今日は月曜日、これから一週間が始まる。遠隔動画システムで、会議や研究会などがいくつもあって、自宅でも勤務には変わりないので、始まる前、つまり今の心境は多少緊張するが、振り返ってみると、会議の時間になると気持ちがそこに集中して、脳全体が染まっていく。今は、先週の出来事が脳に残像のように映し出されて、やり残したこと、感じたことなどが、浮き上がってくる。昨日読んだ文献で心に響くような内容があって、脳の半分くらいを占めている感じで、いつまでも布団から離れられない寝起きの悪い状態に似ている。しかし、今日は月曜日だ、いくつもの会議が待っている、いくつかの議題も検討しなければならない、今週は所属する団体の理事会がある、などを思うと、始まる、ということはしんどいことだとも思う。なかなか凡人には、始めにくいのである。だから、始めるためには、過去のことを捨てなければならない。捨てるために、机の前にある窓側の棚に白紙を張って、そこに今日の予定をポストイットで貼って、常に見れるようにしている。会議が終われば、そのポストイットをはがしていくのであるが、それは、1つ1つの活動を捨てることの動作でもある。さて、先週のことは捨てて、今週に向かって始めるか、と目の前の張り紙を見る。
stay homeとgo out
コロナ禍の嵐が砂浜の潮が引くように、過ぎ去ろうとしている。有難いことである。私は5月20日くらいに全国で50名以下が続いて落ち着くだろうという予測をブログで紹介した。素人が予測しても意味はないが、私の気がかりは、何度も書いたが、この間の子供たちの精神的・社会的な影響である。stay home は、まるで引きこもりを促進するような標語である。先生の言うことを良く聞く素直な子供は、実行しようとするだろう。しかし、大きな落とし穴が待っていることは、誰でも気づくだろう。stay homeを掲げる自治体責任者自身が守れるはずもなく、私自身も真面目に守る気持ちはない。その意図は、密を避けることであり、人との接触を避けることなので、表に出て公園に行って広々したところで、太陽を浴びさわやかな風に身をゆだね、新鮮な気持ちになるほうが、休校や自宅勤務の過ごし方としてよほど優れている。つまりgo outのほうが良い。当然ながら、パチンコ店や飲み屋などは最も密な場所だから、そこにgo outと言ってるわけではない。数字だけにこだわる専門家や自治体責任者は、生活者の声が聞こえないようだ。子供たちの、ストレスでどうにかなってしまう、受験はどうなるのか不安でたまらない、家の中だけでイライラしてしまう、という声が聞こえぬか。もちろん、分かっている、感染者数を押さえ命を守る方が大切だと言うだろうが、表面しか見えていない。コロナ感染者数は、前にも指摘したように決して0にはならない。同じ生命体として共存するしかないのだ。とすれば、その代償を最小に抑える方針を立てて、知恵を絞るべきだ。欧米諸国の真似をしてキャッチ―な言葉が人を動かすと勘違いしている。
若者たちの取り組み
久しぶりに若者たちの熱いプレゼンを聞いた。ある団体の審査会であるが、医療を生涯の仕事として情熱を燃やす医学生とそこを目指す高校生が運営するボランティア団体の取り組みの発表であり、自分はその審査を受け持った。書類審査の時から注目したが、プレゼンでさらに引き付けられた。職業に貴賤はないが、医療は特に人の命を預かる仕事として、多くの人から期待され、尊敬され、どこか憧れのような存在感を持つ仕事だろう。もちろん医学部に入学することは難関だから、頭の良い高校生をイメージするので、机にしがみついていて、どこか冷たい目線をした優等生のような偏見を持つ人も多いだろう。そのような偏狭な考えを払拭するかのような、さわやかな発表と、この仕事にかけたいという気持ちが伝わってきた。医学生は相当に忙しい、勉強と臨床で寝る間を削って、という言葉が誇張ではない生活の中で、この無報酬のボランティア活動をする時間をどうやって生み出すのか、という私の平凡な質問に対して、活動が楽しいから、役立つことが嬉しいから、という答えが返ってきた。今も昔も、このような若者がいたことで、嬉しくなった。人に役立つなら、自分のことは棚に上げて、という奉仕の言葉は死語かと思っていたら、生きていた。コロナ禍の中で、担当する医師や看護婦は文字通り睡眠時間を削っているが、彼らを動かしているのは、人に役立つという気持からだということが、素直にうなづける。自分もせめて一歩でも近づきたい。
人は慣れる
