原稿書き

いろいろな仕事で原稿を書くことが多い。有難いことである。正直に言えば、講演や授業は苦手で、原稿書きのほうが性に合っている。原稿は推敲ができ、修正ができるからである。講演や授業は時間軸なので後戻りできない、つまり後悔しても後の祭りなので思い出したくないことも多い。原稿の場合は、修正ができると書いたが、それでもその時の自分の考えで書いているので、後で読むと、なんと浅はかな、と思うことも多い。ということは、どちらもその時の自分の考えや感じ方、姿を映していることに他ならない。ということは、オーバーに言えば、人生に後戻りができない、と同じように、原稿も講演も授業も、後戻りできないことになる。その時思ったことや感じたことがすべてなので、自分の姿をさらけ出すことになる。昨日の原稿を読み返すと、やはりどうもおかしいと思う箇所が多々ある。それでいいのだ。今日の自分と昨日の自分は違う、という当たり前のことなので、違って当然である。と書きながら、昨日よりも今日のほうが良いという保証はないので、やはり精進するしかないのか、と自分に言い聞かせる。

オンラインの運命

オンラインが仕事や学習の手段として、日常的な手段となってきた。自分も、仕事上では手放せないようになっているが、この現象はパソコンやスマホにも似ている。パソコンが無くては仕事にならないし、スマホがないとたぶん若い人はパニックになるだろう。オンラインもいずれ同じような運命をたどるような気がする。何故だろうか。昔、村上陽一郎先生が、パソコンはドラッグである、という趣旨の講演をされた。ドラッグは薬なので体の中に入り込み、ドラッグ中毒を起こし、薬が切れると禁断症状を起こす。同じように、大人は仕事上ではパソコン依存症になっており、若い人はスマホ依存症で、スマホが無くなればパニックになってしまう、ことはドラッグと同じである。ドラッグ禁止、ドラッグ追放、ついでに禁煙運動などが起きて、タバコの煙は街から消えていった。同じように、禁パソ運動、禁スマ運動、禁オン運動を起こして、職場や家庭からパソコンやスマホやオンラインを無くそう、という運動は起こりそうもない。何故だろうか。違法ドラッグは、体を蝕むだけの有害物質であるが、一般の薬は、人の体を健康にするための有益物質だからである。全くの健康体だという人は、この世には誰もいないだろう。飲みすぎると副作用を起こすこともあるが、人は薬と共存しながら生きている。同じように、オンラインもセキュリティーなどの副作用もあるかもしれないが、共存しながら使われるだろう。どのように生かすかは人間の知恵にかかっている。

若い人の企画力

昨夜8時から高校生や教員などが参加するリモート会議に参加した。始めは、少し躊躇した。夜9時ごろは、普段は自分の机の整理などの習慣があるので、と思ったが、夕食を9時からにして変則の土曜日にした。参加して良かった。今どきの高校生は、凄い。デジタルネイティブというか、表現力が素晴らしく、アイデアも飛びぬけていて、とても自分のような昭和世代には、真似できそうもない。はるかに上を走っている。例えば、高校では課題研究を実施しているが、全国の高校生に呼び掛けて、そのデータベースを作ってWEBで公開すれば、そこから良いテーマが見つかるのではないか、ファッション系の服が大量に生産されて、しかも膨大な数の新品の服が捨てらている、大きな社会損失ではないか、どうすべきか、どの家にも余った食材があり、日本は多量のゴミを発生していることはよく知られているが、これを逆手にとって、この余った食材を使ってレシピを作り、なるべく安価で手軽にそして美味しい料理を作る、WEB上でのコンテストを企画して、現在実行中、というプレゼンがあった。どれも意表を突くような発表で、お世辞ではなく敬服した。すべてのイノベーションは、若い人が起こすのかもしれない。そのような新しい芽が、WEBの世界で生まれている。ちなみに、このプロジェクトは、ベネッセと岡山大学の共催で実施している。

mustとwant

なかなか時間がとれない。読みたい文献、と言っても趣味の読書ではない論文だが、準備しなければならない資料、書かなければならない原稿、出版のための締め切り厳守の原稿、やっておくべきアプリの設定、そして遠隔の会議やメールなどの仕事、すべてmustの文字がついてくる。その優先順位は、mustから考えると、締め切りの早い順になるだろう。しかし、そこが人間の弱いところで、読みたい文献からにしたいので、少しだけと時間を切って自分を許す。考えてみれば、それも有難いことで、mustもwantも仕事があるだけで、自分の活動範囲が広がる。ということは、自分の脳を活性化しているので、脳は衰えない、つまり認知症になりにくい、と考えれば、高齢者の病気予防をしているのだから、まったく苦にすることはない。と思いながら、mustとwantでは、脳の活性化部位が違うのではないか、と思う。本当は調べてみたいのだが、そんな暇はないのであきらめるが、人の好奇心や興味は、プログラムのように予め決まっていないので、次々に発散していくようだ。このブログのタイトルは、実は後からつけている。何を書くのか決まっていないので、後から書くしか方法がない。と言いながら、読みたい文献を少しの時間だけ読んで、mustに取り掛かる。

