SNSを正しく使う

このブログも継続することが必要だが、現実は難しいこともある。緊急事態宣言が解除されて少し余裕がでてきたか、街にも人や車が多く出るようになって、仕事も活発化したようだ。遠隔会議もかなり多く開催されるようになって、なかなかブログを書く時間が難しくなった。ブログなので何かの記録であり、日記のように自分を振り返ることだが、今は特に振り返ることもなく、これを平凡と言うならいつまでも平凡でいたい。SNSでタレントなどを誹謗中傷することで事件が起きたが、これに対して厳しい批判が出ているが、まったく同感である。世間に知られることで仕事をする人は、どこかそれも仕事の内と思っているかもしれないが、心中は悲憤の塊だろう。自分から文句を言えない立場の人には、心から同情する。人はいつまでも他人にやさしくありたいが、それがSNSなどの匿名になった途端、真逆の言葉を発する人が多いのは、まだ我々が人間として成熟していないからだろうと思う。いや、武士の生き方を知るにつけて、むしろ人間としての成熟さは退行している。もちろん、自分も含めて自戒の言葉である。

慣れると戻れない

自宅勤務になって以来、電車で通勤して対面で会議をすると思うと、正直にしんどい。営業活動に従事している方々には、誠に申し訳ないが、今の自分には自宅勤務が慣れてしまって、戻るのが困難である。通勤時間の節約、時間だけでなく精神的身体的にも楽になったことが、元に戻れない心境にさせている。自宅にいると自由に仕事ができる、時間がかなり自由になる、原稿が書ける、とっさの用事を入れられる、計画通りでなくてよい、内容によるが会議の途中でも別件にも手が出せるなど、ともかく自由なのである。この自由さを体験すると、体が覚えてしまう。何度も言うが、対面で人に会うのが仕事の人にはすまないが、自分には自宅勤務のほうが合っている。その気持ちは、自分が所属する団体の職員にも言えるようで、当面は遠隔会議を維持することになった。有難いことである。このコロナ禍によって、世に中の仕事の仕方、学校の在り方、コミュニケーションの仕方、テクノロジーへの認識、家庭での生活と仕事の仕方など、すべて変わっていくような気がする。新しい生活様式と言えばその通りだが、それによって適応できる仕事とそうでない仕事の間に格差が生まれることも確かであろう。頭の痛いところであるが、しばらくは自分はこのままでお許しいただきたい。

自慢と落とし穴

昨日のブログで、自己PRをして反省した。書評をしながら自説を述べるのは初めてだったので、少し自慢したかったのだろう。私も読書が好きなことは確かだが、世の中には星の数ほど読書好きで文章達者な人がいる。そんなことは承知だが、つい自慢したくなるのが年寄りの癖かもしれない。努力してもなかなか思うレベルに達しないことを思えば、いくら年をとっても若輩者である。コロナ禍との戦いはまだとは言っても、世界的に見れば日本は不思議なくらい感染者数も死亡者数も少ないことは、国の為政者は自慢してもいいと思うが、そこが上に立つ人のつらいところで、安倍内閣の支持率が低いようだ。我が料簡の狭さに比べれば、雲泥の差で、日本の為政者は謙虚さを絵に描いたような気がする。中国米国は当然ながら韓国なども自国の自慢ばかりで、外から見ると自己顕示欲の塊のような国だと思うが、自分だけだろうか。日本のコロナ禍への対応は大成功だが政府の支持率が低いのは、マスコミなどが叩くばかりで褒めることがないからだと言うと、たぶん誰も賛同しないだろう。国の行く末を預かる責任者とはそういうものかもしれない、と思いながら、陰ながら拍手を送っている。自分のことは棚に上げてであるが、日本は世界に向けてもっと自慢してもいいのではないか。ただ自慢の後に落とし穴が待っていることも多いので、これまで多くの政治家がそれで地位を失った。そのことは政治の世界だけでなく、世の中で活躍している人々や、市井で暮らす人々、すべてに通じることかもしれない。もちろん、自分も自戒をこめて心に刻んでおく。

