一律10万円支給?

新聞報道では、国民1人に10万円を支給すると言う。よくわからない。何が目的で現金を支給するのか、それは、コロナ禍で生活が困窮する人々に、商売などでお客が激減して経営が苦しくなった人々に、就職の内定が取り消された学生達などのためではないのか。在宅勤務でも給料をもらえる人には、あまり感謝されないだろう。もちろん、誰ももらえれば嬉しいかもしれないが、困窮している人には10万円の価値は高いが、そうでない人には価値は低い。人は誰でもお金を欲しいと思うが、それは欲望でしかない。欲望を満たして何のためになるのか、選挙民への迎合でしかない。優れた政策とは、それとは別のもっと本質的な問いと問題解決のために生まれるものであろう。政府は人々に自粛という自己犠牲を強いている時に、真逆な政策、しかも一度決定した政策を変えるとは、どうしても理解できない。もっと本質、何が目的なのか、を考える必要がある。今の政府は、その当たり前が通じないようだ。

日常と非日常

ほぼ毎日のように、遠隔会議がある。1時間から1時間半であるが、その時に仕事の顔に戻り、仕事の頭になる。キーワードが頭の中をめぐり、そうだと納得したり、違うと反論したり、そうかもしれないと内省したり、脳が活性化するのである。脳血流が走り回っているような気がする。それは、ストレスと言ってもよいし、快感と言っても良い。仕事とは、その両面を持っている。終わった後、どこか充実感がある。それが、日常なのである。自宅で、自分の研究をする場合は、脳血流の流れる部位が違うような気がする。それは、自分だけの世界だからかもしれない。在宅勤務になって、日常生活の大部分を占める仕事について考えるようになった。そこから離れること、それは非日常、つまり非常事態、緊急事態という今日であるが、仕事という日常は続けなければならない。仕事だけでなく、生活という日常も大切にしたい。

コロナ禍での楽しみ

在宅勤務ができるようになると、自然に1日の行動パターンが決まってくる。午前と夕方は仕事をし、お昼時間に休憩し散歩する。この散歩は、都心の事務所に通っていた頃はなかった行動だが、いろいろなことに出会う。昨日は公園を散歩したら、意外と人が多かった。たぶん、在宅勤務の人や親子連れで、春の陽気に誘われて新緑の香りを身に浴びたいという気持ちを持った人々だろう。その光景は、かつての夏休みの夕方に似ている。少し肩の荷を下ろして、ゆっくりと身をゆだね、暑さも少し和らぎ、涼しい風に吹かれて、揺れているような気持である。今は、コロナ禍で、少し気持ちは暗くはなるが、同じ光景である。昼間からという少し後ろめたさはあるが、免罪符をもらったような気分で、お昼休みを長くとって、夏休みの開放感を味わっている。何を不謹慎な、と言われそうであるが、それは庶民のささやかな楽しみである。

遠隔会議

どの職場でもほぼ同じだが、ほとんどの会議や打ち合わせがキャンセルになって、遠隔会議が普通になった。自宅勤務も慣れてきて、自分でスケジュールを調整するようになったので、自己調整が多少なりともできたのかもしれない。今日も遠隔会議が続いたが、その遠隔システムは、少しオーバーに言えば、家庭と社会を結ぶ窓かもしれない。外の風が自宅に入り込んできて、羽根でゆっくりと部屋を攪拌したような気がする。池にさざ波が立って、落ち葉が揺れているようで、ここが自宅だという感覚が薄れてくる。それが、心地良い。さざ波がないと、静かという概念も成り立たないのだろう。社会への出窓からさわやかな風が入ってきて、このご時世であっても、安らぎを感じた。逆に言えば、自宅が心地良いからかもしれない。有難いことでもある。

経済活動

コロナ禍のために、観光地は当然ながら町の中でも、人が集まることができない状況になった。人が集まらないとは、当然ながらお金が動かないことになる。お金が動かないから不景気になることは理の当然ながら、改めて、お金やモノや人が動くことの意味を考えさせられる。いくら現金支給でも財布に閉まっているだけでは意味がなく、動いてこそ、まるで生き物のように、この世の中を動き回ってこそ、世界を変える力が発揮される。かつて織田信長は、楽市楽座を作って、人が動きやすいようにしたというが、たぶんそれは経済の原理であろう。しかし、現状ではどのようにして、お金だけでなく、モノも人も動くようにしたらいいのだろうか。たぶん、現実世界とバーチャル世界との共存を考えるしかあるまい。何もしなければ、経済だけではなく人は生きていけない。