伝えることと受け取ること

2020年6月26日読売新聞朝刊の第一面に、自分への取材記事が掲載された。読売提言で識者に聞く、という企画で、自分は教育、オンライン学習のテーマで依頼された。一面は凄いと思ったのは、すぐに目を引くからである。もちろん自分のことだから当たり前であるが、しかし読者によって何を見るかは、本当はわからない。取材を受けて、本当はそんなつもりでは無かったのにと、誰でも思うこともあるだろうが、受け取る人によって、その解釈は異なるので、それは当然である。この取材は、私の意をくんで、よく書かれていると感じた。たぶん、事前に原稿のやりとりがあったからだと思う。日常の会話や会議、テレビ討論などでも、その意味では、発信する側と受け取る側で、真意はどの程度伝わっているのか分からない、と思った方が自然ではないか。会話は時系列的に続くので、今の発言は訂正とか修正など、原稿に赤ペンを入れるようにはできないからである。とすれば、私たちは、たぶんに誤解をしながら会話や会議をしているのかもしれない。そもそも、言葉で自分の意を表現できるかどうかも怪しい。目は口ほどにモノを言い、の例え通り、我々はすべての五感を使わなければ、伝えられないし分からない。すべてを使っても通じるかどうかも、確かではない。と言うことは、コミュニケーションは誤解の上に立ってという前提で対応する必要がある。新聞を見て、そんなつまらぬ連想をした。

青い目茶色い目

昔、確か放送が白黒の時だった時代、NHKの番組で「青い目茶色い目」という題名のドキュメンタリーがあって、それをビデオ録画にしたVHSを、知り合いのメディア専門家の先生からいただいた。それは、アメリカの人種差別をテーマにした番組で、実際の話であるが、小学校での実践、というか実験であった。青い目をした子供と茶色い目をした子供に対して、お互いが差別することがいかに人を傷つけるか、という内容であったが、何故か今思い出した。その理由は分かっている。人は楽しいことばかり続くわけではなく、時に自分の意に反することもあって、感情的になることもある。また、その逆になることもある。それは、本当にとっさであって、人の感情は瞬間に変わる。人は、本当に自然のように悠久の時を生きてはいない、生きれない。すぐに変わってしまう、それが良いときも都合の悪い時もある。先のアメリカの番組では、先生の一声で、子供たちが瞬間的に変わってしまうことを実証して、教育の凄さと共に怖さも訴えたが、それは大人にも誰にも通じることではないか、と感じた。あの人はこんな人だ、この生徒はこんな性格だ、この先生はこのようだ、とか決められず、起きてくる事態や周囲の状況やその折々の人との会話によって、すぐに変わってしまうことに、気が付いた。昨日、ある学校の研究授業に参加して、講評や話をしたからかもしれない。子供も大人も、コロナ禍によっても、友達や先生との会話で、すぐに変わってしまうことも、念頭に置く必要がある。しかし、この番組は素晴らしい。是非一見することをお勧めする。たぶん、NHKアーカイブスにあるのではないか。

企業の経営者

企業の経営者の話を聞くと、どこか学校世界と違うことを感じる。それは良い意味であり、経営者は、はるか先を見ている。私学の教員だった頃、企業の皆さんに感謝する日があって、国立大学では考えられないイベントであったが、その会場に集まった経営者の方から多くのことを教わった。一言で言えば、人生を見ている、生き方を模索している、というか、言葉が重いのである。胸にドンと入ってくるのである。自分のようなものが、と別に卑下して言うわけでもないが、教員研修で話をする時は、それに比べると、どこか軽く表面的で受け売りで、という引け目を感じる時がある。コロナ禍の中で、中小企業が生きていくのは並大抵のことではないが、その中にあっても経営者が従業員をどう守るかと、美談ではなく、本気で考えていることに頭が下がる。テレビで松下幸之助の経営についての話題があったが、大不況で多くの企業倒産の嵐がやってきた時、松下電器は一人の従業員も解雇しないと心に決めて、金融機関を走り回ったと言う。同じような経験を、大なり小なり企業の経営者はしている。どこか武士道のような美しさを感じる。