日本経済新聞2020/5/23

今日は、自己PRである。日経新聞の今日5月23日土曜の朝刊に、今を読み解く、という読書欄があり、そこに依頼原稿が掲載された。編集者が付けたタイトルは、広がるかオンライン学習、サブタイトルは、コロナ禍で脚光AIで進化、と読者の目を引きやすい。内容は、4冊の書籍を紹介しながら、自説を述べると言うスタイルで、私もいろいろな本を読んだ。これまで本を読むというより、論文を読むほうになじんでいたが、書籍の紹介も兼ねるとなれば、きちんと読むしかなく、幸いコロナ禍で自宅勤務だったので誰にも気兼ねなく読書ができた。職場で単行本を読むのは気が引けるが、自宅であれば夏休みに好きな読書をしているような風情があって、この上ない快適な時間であった。自分も読書が人並みに好きで、ほとんどが電車の中だったが、誰も経験があるように下車するのが惜しいような気持ちになる。電車の中で読む本は、専門書よりも例えば藤沢周平の武家物などのような小説がほとんどだった。ある時、といっても20年も前になると思うが、今でも忘れない、アラスカ物語、を電車の中で読んでいて、それでも朝早く8時前には研究室に着いたが、どうしても続きが読みたくてしばらく読んでいたが、研究室で専門書以外の本を趣味で読んでいる自分が嫌になって、それ以来小説類の本は読まないように自分に禁止していた。それから私学に移ってから、小説も読んでいいと自分に許可して今日に至っている。読書すると、その本中の主人公の生き方に共鳴することが多く、作家の作風に応じて、自分の文章までも影響を受けるから、やはりすごいことだと思う。PISA2018で若者の読解力が低下したと報告しているが、本を読むことは趣味のようなものなので、私には不思議な気がする。

オンライン会議と対話

毎日、オンライン会議が開かれている。理事会のような正式の会議もあれば、気楽な打ち合わせもあるが、ともかく通勤時間が節約できる素晴らしい贈り物で、振り返ってみれば、自分の場合は往復3時間以上も意味のない時間を使っていたことになる。意味のないと書いたが、文字通り意味がなく、電車が混んでいれば精神的にも身体的にも強いストレスを受けて、ただただ我慢の時間であった。電車通勤から逃れるだけで、意味がある。対面では、目に見えない周りの空気が影響を与えて、全体に合わせるという日本流の忖度が作用して、遠慮がちにモノを言う経験は、誰でもしているだろう。画面に向かえば、基本的に自分とPCだけであり、PCの向こうの人と、つまりデジタル画像と話しているので、むしろ言いたいことが言いやすい。SNSやメールのほうが対話の壁が低いことは、研究的にも実践的も明らかにされている。それが、学校ではネットいじめにつながることもあれば、通勤地獄から解放されて自由な会議ができる果報をもたらす道具にもなる。使い方次第である、というより、コミュニティーの暗黙的なルールやメンバーの特性によるものだろう。言い換えれば、情報活用能力と呼んでもよい。今日も、3つのオンライン会議がある。忙しさはやはり変わらないようだ。

日常生活へ戻る

朝、用事があって車で市内を走った。車のラジオから地方の料理の話が聞こえてくる。ふと前を見ると、ランドセルを背負った小さな子供が親と一緒に歩いている。学校は確か6月1日からだと思うので、臨時登校日なのだろうか。小学校1年生のような感じで、ピカピカのランドセルにビニールが被せてあり、そこに交通安全の文字が大きく描かれている。母親の願いを込めた交通安全の文字に身を守られながら、子供が道を歩いている。どこにでもある風景だが、心が休まるのは、コロナの感染者数が減って緊急事態宣言が解除される日も近い、という思いが頭をよぎるからだろう。子供の登校風景も、ラジオからの鯛飯の作り方の音声も、日常生活の何気ない話題であるが、今の時節では、宝のように輝いている。ただただ、嬉しく有難い。

車の静電気

からりと晴れた冬の季節は、空気が乾いている。そんな時には、車に触ると静電気が体の中を走る。そんな些細なことだが、どこか条件反射に似た学習をして、春になって湿度が高い時でも、車に触るのに怖さがあった。湿度が高ければ静電気は発生しない、空中に漏電するから、という科学的な知識は何も役に立たず、ただ子供のように恐れていたので、我ながら恥ずかしかった。コロナのお蔭で自宅勤務になると時間の余裕もあり、市内に買い物などで車で出かけることが多くなり、毎日のように車に乗っている内に、静電気のことを忘れてしまった。これも単純な条件反射の学習に過ぎないと分かっていても、ふと思った。車の静電気、あれは幻想だったのではないか、と。そんなことはないけれども、自分の脳が勝手に作り上げた幻想なのだ、と思った方が納得しやすい。思えば、この世のことは脳が作り出す幻想であり、幻聴なのかもしれない。秀吉が、浪花のことは夢のまた夢、と辞世の句を詠んだと言われるが、すべての出来事が幻想だったのではないか、と悟ったような気がする。自分の車は、ホンダNboxなので手で触れないと車のドアが開かない。あれは幻想だったかもしれないと思いながら、今日も運転するだろう。

