今朝は久しぶりに晴れ間が見える。雲の合間にのぞくような青空だが、それでも爽やかな贈り物のような気がする。手帳を開くと、今日は何もない。考えてみれば、休日なので当たり前で、昨日は休日なのに大学の授業があったので、どこか曜日の感覚がおかしくなった。コロナ禍ではいろいろな事情が変更になるが、これが新しい生活様式と言われると、それもいかがなものか、と思う。晴れ間のほうが嬉しく、休日のほうが文字通り身も心も休まる、という正常なスタイルが、凡人としては、居心地が良い。自宅にいる時は、午前中は書斎で何か好きなことをしているが、それは仕事でもあるが、趣味のようなものと思っているので、他人に威張って言えない。休日ならば、それも威張って言ってもよく、調べたいテーマがあって、それを知りたいので、この年になっても、子供の夏休みの自由研究のようなものだろう。去年、孫が夏の自由研究で、大きな荷物を引っ張って、どのくらいの重さまで引っ張れるのか調べている写真をLINEで送ってきたことがある。意味が分からない。聞けば、カブトムシがどのくらい引っ張れるのか、アリはどのくらい力があるのか知りたいので、実験していると言うが、科学的かどうかは別にして、男の子には面白そうで楽しそうな実験である。自由研究とは、文字通り自由なのだ。誰が何を言おうと、好きなことをやればいいので、夏休みという期間に、学校の授業を離れて、自分のやりたいこと、趣味と呼んでもよいが、それが許される意味である。とすれば、自分が今日やりたいことは、休日の自由研究と言ってもよいので、今朝の晴れ間が見える空のように、爽やかな気分になっているのかもしれない。そういえば、今年の子どもたちの夏休みの自由研究は、どうなっているのだろう。まさか、コロナの研究はできないだろうが。
記録に残す
今日の午前中は、都内の大学の授業にゲストとして参加した。その授業担当の先生に頼まれたからだが、少し緊張した。留学生のために開講されている科目で、今日は前期の最後で、学生のプレゼンがあって、それを先生が評価して成績をつけるらしい。私のゲストの意味はあまりないが、大学教員だった経験について、最後に学生へのコメントも含めて話すという依頼だった。少し緊張した、という意味は、英語だからである。最近は、国際会議も出ていないし、英語でコミュニケーションするチャンスが無かったので、大丈夫だろうか、と内心思っていた。少し緊張したと書いたが、かなり緊張した、と書いた方が正確だが、実際に学生のプレゼンを聞いてみると、その内容は、学部相当であって、正直に言うと、あまり深くはなかった。だから緊張したのは始めだけで、後は気楽な授業であった。最後に10分程度話して終わったが、この授業は、今どきなので、当然ながらオンラインである。Zoomを用いていたが、録画機能があるので、すべて録画していて、後でその録画を見て評価点をつける、と言っていたので、なるほど、Zoomは便利だと思った次第である。しかし、デジタルの良さもあるが、この記録はいつまでも残るので、もし失敗したプレゼンなら早く始末してもらいたいと思う学生もいるかもしれない。自分の場合は、事前にスライドを用意していたが、授業や講義では、あまり著作権などは気にしないので、それが記録に残るとなると、少し躊躇する。いつまでも残る、のは便利な反面、不便でもある。人は、楽しいことはいつまでも記憶に残り、嫌なことはすぐに忘れる、ような気がするが、それは、自分が勝手にそう思っているだけかもしれない。ともかく、忘れることは人の優れた特性である。
明日に延ばす