ここ数日間、久しぶりに自宅から都心に仕事で出かけた。1か月以上も自宅勤務を経験すると、それが日常になり、電車に乗ることに違和感があった。事務的な仕事、委員会、審査会など様々な仕事を終えて、帰りの電車に乗る頃は、魚釣りで糸を引く感覚に似た手ごたえが昼間の活動にあって、元の顔と気持ちに戻っていた。お風呂に入って夕ご飯を食べる頃、少ししか飲めないアルコールを喉に流しながら、家内と雑談をしながらテレビを眺めている、くつろぎのひと時があった。考えてみれば、自宅勤務になった時も、同じような違和感とくつろぎがあった。長い休み、といっても休みでは無い日々、仕事場は2階にある書斎なので、これから出勤します、と言って2階に行く、その毎日が重なると、それが日常になって、体に染み込んでくる。人は、慣れる動物らしい。だから、生きていけるのだろう。都心への出勤になれば、一応スーツを着てカバンを持って駅まで歩いていき、その途中で近所の人や道端の野花や川の流れや建築中の家や、ゴミ収集所や床屋や花屋や、数えれば切りがないほどの自然や人や建物に出会う。そんな毎日が、少し変わって自宅勤務になると、服装もお昼ご飯も気持ちも変わってくるが、いつのまにかそれで満たされている。コロナ禍もあまり心配することもないのだ。どんな事態でもあっても、人は慣れるという天から与えられた能力と知恵で、時に緊張したり喜んだり不平を言ったり安らぎを感じたりしながら、日常という日々を送ることができる。平凡だが、日常とは有り難いことである。
すさぶ気持ち
ネット注文する人が増えたのか、商品を配達する人が忙しそうだ。この時節に、自分は在宅勤務なのに、申し訳ない気持ちで商品を受け取るが、配達する人の気持ちは複雑で、手を触れないまでも、至近距離で商品を渡すので、明らかに嫌な顔をされたり、まるでウイルスを持ってきたのではないか、という目で見られると言う。日本人の心が、どこかすさんでいる。かつて、学校でいじめが出た頃、あいつはバイキンだという言葉が流行り、相手を差別し、除け者にしたと言う。同じ現象が今、起きている。配達人はウイルスだということと同じで、大人のいじめである。家の中にいる期間が長くなると、家庭内でも相手の嫌なことばかり目につき、家庭内DVが起きる、それが子供に反映し、親の言うことを聞かなくなる、相手をどこか疑いの目で見るようになる、そんなすさんだ気持ちが徐々に日本中を覆い始めた。こんなことを続けてはいけない。仮にコロナウイルスに感染しても病院に駆け込む、いづれ医療薬ができる、という対処ができるが、すさんだ気持ちの生活は、対処が難しく後々まで尾を引くので、もっと怖い。風邪にかかるより、うつ病になるほうが怖い、と同じである。どうすればいいのか、一刻も早く、学校を再開し、営業活動を再開し、前の状態に戻すことだ。人は、環境でなんとかなる。環境が変われば、気持ちも変わる。今できることなら、外に出よう、青空を眺め、光を浴び、深い緑の葉っぱと色鮮やかな花を見て、なんと気持ちがいいだろうと思うだけで、未来に希望が湧いてくる。まだまだ大丈夫。
9月入学の議論
テレビで9月入学の議論をしていて、視聴した。このままでいけば、都道府県によっても市町村によっても、子供の学力格差が開くという考えは、たぶんその通りだろう。だから9月まで延長し、かつ9月入学に教育制度を変えるという議論がされていた。もし9月入学にすれば、すべてが都合が良い、という都合論に傾いていた。しかし、その中で1人だけ若い女性が、あるべき姿は何か、から考えて慎重であるべきだという論に、傾聴したと同時に敬服した。都合論とは、現状から考え、現状の問題解決の方法論だが、あるべき論は、本質から考え、未来を考える思考法である。思考法が、逆なのである。9月入学という大きな制度改革は、当然ながら本質論で考えなければならない。未来の子供たち、未来の日本の方向を決めるのである。その若い女性のことを知らなかったので、家内に聞いたら、海外留学の経験があると言う。そうか、と納得した。これからの日本の教育の姿は、この若い女性のような、場当たり的ではなく、場の空気に流されることなく、芯まで届くような透き通るような論理的な思考ができる子供たちを育成することだと感じた。本質を語る姿は、どこか美しい。
在宅勤務も楽しからずや
