ブログなので、公開だと思うと、自由に固有名詞は書けないので、省庁関係の仕事の場合は気を遣っているが、企業ベースのイベントや審査などは公表されているので、構わないだろう。昨日と今日は、Maker Faire Tokyoでオンラインで審査をした。というより、高校生の研究作品のプレゼンを聞いてコメントした。土日がつぶれるので、いかがかとも思ったが、引き受けて良かった、どの研究も傾聴に値する内容だったことに、感謝した。例外的に小学生の発表があったが、これも素晴らしい。ランドセルが重い、という困りごとがあって、なんとか軽くならないか、と話し合った、というが、この時点で大人の発想と違う。あり得ない、と思うからである。教科書の冊数を減らすしかない、と思うが、いつもランドセルを背負っている子供たちの発想では、常にランドセルの中が一杯になっているわけではないので、教科書が歩くたびに動くので、特に背中から離れると重くなる、ということに気が付いて、ランドセルに段ボールで作った弁当箱のような箱を入れて固定する方法であった。なるほど、段ボールなので、その幅は自由になるので、どの場合にも適用できるし、自分の好きな色で包装すればいいので、実用的だ。今は、中学1年生になった5人の子供たちがオンラインで発表し、私が質問したりコメントしたら、あっという間に25分が経った。このようなイベントで、4校の発表を聞いてコメントしたが、Makerとはよく言ったもので、実際に解決するところまでが求められる。これは、STEAM教育の一環として企画されたもので、今日も続きがある。楽しみになった。
お爺さんの修理
昨日もオンライン審査で気を遣い、無事に終わったが、仕事をするとか生活するということは、このようなことなのだろう。脳と心を使ってなんとか乗り切ることで時間が過ぎていくが、その時間のことは夢中になっているので忘れているが、後で振り返ると、ほっとした安堵感が起きて、ゆるやかな気持ちになる。そのような一段落ついたときに、散歩したりジョギングなどをするが、いろいろな風景が目につく。散歩の途中、お爺さんが、アコーデオンドアを修理している。見ると、車輪と金具のところの不具合を治しているのだが、なかなか手際が良く、と言っても、素人の自分にはそれがうまいのかどうかわからない。しかし、素人ではないような感じだったので、たぶん若い頃は、技術屋さんだったのではないか。なによりも、その真剣な眼差しが、プロだったことを物語っている。そして、思った。嬉しいのではないのか、家族の誰もできない、技術的な仕事で役立っている、それは至福のひと時であったろう。人はすべて同じかもしれない。自分がプロと自称する分野で仕事ができて、多少でも役立てば、それは至福な時間なのだ。だから、オンライン審査でも、傍から見れば、先のお爺さんと同じ表情をしているかもしれない、画面をにらんで、唸っているのかもしれない、少なくともぼんやりしているのではない、そして終わってみて、良かったという感慨が出てくる。生活する、仕事をする、それはこのような時間の積み重ねなのだろう。今日は土曜日だが、午後はオンラインで詰まっているが、それで良い。
秋の日のジョギング
いろいろな仕事があり、その合間に体を動かして、健康を保つようにしているが、在宅勤務では誰も同じだろう。昨日も、オンラインでの2つの会議と書類作成で日が暮れたが、その間にジョギングをする。東か西のどちらかの公園まで行って帰ってくるのだが、秋の光景で癒される。コロナ禍の前には、週末以外は毎日電車で通勤していたが、まるで遠い過去の出来事のようで、もう戻れない。電車通勤の時間がなくなると、自由に使える時間が増えて、ジョギングなどできるのは、以前では信じられないことだ。公園の緑の芝生が目にやさしく、秋風は心を癒し、幼子を連れた若い夫婦の姿は、微笑みを起こし、若い人達のサッカーやキャッチボールの光景は、エネルギーと自由を思いださせ、きれいな青空を見ると、ふとヨーロッパのような豊かな感覚がする。昔、仕事でロンドンに行ったとき、公園で同じような光景を見たような気がする。この世は、嘆くことも悩むこともなく、空に浮かぶ箒で掃いたような筋雲のように、流れに沿って生きていけばいいのだ、などの思いが、走りながら頭に浮かんでくる。仕事の合間にも、ゆったりした時間と、身をゆだねるような気軽さと、その両方で、人は生きていけるのだろう。そう思えば、コロナ禍は、これまでに経験したことのない心地よい生活様式を、贈ってくれた。自己肯定できることは、なんと有難いことだろう。
省庁の仕事
