昨日は11月3日で文化の日で、雲は多いが青空が見える良い天気だった。温度が少し低く、晩秋のような雰囲気はあるが、ちょうどよい祝日だった。午前中に原稿を出版社に送ると、長い日数を費やしたので肩の荷が下りるが、次の仕事に取り掛かるには、エネルギーが要る。そのエネルギーを得るには、切り替えが必要で、昨日はふと思って、雑草を刈る刈ばさみの切れが悪く、気になっていたので砥石で研いだ。刃が錆びて鉄色になっていたが、それが元の白い鋼の色になってくると、生気を取り戻したような刃ばさみになる。昼間の空いた時間があって、ジョギングに公園まで行ってきた。休日とあって、かなり密な人出で、サッカー、ボール投げ、ジョギング、などどこでもある光景だが、昨日は、同好会のような手作り飛行機を飛ばす人たち、吹奏楽部のような若い人たちの演奏、ホッケーのような競技をする人たちで、賑わっていた。コロナ禍以前に戻ったような感覚だった。幼子と一緒の若い夫婦や、小さな子とボールなどで遊ぶ親子は、昔から変わらない安らぎがあって、いつまでも、今の幸せが続くように願いながら、帰宅した。いろいろあっても、日本は平和で、コロナ禍にあっても、なんとか生活できる、食べるものがあり、住む家があり、寝る布団があり、それで十分ではないか、と年齢を重ねるごとに思う。まして、砥石で刃を磨き、公園までジョギングをし、など、気の向くままに時を過ごしているとすれば、それは贅沢だろう。
風邪をひく
昨日の昼間はきれいな晴れだったが、夕方から雨になった。晴れも良し、また雨も風情があって良い。朝起きたら、くしゃみが止まらない、ティッシュ箱が離せないくらい、頻繁に鼻をかんだので、鼻の周りが赤くなるくらいだった。あいにくと、オンラインの打ち合わせが4回もあって、休めない。オンラインでは、頻繁にくしゃみが出るので口元にタオルを当てて、参加した。オンラインで良かった、対面ではコロナと勘違いされる、というか、飛沫が飛ぶので、嫌がられるのは必定だからである。朝から夕方まで、くしゃみが止まらない。それでもやらなければならないことがあって、どうも気が休まらない。風邪は、いろいろな仕事を抱えて気が休まらないからだ、という説もあるくらいで、ゆっくりと体を休めて、美味しいものでも食べるか、熱い甘酒でも飲んで、だらだらすれば良い、と家内にも言われたが、どこか疲れが出ているのかもしれない。ただ、平日はジョギング、休日はスポーツジムと決めているので、無理を承知で、昨日もジョギングをした。そしてお風呂に入って、楽しい夕餉にむかい、和漢の風邪薬を飲んで寝た。ぐっすりと寝た。今朝起きたら、すっかり治っていた。だから、今ブログを書いている。家内が言うに、部屋が乾燥しているかもしれない、というコメントで、書斎も寝室も居間も加湿器を、今年初めて動かした。煙のような湯気が出ている光景は、冬を思い出させる。もう、そんな季節か、と思う。しかし、一晩で治った。有難い。
誇りと幸せと
昨日は日曜日なので、朝のNHKの番組、小さな旅を見ることを楽しみにしている。音楽も好きで、日本のどこでもある庶民の生活を思い出させるメロディが、流れてくる。日曜だけは7時から8時に遅らせた朝食をとりながら、見ている。昨日は、名古屋の中心街栄町のTV塔について、取材していた。そのTV塔を何十年かぶりに塗りかえるそうで、その塗装職人さんを束ねる会社の責任者が登場して、語っている。いつでも、小さな旅では、視聴者に語って聞かせる話が、送られてくる。この人は、父親から言われて今の仕事をする時には、嫌で仕方なかったが、その気持ちが変化したのは、このTV塔の塗装をする時だった。職人に、自信や誇りとでも呼びたいような、精悍で隙のない顔つきを見たからだという。それから、この仕事に夢中になって取り組んだ、そして、今では自分も、誇りと幸せを感じていると語った。たぶん、どの職場でもあるような話だが、そのとおりだ、と視聴者に思わせる。番組では、その語りの後で、TV塔をバックにして、若い女性たちがスマホで写真を撮る光景を映していたが、あのTV塔を美しく保っているのは、自分たちだという誇りがあるからだろう。誇りと幸せとは、なんと美しい響きを持っているのだろうか、自分の仕事への思いも同じような気がする。だから、共鳴した。
庭の花
