自粛することは、今の状況では致し方ないが、ほとんどすべての企業の営業停止や自宅から外に出るな、という要請をますます強めるのははいかがなものか、と思う。というのは、自分自身が守れそうもないからである。散歩もジョギングもできず、スーパーマーケットも自粛して営業日数を減らせとは、庶民の生活はできないことになる。生活ではなく、生きていけないことになる。10日間も家にじっと閉じこもるのは、人間であることを止めることと同じくらい苦しく、独房に入ることと同じである。いろいろな歪、家庭での息苦しさや子供たちの精神的・社会的な悪影響、夫婦間や親子間のストレス、これらの影響は、コロナ禍後の日本にとって重要な爪痕を残す。しかし、国民の命を守ることが重要だという論理には、その通りと言うしかないが、その土台となる人間はどう生きるのか、に目をつぶってはいけないのではないか。あまりにも代償が大きすぎる。下記のグラフのように、順調に感染者数は減っており、緊急事態宣言は効果を発揮している。油断すると言ってるのではない。精神的・社会的に健康であるという状態を維持することは、どのような緊急事態にも対抗できる強力な方法だと思うからである。
コロナ感染からの脱出
2020年4月23日午後5時現在の全国感染者数のグラフは、上記の通りである。4月22日のブログで、感染爆発は起きないと予想した。もちろん自分は疫学の専門家ではないが、ピークの4月11日から全体的に感染者数が下降していることは、誰が見ても明らかである。統計は嘘をつかないはずなので、これは明らかに国の緊急事態宣言の効果であろうと思う。少なくとも人が接触する物理的な頻度が減少するので、感染者数が減少するのは、素人であっても自然な見方と言える。もし、これが増加するとすれば、それは在宅勤務、企業の自粛、外出自粛、休校措置などの意味がないことになり、その原因は、カタストロフィックな、上記の傾向に反する不連続な要因である。簡単には、施策と真逆な人々の行動が生じたことになる。たぶんそんなことは起こりえないが、国や自治体の責任者は、連休の人出を不安に思っているのであろう。このまま推移して、5月6日には、かなり減少した数になると期待したい。
庶民ができること
近所から手作りのマスクをいただいた。やや大きめで効果がありそうなマスクである。自宅の小さな菜園で採れた野菜のお返しである。野菜造りは主に家内の役で、自分は雑草係であるが、コロナ禍で自宅勤務になると、時間的に余裕ができるので、菜園にも目が届く。日本の庶民は、江戸の昔から、もっと昔から、このような付き合いをしてきたのだろう。3.11の大震災の時も、同じような支えあいがあった。昭和20年代の戦後の混乱期にも、近所で助け合ったと聞く。家庭内も近所も、支柱を使ってキュウリやえんどう豆を作るように、支えあっていきたい。それは、程よい関係でなければならない。支柱は、2本が寄り添う力のバランスで安定している。新聞では、コロナ禍で家庭内DVが起きていると言う。子供たちへの影響が心配になる。庶民ができる、最も身近で大切なコロナ禍への対応は、仲良くすることである。
感染者数の推移

2020年4月21日までの感染者数の推移である。4月11日をピークに全体的に下降傾向にあるように見える。
https://newsdigest.jp/pages/coronavirus/
欧米の研究者は、日本の感染爆発の予測をしているが、日本と欧米は違うと思う。4月11日のピークがそのまま直線的に増加すれば、累積感染者数は等比級数的に増加するので感染爆発になるが、このグラフはそれを示していない。日本の医師は、医療現場の危機を訴えて、感染者数を押さえたいという意識が強いが、その通りだと思う。問題は、医療が対応できる感染者数であり、日本の医師の専門家の意見に従って、市民として協力したい。日本の死者数は世界に比べて圧倒的に少ないので、当たり前だが入院する感染者数を減らすことだ。感染者数は数理的シミュレーションだけでは決まらない。数値化できないパラメータ、つまり多くの要因によって影響を受けるので、私たちは、報道されているように、3密を避けて、手洗いやマスクなどの防御、そして健康的な生活を維持するしかない。
NHKスペシャル

2020年4月19日(日曜日)夜9時からのNHKスペシャルは、興味深かった。北海道の知床で暮らす84歳の老漁師は、この地に生息するヒグマが、漁師たちに被害を与えないように、叱るというドキュメンタリである。その叱り方は、この地で得た経験的なわざであったが、同時に、ヒグマと共存するすべも知っていた。叱るには、人間は決して後に引かないという気迫を伝えなければならない、同時にヒグマも飢えから身を守るために、漁師が獲ってきた魚を横取りするのではなく、別の生き方をしなければならない。それが、共存の考え方であった。つまり、人もヒグマも、やさしさと厳しさの両面を持つ自然の中で共に生きる意味であり、自然からみれば、同じような存在である。それは、今のコロナ禍に対応する人間の在り方を示唆しているようだ。
日曜日
今日は、日曜日。在宅勤務以来、お昼休みを長くとって、散歩を慣例化している。よく晴れて雲一つない真っ青な空に包まれて、心が軽くなる。航空公園まで歩いていくと、幼児を乳母車に乗せた夫婦、犬を連れた人、サッカーボールをドリブルしながら駆ける少年、公園の芝に寝転ぶ若者たち、それぞれの姿が、日曜日の公園によく似合う。暑いほどの陽気で、上着を脱ぐ人、高校生くらいの若い人の弾けるような笑い声、父親らしき人が自転者に乗って、息子を走らせて激励している声、ベンチでくつろぐお年寄り、アイスを食べる子供たち、どれもこれも昼下がりの良く晴れた日曜日の公園に、よく似合う。コロナ禍とは無関係の光景がある。人は、大変な時でも、大変な時だからこそ、穏やかな日常を非常時にかぶせて、幸せを味わう知恵を持っている。
一律10万円支給?
