在宅勤務をしている人は、誰でもタイトルと同じ気持ちかもしれない。在宅勤務に慣れてきた。営業関係でどうしても人に会わないと仕事にならない方々には申し訳ないが、自分のような仕事は自宅でも事務所でも同じなので、仕事のパターンが決まると、自宅のほうが快適になる。それには、いくつかの条件があるのだろう、例えば、ネット環境、PC端末、個人部屋、書類などの環境であるが、自分には過ぎたような環境があり、感謝している。2階の書斎で、分析をしたり、文献を調べたり、メールをチェックしたり、本当にこれで仕事と呼べるのだろうか、といつも感じている。趣味と同じだと言うと世の中の人に怒られそうなので、口外はあまりしないが、デスクワークで研究に類した仕事をしている人は、たぶん同じ思いだろう。私は、自分の気持ちの動くまま、面白そうだと思うまま、これをやってみたいという、何か体の中から沸き起こってくる分身に誘われて、行動しているようだ。時に、面倒なことや煩わしいこともあるが、それはその沸き起こる分身に比べれば、まとわりつくゴミのような存在で、気にしなければよい。在宅勤務も捨てたものではない。また楽しからずや。
1日も早く営業の再開も
コロナ感染数からみて言いたいことは、政府と自治体に、5月14日には営業活動の再開を決めてもらいたい。金銭的な補償と、それも1日も早く支給して、そして活動する人々の笑顔を期待したい。笑顔のほうが先で、補償は後というと叱られそうだが、教育の視点からは、学びに向かう力が先で、思考力や知識は後だと思っている。知識や思考力は、意欲さえあれば後からいくらでもついてくることは、経験的にもよく知っている。学校ではあれほど嫌いだった勉強を、仕事についてから死ぬほど勉強したとか、あれほど難しかった理数科目がこんなに面白いとは、など大人になって述懐する話はよく耳にするし、先般のテレビでも見た。教科の学習など、記憶力や思考力など、先天的に決まっているものではなく、誰でも必要が迫れば、その気になれば、苦もないことである。海外で生活すれば、言葉など誰でも覚える。だから、人のやる気を押さえつけてはならない。笑顔があれば、日本経済は再生できるし、その気になれば、子供の勉強もすぐに追いつくが、経済も教育も、責任者が意思決定を遅らせ、無事に過ごすことだけを考えて、大人や子供のやる気を押さえつけている。1日も早く再開すべきである。5月14日に政府見解を発表すると報道しているので、是非応援したい。外野の無責任な声は無視していただいて進んでいただきたい。一般に専門家も安全という数値だけで意思決定するので、やる気とか笑顔とかの効果については、たぶんご存知ではないだろうから。
1日も早く学校再開を
日本のコロナ感染は欧米と異なり、桁が違うくらい少ないし、現在の状況では確実に終息に向かっている。このことは何度もこのブログでも指摘した。もちろん専門家も政府の責任者もよく知っているが、日本人は、どうしても慎重、逃げ腰、安全策を取る傾向があり、チャンスを逃してしまう。この状況下では、世界では緊急事態を緩和する施策を既に出しているだろう。感染線者数はいつまで経っても無限に0に近づくだけであり、決して0になることはない。交通事故が決して0にならず、ネットセキュリティをいくら厳しくしても必ずトラブルが発生するのは、この世の出来事は、多くの要因が重なるので、確率的に起きるからである。1日も早く学校を再開すべきである。この世の多くの出来事は、意識が決定する。子供が十分に意識を持って通学し、学校が教室環境を工夫すれば、学校は再開できる。この長い休校措置によって、多くの子供たちに精神的・社会的犠牲を強いている。長い我慢は、必ず歪と大きな事故を起こす。石橋をたたくだけで事を終えるのではなく、会議の空気だけで事を決めるのではなく、相談するだけで過ぎるのを待つだけでなく、学校や教育委員会は、自分事として早急に意を決すべきである。万が一、事が生じれば、学校長や教育長が責任を取る、と腹をくくればいい。
元気をもらう
例年ならゴールデンウイークの最後とあって高速道路は大渋滞だが、今年はひっそりとしているらしい。しかし、子供は屈託がない。いつものように、はしゃいでいる。街で、マスクをして歌を歌っている若者がいる。自宅の前を、楽しそうに歩く人がいる。何事も無かったように、過ごす人たちがいる。それでいいのだ。困った顔をしても、何も意味がない。子供や若い人から元気をもらっている。生きておられるだけで、幸せを感じる。仕事をするだけで、有難いと思える。散歩をするだけで、道端の花や木々の若葉のみずみずしさに、心が洗われる。テレビでドラマを見るだけで、感動することがある。今は、自然から、仕事から、他人から、すべて他から元気をもらって生きている、そんな気がする。
