忙中間ありの続き

昨日と一昨日はやはり忙しかったのであろう。ブログを書くのをすっかり忘れていた。年をとっているので、朝は早く5時くらいに起きて、6時から7時までメールチェックと、ブログ投稿を日課にしているが、メールチェックに時間がかかるので、だいたい朝食後の8時半くらいからチェックの続きをして、ということになり、午前中がすぐに終わってしまうので、原稿書きや書類作成など時間のかかる仕事は、午後にも引き継ぐことになるが、午後はオンラインの会議があって仕事と重なる。誰でも同じだろうが、オンラインになって、電車通勤時間が無くなって有難いが、その分忙しくなったような気がする。昨日は、決心して早朝から資料作成に取り組んだが、なかなか終わらない。アッという間に時間が経ってしまう。昨日は、夕方眼科に行った。これまで都心の溜池山王駅近くに行っていたが、在宅勤務になって所沢市内の眼科に変えた。これも電車に乗らなくて良いので、助かる。数か月に1回診察に行って目の検査をしてもらって目薬をもらうだけだが、それでも時間はかかる。インターネット予約なので、余計な待ち時間がなく有難い。この頃は、時間が短い、効率的、スピーディなどが、耳障りの良い言葉になっている。この季節は特別なのかもしれないが、仕事が重なって、処理に翻弄されているようだ。ただ、不思議なもので、なんとか失敗しないで、今日まで来ている。なるほど、何とかなるのか。このブログも書いているではないか。

忙中閑あり

昨日は久しぶりに出かける用事があって、電車に乗った。コロカ感染が怖いという意識はまるでないが、電車に乗って帰ってくると、その時間ロスが大きいのが気になる。特に9月10月にかけて、仕事が重なってしまい、内心ハラハラしている。締め切りに間に合うだろうか、と不安になるのだろうか、夜中に目が覚めて寝付かれないで、今朝は早朝に起きて机に向かった。すると不思議なもので、少しでも進んで先が見えてくると、落ち着いて軽い気分になる。昨日は、秋そのものの天気で、青空が太陽の光を一杯送ってくれて、草木も輝いていた。夕方に近くなると、草や木やベンチも影が長くなって、ちょうどよい気温で気持ちもリラックスする。秋の日の図書館のノートとインクの匂い、という歌謡曲があったが、その通りで、女学生などがカバンやリュックを持って家路に向かう様子は、秋に相応しい。枯草の色は、すでに役割を終えた色で、人に安らぎを与える。小さな庭だが、土を枯草で覆うと、正真正銘の秋を感じる。人は、暇なら暇で、忙しければ忙しいで、ストレスを感じるようで、どうも我儘な動物らしい。自然に寄り添うことができれば、気持ちも軽くなるのに、と思うが、凡人には難しい。それでも忙中閑あり、の例え通り、庭の手入れをするとか、散歩をするとか、などで、脳を切り替えると、また前に進んでいくらしい。昔から、人はそのようにして、困ったとか、無理だと言いながら、自然に慰められながら、進んでいったのだろう。秋は、風や草花、そして果物など、自然の恵みに満ちている。

習慣ということ

昨日は日曜日で、自由な時間の過ごし方をしているが、午前中は書斎で仕事をするのが、毎日の習慣なので、朝、歯磨きをするのと同じである。書斎はコロナ禍の現在では自分の仕事場になっているので、2階の窓から見える光景に馴染んでいる。ある雑誌の編集委員をしていて、その編集後記の最後に、季節のことに触れているが、ほとんどが窓から見える季節感である。空の様子、木々や花の様子、遠くに見えるマンションの様子など、毎日同じようで、どこか違う光景である。昔ある小学校で毎日登校する時に見る天気について、子供たちに書かせた先生がいた。そのクラスの生徒だった子供が、大学生になったとき、その時の感想を書いた。毎日見る空は、毎日違って見えるようになった、あれは、見ているのではなく、感じているのだ、それは目が見ているのではなく、脳や心が感じることなので、その感じたことを文章にする時、いろいろな表現方法があることを知った。その学生は、自分が非常勤講師をしたある大学の講義の中で、印象に残った授業を書かせたが、その中の1人だった。自分も、その感想文がまだ脳に残っている、というのは、その学生が、天気について書いた習慣で、文章に表現することに興味を持ち、中学校の国語の教師を目指すようになったからである。その学生が本当に教師になったのかどうか知らないが、子供の時の印象は、人生を支配するほど大きなものだ。昨日は、1ヵ月に1回のお墓参りの日で、無くなった両親にいろいろ報告した。これも、習慣である。

