コロナ禍の終息に向けて

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1人の感染者が接触などによって他の何人に感染させるかが、もし2人であれば、この倍々ゲームが続けば、2人、4人、8人、16人となって、つまりネズミ算式に増えるので感染爆発が起きる。一休さんのとん知でもよく知られている。これが、逆に2分の1なら、4分の1、8分の1、16分の1のように急速に減少するので、コロナの感染は終息に向かうことは、誰でも分かる。感染者数の推移を見れば、この人数は、2分の1つまり0.5より大きいが、1以下であることは間違いない。このブログで何回も指摘したが、必ず近いうちに終息に向かうであろう。終息といっても、計算的には無限に0に近づくということなので、ある値以下で決める。それが例えば全国の1日の感染者数が50人以下などと決めれば、単純にはグラフの近似曲線を外挿すればいいので、2週間後くらいになる。しかし、この減少の傾きが緩やかなのが、少し気になる。5月4日の政府の発表のように、もう少し辛抱するしかないのかもしれない。もはや、都市封鎖(ロックダウン)とか感染爆発(オーバーシュート)という言葉を、専門家や自治体責任者らも言わなくなった。その用語は、欧米や中国のデジタル思考の考えであり、日本型のように国民の意識の変化に訴えるアナログ的な「要請」という考えとは、根本的に異なるのである。だから、感染爆発は起きないと、前にこのブログでも書いた。今、日本型の新型コロナウイルスとの戦いは成功に近づきつつある、と思う。

オンライン学習とメディア特性

オンライン学習と言っても、いろいろな種類がある。テレビ会議システムであるZoomのような同期型と、Googleやマイクロソフトなどが提供しているクラウド上の電子掲示板のような非同期型がある。どちらも有効なツールで、コロナ禍の影響で先生方も利用し始めたが、コロナ禍後も、このようなICTツールは活用されていくだろう。学校の先生方は、映像を見ながら音声で対話する同期型の経験は、これまでほとんど無かった。英語の授業や国際理解教育などの単元で、海外校と交流するツールとして用いられてきた程度であるが、今回のオンライン学習では日常的なツールになった。私も何度もZoomやTeamsなどを使って、会議、打ち合わせ、顔合わせをしている。身近なところでは、都内に住む子供や孫たちと定期的に顔合わせをしている。LINEともメールとも、もちろん電話や手紙とも違う。その違いは、顔が見え、声が聞こえ、双方向で、リアルだということだろう。普通の会話であれば、これで十分であり、これ以上のメディアはない。しかし、これが授業や学習のツールになると違ってくる。家族であっても、定期的になると話題が切れてしまうので、孫たち向けに問題やテーマを投げかけているが、これが難しい。飽きていることがすぐに分かるし、親や兄弟と別の話をし始めることもすぐ見える。リアルに表情が送信されることは有難いと同時に、情報量が多すぎて、どうしたらいいかと頭を常に刺激してくるのである。小学校の先生方の素晴らしさが身に染みた。一方、テーマや話題が孫たちの心を引き付けると、まるで飛び跳ねる魚の群れのように、画面が盛り上がる。親同士もテーマに入ってきて、3家族、合計10名の楽しい座談会になる。先生の腕の見せ所は、ここなのだと納得した。メディアはやはり道具であった。

オンライン学習とAttachment

Attachmentは愛着と訳される。タッチすることを意味しているので、例えば、大学付属病院とか付属小学校などの時、attachedの単語が使われる。英語の下手な私が書くのは気が引けるが、先の「オンライン学習とGRIT」で述べたHeckmanの研究プロジェクトで、ペリー地区の幼児教育におけるattachmentが注目されていた。母親が子供に寄り添って、絶えず随伴することで、子供は安心して活動できるということであるが、オンライン学習でも、このattachmentが重要になるだろう。発達段階に応じて、そのattachmentの仕方は異なるのは当然であり、常に物理的・身体的に側にいるのではなく、多分に心情的な意味が含まれている。オンラインで、先生は子供一人一人に声掛けをしてもらいたい。オンラインが無理なら電話で、電話が無理なら葉書でよい。物理的な手段にあまり意味はなく、多分に心情的なattachmentなのである。自分のような年配になっても、頼れる先生や先輩や肉親を思い出せば、そのattachmentを感じて、元気をもらうことがある。両親は既に亡くなったが、どうにもならない時、放り出したい時、劣等感に包まれて落ち込んだ時、怒りたい時、我慢しなければならない時、思いだすだけで、安心感に包まれる。まだ大丈夫、なんとかなる、俺は守られている、やってみよう、という気持ちになる。自宅で学習しなければならない世界中の膨大な数の子供たちが、先生方のattachmentを待っている。子供たちへの声掛けを待っている。