昨日も郵便でどさっと書類が届いた。文科省関連の書類を見て審査するのであるが、あまりの分厚さにどっきとする。よく省庁の担当事務官は、このような書類を処理しているな、と本当に驚く。仕事をするということは、こういうことか、と感心するだけである。こちらは審査する側なので、むしろ勉強になるので有難いが、事務官はどうだろうか、と思うと、専門家以上に精通していることに、感心する以上に敬服する。精通していることの意味は、よく知っているという知識だけではなく、方向性を見て判断する力もある、という意味なのだ。会議で議論をすると、よくわかる。今朝、その担当事務官からメールが届き、明日から異動だという。その文面にある、戦線離脱という言葉に惹かれた。なるほど、事務官にとっては、戦線なのかもしれない、遊びではなく戦っている、という形容がふさわしい、と素直に思える。今はオンラインでの会議が多いが、この文科省の事業では、自分も、かなりの時間を使い、かなりの労力をかけ、会議も4時間などの長時間で、かつ実際の審査では、質問の端々まで気を遣い、気力の要る仕事である。その担当者は、ずっしと重い責任という荷物をしょって走ってきたのだから、その負担の大きさは、想像に難くない。確かに、戦線という言葉はふさわしい。それならば、自分も戦友の1人か、と思ったが、こちらは少し気後れする。異動する事務官は、まだ若い人だが、このような人が、陰ながら国を支えている。全力を挙げて取り組んできた姿は、どこか美しい。ささやかながら、エールを送りたい。
審査をする
年をとると、審査系の仕事が多くなるのか、昔から多かったのか、今週も来週もいろいろな審査で、頭を使う。こちらは審査をして、採択と不採択の候補を決めるだけだが、申請者は、その違いが天地のようなギャップになる。自分が審査される側に立った経験では、誰でもそうだが、落ちると、しばらく気力が出てこない。論文の採択でも同じで、修正の通知ですら、その内容を読むのが怖くて、しばらくそのままにして開封しなかった、昔を思い出した。不採択になったら、ひどく落ちこんだ経験から、審査の側では、なるべく採択する方向にしているが、やはり真実の前には逆らえないので、致し方ない。なるべく丁寧な審査をしたいが、時間という絶対的な制約があるので、申し訳ないが、あまり時間がかけられない。それでも、昨日はスムーズに審査が進んだ。審査している内に、効率的で、正確で、しかも妥当な審査ができる方法を思いついて、自分も納得した。方法とは、始めに決めるのではなく、やりながら、対象から教えてくれるような気がする。小中学校の授業でも同じではないか、と思う。子供から、授業の方法を教わり、臨機応変に対応するのだろう。ということは、指導案は計画なので、その通り実行しなくてよいことになる。あまり丁寧な指導案を書くと、むしろそれに縛られて、授業が生きてこないのではないだろうか。こんなことを書くと、専門の先生に叱られそうだが。
仕事と私用と趣味
天気予報によれば、今週は晴天が続きそうだ。昨日は、絵にかいたような青空で、しかも風が爽やかで、典型的な秋晴れであった。この日は3つのオンライン会議があったが、その合間に小さなジョギングをして、秋風に吹かれ、公園の緑の芝生を見て、身が軽くなったような感じがして、早めのお風呂に入って、夕方からのオンライン会議に参加した。自宅からなので、リラックスした格好、着物だが、であるが、オンラインなので、全体像が見えないことを理由にして、多少の後ろめたさを感じながら、パソコンの前に座った。このような時、自分は、風呂上がりでリラックスした格好であることを、断っている。オンラインで見えないから、と言っても、雰囲気は伝わるので、後ろめたさの弁明ではないが、一応許しを得ることにしている。在宅勤務になって、何よりも嬉しいことは、電車に乗らなくてよい、ネクタイをしなくてよい、普段着でよい、書斎で仕事ができる、夕方のジョギングができる、などであるが、仕事と私用の区別がつきにくいかもしれない。しかし、仕事と私用や趣味などを区別する必要もないだろう。昔、大学院生に研究は趣味と同じだから、忙しいとか難しいとか、それは理由にならない、と言ったことがあるが、研究者なら、ほとんど同じ感覚を持っているだろう。大学の仕事は、1に雑用、2に雑用、3、4が無くて、5が研究だとよく言っていたが、暇を見つけて研究するのである。凡人には、その雑用が実は重要で、落語家や伝統工芸家が修行する時、いきなり仕事ではなく、雑用から始める、というが、研究もどこか共通している。今日も良い天気のようだ、今の時刻は6時半だが、2階の書斎から、雲の間に希望のような青空が見える。有難いのかもしれない。
対処法
