Well being は、スウェーデンの学校に訪問した時、2019年1月頃と記憶しているが、教室の後ろの壁に貼ってあった学校目標のような内容だった。その写真を撮っていなかったのが残念だが、イギリスでもフィンランドの学校でも見たような気がする。幸福と訳してもいいが、WHOは、身体的・精神的そして社会的も健康な状態という記述が、納得しやすい。分かりやすい日常語では、満たされている状態とでも言えるだろう。この町に生まれて良かった、この学校に通えて良かった、この担任の先生で良かった、と心身ともにそして周りにも受け入れられていると思える状態、それは、文字通り幸せだと言える。学校は、子供たちがWell beingになるように環境を提供することだと、スウェーデンの校長先生が言ったことを思い出す。アフターコロナで、子供たちが登校する風景が見られるようになった。子供たちは、笑顔で過ごしているか、行きたくないと駄々をこねていないか、先生方は笑顔で迎えているか、下校する時、また明日も来ようと思うか、来てほしいと願っているか、子供も先生もそして送り出す親も、well beingで6月を迎えただろうか、できれば6月からの毎日がそうあってほしい。
アフターコロナですること
アフターコロナのことを考える時期になった。言うまでもなく、仕事、家庭、教育などメディアで広報されているように、新しい様式となって大きく変わるだろう。これからも自分は在宅勤務で仕事をしたい、子どもや孫は独立しているので老夫婦の生活にゆとりを持ちたい、学校では対面授業とオンライン学習のブレンド型が広がるだろう、などと考えると、今回のコロナ禍がもたらした影響はきわめて大きい。ただ、人は適応し慣れる生物だと、ブログで書いた。年年歳歳、いろいろな出来事が起きるだろう、些細なことから大きなことまで、嬉しいことから悲しいことまで、ワクワクすることから不安になることまで、誰にでも天から降ってくる。しかし、もがきながらも対応するすべを人は知っている。すでに街は動きだしている、車が走っている、ジョギングをする人もいる、レストランも開店し始めた、コロナ禍の中で身に付いた習慣やすべを身にまといながら、コロナ後の新しい生活様式が動き始めた。それもまた楽しからずや、という心境になった。今日は日曜日、数か月ぶりに駅前のレストランに行って、昼食をとるとしたい。
見えのわざを磨く
北海道教育大学の姫野先生の、教師の見え、についての優れた研究がある。教師のわざの中でも優れたわざは、見えにあるという。詳細なデータを元に、見えについて分析しているが、私がその研究を直接に聞いたのは、日本教育工学会のポスター発表であった。ベテラン教師と教育実習生の、子どもに対する見えの違いについての研究であったが、ワクワクするような面白い内容だった。確かに、教師は昔から、ずっと子どもをどう見るかのわざを磨いていたのかもしれない。その可視化しにくい見えに対して、科学というメスを入れて見事に教師の経験による差を明らかにしたので、いくつかの質問をした覚えがある。見えとは理解することでもある。物理的には目の網膜に映り、それが脳の部位に伝達する仕組みであろうが、その脳の働きによって、見えが違ってくる、つまり対象の理解が異なるので、いかに正しい脳の働きにするかとも言える。正しい脳では身も蓋もないが、私たちは目で見たり読んだり耳で聞いたりしながら、つまり五感を通して脳に情報を入力しているので、ベテラン教師は、子どもを正しく理解したいと思って、五感を研ぎ澄ましているのだろう。表面でない子供の真意を汲み取っているのだろう。それは、すべての人に通じることでもある。
SNSを正しく使う
このブログも継続することが必要だが、現実は難しいこともある。緊急事態宣言が解除されて少し余裕がでてきたか、街にも人や車が多く出るようになって、仕事も活発化したようだ。遠隔会議もかなり多く開催されるようになって、なかなかブログを書く時間が難しくなった。ブログなので何かの記録であり、日記のように自分を振り返ることだが、今は特に振り返ることもなく、これを平凡と言うならいつまでも平凡でいたい。SNSでタレントなどを誹謗中傷することで事件が起きたが、これに対して厳しい批判が出ているが、まったく同感である。世間に知られることで仕事をする人は、どこかそれも仕事の内と思っているかもしれないが、心中は悲憤の塊だろう。自分から文句を言えない立場の人には、心から同情する。人はいつまでも他人にやさしくありたいが、それがSNSなどの匿名になった途端、真逆の言葉を発する人が多いのは、まだ我々が人間として成熟していないからだろうと思う。いや、武士の生き方を知るにつけて、むしろ人間としての成熟さは退行している。もちろん、自分も含めて自戒の言葉である。