オンライン学習とGRIT

Heckman教授は、就学前の幼児教育の経験が、その後の40歳における人生の成功者になるかどうかに、大きく寄与していることを証明した「ペリー就学前プロジェクト」の研究で、2000年のノーベル経済学賞を受賞したことで良く知られているが、その研究結果が、認知的な学力よりも、やり抜く力、頑張る力、壁を乗り越える力のような非認知的スキルが重要な役割を果たしたことで、世界中に非認知的能力(スキル)が広がった。そのスキルを尺度化したのがGRITであるが、オンライン学習にはGRITのような、やり抜く力、頑張る力が必要になることは、賛同してもらえるだろう。私が心配するのは、コロナ禍後の認知的学力、精神的社会的な非認知的スキルの格差である。つまり、学力面、精神的なストレス、親や先生や友達とのコミュニケーションの社会的スキル、などで学校への復帰時における格差のことである。このコロナ禍の期間、置いてきぼりになった子供、家庭が見守った子供、教員がオンラインでケアした子供、友達同士でコミュニケーションした子供などによって、大きな差が出てくると予想される。もし学校に復帰できない子供が大多数に達したら、それは大人の、社会の責任である。オンラインだけでは子供を救うことはできない。オンラインは手段であるから、それを生かすも殺すも人であり、そこに学校の存在価値がある。Heckman の40年研究(ペリーはアメリカの地域の名前)で実証したように、ペリー地区で置いてきぼりになった子供は、40年後には人生の敗北者になる割合が高かった。同じ事が起きる可能性もある。オンラインでもいいので、一刻も早く、すべての学校が手を差し伸べなければならない。

オンライン学習

今、オンライン学習が全国で展開されている、というより全世界で実施されている。世界規模の壮大な教育実験とでも呼ぶべき現象である。自宅勤務と同じように、子供たちも家庭学習を余儀なくされている。オンラインの時間割を作っているか、オンラインできちんと学習できているか、オンラインで集中して取り組んでいるか、オンラインで満足しているか、と問われれば、かなり難しいと誰でも予想するだろう。先生がいて、声掛けしてくれて、クラスメートがいて、給食があって、時間割があって、体育館があって、という学校中心の教育とは、質的に異なる。子供たちも親も、思えば学校は、友達も、部活も、先生も、体育も、給食も好きなことだけではなかったが、その葛藤の中で生きてきた、それがリアルな世界だった、と気が付くのではないか。自宅に閉じこもる生活の中では、オンラインで外の世界とつながっても、学力面だけではなく、精神的・社会的にも、伸びないだろう。コロナ禍後には、大きな格差を生むだろう。一刻も早く、子供たちを学校に戻すべきである。9月入学などは、拙速の議論である。

楽しく我慢する

我慢することが、コロナ禍にあるこの時期では、国民の精神的支柱のような役割を果たしている。何かスポーツ根性か、戦時の「欲しがりません、勝つまでは」の標語を思い出させる。戦時のことは知らないが、精神状態では似ているかもしらない。しかし、人はずっと我慢できるものだろうか。禅の修行僧は過酷な修業をするので我慢の達人のような気がするが、文献を読むと、どこかで吹っ切れると言う。我慢という状態から抜け出してもっと自由な心境になるらしい。それは、スポーツでも学習でも仕事でも同じではないだろうか。ジョギングをしていると、始めは苦しくしばらくはその苦しさが続くが、やがて壁を乗り越える時が来て、気持ちが平衡状態に達してそのままゴールにたどり着く。途中で休憩すると、その次の走りがまた苦しくなる、というような経験を誰もしていると思う。仕事でも似た傾向があり、始めは何も分からず、どこから手を付けていいいのか、投げ出したくなる時もあるが、やがてコツを掴む、知らない内に時間が経って成果が見え始めると、充実感があって心が満たされる。自分へのご褒美に、コーヒーの1杯でも飲みたくなるが、そんな経験を誰でもしているだろう。とすれば、コロナ禍の時期を問わず、人は我慢の中で生き、我慢の中で喜びを見出し、スポーツ、勉強、仕事、日常生活のすべてにおいて、見方を変えれば、我慢を楽しんでいるとも思える。どうせコロナ禍の時期を過ごすなら、暗い顔ではなく晴れやかな顔で、楽しみたい。