スポーツジムの光景

昨日は、オンラインでのセミナーというか、講演をした。オンラインは、対面よりも自分は話しやすく、質問もチャットのような文字入力ができるので、受講生もやりやすいようだ。2時間がアッという間に過ぎた。土日は、時間があればスポーツジムに行っている。ジョギングより良いのは、プールがあることで水に浸かれることだ。欠点は、時間がかかるので、週末だけにしている。昨日は雨降りなのでジョギングは無理で、ちょうど良かった。自分はやらないが、インストラクター付きのボクシングのような集団レッスンコースもある。見ると、音楽付きで激しいボクサーのトレーニングのようだ。土日しか行かないのでわからないが、どうも人気と人気のないレッスンがあって、人気のある場合は、こんなに密になって大丈夫か、と思うくらい大勢が受講している。人気がない場合は、まるでガラガラで、その格差が大きい。それは、インストラクターによるのだろう。自分は、その部屋がガラス越しに見えるマシーン室で、自分だけの筋トレなどをして汗を流すが、時折、レッスンの休憩時間があって、受講生たちが、飲み物を飲んだり、話したり、床を拭いたり、しているが、汗で顔も体も光っていて、満足そうな表情をしている。人気のないインストラクターの場合は、休憩時間でも笑顔が少ないように見えるのは、気のせいかもしれないが、何かコーチの評定のバロメータのような気がした。そういえば、予備校の講師も同じなのだろう。テレビで有名な林先生のような人気者がいれば、それだけで予備校は経営が成り立つ。と思うと、ふと部屋がガラガラのインストラクターが可哀そうになった。昨日の自分の評価はどうだったのだろうか、と思って我が身も不安になった。

異分野の方と対談する

昨日は、ある企業、と言っても、シンクタンクのような企業のトップと、オンライン対談をして、それを報告書か雑誌かの巻頭に掲載する企画だった。1時間半だったので、比較的長い時間かもしれない。相手の方は、国際ジャーナリストのような方で、話の中に、国際的な感覚が混じっていて、分野も、経済、政治、貿易、文化などで、幅広い。教育とは有り難い分野で、どの分野にも通じる共通点がある。話がいろいろ広く飛んで行ったが、どう表現していいかわからないが、自由奔放、しかし相手は教養に満ちていて、飽きることがない、という印象だった。教養という知的さを隠して放談するような人で、実際にメディアでも国際関係のコメンテータをしている方らしいが、自分の専門と違うので、よく知らない。自分とは違う分野のトップと話すのは、少し気が引けるので、少し予習をしようと思って、1時間くらい前から資料を用意したのだが、対談というのは、予習など意味がないことが分かった。何が飛び出すかわからないので、資料など見る暇もなく、自分も早口の方だと思うので、話が次々に移って、それが実に面白い。ちなみにオンラインは、むしろ話しやすい。あまり気を遣わなくて済むので、自由奔放、言いたかったことを忖度せずに言える、という感じだった。ジャーナリストの方なので、もともと自由な立場かもしれないが、たまには分野の異なる人との対談も面白い。

仕事が一段落すると

在宅勤務は、自分にとっては有難く、自分にぴったり合った生活様式になった。以前は、毎日都心に通勤していたものだと感心するくらいで、その時間が自分の時間になるのが嬉しくて、その気分は、学生の頃に夜遅くても自由に時間を使って、好きな本や外食など、本当に自由という言葉が合っていたが、そのような気分である。時間の配分は、若い頃とまるで逆で、夜遅く朝遅くが若い人の過ごし方だが、年をとると、夜早く朝早くで、早朝は特に爽快な気分になる。若い頃は、友達と一緒に夜12時ごろに飲みに行ったり、何を話したか忘れたが、何でも気にしたり悩んだり、それが若いという証拠なのかもしれない。年をとると、他の人は知らないが、なるようになる、とか、いいではないか、とか、別の言い方では、いい加減、という考え方にもなる。ただ、責任は相変わらず付いてくるので、少しは心配したり不安になったりすることもあるが、その頻度や深さは、それほどではない。昨日は、省庁系の書類審査が一段落したので嬉しくて、雨降りの天気なのに晴天のような気分だった。責任ある審査なので、どこか神経が疲れるのだろうが、終わると万歳を叫びたくなる。まるで子供のような感覚なのかもしれない。オンラインの会議も毎日あるが、会議の間の移動時間がないので、自由に使えるのが嬉しいのだが、それは、宿題が終わった子供のような心境だからだろう。年をとると、子供の時代に帰るのかもしれない。