今日もつつがなく過ぎて、夕方から雨になった。昼間はちょうど良い日差しだったが、夕方になって突然に大粒の雨となり、小粒の雨に変わり、などと自由自在に天気が変わる。天候の気まぐれに人が左右されるのも癪だが、書斎の窓に映る雨跡は、穏やかな筋の模様なので、気持ちが鎮まる。スマホの天気予報によれば、今夜にかけて豪雨になると言うが、窓から見える向こうのマンションが煙っているので、まだ小雨だろう。お風呂から上がって、一息つく頃にブログを書くのが一番リラックスするのは当然だが、テーマが決まっていないで書くので、少々気が引ける。論文を書くのとは、随分かけ離れている。しかし、いつもは書いている内に、着地点が見えて、落ち着くところで筆が止まるが、今日はそれも見えず、文字が彷徨しているだけである。お風呂上りの一時ならば、それもいいではないか、人は場合によって気分によって、時間に流されるだけでも、生きている甲斐はある。今、雨が小雨なので、少し風情がある。昔は縁側に出て、隣近所の大人や子供が将棋などを指した、というから、のんびりしたものだったろう。そんなことは今では夢のまた夢だが、気持ちだけは、そんな気分で過ごしたい。何もしたくない時があっても、いい。まだメールを見終わっていないが、いいではないか、今日できることを明日に延ばすことも、また確かな処世訓である。
ウイルスと戦う
このブログはなるべく夕方に書く予定にしているが、時間がとれない日がある。昨日がそうで、どうしても時間が取れず、今朝書いている。誰でも同じだが、時間の取り方は難しい。昨日の午前は、地元中学校の評議員会があって出かけて、その後Zoomの会議などがあり、気が付くと夕方になっている、といういつものパターンであった。中学校の授業参観をさせていただき、先生方や生徒たちが、与えれれた環境の中で精一杯の学びを継続していることを、知った。先生方はマスク、場合によってフェースシールドをして、授業をし、生徒たちも全員がマスクをしているが、それはどこか別の星の学校のような印象だった。SFの世界のような光景だった。こうして、学校はウイルスと戦っているのだ。給食や体育以外は、マスクを外さない、social distance をとる、大声を出さない、など、これまでの学校とは別の授業風景だったことに、ある意味で衝撃を受けた。校長室での情報交換では、これ以上の休校が要請されたら、もはや留年させるしか、打つ手はないと言う。教室やトイレは、感染しやすい場所なので、掃除は先生方がやっていると言う。これまでの学校の常識が崩れてきた。給食はまだ完全ではない、その理由は、最も感染しやすいからで、パンと牛乳だけの給食にしているが、どこか遠い昔の戦時中のような話であった。それでも、生徒たちは勉強している、その姿は、どこか尊い。先生方、生徒諸君、頑張れ。お役に立てるなら、応援したい。
面白さ
久しぶりの晴れ間になって、汗ばむ陽気に、無邪気に嬉しくなった。政治家や官僚は、このような外の空気には動かされないような人種なので、どこか遺伝子が違うような気がする。と書きながら、待てよ、と考えた。遺伝子ではなくて、環境なのかもしれない。そういえば、国立大学で大学院生を指導していた頃は、12月30日まで研究室に行き、1月2日は1年の始まりだったから、外から見たらどこかおかしい人種と映るだろう。私立大学に異動してから、朝は5時57分に家を出ていたので、近所の人たちからは、大変な大学だと思われていたかもしれない。慣れれば、それは何でもない、当たり前のことなので、遺伝子説ではなく、環境説に軍配を上げたい。問題は、それが楽しいか、苦痛なのか、面白いのか、仕方がないのか、で大きく分かれるだろう。自分や他人の研究を振り返ると、何が決め手なのかは、面白いかどうかではないか、と思う。面白いという感覚は、何にも勝る魅力のような気がする。お金や名誉などは平凡だがあまり魅力ではなく、面白さには勝てないだろう。楽しいか、と言われれば、趣味やゲームや談笑や、今はできないが、気の合った仲間との飲み会なども、楽しいが、面白いという感覚とは違うような気がする。感じる神経が違うようで、例えば、ずっとやっても飽きないとか、寝ても気になっているが、それは不快ではなく、快適かというとそうでもないので、やはり感じる神経系統が違うのかもしれない。ともかく、人は面白さを追求して一生をすごすと考えたほうが自然である。政治家や官僚や研究者を見ていると、それで十分満足そうな顔をしているので、幸せなのだろう。