コロナ禍の終息に向けて

1人の感染者が接触などによって他の何人に感染させるかが、もし2人であれば、この倍々ゲームが続けば、2人、4人、8人、16人となって、つまりネズミ算式に増えるので感染爆発が起きる。一休さんのとん知でもよく知られている。これが、逆に2分の1なら、4分の1、8分の1、16分の1のように急速に減少するので、コロナの感染は終息に向かうことは、誰でも分かる。感染者数の推移を見れば、この人数は、2分の1つまり0.5より大きいが、1以下であることは間違いない。このブログで何回も指摘したが、必ず近いうちに終息に向かうであろう。終息といっても、計算的には無限に0に近づくということなので、ある値以下で決める。それが例えば全国の1日の感染者数が50人以下などと決めれば、単純にはグラフの近似曲線を外挿すればいいので、2週間後くらいになる。しかし、この減少の傾きが緩やかなのが、少し気になる。5月4日の政府の発表のように、もう少し辛抱するしかないのかもしれない。もはや、都市封鎖(ロックダウン)とか感染爆発(オーバーシュート)という言葉を、専門家や自治体責任者らも言わなくなった。その用語は、欧米や中国のデジタル思考の考えであり、日本型のように国民の意識の変化に訴えるアナログ的な「要請」という考えとは、根本的に異なるのである。だから、感染爆発は起きないと、前にこのブログでも書いた。今、日本型の新型コロナウイルスとの戦いは成功に近づきつつある、と思う。
オンライン学習とメディア特性
オンライン学習と言っても、いろいろな種類がある。テレビ会議システムであるZoomのような同期型と、Googleやマイクロソフトなどが提供しているクラウド上の電子掲示板のような非同期型がある。どちらも有効なツールで、コロナ禍の影響で先生方も利用し始めたが、コロナ禍後も、このようなICTツールは活用されていくだろう。学校の先生方は、映像を見ながら音声で対話する同期型の経験は、これまでほとんど無かった。英語の授業や国際理解教育などの単元で、海外校と交流するツールとして用いられてきた程度であるが、今回のオンライン学習では日常的なツールになった。私も何度もZoomやTeamsなどを使って、会議、打ち合わせ、顔合わせをしている。身近なところでは、都内に住む子供や孫たちと定期的に顔合わせをしている。LINEともメールとも、もちろん電話や手紙とも違う。その違いは、顔が見え、声が聞こえ、双方向で、リアルだということだろう。普通の会話であれば、これで十分であり、これ以上のメディアはない。しかし、これが授業や学習のツールになると違ってくる。家族であっても、定期的になると話題が切れてしまうので、孫たち向けに問題やテーマを投げかけているが、これが難しい。飽きていることがすぐに分かるし、親や兄弟と別の話をし始めることもすぐ見える。リアルに表情が送信されることは有難いと同時に、情報量が多すぎて、どうしたらいいかと頭を常に刺激してくるのである。小学校の先生方の素晴らしさが身に染みた。一方、テーマや話題が孫たちの心を引き付けると、まるで飛び跳ねる魚の群れのように、画面が盛り上がる。親同士もテーマに入ってきて、3家族、合計10名の楽しい座談会になる。先生の腕の見せ所は、ここなのだと納得した。メディアはやはり道具であった。
オンライン学習とAttachment
Attachmentは愛着と訳される。タッチすることを意味しているので、例えば、大学付属病院とか付属小学校などの時、attachedの単語が使われる。英語の下手な私が書くのは気が引けるが、先の「オンライン学習とGRIT」で述べたHeckmanの研究プロジェクトで、ペリー地区の幼児教育におけるattachmentが注目されていた。母親が子供に寄り添って、絶えず随伴することで、子供は安心して活動できるということであるが、オンライン学習でも、このattachmentが重要になるだろう。発達段階に応じて、そのattachmentの仕方は異なるのは当然であり、常に物理的・身体的に側にいるのではなく、多分に心情的な意味が含まれている。オンラインで、先生は子供一人一人に声掛けをしてもらいたい。オンラインが無理なら電話で、電話が無理なら葉書でよい。物理的な手段にあまり意味はなく、多分に心情的なattachmentなのである。自分のような年配になっても、頼れる先生や先輩や肉親を思い出せば、そのattachmentを感じて、元気をもらうことがある。両親は既に亡くなったが、どうにもならない時、放り出したい時、劣等感に包まれて落ち込んだ時、怒りたい時、我慢しなければならない時、思いだすだけで、安心感に包まれる。まだ大丈夫、なんとかなる、俺は守られている、やってみよう、という気持ちになる。自宅で学習しなければならない世界中の膨大な数の子供たちが、先生方のattachmentを待っている。子供たちへの声掛けを待っている。