電車の中の読書

昨日は、久しぶりに都心に行った。電車に乗って、読み本を持ってくるのを忘れたのに気が付いて、帰りは池袋の書店に寄って、文庫本を買った。久しぶりに電車で読む文庫本は、楽しい。何か浮世を忘れるような気持がするが、それは現実世界から離れた作り事だからからか、その中に吸い込まれるようで、時間を忘れる。小説家とはなんとすごい才能の持ち主か、と驚嘆する。読み手を魅了するのは、現実世界から離れた、というよりも、まるで現実世界の出来事のようだから、離れがたいのだろうか、文章が生き物のようで、情景がすべて浮かんでくる。落語も聞き手を引き付け、ドラマも歌もすべて人を引きつけることを思えば、人を引き付けることが才能があるということか、とあまり意味のないことを考えた。ただ、現実に人に会って話をすると、何か通じたとか、あれは言わなければよかったとか、しかしやはり会って良かったとか、いろいろな思いが生じるのは、相手から言葉以上のものを受け取ったり、こちらも伝えたり、というダイナミックなやり取りだからだろうか。現実は、テレビドラマのように結末が決まっているわけではないので、その現実の仕事の成功失敗は、予見できず予想できず、先が見えない世界である。そのような世界を、小説でもドラマでも表現して人を引き付けるのは、やはり凄い才能である。

教育の研究とは

気になっていたが、億劫でそのままにしていた、不要なものの片付けを、昨日ようやくできた。午後のオンラインの会議が終わった後、二人で片づけた。思ったよりも早く簡単にできたが、たぶん、これには理由がある。一つは二人でやったこと、他方は手帳に記入してあること、である。二人ですることは、協同学習だから、1+1=2以上のことができるし、手帳に入れておくことは、計画していることなので、時間割と同じ効果がある。確かに、学習方法で言われていることは、実践するとよく分かる。こんな当たり前のことを、と言われそうだが、頭で分かっていることと、実際に体を動かすことには、大きな差がある。ベストプラクティスとはよく言ったもので、実証して、かつ優れた結果なので、説得力があるのだろう。ということは、大学で教育研究をしている人は、どんなことで教育に役立っているのだろうか、と考えると、自分には忸怩たる思いがある。これが、理工学のようなモノや自然を相手にする研究との違いだろうが、教育は人を相手にするだけに、やってみて、子供の反応をみて、評価が決まる。つまり、実践、プラクティスでしか評価ができないのかもしれない。と思うと、なかなか難しい。何はともあれ、片付けが終わって、ほっとした。幽霊の正体見たり枯れ尾花、の例え通り、やってみる前は、大変だとか逃げたいとか嫌だとか、思うが、実際にやれば、大したことはない、のだ。それは何故か、と考えると、計画とか協同とかの理由になるのだろう。ということは、教育の研究者は、その理由付けを証明することなのか。

秋の夕方

9月や10月になると、通常と同じように世の中が動き始めるので、日程が詰まってくるが、昨日もオンラインの審査会があった。省庁関係の会議は、特に審査系は気を遣うが、それもあって夕方は、軽いジョギングをしている。ジョギングがこんなに優れた健康法とは知らなかった。昨日は西の公園に向かっていったが、夕方5時近くになると、夕焼けがきれいで、帯のような雲に茜色が染まって、白色とのグラディエーションが秋の夕方にぴったりで、歌詠みならば、すぐに俳句か短歌ができそうな景色だった。道端の草から、鈴虫が盛んに鳴いて、道端は枯葉の茶色で敷き詰められているようで、走ると、夏と違うことに、改めて気がつく。自然は、季節を忘れず、今年もやはり秋らしい秋がやってきて、律儀に人に贈り物を届けてくれる。今年も残り3か月を切った、郵便で来年の卓上カレンダーが届いた、ショッピングセンターに来年の手帳が置かれるようになった、風は涼しく、近くの小川には、どういうわけか、ハヤの魚が見えなくなった、コガモが時々来るようになって、そのしぐさに見とれるようになり、速達便のような秋がやってきて、心を和ませてくれるようになった。ここで、一句と言いたいが、あわれ、我には歌心がない。

ワイヤーアート

昨日、日曜日は、Maker Faire Tokyoの2日目で、ベネッセコーポレーションが主催するSchool Maker Faireであった。昨日も、高校生に交じって、中学生の発表があったが、これもすごい。3視点ワイヤーアートの研究で、数学である。中学生にして、専門の論文誌、計測制御学会の論文誌だったと思うが、を読んで、先行研究を調べていたから、中学3年生とは信じられない。しかも、この研究が面白い。太い針金のようなワイヤーを想像していただきたいが、それがある形をしていて、この3次元のワイヤーを、上から見ると、上、正面から見ると、正、横から見ると、右、に見えるのであるが、想像できるだろうか。上、正、右、はすべて文字なので、その線画が見えるように、3次元のワイヤーが作られていて、それを3Dプリンターで作成したのであるが、作ることが目的ではなく、どのような条件でできるかを、数学的な方法で調べているのである。中国の国立精華大学という有名な大学でも研究しているようで、その作品は、文字通り芸術作品、アートである。3方向から見ると、すべてが違う顔に見える。https://twitter.com/shiropen2/status/1052398499428368384

研究に関しては、中学生とか大学院生とか関係なく、日本もこのような素質のある子供たちの才能をそのまま伸ばしてやりたい。いじめなどにあわないようにしながら、健全に育ち、才能を生かす仕事についてもらいたい、と願う。