慣れると戻れない
自宅勤務になって以来、電車で通勤して対面で会議をすると思うと、正直にしんどい。営業活動に従事している方々には、誠に申し訳ないが、今の自分には自宅勤務が慣れてしまって、戻るのが困難である。通勤時間の節約、時間だけでなく精神的身体的にも楽になったことが、元に戻れない心境にさせている。自宅にいると自由に仕事ができる、時間がかなり自由になる、原稿が書ける、とっさの用事を入れられる、計画通りでなくてよい、内容によるが会議の途中でも別件にも手が出せるなど、ともかく自由なのである。この自由さを体験すると、体が覚えてしまう。何度も言うが、対面で人に会うのが仕事の人にはすまないが、自分には自宅勤務のほうが合っている。その気持ちは、自分が所属する団体の職員にも言えるようで、当面は遠隔会議を維持することになった。有難いことである。このコロナ禍によって、世に中の仕事の仕方、学校の在り方、コミュニケーションの仕方、テクノロジーへの認識、家庭での生活と仕事の仕方など、すべて変わっていくような気がする。新しい生活様式と言えばその通りだが、それによって適応できる仕事とそうでない仕事の間に格差が生まれることも確かであろう。頭の痛いところであるが、しばらくは自分はこのままでお許しいただきたい。
自慢と落とし穴
昨日のブログで、自己PRをして反省した。書評をしながら自説を述べるのは初めてだったので、少し自慢したかったのだろう。私も読書が好きなことは確かだが、世の中には星の数ほど読書好きで文章達者な人がいる。そんなことは承知だが、つい自慢したくなるのが年寄りの癖かもしれない。努力してもなかなか思うレベルに達しないことを思えば、いくら年をとっても若輩者である。コロナ禍との戦いはまだとは言っても、世界的に見れば日本は不思議なくらい感染者数も死亡者数も少ないことは、国の為政者は自慢してもいいと思うが、そこが上に立つ人のつらいところで、安倍内閣の支持率が低いようだ。我が料簡の狭さに比べれば、雲泥の差で、日本の為政者は謙虚さを絵に描いたような気がする。中国米国は当然ながら韓国なども自国の自慢ばかりで、外から見ると自己顕示欲の塊のような国だと思うが、自分だけだろうか。日本のコロナ禍への対応は大成功だが政府の支持率が低いのは、マスコミなどが叩くばかりで褒めることがないからだと言うと、たぶん誰も賛同しないだろう。国の行く末を預かる責任者とはそういうものかもしれない、と思いながら、陰ながら拍手を送っている。自分のことは棚に上げてであるが、日本は世界に向けてもっと自慢してもいいのではないか。ただ自慢の後に落とし穴が待っていることも多いので、これまで多くの政治家がそれで地位を失った。そのことは政治の世界だけでなく、世の中で活躍している人々や、市井で暮らす人々、すべてに通じることかもしれない。もちろん、自分も自戒をこめて心に刻んでおく。
日本経済新聞2020/5/23
今日は、自己PRである。日経新聞の今日5月23日土曜の朝刊に、今を読み解く、という読書欄があり、そこに依頼原稿が掲載された。編集者が付けたタイトルは、広がるかオンライン学習、サブタイトルは、コロナ禍で脚光AIで進化、と読者の目を引きやすい。内容は、4冊の書籍を紹介しながら、自説を述べると言うスタイルで、私もいろいろな本を読んだ。これまで本を読むというより、論文を読むほうになじんでいたが、書籍の紹介も兼ねるとなれば、きちんと読むしかなく、幸いコロナ禍で自宅勤務だったので誰にも気兼ねなく読書ができた。職場で単行本を読むのは気が引けるが、自宅であれば夏休みに好きな読書をしているような風情があって、この上ない快適な時間であった。自分も読書が人並みに好きで、ほとんどが電車の中だったが、誰も経験があるように下車するのが惜しいような気持ちになる。