歌謡曲の歌詞は、どうも似たような言葉が多いので、川の流れのように、とか、時の流れのままに、だったか、似ているので、水の流れのままに、と題名を書いた。どこかにあるかもしれない。しかし、心境は同じだろう。自分の意思というより、流れのままに自分もその流れに添って生きていく、ような意味だろう。ここ数日、諸々の仕事で忙殺されて、依頼原稿を書く時間がどうしても取れない。TV会議は電車に乗らない分だけ時間が取れるので有難いが、いろいろ入ってくる。考える時間も調べる時間もない、どうしようと考えていると、それだけで時間が飛んでいく、まったく意味がないのだ。挙句は、寝ていても原稿が気になって、早朝に目覚める。もう一度寝ようとしても寝つきに時間がかかる。ある朝、例によって3時ごろ目が覚めた。ふと思った、そうだ、水の流れのままに、流れに添えばいいのだ、と思って、そのまま起きて顔を洗い、朝早く机に向かって原稿に取り組んだ。思ったほどアイデアに時間はかからなかった。数日続いたら、3時でも4時でも、流れのままに起きるようになった。依頼原稿は予定通りに書けたのが、嬉しい。このブログも、ふと時間があると気が付いてパソコンに向かった。出来栄えとは関係ないので、念のため。
コロナ禍で得たもの
近所のスーパーマーケットが賑わっている。食材を買う人が多く、朝も夕方も人が買い物をしているようだ。家内は専業主婦なので、自宅から2分で行けるスーパーは食材倉庫のような感じで、店員さんとも顔馴染になっている。家で料理を作る人が増えたから、と店員さんは言うが、納得できる。在宅勤務で外出自粛が続くと、どうしても家での食事になり、料理をするようになる。そういえば、昼食は自分も自宅だが、そのお昼のテレビ番組では、料理や弁当など食事に関する番組が多くなった。人々が家庭に戻ったのか。名作、ALWAYS 三丁目の夕日の映画でも、超ロング番組、サザエさんの家でも、夕食は全員で食卓を囲んで談笑していた。それが、視聴者の心を掴んでいた。昭和の良き時代と言えば、単なる郷愁にすぎないが、幸せとは何か、を私たちは直感的に知っているからではないだろうか。同じ時間に通勤すれば、電車が混雑し、混雑すればストレスを感じ、ストレスが人間関係に影響を及ぼし、人間関係でうつ病などを誘発する、という因果関係ではないにしても、そのようなストレスのある生活の中で、テレビの中の夕餉の1コマに、安らぎを覚えたからではないか。ということは、私たちは、コロナ禍のおかげで、少し幸せの中にいるのかもしれない。
コロナ禍で失ったもの
人に会わないと仕事にならない職業では、コロナ禍の営業自粛の影響は大きく、深刻な事態になっているとメディアは報道しているが、現実に私の周囲でも感じられるようになった。テレビなどでは、タクシー業者、小売業者、観光業者など、多くの職種でコロナ禍以前の状態に戻らず、苦境が続いていると報道している。なんとなく生活が質素になり、外食などは控え、自宅で食事の習慣ができて、街に人は多く行き来しても財布の紐は固く閉じたままのようだ。経済はお金が回って成り立つので、経済の活性化はやはり必要だが、まだ我慢の年月が求められているかもしれない。思えば、私が子供の頃、家は貧しかった。今になって、貧しかった、と言えるが、当時は人前で言うのは恥ずかしかった。中学校の同窓会などで昔の話をすると、皆が同じような感慨を持っている。ということは、日本全体が貧しかったのだ。世論調査でも、今の日本人は中流階級と感じているので、生活は豊かになっているのであろう。しかし、昔のような不況になって、また生活を脅かすかもしれない。子供の頃はそれも知らず、我儘を言って親を困らせたこともあった。新聞に掲載された一句が身に染みる。「母の日のゆるしてほしきことばかり」(根本理子)
すきま時間の活用