新聞報道では、国民1人に10万円を支給すると言う。よくわからない。何が目的で現金を支給するのか、それは、コロナ禍で生活が困窮する人々に、商売などでお客が激減して経営が苦しくなった人々に、就職の内定が取り消された学生達などのためではないのか。在宅勤務でも給料をもらえる人には、あまり感謝されないだろう。もちろん、誰ももらえれば嬉しいかもしれないが、困窮している人には10万円の価値は高いが、そうでない人には価値は低い。人は誰でもお金を欲しいと思うが、それは欲望でしかない。欲望を満たして何のためになるのか、選挙民への迎合でしかない。優れた政策とは、それとは別のもっと本質的な問いと問題解決のために生まれるものであろう。政府は人々に自粛という自己犠牲を強いている時に、真逆な政策、しかも一度決定した政策を変えるとは、どうしても理解できない。もっと本質、何が目的なのか、を考える必要がある。今の政府は、その当たり前が通じないようだ。
日常と非日常
ほぼ毎日のように、遠隔会議がある。1時間から1時間半であるが、その時に仕事の顔に戻り、仕事の頭になる。キーワードが頭の中をめぐり、そうだと納得したり、違うと反論したり、そうかもしれないと内省したり、脳が活性化するのである。脳血流が走り回っているような気がする。それは、ストレスと言ってもよいし、快感と言っても良い。仕事とは、その両面を持っている。終わった後、どこか充実感がある。それが、日常なのである。自宅で、自分の研究をする場合は、脳血流の流れる部位が違うような気がする。それは、自分だけの世界だからかもしれない。在宅勤務になって、日常生活の大部分を占める仕事について考えるようになった。そこから離れること、それは非日常、つまり非常事態、緊急事態という今日であるが、仕事という日常は続けなければならない。仕事だけでなく、生活という日常も大切にしたい。
コロナ禍での楽しみ
在宅勤務ができるようになると、自然に1日の行動パターンが決まってくる。午前と夕方は仕事をし、お昼時間に休憩し散歩する。この散歩は、都心の事務所に通っていた頃はなかった行動だが、いろいろなことに出会う。昨日は公園を散歩したら、意外と人が多かった。たぶん、在宅勤務の人や親子連れで、春の陽気に誘われて新緑の香りを身に浴びたいという気持ちを持った人々だろう。その光景は、かつての夏休みの夕方に似ている。少し肩の荷を下ろして、ゆっくりと身をゆだね、暑さも少し和らぎ、涼しい風に吹かれて、揺れているような気持である。今は、コロナ禍で、少し気持ちは暗くはなるが、同じ光景である。昼間からという少し後ろめたさはあるが、免罪符をもらったような気分で、お昼休みを長くとって、夏休みの開放感を味わっている。何を不謹慎な、と言われそうであるが、それは庶民のささやかな楽しみである。
遠隔会議
どの職場でもほぼ同じだが、ほとんどの会議や打ち合わせがキャンセルになって、遠隔会議が普通になった。自宅勤務も慣れてきて、自分でスケジュールを調整するようになったので、自己調整が多少なりともできたのかもしれない。今日も遠隔会議が続いたが、その遠隔システムは、少しオーバーに言えば、家庭と社会を結ぶ窓かもしれない。外の風が自宅に入り込んできて、羽根でゆっくりと部屋を攪拌したような気がする。池にさざ波が立って、落ち葉が揺れているようで、ここが自宅だという感覚が薄れてくる。それが、心地良い。さざ波がないと、静かという概念も成り立たないのだろう。社会への出窓からさわやかな風が入ってきて、このご時世であっても、安らぎを感じた。逆に言えば、自宅が心地良いからかもしれない。有難いことでもある。