オンライン学習とGRIT
Heckman教授は、就学前の幼児教育の経験が、その後の40歳における人生の成功者になるかどうかに、大きく寄与していることを証明した「ペリー就学前プロジェクト」の研究で、2000年のノーベル経済学賞を受賞したことで良く知られているが、その研究結果が、認知的な学力よりも、やり抜く力、頑張る力、壁を乗り越える力のような非認知的スキルが重要な役割を果たしたことで、世界中に非認知的能力(スキル)が広がった。そのスキルを尺度化したのがGRITであるが、オンライン学習にはGRITのような、やり抜く力、頑張る力が必要になることは、賛同してもらえるだろう。私が心配するのは、コロナ禍後の認知的学力、精神的社会的な非認知的スキルの格差である。つまり、学力面、精神的なストレス、親や先生や友達とのコミュニケーションの社会的スキル、などで学校への復帰時における格差のことである。このコロナ禍の期間、置いてきぼりになった子供、家庭が見守った子供、教員がオンラインでケアした子供、友達同士でコミュニケーションした子供などによって、大きな差が出てくると予想される。もし学校に復帰できない子供が大多数に達したら、それは大人の、社会の責任である。オンラインだけでは子供を救うことはできない。オンラインは手段であるから、それを生かすも殺すも人であり、そこに学校の存在価値がある。Heckman の40年研究(ペリーはアメリカの地域の名前)で実証したように、ペリー地区で置いてきぼりになった子供は、40年後には人生の敗北者になる割合が高かった。同じ事が起きる可能性もある。オンラインでもいいので、一刻も早く、すべての学校が手を差し伸べなければならない。
オンライン学習
今、オンライン学習が全国で展開されている、というより全世界で実施されている。世界規模の壮大な教育実験とでも呼ぶべき現象である。自宅勤務と同じように、子供たちも家庭学習を余儀なくされている。オンラインの時間割を作っているか、オンラインできちんと学習できているか、オンラインで集中して取り組んでいるか、オンラインで満足しているか、と問われれば、かなり難しいと誰でも予想するだろう。先生がいて、声掛けしてくれて、クラスメートがいて、給食があって、時間割があって、体育館があって、という学校中心の教育とは、質的に異なる。子供たちも親も、思えば学校は、友達も、部活も、先生も、体育も、給食も好きなことだけではなかったが、その葛藤の中で生きてきた、それがリアルな世界だった、と気が付くのではないか。自宅に閉じこもる生活の中では、オンラインで外の世界とつながっても、学力面だけではなく、精神的・社会的にも、伸びないだろう。コロナ禍後には、大きな格差を生むだろう。一刻も早く、子供たちを学校に戻すべきである。9月入学などは、拙速の議論である。
楽しく我慢する
我慢することが、コロナ禍にあるこの時期では、国民の精神的支柱のような役割を果たしている。何かスポーツ根性か、戦時の「欲しがりません、勝つまでは」の標語を思い出させる。戦時のことは知らないが、精神状態では似ているかもしらない。しかし、人はずっと我慢できるものだろうか。禅の修行僧は過酷な修業をするので我慢の達人のような気がするが、文献を読むと、どこかで吹っ切れると言う。我慢という状態から抜け出してもっと自由な心境になるらしい。それは、スポーツでも学習でも仕事でも同じではないだろうか。ジョギングをしていると、始めは苦しくしばらくはその苦しさが続くが、やがて壁を乗り越える時が来て、気持ちが平衡状態に達してそのままゴールにたどり着く。途中で休憩すると、その次の走りがまた苦しくなる、というような経験を誰もしていると思う。仕事でも似た傾向があり、始めは何も分からず、どこから手を付けていいいのか、投げ出したくなる時もあるが、やがてコツを掴む、知らない内に時間が経って成果が見え始めると、充実感があって心が満たされる。自分へのご褒美に、コーヒーの1杯でも飲みたくなるが、そんな経験を誰でもしているだろう。とすれば、コロナ禍の時期を問わず、人は我慢の中で生き、我慢の中で喜びを見出し、スポーツ、勉強、仕事、日常生活のすべてにおいて、見方を変えれば、我慢を楽しんでいるとも思える。どうせコロナ禍の時期を過ごすなら、暗い顔ではなく晴れやかな顔で、楽しみたい。