昔ベネッセの企画で、中学生に私が取材したことがあった。どのように中学生生活を送っているかという質問だったが、印象に残った回答があった。中学生は忙しい。中でも部活は、今と違って放課後にかなりの時間をとられていた。スポーツ系の部活なら朝練があって早朝に登校しなければならない。さらには生徒会活動や塾や通信教育などを考えれば、ぎっしり時間が詰まっていて、入る隙もないような生活のようだった。自分が中学生の頃はどうだったのか思い出しても、似たような生活だったかもしれないが、夢中で過ごしていたのだろう。ベネッセの企画なので、そのような忙しい時間でどのように通信教育を受けるのだろうか、つまりどのようにして時間を産み出しているのか、という問いのような気がするが、その回答が、すきま時間を活用する、ということだった。自転車通学では自転車に乗っている間、授業と部活が始まる間などのすきまを見つけて、英単語の勉強だったり歴史の年号の記憶だったり、中学生なりの工夫をしていた。ある程度まとまった時間が取れると、嬉しくて勉強するのが楽しいと答えた。今は在宅勤務と職場勤務の併用で、通勤時間の分だけ余裕がある。思えば、ぜいたくな時間をもらっている。
IoTのゆくえ
AIやIoTは底知れぬくらいの力を持っていることは、多くの分野で実証されつつある。IoTは文字通りすべてのモノがインターネットにつながり、それがデータになりAIによって分析されるというSociety5.0の中核的な技術になることは、よく知られている。スマホを持てば人を追跡することが可能になり、街のいたるところにカメラを設置すれば、人の行動は記録され、パソコンでWebをチェックすれば、その人の嗜好データとして蓄積され、というように生活のすべてがデータという形で蓄積される。この事自体に、善悪はない。問題はその使い方にある。コロナ禍のような非常時における人の行動記録は致し方ないが、平常時における個人の行動記録は、いかがなものか。中国は、監視型都市をISOに提案しているという。プライバシーのない国は、国家のいいなり、それは為政者の独断によって国民が統制される社会を意味している。自分は政治には口を出さないことを信条としているが、この中国の提案は常識を大きく超えている。非常時と平常時は違う。それはすべての人の自由を取り上げることに等しい。香港の人の気持ちが分かる。
自営業
在宅勤務になると自宅が職場になる、つまりある意味で自営業になる。在宅勤務に慣れない人、時間の使い方に戸惑っている人、どこか腰が落ち着かない人など、いるだろう。気持ちは分かる。定時に出社して、デスクワークや会議や来訪者と面談をし、定時になったら帰宅する、夕餉の食卓が楽しいという1日は、平凡ながら幸せな生活と言える。仕事でうまくいったら生きがいもあり、家族に少し自慢話をしながら、悪くない人生だと思ってテレビを見ている光景は、テレビドラマそのものだ。それが在宅勤務になると、仕事様式も生活様式も違ってくるので、戸惑うのは無理もない。だから、気持ちは分かる、と書いた。しかし、自分などは始めから自営業なのだ。法人という名を借りているが、それは軒下を借りているだけで、そこに自分はない、という言い方は少し誤解を生むかもしれないが、Identityは職業にあり法人にはない。つまり、教育研究家とか教育評論家とか教育を対象にした職業であって、大学名や組織名にはあまり依存していないので、教育研究という職業を持った自営業なのである。大学にいる人は、たぶん似た感覚を持っているだろう。これからの時代は、企業人ではなく職業人としての生き方が求められるだろう。
振り返ればアジサイの花
昨日2020年6月10日の総会で日本教育情報化振興会(JAPET&CEC)の会長を退任し、名誉会長になった。振り返ると、平凡だがアッと言う間で、まるで夢か幻想のような気がする。人の生き方とは、このようなことかもしれない。同じ日の読売新聞朝刊の編集手帳に、「あじさいはすべて残像ではないか」(山口優夢)の俳句が紹介してあった。バラの赤は芯まで届くような真紅であり、白は1点の曇りもない純白であり、すべて原色だが、アジサイは、青色も赤色もすべてが薄く白みがかっている。小雨に煙るアジサイは現実の花というよりも残像ではないかという感じ方は、その通りだと読む人の心に響いてくる。大学教員を卒業して、団体役員もまた卒業して、振り返ってみれば、それは遠くに見えるアジサイのような淡い色をしていて、あれは幻想のような残像のような夢のような、現実ではなかったような気がする。確かに過ぎ去ったことは、すべて残像である。それは、遠くから見る雨の中のアジサイの花かもしれない。