対面とTV会議

昨日もある団体の会議があった。この6月は理事会や総会の季節である。TV会議か対面かのどちらかであるが、昨日は対面だった。対面の会議で、参加人数はそれほど多くなかったので、また自分は司会役だったことから、委員の皆さんに意見か感想を聞いた。大学も企業もほとんどがTV会議を利用しているが、その使い方については、当然ながら長所と短所がある。TV会議の長所は、何と言っても出かけなくて済む、つまり時間が節約できることだろう。これは絶対的に優れた特性と言える。大学の講義では、グループ活動ができる、資料が読みやすい、質問がしやすい、などが挙がった。短所としては、企業のトップの方が言っておられたが、どうしても細部のこと、ニュアンスのこと、心情的なことなどが、伝わらないことであった。実はそれが最も重要なことなので、今日は直接会ってきた、と話しておられたが、納得した。その通りだろう。大学の講義は、内容が決まっているし、論理的に考えて議論できるが、経営や人事や将来予測やあるべき姿などは、多面的に話さなければならないし、昔から小説などで読むと、経営者や政治家などは、腹を割って話すとか、意気に感じるとか、肝胆相照らすとか、論理以外の思考が働いているようで、その時は相手のすべてを、対面で、つまり自分の目で耳で口で話さないと分からないからであろう。メディアの特性について、勉強した。

実践という重み

学生の頃は物理を専攻したので最初の就職は、高校の物理の教師だった。自分には合っていて、研究は落ちこぼれのようだったが、教育が仕事の高校教師で生活できるのは幸せだった。ただ物理は文字通りモノのことわり、つまり理屈なので、どうしても頭で考え、理解しないと、すっきりしない。ところが、近年の高校生は物理を選択科目としない生徒が多く、物理教員は頭を抱えていると聞く。しかし社会に出てみると、物理的な思考方法で、あまり得をした経験がない。小学校の指導方法は、基本的に経験であり、いろいろ試行錯誤することから学んでいく方式が多い。頭で考えるより、手と足で学べ、という方法なのである。確かに、頭以上のことを学んでいる。このスタイルになかなか慣れなくて、苦しんだ。小学校の研究授業に呼ばれてコメントするのは難しく、今でもそれがコンプレックスなので、なるべく避けていた。しかし避けてばかりでは進歩がないので、実践から学ぶ、と頭を切り替えた。実践という重みに添ってみようか、と理屈から経験へと宗旨替えをして、多くの小学校の授業参観をする予定で、科研費も申請して採択された。しかし、世の中はままならず、コロナ禍のために予定がすべてキャンセルされた。これからという時に残念だが、仕方がない。来年を待って、実践の宝庫を探索してみたい。まだまだ、研究する楽しみは多い。

今日は日曜日

今日は日曜日である。昨日土曜日は都内に仕事で出かけた。明日月曜日も都内に仕事があって出かける予定になっている。在宅勤務が長くなると、曜日の感覚が無くなってくるが、土曜と月曜に出勤となると、通常通り、というか、通常より出かける日が多いので、日曜日の存在感が高くなる。何か、得した気分になってくる。通常では、土日が休みなので、その午前中だけは自分の自由な時間として確保して、やりたいことをする、と言っても、調べものや原稿書きや資料作りなどであるが、その時間が楽しみだった。しかし、在宅勤務が日常になると、勝手が違って、毎日が土日のような生活になって、時間の有難味が薄れてくる。土日の午前中は、あれほど嬉しかったのだが、その嬉しさが半減したような気分になる。何故嬉しいのだろう、と詰まらぬことを考えた。仕事と言っても、自分の仕事は半分趣味か遊びのような気がする、と書くと、誤解されると思うが、正直に言えば、仕事と趣味の境界ははっきりしない。その感じは、研究者だからと思っていたが、そうではないかも知れない。自宅の小さな改築で、職人さんに来ていただいているが、その仕事ぶりはどうも好きなことをやっている、という自分の感覚と同じような気がする。職人さんも研究者も同じか、と思ったが、考え直すと、我々自称研究者は、実は職人さんではないか、と気が付いた。一生かけて、腕を磨く職業なのだろう。死ぬまで、職人でいたい。