春の風

4月7日に緊急事態宣言が発令され、4月8日から5月6日まで、外出を自粛し、多くの仕事が休業状態になった。当然ながら、自分の関係している委員会や会議や講演などもすべてキャンセルだが、自宅勤務と言っても、一日中PCの前にいるわけにはいかない。何もしないで自宅で過ごせ、とは息をしないでいろ、と同じくらい不可能なことである。何か工夫がいるが、作家気分になれば原稿とか分析とかできるので、それは楽しい。しかし、どうしても時間が余る。最適解は散歩であろう。夕方散歩をすると、まだ日差しが強く、西の方角に向かうのでまぶしいが、どこか心が華やぐ。青空に囲まれた上天気だが風は強かった。それも郷愁に似た心地良さがある。何故だろう。この時期は、入学式、新入生、新人、新しい職場のように、新鮮なイメージを持つからかもしれない。今はコロナ禍であっても、人はいつも慣れた昔を重ねるようだ。

日本型対応

緊急事態宣言が4月7日の夜発令された。安倍総理による真摯な説明があり、テレビ画面を通して、その考えはよく伝わった。特に印象に残ったことは、日本型対応である。欧米と日本の異なるところは、デジタルかアナログか、割り切るかあいまいか、言葉か察しか、という文化の違いにあることはよく知られているが、この新型コロナとの戦いは、日本型が功を奏するのではないか、と思う。監視カメラで個人の行動を観察して警察が行動を制限することは、日本人にはなじまない。法律で、行動で、yesかnoかというデジタルで割り切っているからである。人は、生活するためにどうしても外出する場合もあるだろうし、散歩もして気分転換をしたいし、床屋や美容院に行って、身ぎれいにもしたいだろう。このような人の心情に添った対策ならば、私たちの気持ちがゆすぶられ、共鳴し、そして行動が変わるだろう。安倍総理の言う、西洋型ではなく日本型という戦い方に、賛同したい。昨夜の宣言のタイミングもベストだったと思う。

緊急事態宣言

緊急事態宣言が今日4月7日に出されるという。仕事も自宅勤務が当たり前になる。いろいろな制限が課されるが、どの世界もいつの時代も、人の世は制限付きで生活しているので、仕方ない。学校の時間割、学習内容や方法、など考えれば、制限の中で過ごしているので、なんとか工夫するしかない。私の仕事、特に研究は、自宅で自由にできるので、まったく問題ない。やりたい分析などがあって、その成果をまとめて夏ごろに出版したい予定でいる。有難いかもしれない。

自宅勤務

自宅待機ではなく自宅勤務とか在宅勤務が、普通になってきた。勤務であるから職場と同じように仕事をすることになるが、自由に動けるので、自宅と職場では異なるであろう。どちらが効率的か、どちらが質的に高いか、とは別である。現状では自分は、研究などは、自宅のほうがやりやすい。大学の時は、たぶん研究室のほうがやりやすいだろう。とすれば、職場という時間的にも空間的にも制約がある場合と無い場合のどちらがいいとは、簡単には言えない。環境によって、どうにでもなる。ならば、自宅勤務を仕事がやりやすい環境にすればいいだけである。早速、書斎を片付けた。

コロナへの対応

あの志村けんさんが新型コロナの犠牲者となり、自分も含めて世間が驚愕した。改めて、このウイルスの怖さを実感した。テレビで安倍総理や小池都知事が、懸命に訴えている。経済、教育、五輪、支援、ワクチン、自粛など、多岐にわたっているが、責任者とはこのような立場なのだ、という当たり前のことに気が付いた。何を言われようと、すべて責任を持つと言う気概がなければ、テレビという公の席で発言は難しいだろう。それに引き換え、責任のない人は、評論家と言って良い。誰でも、それらしいことは言えるが、言うことと実行することと責任を持つことは、天と地ほどの差がある。市民として、責任を持って職責を果たそうとする人々に、応援をしたい。