昨日は土曜日なので、スポーツジムに行ったり小さな畑仕事をする予定になっている。今はバラの花が、赤やピンクや白などの色とりどりで周りを華やかにしてくれる。都忘れの小さな花も、バラにそっと寄り添い、山茶花の木に実が一杯ついているので、これからきれいな花を見せてくれるだろう。秋は、花の季節である、同時に紅葉の時期で、ハナミズキがきれいな赤で身を包み、枯葉が一杯落ちている。通りに面しているので、その落ち葉を片付けるのは、家内の役目である。その道具は、昔ながらの箒がよく、枯葉も堆肥になる。庭の小さな雑草などを集めて、積んでおくと枯葉になって、その枯葉で花壇の周囲を飾ると、安らぎがある。生態系の循環システムは素晴らしく、決して無駄がない。バラのような主役の花もあれば、都忘れのような脇役だが見とれるような魅力のある花もあり、これから咲く山茶花のような大勢で聴衆を圧倒させる歌劇団のような花もあり、生物は多様だと、つくづく思う。そして、枯れて肥沃な土になって、次世代につないでいく。この時期になると、次年度の人事の声が、耳に入る。定年退職する人、辞職した人、鬼籍に入った人、などがいる。自分も、交代の時期かと思う。役職にまったく未練はないが、まだやらなければならないこと、やりたいことが多く、自由に生きたい。自分にとって、交代とは自由になることと同義語である。
議員連盟の会議
昨日は議員会館の会議に出席するので、久しぶりに電車で出かけた。自分が所属する団体の事務所にも寄って打ち合わせをしたが、これも久しぶりだった。すべてがオンラインになったので、なんとなく雰囲気が違うが、やはり対面はそれなりの良さがある。議員会館では、密で席が近く肩がつくくらいだったが、慣れるとそれも平気になる、人は、すぐに慣れる動物らしい。地下鉄の階段の上り下りも苦にならず、コロナ以前とまったく変わっていないのが、不思議だった。自宅での暮らしは、すべて違っているので、都心に出かけるのは違和感がある。それでも、まるで何事もなかったように、街に、人は行きかい、食事をし、メールを見、打ち合わせをし、忙しそうに歩いている光景は、都会らしい。今日は10月31日、明日から11月だと思うと、1ヵ月の早いことに、驚かされる。ただ目の前に追われて月日が経っていくのは、昔から変わっていない。ある時は頭を抱え、ある時は笑みがこぼれ、ある時は不安になり、という繰り返しをしながら、ある年齢に達すると、まあ、いいか、と流れるような処し方が身についていく。ただ、政治家はどうも人種が異なるようで、昨日の会議でも、国会議員の先生は、昔の田中角栄のように、威勢がよく、口角泡を飛ばすの言葉通り、自説を述べて官僚を叱咤激励している、というより叱咤だけしている。どうしてこんなにいつまでも、若い時のような生き方ができるのだろうか、と思うことがあるが、たぶん、世の中が動いているので、止まっていないからだろう。いつも全力、ブルトーザーのような人達がいる。ただすごい、と感心するしかない。
小学生の見送り
昨日もつつがなく過ごして、平和な1日であった。朝8時前に、歩いて1分くらいの弘法大師を祭っている小さなお堂に行くのが日課だが、そこに小学生が通る。小学生の列に出会うとホッとするのだが、運悪く時刻が早かったり遅かったりすると、チャンスを逃す。自分は、非常勤の見守り隊と自認しているが、見ているだけで心が癒され平穏な気持ちになるのは、子供の持っている純粋さなのだろうか。運よく、昨日は出会た、というより、後ろ姿を見送った。少し家を出るのが遅かったからだが、お堂にお参りして、帰りに小川の橋の上から魚などを見るのも日課だが、秋になって魚が見えず、その代わりカモが数羽動いている光景に出会わすこともある。そんな日は、何か良いことが起きそうな気がする。朝の小学生に出会うこと、カモに出会うこと、それは、自分にとっての幸運のカギのような感じがして、昨日はいいかもしれない、と思って仕事をしたが、日ごろと変わりはなかった。しかし、心が温まるのである。少しづつ、秋が深まり季節が移っていく。今日は、久しぶりに都心に行かなければならない。霞が関の議員会館で、国会議員の皆さんとの会合がある。こちらは別世界で、政局の話、といっても教育に関わる内容だが、議員の皆さんの元気に出会うと、また自分も後押しされたような気分になるから不思議だ。自分は、自然や小学生や議員さんなどで、いつも応援してもらっている。そんな気がする。
新幹線に乗る
昨日は、久しぶりに新幹線に乗った。岩手県盛岡市で講演があったからだが、大宮で乗車して、仙台、次が盛岡なので、乗車時間は2時間もかからず、こんなに楽とは知らなかった。会場近くの公園などの木々は黄色や赤に染められて、それが真っ青な空をバックにして背伸びをしている光景が、みちのくの自然だと思わせる。講演まで少し時間があったので、近くにある盛岡城跡の公園まで歩いたが、北上川のほとりは、吹く風も暖かく優しい。これからの仕事を忘れるような散歩だった。仕事が終わって、帰りの新幹線では、小説を堪能した。行きの新幹線では、パソコンをにらんで資料の見直しをするが、不思議なもので、やはりミスを見出して修正をする。帰りは、簡単な土産を買って、小説を読むと、その世界に引きこまれて、昨日の小学生の詩のように、自分だけの映画館が始まる、と、あっと言う間に大宮に着く。そして、自宅までの電車の中でも、小説の続きを読んでいる。いつかのブログでも書いたが、小説を読むのに、どこか小さな罪悪感があって、禁止していた時代があったが、帰りの新幹線の中は、誰にも遠慮はいらず、自分だけの映画館であり自分だけの世界に浸ることができる。今はできないが、海外出張で飛行機の中の映画鑑賞も好きで、いろいろな映画を思い出す。藤沢周平の武士の小説を映画化したものなどは、特に好きだった。暗い機内だと、涙を流しても分からないので、感動する場面では有難かった。新幹線や飛行機の中は、自分だけの物語の世界で時間を過ごしているのだろう。確かに至福の時間かもしれない。