電車の中で読む本は、専門書よりも例えば藤沢周平の武家物などのような小説がほとんどだった。ある時、といっても20年も前になると思うが、今でも忘れない、アラスカ物語、を電車の中で読んでいて、それでも朝早く8時前には研究室に着いたが、どうしても続きが読みたくてしばらく読んでいたが、研究室で専門書以外の本を趣味で読んでいる自分が嫌になって、それ以来小説類の本は読まないように自分に禁止していた。それから私学に移ってから、小説も読んでいいと自分に許可して今日に至っている。読書すると、その本中の主人公の生き方に共鳴することが多く、作家の作風に応じて、自分の文章までも影響を受けるから、やはりすごいことだと思う。PISA2018で若者の読解力が低下したと報告しているが、本を読むことは趣味のようなものなので、私には不思議な気がする。
オンライン会議と対話
毎日、オンライン会議が開かれている。理事会のような正式の会議もあれば、気楽な打ち合わせもあるが、ともかく通勤時間が節約できる素晴らしい贈り物で、振り返ってみれば、自分の場合は往復3時間以上も意味のない時間を使っていたことになる。意味のないと書いたが、文字通り意味がなく、電車が混んでいれば精神的にも身体的にも強いストレスを受けて、ただただ我慢の時間であった。電車通勤から逃れるだけで、意味がある。対面では、目に見えない周りの空気が影響を与えて、全体に合わせるという日本流の忖度が作用して、遠慮がちにモノを言う経験は、誰でもしているだろう。画面に向かえば、基本的に自分とPCだけであり、PCの向こうの人と、つまりデジタル画像と話しているので、むしろ言いたいことが言いやすい。SNSやメールのほうが対話の壁が低いことは、研究的にも実践的も明らかにされている。それが、学校ではネットいじめにつながることもあれば、通勤地獄から解放されて自由な会議ができる果報をもたらす道具にもなる。使い方次第である、というより、コミュニティーの暗黙的なルールやメンバーの特性によるものだろう。言い換えれば、情報活用能力と呼んでもよい。今日も、3つのオンライン会議がある。忙しさはやはり変わらないようだ。
日常生活へ戻る
朝、用事があって車で市内を走った。車のラジオから地方の料理の話が聞こえてくる。ふと前を見ると、ランドセルを背負った小さな子供が親と一緒に歩いている。学校は確か6月1日からだと思うので、臨時登校日なのだろうか。小学校1年生のような感じで、ピカピカのランドセルにビニールが被せてあり、そこに交通安全の文字が大きく描かれている。母親の願いを込めた交通安全の文字に身を守られながら、子供が道を歩いている。どこにでもある風景だが、心が休まるのは、コロナの感染者数が減って緊急事態宣言が解除される日も近い、という思いが頭をよぎるからだろう。子供の登校風景も、ラジオからの鯛飯の作り方の音声も、日常生活の何気ない話題であるが、今の時節では、宝のように輝いている。ただただ、嬉しく有難い。
車の静電気
からりと晴れた冬の季節は、空気が乾いている。そんな時には、車に触ると静電気が体の中を走る。そんな些細なことだが、どこか条件反射に似た学習をして、春になって湿度が高い時でも、車に触るのに怖さがあった。湿度が高ければ静電気は発生しない、空中に漏電するから、という科学的な知識は何も役に立たず、ただ子供のように恐れていたので、我ながら恥ずかしかった。コロナのお蔭で自宅勤務になると時間の余裕もあり、市内に買い物などで車で出かけることが多くなり、毎日のように車に乗っている内に、静電気のことを忘れてしまった。これも単純な条件反射の学習に過ぎないと分かっていても、ふと思った。車の静電気、あれは幻想だったのではないか、と。そんなことはないけれども、自分の脳が勝手に作り上げた幻想なのだ、と思った方が納得しやすい。思えば、この世のことは脳が作り出す幻想であり、幻聴なのかもしれない。秀吉が、浪花のことは夢のまた夢、と辞世の句を詠んだと言われるが、すべての出来事が幻想だったのではないか、と悟ったような気がする。自分の車は、ホンダNboxなので手で触れないと車のドアが開かない。あれは幻想だったかもしれないと思いながら、今日も運転するだろう。