一週間が始まる

今日は月曜日、これから一週間が始まる。遠隔動画システムで、会議や研究会などがいくつもあって、自宅でも勤務には変わりないので、始まる前、つまり今の心境は多少緊張するが、振り返ってみると、会議の時間になると気持ちがそこに集中して、脳全体が染まっていく。今は、先週の出来事が脳に残像のように映し出されて、やり残したこと、感じたことなどが、浮き上がってくる。昨日読んだ文献で心に響くような内容があって、脳の半分くらいを占めている感じで、いつまでも布団から離れられない寝起きの悪い状態に似ている。しかし、今日は月曜日だ、いくつもの会議が待っている、いくつかの議題も検討しなければならない、今週は所属する団体の理事会がある、などを思うと、始まる、ということはしんどいことだとも思う。なかなか凡人には、始めにくいのである。だから、始めるためには、過去のことを捨てなければならない。捨てるために、机の前にある窓側の棚に白紙を張って、そこに今日の予定をポストイットで貼って、常に見れるようにしている。会議が終われば、そのポストイットをはがしていくのであるが、それは、1つ1つの活動を捨てることの動作でもある。さて、先週のことは捨てて、今週に向かって始めるか、と目の前の張り紙を見る。

stay homeとgo out

コロナ禍の嵐が砂浜の潮が引くように、過ぎ去ろうとしている。有難いことである。私は5月20日くらいに全国で50名以下が続いて落ち着くだろうという予測をブログで紹介した。素人が予測しても意味はないが、私の気がかりは、何度も書いたが、この間の子供たちの精神的・社会的な影響である。stay home は、まるで引きこもりを促進するような標語である。先生の言うことを良く聞く素直な子供は、実行しようとするだろう。しかし、大きな落とし穴が待っていることは、誰でも気づくだろう。stay homeを掲げる自治体責任者自身が守れるはずもなく、私自身も真面目に守る気持ちはない。その意図は、密を避けることであり、人との接触を避けることなので、表に出て公園に行って広々したところで、太陽を浴びさわやかな風に身をゆだね、新鮮な気持ちになるほうが、休校や自宅勤務の過ごし方としてよほど優れている。つまりgo outのほうが良い。当然ながら、パチンコ店や飲み屋などは最も密な場所だから、そこにgo outと言ってるわけではない。数字だけにこだわる専門家や自治体責任者は、生活者の声が聞こえないようだ。子供たちの、ストレスでどうにかなってしまう、受験はどうなるのか不安でたまらない、家の中だけでイライラしてしまう、という声が聞こえぬか。もちろん、分かっている、感染者数を押さえ命を守る方が大切だと言うだろうが、表面しか見えていない。コロナ感染者数は、前にも指摘したように決して0にはならない。同じ生命体として共存するしかないのだ。とすれば、その代償を最小に抑える方針を立てて、知恵を絞るべきだ。欧米諸国の真似をしてキャッチ―な言葉が人を動かすと勘違いしている。

若者たちの取り組み

久しぶりに若者たちの熱いプレゼンを聞いた。ある団体の審査会であるが、医療を生涯の仕事として情熱を燃やす医学生とそこを目指す高校生が運営するボランティア団体の取り組みの発表であり、自分はその審査を受け持った。書類審査の時から注目したが、プレゼンでさらに引き付けられた。職業に貴賤はないが、医療は特に人の命を預かる仕事として、多くの人から期待され、尊敬され、どこか憧れのような存在感を持つ仕事だろう。もちろん医学部に入学することは難関だから、頭の良い高校生をイメージするので、机にしがみついていて、どこか冷たい目線をした優等生のような偏見を持つ人も多いだろう。そのような偏狭な考えを払拭するかのような、さわやかな発表と、この仕事にかけたいという気持ちが伝わってきた。医学生は相当に忙しい、勉強と臨床で寝る間を削って、という言葉が誇張ではない生活の中で、この無報酬のボランティア活動をする時間をどうやって生み出すのか、という私の平凡な質問に対して、活動が楽しいから、役立つことが嬉しいから、という答えが返ってきた。今も昔も、このような若者がいたことで、嬉しくなった。人に役立つなら、自分のことは棚に上げて、という奉仕の言葉は死語かと思っていたら、生きていた。コロナ禍の中で、担当する医師や看護婦は文字通り睡眠時間を削っているが、彼らを動かしているのは、人に役立つという気持からだということが、素直にうなづける。自分もせめて一歩でも近づきたい。