スポーツジムの光景

昨日は、オンラインでのセミナーというか、講演をした。オンラインは、対面よりも自分は話しやすく、質問もチャットのような文字入力ができるので、受講生もやりやすいようだ。2時間がアッという間に過ぎた。土日は、時間があればスポーツジムに行っている。ジョギングより良いのは、プールがあることで水に浸かれることだ。欠点は、時間がかかるので、週末だけにしている。昨日は雨降りなのでジョギングは無理で、ちょうど良かった。自分はやらないが、インストラクター付きのボクシングのような集団レッスンコースもある。見ると、音楽付きで激しいボクサーのトレーニングのようだ。土日しか行かないのでわからないが、どうも人気と人気のないレッスンがあって、人気のある場合は、こんなに密になって大丈夫か、と思うくらい大勢が受講している。人気がない場合は、まるでガラガラで、その格差が大きい。それは、インストラクターによるのだろう。自分は、その部屋がガラス越しに見えるマシーン室で、自分だけの筋トレなどをして汗を流すが、時折、レッスンの休憩時間があって、受講生たちが、飲み物を飲んだり、話したり、床を拭いたり、しているが、汗で顔も体も光っていて、満足そうな表情をしている。人気のないインストラクターの場合は、休憩時間でも笑顔が少ないように見えるのは、気のせいかもしれないが、何かコーチの評定のバロメータのような気がした。そういえば、予備校の講師も同じなのだろう。テレビで有名な林先生のような人気者がいれば、それだけで予備校は経営が成り立つ。と思うと、ふと部屋がガラガラのインストラクターが可哀そうになった。昨日の自分の評価はどうだったのだろうか、と思って我が身も不安になった。

異分野の方と対談する

昨日は、ある企業、と言っても、シンクタンクのような企業のトップと、オンライン対談をして、それを報告書か雑誌かの巻頭に掲載する企画だった。1時間半だったので、比較的長い時間かもしれない。相手の方は、国際ジャーナリストのような方で、話の中に、国際的な感覚が混じっていて、分野も、経済、政治、貿易、文化などで、幅広い。教育とは有り難い分野で、どの分野にも通じる共通点がある。話がいろいろ広く飛んで行ったが、どう表現していいかわからないが、自由奔放、しかし相手は教養に満ちていて、飽きることがない、という印象だった。教養という知的さを隠して放談するような人で、実際にメディアでも国際関係のコメンテータをしている方らしいが、自分の専門と違うので、よく知らない。自分とは違う分野のトップと話すのは、少し気が引けるので、少し予習をしようと思って、1時間くらい前から資料を用意したのだが、対談というのは、予習など意味がないことが分かった。何が飛び出すかわからないので、資料など見る暇もなく、自分も早口の方だと思うので、話が次々に移って、それが実に面白い。ちなみにオンラインは、むしろ話しやすい。あまり気を遣わなくて済むので、自由奔放、言いたかったことを忖度せずに言える、という感じだった。ジャーナリストの方なので、もともと自由な立場かもしれないが、たまには分野の異なる人との対談も面白い。

仕事が一段落すると

在宅勤務は、自分にとっては有難く、自分にぴったり合った生活様式になった。以前は、毎日都心に通勤していたものだと感心するくらいで、その時間が自分の時間になるのが嬉しくて、その気分は、学生の頃に夜遅くても自由に時間を使って、好きな本や外食など、本当に自由という言葉が合っていたが、そのような気分である。時間の配分は、若い頃とまるで逆で、夜遅く朝遅くが若い人の過ごし方だが、年をとると、夜早く朝早くで、早朝は特に爽快な気分になる。若い頃は、友達と一緒に夜12時ごろに飲みに行ったり、何を話したか忘れたが、何でも気にしたり悩んだり、それが若いという証拠なのかもしれない。年をとると、他の人は知らないが、なるようになる、とか、いいではないか、とか、別の言い方では、いい加減、という考え方にもなる。ただ、責任は相変わらず付いてくるので、少しは心配したり不安になったりすることもあるが、その頻度や深さは、それほどではない。昨日は、省庁系の書類審査が一段落したので嬉しくて、雨降りの天気なのに晴天のような気分だった。責任ある審査なので、どこか神経が疲れるのだろうが、終わると万歳を叫びたくなる。まるで子供のような感覚なのかもしれない。オンラインの会議も毎日あるが、会議の間の移動時間がないので、自由に使えるのが嬉しいのだが、それは、宿題が終わった子供のような心境だからだろう。年をとると、子供の時代に帰るのかもしれない。