昨日は、朝から晩まで1日中のオンラインの審査だった。お昼休みはあっても、かなり疲れる。どこかで運動をしたいと思っても、時間もなく、小雨も降っていたので、終わってお風呂に入って、そのまま夕食にしたが、体を動かして発散したかったが、仕方がない。人の世は、そのようなもので、仕方がないときは仕方がなく、その中で生きるしかないが、コロナ禍における自粛とかstay homeは、このような状態が続くことだ思うと、それは人の本性に反している。まして、成長盛りの子供にとっては、マイナスの効果しかないことは、誰でも感じているだろう。よく学び、よく遊び、とはその通りだが、それができない状況下における対処法を身につけておきたいのだが、良い処方箋はなさそうだ。居間でリラックスするという動画が、かつて配信されたが、現実を見ていないので、市民から反感の声が上がった。自分は、お昼の時間の少しの間近所を歩き、夕方玄関に出て雨の外を眺めたが、それだけでも違う。外に出る、外を見る、だけで、世界が違う、空気が違うので、体の中が洗浄されたような気がする。戦争中に、絶望的な戦況の中で、常に身ぎれいにしていた兵士が、周囲の兵隊のすべてに希望を与えたという逸話を読んだことがある。そして、奇跡的に生き延びた。昨日と違って、今日は空いっぱいの青空で、口笛を吹きたくなるような気がする。と言っても、オンラインの打ち合わせや会議で、今日も夕食前まで詰まっている。しかし対処法を知っていれば、心配ない。
問答法
昨日もいろいろな仕事が詰まって、忙しかったが、なんとかこなせたようだ。いろいろな用事が入ってくると、脳は活性化するようで、能率的に処理できる。どうしてもチェックしておきたい論文があって、英文だったが、かなり時間がかかった割には、どうも納得しにくかった。考えてみると、日本語と英語の違いによって、内容の理解度に相当に差が生じるのかもしれない。当たり前ではないか、と言われそうだが、その当たり前に、これまであまり気が付かなった。言葉は道具や手段だと思っていたので、道具や手段で思考は変わらないと思っていたが、どうもそうではないようだ、と思い始めた。それは、既にビゴツキーも指摘したことだと思うが、しっくりこなかったが、この頃、確かにそうかもしれないと思うようになった。この前、小学校の図工の授業参観に行って、カリキュラムマネージメント、単元のテーマ、デザイン、見方・考え方、の意味に改めて気が付いたが、それまでは、言葉だけ知っていて、本当は分かっていなかった。昨日も、同じことを知った。ソクラテスの問答法と同じかもしれない。この場合は、他人との問答ではなく、自己対話であるが、汝自身を知れとか無知の知とは、その通りである。
デジタル庁
今週と来週は、いろいろな仕事が詰まっていて、時間がとれない。30分なのだが、ブログを書く時間が厳しいので、少しだけ書くことにしたい。昨日は、理事会があってオンラインだが、参加度が高いのは、時間や場所の制約がないので、当然だろう。デジタル庁が発足して、オンライン教育も登場した。定常的にオンライン授業も行われるだろう。いづれ対面とのブレンドか、ハイブリッドになる。新しい学習方式になるからだ。理事会でも、アフターGIGAが話題になった。最後は、学校現場にどれだけ受け入れてもらえるのか、である。そのこともよく分かっているので、どうするかが問題で、教師の実践知だけに頼っているのが、これまでの方式だが、さらに研究知見からのアプローチはないものか、と思う。子供の認知、メディア特性、そして目の前にある画面があることの、関係性の研究なのだが、これまでの教師の名人芸的な方法論だけでは、解は難しいのではないか、と思う。課題は、自己対話にあると思うが、今日はこれで閉めにしたい。
オンライン会議が続くと
昨日は、オンラインの会議や打ち合わせが4回もあって、忙しかった。身体的な疲れはないが、気持ちや脳が疲れる。移動という身体的な疲れがない分だけ、脳への負担が大きくなるようだ。なるべく運動を心がけて、脳と身体の両方をバランスよく使うことは、健康のためには必須である。脳の疲れを残したまま、少しだけでもジョギングをすると、少しづつ薄皮をはがすように、飛んでいくような気がして、元気が戻ってくる。あの時こうすれば良かったのに、とか、どうも自信がない、という、家内に言わせれば反省病が少し弱くなって、これでいいのだ、という軽い気持ちになってくる。前のブログで書いたが、今の時代は、クラスの人気者モデルが適しているようで、成績が良いとか、スポーツに秀でているとか、ではなくて、気にしない、苦にしない、周囲を笑わせる、など、明るい性格が、求められているように、思う。コロナ禍という時代を生きるには、この人気者モデルが適しているようだ。と言っても、今週はずっとオンラインでの仕事で詰まっており、27日の日曜日に至っては、朝9時から晩の7時半まで、ずっとオンラインで、思うだけでも疲れそうだ。しかし、人気者モデルでいえば、いいではないか、失敗しても、すいません、と言えば済むことで、気にしなければよいし、人気者モデルは、文字通り人の気がある、つまり人が集まることなので、そのような仕事があるだけで、有難いのであろう。