声掛け

長い休校措置で、子供たちの学びが心配になる。子を持つ親であれば、孫を持つ祖父母であれば、誰も同じ気持ちだろう。街を親子連れが歩いている。Vの字になって、幼子が両手を両親にあずけて、時々顔を見上げて話している。幸せという文字を、その姿いっぱいに映し出している。そのような光景がはばかられるのは、子供たちから幸せをもぎ取っているようなものだが、しばらくは我慢するしかないのだろう。いろいろな会合で聞くと、小学校の担任の先生から声掛けの電話があると、子供たちが元気になり、出された課題をやり始めると言う。だらだら過ごす張りのない顔から、明るい顔になると聞いた。子供は、先生の声を聞いて学校の生活を思い出すのではないのか。それは、幼子が街を親子連れで歩く、あの満ち足りた心を呼び戻すような嬉しさではないだろうか。この親の元に生まれてよかった、この先生が担任で良かった、この学校で良かった、この町に育って良かった、というwell-beingな心が呼び戻るからではないか。1日も早く、子供たちを心身ともに健康な状態に戻さなけければならない。

コロナ禍よ、終息に向かえよ

https://newsdigest.jp/pages/coronavirus/  2020年4月28日

コロナ禍の全国感染者数のグラフが気になる。誰でも同じだと思うが、この感染者数の速報を見るのが日課になった。このブログでも何回も速報グラフを元に自分の考えを書いているが、近い時期に終息に向かうと予想している。1つは、統計的な傾向である。統計は嘘をつかないと以前に書いたが、誰が見ても4月11日から下降減少にあることは明らかである。いくつかの山もあるが、それは曜日や在宅勤務状況やクラスターの発生状況などに依存するのだろう。そのような要因は揺らぎとして、つまりいくつかの山となるが、全体の大まかな傾向としてグラフを見るのが統計的な見方だろうと思う。2つは、日本人の特性や文化や習慣の要因だと思う。子供も親もマスクをし、家では清潔さを保ち、不足ならばマスクを自作し、ルールを守って自粛をしながら、今日に至っている。街にゴミはまったくなく、どこの店にも消毒液があり、帰宅しても必ず手にきれいにし、ウイルスをまき散らさないように気を付ける。そんな日本人の素晴らしさと生真面目さに、改めて気が付いた。子供たちに、伝えていきたい文化であり、日本人の誇りである。日本に生まれて良かった。

我慢の中で生きる

今は、外出自粛、3密を避けるなど、我慢の時期である。我慢は、自分の心を制御することだが、これを活用することも庶民の知恵である。家内が布マスクを洗濯し始めた。殺菌力の強い太陽を浴びて真っ白になったマスクは、心地良い香りがして、フレッシュな気持ちがする。洗えば何度でも使えるという経済性もありがたい。緊急に読みたい本があって、初めてキンドルで注文したら、当たり前だが即時にファイルをPCにダウンロードできて、楽しみが増えた。書店は開業していないし、注文の本を郵便で待っていたら数日は確実にかかる。自宅の部屋や家の周りを片付け始めた。普段気になっていても、なかなか腰が挙がらなかったが、整理するという心のスタート地点に立った。学校の先生方は、自主的にZoomなどの操作を覚えて、子供たちとコミュニケーションをし始めた。これまでICT機器の教員研修でも逃げ腰の先生方が多かったのに、どこか劇的な変化が生じたようだ。我慢や制限があって人を自由にさせない、つまりどうにもならない状況が人の行動や知恵を動かす、状況の中に知識が埋め込まれている、とは状況的学習の考え方であるが、その通りだと思う。

パチンコ店の営業

新聞報道によれば、営業を続けているパチンコ店があり、店名を公表しても平然と開き直っていると言う。パチンコ店のような人が集まる場所はクラスターが発生しやすいことは明らかで、個人が公園に散歩に出たり近所をジョギングすることとは、質が違う。マスクをしながらジョギングすると息が苦しいので、走る距離が少なくなったと、孫から連絡があった。子供でもルールを守ろうとするのが、社会生活をする人々の心得である。パチンコ店を営業する人は、人が集まるからという理由を言うかもしれないが、それは人の非常識な欲望を満たすことと同じで、平時なら仕方ないが非常時には当然ながら罰則的な行為であろう。自分はパチンコをしないので説得力はないかもしれないが、禁煙と同じで、パチンコ依存症の人は、これを機に止めたらどうだろう。禁パチ運動を起こしたらどうだろう。