電車の中の読書

昨日は、久しぶりに都心に行った。電車に乗って、読み本を持ってくるのを忘れたのに気が付いて、帰りは池袋の書店に寄って、文庫本を買った。久しぶりに電車で読む文庫本は、楽しい。何か浮世を忘れるような気持がするが、それは現実世界から離れた作り事だからからか、その中に吸い込まれるようで、時間を忘れる。小説家とはなんとすごい才能の持ち主か、と驚嘆する。読み手を魅了するのは、現実世界から離れた、というよりも、まるで現実世界の出来事のようだから、離れがたいのだろうか、文章が生き物のようで、情景がすべて浮かんでくる。落語も聞き手を引き付け、ドラマも歌もすべて人を引きつけることを思えば、人を引き付けることが才能があるということか、とあまり意味のないことを考えた。ただ、現実に人に会って話をすると、何か通じたとか、あれは言わなければよかったとか、しかしやはり会って良かったとか、いろいろな思いが生じるのは、相手から言葉以上のものを受け取ったり、こちらも伝えたり、というダイナミックなやり取りだからだろうか。現実は、テレビドラマのように結末が決まっているわけではないので、その現実の仕事の成功失敗は、予見できず予想できず、先が見えない世界である。そのような世界を、小説でもドラマでも表現して人を引き付けるのは、やはり凄い才能である。

教育の研究とは

気になっていたが、億劫でそのままにしていた、不要なものの片付けを、昨日ようやくできた。午後のオンラインの会議が終わった後、二人で片づけた。思ったよりも早く簡単にできたが、たぶん、これには理由がある。一つは二人でやったこと、他方は手帳に記入してあること、である。二人ですることは、協同学習だから、1+1=2以上のことができるし、手帳に入れておくことは、計画していることなので、時間割と同じ効果がある。確かに、学習方法で言われていることは、実践するとよく分かる。こんな当たり前のことを、と言われそうだが、頭で分かっていることと、実際に体を動かすことには、大きな差がある。ベストプラクティスとはよく言ったもので、実証して、かつ優れた結果なので、説得力があるのだろう。ということは、大学で教育研究をしている人は、どんなことで教育に役立っているのだろうか、と考えると、自分には忸怩たる思いがある。これが、理工学のようなモノや自然を相手にする研究との違いだろうが、教育は人を相手にするだけに、やってみて、子供の反応をみて、評価が決まる。つまり、実践、プラクティスでしか評価ができないのかもしれない。と思うと、なかなか難しい。何はともあれ、片付けが終わって、ほっとした。幽霊の正体見たり枯れ尾花、の例え通り、やってみる前は、大変だとか逃げたいとか嫌だとか、思うが、実際にやれば、大したことはない、のだ。それは何故か、と考えると、計画とか協同とかの理由になるのだろう。ということは、教育の研究者は、その理由付けを証明することなのか。

秋の夕方

9月や10月になると、通常と同じように世の中が動き始めるので、日程が詰まってくるが、昨日もオンラインの審査会があった。省庁関係の会議は、特に審査系は気を遣うが、それもあって夕方は、軽いジョギングをしている。ジョギングがこんなに優れた健康法とは知らなかった。昨日は西の公園に向かっていったが、夕方5時近くになると、夕焼けがきれいで、帯のような雲に茜色が染まって、白色とのグラディエーションが秋の夕方にぴったりで、歌詠みならば、すぐに俳句か短歌ができそうな景色だった。道端の草から、鈴虫が盛んに鳴いて、道端は枯葉の茶色で敷き詰められているようで、走ると、夏と違うことに、改めて気がつく。自然は、季節を忘れず、今年もやはり秋らしい秋がやってきて、律儀に人に贈り物を届けてくれる。今年も残り3か月を切った、郵便で来年の卓上カレンダーが届いた、ショッピングセンターに来年の手帳が置かれるようになった、風は涼しく、近くの小川には、どういうわけか、ハヤの魚が見えなくなった、コガモが時々来るようになって、そのしぐさに見とれるようになり、速達便のような秋がやってきて、心を和ませてくれるようになった。ここで、一句と言いたいが、あわれ、我には歌心がない。

ワイヤーアート

昨日、日曜日は、Maker Faire Tokyoの2日目で、ベネッセコーポレーションが主催するSchool Maker Faireであった。昨日も、高校生に交じって、中学生の発表があったが、これもすごい。3視点ワイヤーアートの研究で、数学である。中学生にして、専門の論文誌、計測制御学会の論文誌だったと思うが、を読んで、先行研究を調べていたから、中学3年生とは信じられない。しかも、この研究が面白い。太い針金のようなワイヤーを想像していただきたいが、それがある形をしていて、この3次元のワイヤーを、上から見ると、上、正面から見ると、正、横から見ると、右、に見えるのであるが、想像できるだろうか。上、正、右、はすべて文字なので、その線画が見えるように、3次元のワイヤーが作られていて、それを3Dプリンターで作成したのであるが、作ることが目的ではなく、どのような条件でできるかを、数学的な方法で調べているのである。中国の国立精華大学という有名な大学でも研究しているようで、その作品は、文字通り芸術作品、アートである。3方向から見ると、すべてが違う顔に見える。https://twitter.com/shiropen2/status/1052398499428368384