在宅勤務をしている人は、誰でもタイトルと同じ気持ちかもしれない。在宅勤務に慣れてきた。営業関係でどうしても人に会わないと仕事にならない方々には申し訳ないが、自分のような仕事は自宅でも事務所でも同じなので、仕事のパターンが決まると、自宅のほうが快適になる。それには、いくつかの条件があるのだろう、例えば、ネット環境、PC端末、個人部屋、書類などの環境であるが、自分には過ぎたような環境があり、感謝している。2階の書斎で、分析をしたり、文献を調べたり、メールをチェックしたり、本当にこれで仕事と呼べるのだろうか、といつも感じている。趣味と同じだと言うと世の中の人に怒られそうなので、口外はあまりしないが、デスクワークで研究に類した仕事をしている人は、たぶん同じ思いだろう。私は、自分の気持ちの動くまま、面白そうだと思うまま、これをやってみたいという、何か体の中から沸き起こってくる分身に誘われて、行動しているようだ。時に、面倒なことや煩わしいこともあるが、それはその沸き起こる分身に比べれば、まとわりつくゴミのような存在で、気にしなければよい。在宅勤務も捨てたものではない。また楽しからずや。
1日も早く営業の再開も
コロナ感染数からみて言いたいことは、政府と自治体に、5月14日には営業活動の再開を決めてもらいたい。金銭的な補償と、それも1日も早く支給して、そして活動する人々の笑顔を期待したい。笑顔のほうが先で、補償は後というと叱られそうだが、教育の視点からは、学びに向かう力が先で、思考力や知識は後だと思っている。知識や思考力は、意欲さえあれば後からいくらでもついてくることは、経験的にもよく知っている。学校ではあれほど嫌いだった勉強を、仕事についてから死ぬほど勉強したとか、あれほど難しかった理数科目がこんなに面白いとは、など大人になって述懐する話はよく耳にするし、先般のテレビでも見た。教科の学習など、記憶力や思考力など、先天的に決まっているものではなく、誰でも必要が迫れば、その気になれば、苦もないことである。海外で生活すれば、言葉など誰でも覚える。だから、人のやる気を押さえつけてはならない。笑顔があれば、日本経済は再生できるし、その気になれば、子供の勉強もすぐに追いつくが、経済も教育も、責任者が意思決定を遅らせ、無事に過ごすことだけを考えて、大人や子供のやる気を押さえつけている。1日も早く再開すべきである。5月14日に政府見解を発表すると報道しているので、是非応援したい。外野の無責任な声は無視していただいて進んでいただきたい。一般に専門家も安全という数値だけで意思決定するので、やる気とか笑顔とかの効果については、たぶんご存知ではないだろうから。
1日も早く学校再開を
日本のコロナ感染は欧米と異なり、桁が違うくらい少ないし、現在の状況では確実に終息に向かっている。このことは何度もこのブログでも指摘した。もちろん専門家も政府の責任者もよく知っているが、日本人は、どうしても慎重、逃げ腰、安全策を取る傾向があり、チャンスを逃してしまう。この状況下では、世界では緊急事態を緩和する施策を既に出しているだろう。感染線者数はいつまで経っても無限に0に近づくだけであり、決して0になることはない。交通事故が決して0にならず、ネットセキュリティをいくら厳しくしても必ずトラブルが発生するのは、この世の出来事は、多くの要因が重なるので、確率的に起きるからである。1日も早く学校を再開すべきである。この世の多くの出来事は、意識が決定する。子供が十分に意識を持って通学し、学校が教室環境を工夫すれば、学校は再開できる。この長い休校措置によって、多くの子供たちに精神的・社会的犠牲を強いている。長い我慢は、必ず歪と大きな事故を起こす。石橋をたたくだけで事を終えるのではなく、会議の空気だけで事を決めるのではなく、相談するだけで過ぎるのを待つだけでなく、学校や教育委員会は、自分事として早急に意を決すべきである。万が一、事が生じれば、学校長や教育長が責任を取る、と腹をくくればいい。
元気をもらう
例年ならゴールデンウイークの最後とあって高速道路は大渋滞だが、今年はひっそりとしているらしい。しかし、子供は屈託がない。いつものように、はしゃいでいる。街で、マスクをして歌を歌っている若者がいる。自宅の前を、楽しそうに歩く人がいる。何事も無かったように、過ごす人たちがいる。それでいいのだ。困った顔をしても、何も意味がない。子供や若い人から元気をもらっている。生きておられるだけで、幸せを感じる。仕事をするだけで、有難いと思える。散歩をするだけで、道端の花や木々の若葉のみずみずしさに、心が洗われる。テレビでドラマを見るだけで、感動することがある。今は、自然から、仕事から、他人から、すべて他から元気をもらって生きている、そんな気がする。
