黒な姿で夕方遅く自宅に帰って、母親に叱られたと、ラインで読んだ。考えれば自分とあまり変わらないのかもしれない。研究者とは、子供がそのまま大人になった職業である。望むらくは、雑音に惑わされず宝探しだけをしたいが、そうはいかないのが世の中である。それが、子供と大人の違いである。

寝付かれない時

夜中に目が覚めて、どうしても眠れない時がある。誰にもあるだろう。気になることや、しなければならないことがあって、寝たまま脳が休んでいないので、それが覚醒させるという当たり前の現象である。午前2時に目が覚めて、どうしても寝付かれず1階の居間に降りて、あまり飲めないが、しかし毎日晩酌を楽しみにしている、氷にウイスキーを入れて飲むと、どこか安らぎがある。シラスとノリ、キュウリとシーチキンの組み合わせなど、ちょっとした家内の手作り料理を摘まみながら飲んでいると、昔の若かった頃を思い出す。誰でも学生の頃は、自由で気ままであり、そして何かに夢中になりながら、しかし心の内は自信がなく、彷徨しているような状態だったような気がする。しかし、時間はたっぷりあったから、12時前に寝ることは無かった。居間で一人飲んでいると、今自分は自由で、時間がたっぷりとあって、好きなことを考えて、例えば、短歌とか俳句とか歌詞とか小説とか作ってみようかなど、実現不可能なことでも夢想すると、それは空に飛び立つ羽根を持った鳥のような世界で、学生のような気持ちになる。若い頃は、希望や夢を持っているが、それは実現する可能性がほぼないことも知りながら、喜びと失望を繰り返して心が少しづつ成長して、大人への階段を上っていくのだろう。若いから、夢中になって追いかけ、そしてつまづき、少しずつ分別がついて、年齢を経て振り返ってみると、いいではないか、それなりに頑張ったではないか、と思えるようになる。夜中の一人酒は、その時代に戻るようだ。そして、まだ夢中になっている自分に、苦笑している。8月末か9月に出版する本に、今心が奪われている。

植木等さん

昨夜テレビの録画番組を見た。自分が気に入ってる番組は、歴史秘話ヒストリアである。1時間以内なので、ちょうど良い時間で、夕食後のくつろいだ一時が適している。何故か、昨日は植木等さんのスーダラ節の録画だった。これが何故、歴史秘話なのか分からなかったが、見ている内に意図が伝わってきた。植木さんは、お寺の出身で謹厳実直な精神の持ち主だったらしい。その植木さんがどうしてこの世界に入ったのか、私にはその真意は定かではなかったが、スーダラ節の歌をレコードにする時、彼の気持ちと歌のメッセージとのギャップに悩み葛藤したらしい。やがて、歌は大ヒットして、サラリーマンの無責任時代という社会風潮まで創り出していった。そのことは植木さんも予見していたので、葛藤があったのであろう。それは日本の高度成長と歩調を合わせるかのように、右肩上がりのテレビや映画での人気が続いた。しかし、それはバブル崩壊を境にして、急激に下降した。無責任時代のような呑気な時代でないことは、誰でも知っている。元々植木さんは、謹厳で真っすぐに生きることを信条とする心の持ち主だったので、これからは自分に合った生き方ができると思い、これまでとは真逆な映画を作った。が、誰もがそっぽを向いた。まったく売れなかったのだ。植木さんに貼られたレッテルは、容易に変えることはできなかった。そして、スーダラ節を友としながら80歳の生を全うした、という秘話であった。植木さんは、たぶん悟ったのだろう。変えることができないなら、それが例え自分の心に反するとしても、このレッテルと共に生き続けようと。考えてみれば、ほとんどの芸能人は同じかもしれない。いや、私たちも同じなのかも知れない。

相手がいること

最近、原稿を書いて思うことがある。原稿を書くとは、自分との対話である、とバフチンの言う、自己対話である、ことは確かにその通りである。バフチンはロシアの小説を読むことを事例にして、小説の中の登場人物と自分との対話を比喩にして、述べたと思うが、細かいことは例によってお許しいただきたい。というのも、ブログを書いていて思うことは、自分の公開日誌であるが、公開であるために、向こうに他人がいることを意識しなければならない。つまり自己と他者の対話が前提となって書くのである。これは、自分だけの非公開の日記との違いであろう。公開と非公開の違いを、自分はあまり意識してこなかったという反省である。現在、締め切りが近い原稿を書いているが、自分にはよく分かるが、相手に伝わる言葉を使っているか、ということに最近気が付いた。独りよがりの自己満足だけの原稿になっていないか、専門分野の人だけに通用する用語を使って得意になっていないか、という反省である。これは、誰でも知っている当たり前のことだが、自分には晴天の霹靂のような、天啓のような気付きである。今日も続きの原稿を書くが、全体を見直さなければならない。しんどいことかもしれないが、この作業は文字通り自己対話で、大切なことだろう。

オンライン学習か授業か

オンライン学習なのかオンライン授業なのか、用語はまちまちでメディアも統一していないようだ。かつては学習が主流だったが、大学などの利用の仕方は授業だろう。オンラインで講義を配信するという意味合いが強いからであるが、小中学校ではどうだろうか。対面授業をそのままオンラインで配信するならオンライン授業だが、あまり効果的ではない、もっとオンラインならではの使い方はないのか、という問いもある。一方、オンラインで授業をやっても、せいぜい15分程度ではないか、その後の30分くらいは自主学習やグループ活動とすればオンライン学習のほうが、用語としては納得しやすいのではないか、という考えもある。昔、CAIとCALの議論があった。Computer Assisted Instructionか Learningの違いであるが、Iのほうは教える、指示するという方向が強く、Lは子供が学ぶ、学習するので、背景が教員主導なのか子供主体なのかという授業観を反映している、という議論であった。実際は、CAIもCALも両方使われている。オンラインの場合はどうなるだろうか。最近はオンライン授業のほうが見かける頻度が高いような気がするが、この場合は双方向のリアルタイムの授業を意味しているようで、ビデオオンデマンドのように映像付きの授業を視聴する場合をオンライン学習と呼んでいるような印象を受ける。自分の場合は、リアルタイムの場合は、同期型オンライン学習(授業)、オンデマンドのようなリアルタイムでない場合を、非同期型オンライン学習(授業)と呼んでいるが、一般に普及しているわけではない。文部科学省ではたぶん用語を定義していると思うが、まだ読んでいない。いつもながら不勉強の文字が頭をよぎる。