研究に関しては、中学生とか大学院生とか関係なく、日本もこのような素質のある子供たちの才能をそのまま伸ばしてやりたい。いじめなどにあわないようにしながら、健全に育ち、才能を生かす仕事についてもらいたい、と願う。

Maker Faire Tokyo

ブログなので、公開だと思うと、自由に固有名詞は書けないので、省庁関係の仕事の場合は気を遣っているが、企業ベースのイベントや審査などは公表されているので、構わないだろう。昨日と今日は、Maker Faire Tokyoでオンラインで審査をした。というより、高校生の研究作品のプレゼンを聞いてコメントした。土日がつぶれるので、いかがかとも思ったが、引き受けて良かった、どの研究も傾聴に値する内容だったことに、感謝した。例外的に小学生の発表があったが、これも素晴らしい。ランドセルが重い、という困りごとがあって、なんとか軽くならないか、と話し合った、というが、この時点で大人の発想と違う。あり得ない、と思うからである。教科書の冊数を減らすしかない、と思うが、いつもランドセルを背負っている子供たちの発想では、常にランドセルの中が一杯になっているわけではないので、教科書が歩くたびに動くので、特に背中から離れると重くなる、ということに気が付いて、ランドセルに段ボールで作った弁当箱のような箱を入れて固定する方法であった。なるほど、段ボールなので、その幅は自由になるので、どの場合にも適用できるし、自分の好きな色で包装すればいいので、実用的だ。今は、中学1年生になった5人の子供たちがオンラインで発表し、私が質問したりコメントしたら、あっという間に25分が経った。このようなイベントで、4校の発表を聞いてコメントしたが、Makerとはよく言ったもので、実際に解決するところまでが求められる。これは、STEAM教育の一環として企画されたもので、今日も続きがある。楽しみになった。

お爺さんの修理

昨日もオンライン審査で気を遣い、無事に終わったが、仕事をするとか生活するということは、このようなことなのだろう。脳と心を使ってなんとか乗り切ることで時間が過ぎていくが、その時間のことは夢中になっているので忘れているが、後で振り返ると、ほっとした安堵感が起きて、ゆるやかな気持ちになる。そのような一段落ついたときに、散歩したりジョギングなどをするが、いろいろな風景が目につく。散歩の途中、お爺さんが、アコーデオンドアを修理している。見ると、車輪と金具のところの不具合を治しているのだが、なかなか手際が良く、と言っても、素人の自分にはそれがうまいのかどうかわからない。しかし、素人ではないような感じだったので、たぶん若い頃は、技術屋さんだったのではないか。なによりも、その真剣な眼差しが、プロだったことを物語っている。そして、思った。嬉しいのではないのか、家族の誰もできない、技術的な仕事で役立っている、それは至福のひと時であったろう。人はすべて同じかもしれない。自分がプロと自称する分野で仕事ができて、多少でも役立てば、それは至福な時間なのだ。だから、オンライン審査でも、傍から見れば、先のお爺さんと同じ表情をしているかもしれない、画面をにらんで、唸っているのかもしれない、少なくともぼんやりしているのではない、そして終わってみて、良かったという感慨が出てくる。生活する、仕事をする、それはこのような時間の積み重ねなのだろう。今日は土曜日だが、午後はオンラインで詰まっているが、それで良い。

秋の日のジョギング

いろいろな仕事があり、その合間に体を動かして、健康を保つようにしているが、在宅勤務では誰も同じだろう。昨日も、オンラインでの2つの会議と書類作成で日が暮れたが、その間にジョギングをする。東か西のどちらかの公園まで行って帰ってくるのだが、秋の光景で癒される。コロナ禍の前には、週末以外は毎日電車で通勤していたが、まるで遠い過去の出来事のようで、もう戻れない。電車通勤の時間がなくなると、自由に使える時間が増えて、ジョギングなどできるのは、以前では信じられないことだ。公園の緑の芝生が目にやさしく、秋風は心を癒し、幼子を連れた若い夫婦の姿は、微笑みを起こし、若い人達のサッカーやキャッチボールの光景は、エネルギーと自由を思いださせ、きれいな青空を見ると、ふとヨーロッパのような豊かな感覚がする。昔、仕事でロンドンに行ったとき、公園で同じような光景を見たような気がする。この世は、嘆くことも悩むこともなく、空に浮かぶ箒で掃いたような筋雲のように、流れに沿って生きていけばいいのだ、などの思いが、走りながら頭に浮かんでくる。仕事の合間にも、ゆったりした時間と、身をゆだねるような気軽さと、その両方で、人は生きていけるのだろう。そう思えば、コロナ禍は、これまでに経験したことのない心地よい生活様式を、贈ってくれた。自己肯定できることは、なんと有難いことだろう。