あいまい思考
何でも計画を立てて、実行して、うまくいかなければどこに原因があるかを調べて、その原因を除去するような方策を立てて、実行して、というPDCAサイクルは、ほとんどの仕事や生活をそつなくこなす方法論である。問題解決や課題解決が重要視されている学校教育でも、このPDCAサイクルの考えは反映されており、ほとんどの学校でも実施されていると思う。考えてみれば、この方法論は科学という土台に立っている。どこか原因があるので結果が生じるという考えは、科学的思考とか論理的思考なので、誰もその方法論の妥当性について疑問は持たないだろう。しかし、現実の生活や仕事ではどうだろう。予期せぬ出来事が起こる、例えば、新型コロナウイルスパンデミックのような予期せぬ出来事にどう対応するのか、計画はない、あっても過去の経験であり役立つかどうか分からない、そもそも原因が不明確である、という状況の中で、世界中が右往左往した。国や自治体の責任者は、論理的な資料を持っていないので、専門家という科学的な根拠を求めた。科学とは明確な論理なので、因果関係に基づいて判断する。しかし、この科学もあてにならないのではないだろうか。忖度で付き合う人間関係、あいまいな決め方、アナログの文化、空気を読む日本など、科学的な思考とは正反対の日本におけるコロナ禍への対応であったが、世界が不思議がるような感染者数や死者数の低さになった。たぶん、これは科学に基づく意思決定の危うさを示しているのではないだろうか。現実世界は、科学のようなきれいな論理で、できていないと思う。
対面も楽しい
数日間、どうしても都心に出かけなければならない仕事があって、久しぶりに電車に乗った。どこか違和感があったが、いつの間にか昔と同じ電車の人になって、座席になじんでいる自分がいた。空気とは不思議なもので、すべてを飲み込んで包んでしまうようだ。やがて会議が始まり、議論をしていつの間にか時間が経って、お昼になった。時の過ぎゆくまま、と言えばその通りで、時間の流れに身を任せていると、どこか小舟に体が揺られてゆっくりと時間が経つようだ。昔の流行歌の歌詞のようだが、気持ちはまったく違って、身を任せることの楽しさである。このようにして、人は仕事をしていたのかと思い、午後の会議にも出て、いろいろな仕事をしていたが、いつの間にか自宅に戻って、お風呂に入って楽しい夕餉になった。なんと平凡な1日だったかと思ったが、これも楽しい。とすれば、新しい生活様式は在宅勤務と職場勤務の両方をブレンドすることだから、それも悪くない。いつの時代も、心配ない。どんなことが起きても、口笛を吹きたくなるような楽しさがある。
美しきことは良きかな
武者小路実篤 の、仲良きことは美しきかな、は有名であるが、登校や下校する子どもたちの光景は、仲良しの言葉がそのまま当てはまるようで、文字通り美しいと思える。自宅の庭を少し改造するために、工事が進行中である。小さいけれども芝生は自分の係なので、雑草を取りきれいな緑の一面を目標にして、毎朝少しずつ手入れをしてきた。それが工事が始まると、コンクリート、トロッコ、土砂、スコップなど当たり前であるが、緑の芝とは対照的な土色の道具が現れた。それが、小さな芝の上に積み重ねられている。きれいに芝の高さを揃えていたが、無造作に置かれた土砂がその一面を壊している光景を見ると、数日前の緑の美しさがよけいに恋しくなった。美しきことは良きことなのだ。言い古された言葉だが、身も心も洗われる。学校は、静かな環境、仲良く登下校、授業前後の起立礼、掃除、整理整頓、学校菜園など、美しさで囲まれて、子どもたちは学習している。年をとっても、いつまでも美しさを求めて生活したい。