子供たちの感性
昨日の読売新聞の編集手帳を読んでいたら、小学生の詩が紹介されていて、惹かれた。本を読むと、私だけの映画館が始まる、という文章で、原文は、ひらがなである。面白い。読書週間が昨日から始まる、その紹介に引用したのであろうが、子供の感性には、いつものことながら、学ぶことが多い。小説でも論文でもパソコンの資料でも写真でも、人は情報を見る時は、いつも自分だけの物語を作っているのかもしれない。それを、ロシアの哲学者バフチンは、自己対話と呼んだ、というと、哲学の専門家から批判されるかもしれないが、本筋は間違っていないだろう。感心するのは、哲学ではなくて、子供の感性である。アメリカのMITの認知科学者レズニックも、幼児の研究をして、その感性や創造性を伸ばすために、コンピュータ言語を開発したことはよく知られている。少し文脈は異なるが、昨日の夜の歌番組で、大阪の高校の吹奏楽部が出演した。役どころは、天童よしみの伴奏としての演奏だったが、素晴らしく魅了された。若い高校生の姿は、全国でもトップクラスの吹奏楽部なのだろうか、人を引き付けてやまない。それは、私たちの感性に訴えるからだろう。小学生も高校生も、自分の道を進んでいる姿は素晴らしく、自分はもう一度生まれ変わっても、高校教師になりたい。その時は分からなかったが、幸せの真っただ中で仕事をしていたのだ、ということに今は気が付く。
オンライン講演
昨日は、いろいろなオンライン会議などがあって、忙しい1日だった、と言っても、仕事をしている人は、皆同じだろう。オンラインフォーラムとかオンラインセミナーが、この頃頻繁に開催される。場所を確保しなくてよいし、講師も自宅でできるし、インターネットにつながっていれば、いつでもどこでも誰でもできるので、オンライン講習会が乱立していると、昨日の会議でも話題になった。リアルタイムだと、例えば昼間は別の仕事で、入ることができないことが多いので、ビデオオンデマンド方式にして、何時でも視聴できる、というスタイルも多くなった。ただしこの方式では、質問できない欠点はあるが、空いている時間に入ることができるので都合は良いが、少しリアリティに欠ける。昨日、自分は、オンラインフォーラムのビデオオンデマンド型の収録があった、と言っても、自宅からオンラインで講演しただけで、それを担当者が、そのまま録画してサイトにアップするだけなので、簡便である。講義する側に、対面とオンラインではどちらがやりやすいか、と聞かれると、自分はオンラインかもしれない。というのは、相手の顔が見えないので、自分の考えだけで自由奔放に話せる、忖度しなくてよい、という雰囲気が性に合っている。たぶん、大学の講義に慣れている先生は、ほぼ似た感覚なのではないか、と思う。小学校などでは、子供たちの顔を見ながらでないと、話しにくいのではないか、と思う。何でも、それぞれの特性がある。
手帳
昨日の日曜日は、雲一つない青空で、土日が連続晴れは8月以来だという。小さな庭だが、菜園をしているせいか、多少の世話は欠かせない。現実には、やろうと思っていてもできないのは、自分の仕事を優先するからだろう。土日は晴天に恵まれて、2日間、庭いじりと小さな畑仕事をした。しかし、晴天だけではない。手帳に予定を書かないと、自分は動けない。手帳にあると、それは脳にインプットされて、この時間は、こうすると、自然に行動に移せる。ところが、雨降りだと、その予定が変更されるので、脳のスイッチも切れて、もう一度入れ直すのにエネルギーが必要になる。手帳を見ると、オンライン会議などの仕事の他に、床屋、お墓参り、畑、などの予定が入っている。手帳はアナログの手書きだが、愛用している手帳で、40冊以上の手帳を毎年捨てずに書棚に置いているのは、愛着があるからだ。自分の足跡がある。しかし振り返って見たことがないのは、目の前が精一杯だからだろう。手帳を見ると、10月や11月は、オンライン会議は当然ながら、オンラインセミナー、フォーラム、出版などの締め切りがあって、かなり詰まっている。昨日の午前中は、毎年やっている研究実験の準備をした。今日も、午後はオンラインセミナーでの収録がある。手帳が私の先生である。今年も、もう残り少なくなった。