議連の会議
コロナ禍の中、まだ多くの感染者数が続いている、ということは、東京は既に第2波が起きていると考えたほうが良さそうだ。なんとなく暗い雨雲が重くのしかかってくるような予感がする。現実に、いつ梅雨は空けるのだ、明るい太陽は隠れてしまったのか、まして、九州では大被害が起きているので、この先が見えない、と誰もが感じている。先のブログでも書いたが、16日木曜の会議は、自民党のEdTech議連の会合だった。集まった人々は、当然ながら国会議員、省庁、企業などの人々で、教育に関わりのあるメンバーであったが、その意見や考え方が、卓越しているのである。例えば、自治体のセキュリティーガイドラインが厳しすぎて、学校ではクラウドにつなげない、オンライン学習ができない、などの意見が出て、なんとかしようという雰囲気で盛りあがった。もちろん、これまでも厳しいという意見はあったが、なんとかするというデッドラインまで決めるような雰囲気ではなかったと思う。先のブログで、良い意味で田中角栄のようだと形容したのは、その積極性な姿勢のことである。自分の場合は、冒頭に書いたように、雨ばかりで憂鬱になる、九州も大変でこの先どうなるのか、コロナの第2波が来ているようだ、とか、材料が悪すぎて、とても元気になれそうになかったのである。政治家や省庁の役人は、日本を背負っているのだろうか、ウイルスや天候くらい何事もないような表情で、いつもの威勢のよい声を出している。感心したし敬服もしたのである。そういえば、会場も狭くきわめて密だったが、ウイルスも近寄れないのかもしれない。
会議と公園
今日は都心に出かけて、いくつかの会議や打ち合わせなどがあり、以前と同じスケージュールになって、やや早めに帰宅したが、なんとなく疲れる。電車に乗るだけでも、マスクをしているだけでも、ジャケットを着ているだけでも、革靴を履くだけでも、どこか緊張しているのか、疲れるようだ。難しいことは何もないのだが、会議では、立場によって思惑が錯綜するだろうし、少し眉を寄せるような話題もあるだろうし、仕事とは落語や漫才を聞くのと訳が違うので、疲れるのは当たり前である。そういえば、企業人も役人もすべてタフだなと思うことがある。コロナ禍をモノともせず、何か田中角栄のような馬力のある人達ばかりだった。感心し敬服し、そしてどこか疲れる。帰宅した時夕方だったが、珍しく曇り空だが小雨も降らず、西の空は雲が明るく見えるので、ジョギングをしながら公園に行った。公園には、幼子を連れた若い夫婦、キャッチボールをする若者、それもかなり飛距離が長いので見とれてしまう、深緑のきれいな人工芝のサッカー場で、真っ赤なサッカーウェアを来た子供たちが走っている、どれをとっても、絵になる。自分のような老人もジョギングで仲間に入っているが、周りのエネルギーの溢れた人たちとは、年齢が違うのだが違和感はない。都内の会議と違って、その時の気持ちを表現するなら、快適の一言だろう。やはり仕事と余暇は性質が違うのだろうか。どちらも精力的な光景である。都心では、見事な仕事ぶりなので感心し敬服し、一方公園では、すべての光景がよく似あっていて、自分もそこに溶け込んで一員となれる。なるほど、年をとると言うことは、こういうことかもしれない。
眼科の検査
