コロナ禍のために、観光地は当然ながら町の中でも、人が集まることができない状況になった。人が集まらないとは、当然ながらお金が動かないことになる。お金が動かないから不景気になることは理の当然ながら、改めて、お金やモノや人が動くことの意味を考えさせられる。いくら現金支給でも財布に閉まっているだけでは意味がなく、動いてこそ、まるで生き物のように、この世の中を動き回ってこそ、世界を変える力が発揮される。かつて織田信長は、楽市楽座を作って、人が動きやすいようにしたというが、たぶんそれは経済の原理であろう。しかし、現状ではどのようにして、お金だけでなく、モノも人も動くようにしたらいいのだろうか。たぶん、現実世界とバーチャル世界との共存を考えるしかあるまい。何もしなければ、経済だけではなく人は生きていけない。
春の風
4月7日に緊急事態宣言が発令され、4月8日から5月6日まで、外出を自粛し、多くの仕事が休業状態になった。当然ながら、自分の関係している委員会や会議や講演などもすべてキャンセルだが、自宅勤務と言っても、一日中PCの前にいるわけにはいかない。何もしないで自宅で過ごせ、とは息をしないでいろ、と同じくらい不可能なことである。何か工夫がいるが、作家気分になれば原稿とか分析とかできるので、それは楽しい。しかし、どうしても時間が余る。最適解は散歩であろう。夕方散歩をすると、まだ日差しが強く、西の方角に向かうのでまぶしいが、どこか心が華やぐ。青空に囲まれた上天気だが風は強かった。それも郷愁に似た心地良さがある。何故だろう。この時期は、入学式、新入生、新人、新しい職場のように、新鮮なイメージを持つからかもしれない。今はコロナ禍であっても、人はいつも慣れた昔を重ねるようだ。
日本型対応
緊急事態宣言が4月7日の夜発令された。安倍総理による真摯な説明があり、テレビ画面を通して、その考えはよく伝わった。特に印象に残ったことは、日本型対応である。欧米と日本の異なるところは、デジタルかアナログか、割り切るかあいまいか、言葉か察しか、という文化の違いにあることはよく知られているが、この新型コロナとの戦いは、日本型が功を奏するのではないか、と思う。監視カメラで個人の行動を観察して警察が行動を制限することは、日本人にはなじまない。法律で、行動で、yesかnoかというデジタルで割り切っているからである。人は、生活するためにどうしても外出する場合もあるだろうし、散歩もして気分転換をしたいし、床屋や美容院に行って、身ぎれいにもしたいだろう。このような人の心情に添った対策ならば、私たちの気持ちがゆすぶられ、共鳴し、そして行動が変わるだろう。安倍総理の言う、西洋型ではなく日本型という戦い方に、賛同したい。昨夜の宣言のタイミングもベストだったと思う。
緊急事態宣言
緊急事態宣言が今日4月7日に出されるという。仕事も自宅勤務が当たり前になる。いろいろな制限が課されるが、どの世界もいつの時代も、人の世は制限付きで生活しているので、仕方ない。学校の時間割、学習内容や方法、など考えれば、制限の中で過ごしているので、なんとか工夫するしかない。私の仕事、特に研究は、自宅で自由にできるので、まったく問題ない。やりたい分析などがあって、その成果をまとめて夏ごろに出版したい予定でいる。有難いかもしれない。
自宅勤務
自宅待機ではなく自宅勤務とか在宅勤務が、普通になってきた。勤務であるから職場と同じように仕事をすることになるが、自由に動けるので、自宅と職場では異なるであろう。どちらが効率的か、どちらが質的に高いか、とは別である。現状では自分は、研究などは、自宅のほうがやりやすい。大学の時は、たぶん研究室のほうがやりやすいだろう。とすれば、職場という時間的にも空間的にも制約がある場合と無い場合のどちらがいいとは、簡単には言えない。環境によって、どうにでもなる。ならば、自宅勤務を仕事がやりやすい環境にすればいいだけである。早速、書斎を片付けた。
コロナへの対応
あの志村けんさんが新型コロナの犠牲者となり、自分も含めて世間が驚愕した。改めて、このウイルスの怖さを実感した。テレビで安倍総理や小池都知事が、懸命に訴えている。経済、教育、五輪、支援、ワクチン、自粛など、多岐にわたっているが、責任者とはこのような立場なのだ、という当たり前のことに気が付いた。何を言われようと、すべて責任を持つと言う気概がなければ、テレビという公の席で発言は難しいだろう。それに引き換え、責任のない人は、評論家と言って良い。誰でも、それらしいことは言えるが、言うことと実行することと責任を持つことは、天と地ほどの差がある。市民として、責任を持って職責を果たそうとする人々に、応援をしたい。
オンライン会議
新型コロナウイルスの関係で、オンライン会議・テレビ会議が、普通になってきた。やってみると、当たり前だが長所と短所がある。自宅でも職場でも会議に出れる、ビデオをオフにすれば、コーヒーを取りに行っても、別の仕事を並列処理しても、気兼ねがない。音声をオフにすれば、声も聞こえない。授業で内職をする学生の気分と同じだ。とすれば、その会議は、それほど真剣には参加していないことになる。これは短所だが、およその会議は、議題を承認することが多いので、これでもいいか、という気分になる。なるほど、難しい顔をして会議をしても、実際はこのようなものだったのか。
生物多様性
3月28日読売新聞朝刊で、養老孟司先生がコロナも生物多様性の1つであり共存することになると解説していたが、まったく同感である。人間には抗体ができるので、今は避ける努力はするが、やがて風邪や花粉症と同じようになるだろう。この状態では、今できることを精一杯やっていくしかない。自分は、懸案の資料作りの時間が取れて有難い。昔、筑波の教員研修所で、講演のため一緒に昼食をとったことを思い出した。
ブランコ
新型コロナの影響で、外出自粛要請が出て、じっとしなくてはいけない、と言っても天気が良ければ散歩くらいはしたくなるのは人情である。春の夕日はやさしく、体も心も包み込んでくれる。近所の公園で、母親と幼児がボール蹴りに興じている。その横で、赤ちゃんを抱いた母親が、ブランコにゆっくり身をゆだねている。世の喧騒とは違う、いつもの光景であった。ブランコは、どこか郷愁を誘うゆりかごである。
オリンピック
東京オリンピックも延期になった。何が起きるか分からないのが、世の中のようだ。桜は何事もなかったように、満開に咲き誇っている。自然は堂々としている。