今日は都心に眼科の検診に行った。それだけのために、電車に乗って出かけたが、本心はためらった。都心の眼科は、当然ながら自分が所属する事務所に近いからという理由だが、コロナ禍のために事情が変わった。電話で予約を断ろうと思ったが、午前の予約なので、すでに遅しであった。明後日にはどうしても都心に行かなければならない会議があるので、その時に変更したかったが、これも時間がない。気が付いたのが遅かった。こんな時誰でも、今日はついていない、と思う。が、行って良かった。実は、都内から地元の眼科に変える予定を、話すつもりだった。つまり最後の検診だった。眼科の検診のためだけに都内に出かけるのは、眼科と言えども医療機関なので他よりは密であり、何より効率が悪いので、どう考えても得策ではない。検査はいつもながらの簡単な眼圧や視力検査で、何事もなく数値もよく、医師からの診断を受けて帰宅する、いつもの通りである。そして事情を話し、地元の眼科に移りたいので紹介状を、と言って、それから何気なく話が続いた。帰ろうとすると、何となく話足りないような医師の口ぶりで、話を引き延ばした。薬屋に行って薬をもらうとき、ふと気が付いた。医師にとって患者は、学校の教師が受けもつ子供のような存在かもしれないと。目の検査結果の数値が良かったので、自分のことのように、いい数値でいいですね、という言い方が、確かに教師のような言い方に聞こえた。自分は、自分の都合だけで考えていたが、医師の世界では、相手の良くなることを目的にして判断するのかもしれない、いや、確かにそうなのだ、教師と同じなのだ、という当たり前のことに気が付いた。今日は、眼科検診のためだけに都心に行って良かった。感覚の鈍い自分が情けない。長い間、お世話になって本当に有難い。目が見えるのは医師のお蔭である。忘れていた。
無駄な時間
今日は、今朝は、久しぶりに都心に出かける。在宅に慣れると、どうも電車に乗るのが億劫になるが、世の常として仕方がない。ただ、日本人の美徳して培ってきた勤勉さが、自分も欠けてきたような気がする。コロカ禍のせいにするわけではないが、在宅が日常になると生活のパターンが決まるので、その時間割を崩すことが嫌なのであろう。とすれば、勤勉と言うよりも習慣を崩したくないという、単なる惰性でしか過ぎない。家にいるほうが、自分のような仕事には適しているので、特にその傾向が強い。最近読んだ本で、現在社会は多くのモノで満たされ、人の仕事量は減少してくる。例えば、昔1日8時間働く仕事は1日3時間で済む時代が現代だ、という論理だが、どうもその理論通りには現実はいっておらず、現代人も相変わらず1日8時間仕事をしている。しかし、この本の考察は続く。だから、1日5時間は無駄な時間を過ごしているのだと。この考えは、確かに論理的で、現実をよく見ているような気がする。現在社会は、時間が速く進む。ネットで調べれば、昔なら1日かかる調べ物は、1時間で済む。確かに時間を産み出しているので、その余った時間は無駄に過ごしているのかもしれない。ふと思った。自分のような仕事は、無駄な時間でできている。学問とか哲学は、余った時間という意味らしいので。とすれば、無駄な時間も意味があるし、その時間でできる仕事は、面白い。
よく学びよく遊び
在宅勤務の状態になると、曜日の感覚がなくなるが、今日は日曜日だった。土日の午後は、スポーツジムに行くことにしているが、当然だが汗をかく。都心に通勤している時でも、そんなに汗はかかないし、しかも爽快感が違う汗だから、体内の雑物を排出したので、体が軽くなる気持ちがする。今日は久しぶりの晴れで夕方に庭の草とりや石などを運ぶ仕事をした。これも、びっしょり下着が濡れて洗濯機に放り込んだ。居間で、家内が持ってくるキンキンに冷えたお茶を飲む、そして8つ切りにした冷えたグレープフルーツを食べると、文字通り五臓六腑に染みわたる。こんなに美味しいのか、と感動すらする。子供は、よく学びよく遊び、というが、今日はまるで子供のような1日で、精いっぱい生きたような気がした。大人は子供をモデルにして生きれば、幸せなのだろう。
