日本経済新聞2020/5/23

今日は、自己PRである。日経新聞の今日5月23日土曜の朝刊に、今を読み解く、という読書欄があり、そこに依頼原稿が掲載された。編集者が付けたタイトルは、広がるかオンライン学習、サブタイトルは、コロナ禍で脚光AIで進化、と読者の目を引きやすい。内容は、4冊の書籍を紹介しながら、自説を述べると言うスタイルで、私もいろいろな本を読んだ。これまで本を読むというより、論文を読むほうになじんでいたが、書籍の紹介も兼ねるとなれば、きちんと読むしかなく、幸いコロナ禍で自宅勤務だったので誰にも気兼ねなく読書ができた。職場で単行本を読むのは気が引けるが、自宅であれば夏休みに好きな読書をしているような風情があって、この上ない快適な時間であった。自分も読書が人並みに好きで、ほとんどが電車の中だったが、誰も経験があるように下車するのが惜しいような気持ちになる。電車の中で読む本は、専門書よりも例えば藤沢周平の武家物などのような小説がほとんどだった。ある時、といっても20年も前になると思うが、今でも忘れない、アラスカ物語、を電車の中で読んでいて、それでも朝早く8時前には研究室に着いたが、どうしても続きが読みたくてしばらく読んでいたが、研究室で専門書以外の本を趣味で読んでいる自分が嫌になって、それ以来小説類の本は読まないように自分に禁止していた。それから私学に移ってから、小説も読んでいいと自分に許可して今日に至っている。読書すると、その本中の主人公の生き方に共鳴することが多く、作家の作風に応じて、自分の文章までも影響を受けるから、やはりすごいことだと思う。PISA2018で若者の読解力が低下したと報告しているが、本を読むことは趣味のようなものなので、私には不思議な気がする。

オンライン会議と対話

毎日、オンライン会議が開かれている。理事会のような正式の会議もあれば、気楽な打ち合わせもあるが、ともかく通勤時間が節約できる素晴らしい贈り物で、振り返ってみれば、自分の場合は往復3時間以上も意味のない時間を使っていたことになる。意味のないと書いたが、文字通り意味がなく、電車が混んでいれば精神的にも身体的にも強いストレスを受けて、ただただ我慢の時間であった。電車通勤から逃れるだけで、意味がある。対面では、目に見えない周りの空気が影響を与えて、全体に合わせるという日本流の忖度が作用して、遠慮がちにモノを言う経験は、誰でもしているだろう。画面に向かえば、基本的に自分とPCだけであり、PCの向こうの人と、つまりデジタル画像と話しているので、むしろ言いたいことが言いやすい。SNSやメールのほうが対話の壁が低いことは、研究的にも実践的も明らかにされている。それが、学校ではネットいじめにつながることもあれば、通勤地獄から解放されて自由な会議ができる果報をもたらす道具にもなる。使い方次第である、というより、コミュニティーの暗黙的なルールやメンバーの特性によるものだろう。言い換えれば、情報活用能力と呼んでもよい。今日も、3つのオンライン会議がある。忙しさはやはり変わらないようだ。

日常生活へ戻る

朝、用事があって車で市内を走った。車のラジオから地方の料理の話が聞こえてくる。ふと前を見ると、ランドセルを背負った小さな子供が親と一緒に歩いている。学校は確か6月1日からだと思うので、臨時登校日なのだろうか。小学校1年生のような感じで、ピカピカのランドセルにビニールが被せてあり、そこに交通安全の文字が大きく描かれている。母親の願いを込めた交通安全の文字に身を守られながら、子供が道を歩いている。どこにでもある風景だが、心が休まるのは、コロナの感染者数が減って緊急事態宣言が解除される日も近い、という思いが頭をよぎるからだろう。子供の登校風景も、ラジオからの鯛飯の作り方の音声も、日常生活の何気ない話題であるが、今の時節では、宝のように輝いている。ただただ、嬉しく有難い。

車の静電気

からりと晴れた冬の季節は、空気が乾いている。そんな時には、車に触ると静電気が体の中を走る。そんな些細なことだが、どこか条件反射に似た学習をして、春になって湿度が高い時でも、車に触るのに怖さがあった。湿度が高ければ静電気は発生しない、空中に漏電するから、という科学的な知識は何も役に立たず、ただ子供のように恐れていたので、我ながら恥ずかしかった。コロナのお蔭で自宅勤務になると時間の余裕もあり、市内に買い物などで車で出かけることが多くなり、毎日のように車に乗っている内に、静電気のことを忘れてしまった。これも単純な条件反射の学習に過ぎないと分かっていても、ふと思った。車の静電気、あれは幻想だったのではないか、と。そんなことはないけれども、自分の脳が勝手に作り上げた幻想なのだ、と思った方が納得しやすい。思えば、この世のことは脳が作り出す幻想であり、幻聴なのかもしれない。秀吉が、浪花のことは夢のまた夢、と辞世の句を詠んだと言われるが、すべての出来事が幻想だったのではないか、と悟ったような気がする。自分の車は、ホンダNboxなので手で触れないと車のドアが開かない。あれは幻想だったかもしれないと思いながら、今日も運転するだろう。

一週間が始まる

今日は月曜日、これから一週間が始まる。遠隔動画システムで、会議や研究会などがいくつもあって、自宅でも勤務には変わりないので、始まる前、つまり今の心境は多少緊張するが、振り返ってみると、会議の時間になると気持ちがそこに集中して、脳全体が染まっていく。今は、先週の出来事が脳に残像のように映し出されて、やり残したこと、感じたことなどが、浮き上がってくる。昨日読んだ文献で心に響くような内容があって、脳の半分くらいを占めている感じで、いつまでも布団から離れられない寝起きの悪い状態に似ている。しかし、今日は月曜日だ、いくつもの会議が待っている、いくつかの議題も検討しなければならない、今週は所属する団体の理事会がある、などを思うと、始まる、ということはしんどいことだとも思う。なかなか凡人には、始めにくいのである。だから、始めるためには、過去のことを捨てなければならない。捨てるために、机の前にある窓側の棚に白紙を張って、そこに今日の予定をポストイットで貼って、常に見れるようにしている。会議が終われば、そのポストイットをはがしていくのであるが、それは、1つ1つの活動を捨てることの動作でもある。さて、先週のことは捨てて、今週に向かって始めるか、と目の前の張り紙を見る。

stay homeとgo out

コロナ禍の嵐が砂浜の潮が引くように、過ぎ去ろうとしている。有難いことである。私は5月20日くらいに全国で50名以下が続いて落ち着くだろうという予測をブログで紹介した。素人が予測しても意味はないが、私の気がかりは、何度も書いたが、この間の子供たちの精神的・社会的な影響である。stay home は、まるで引きこもりを促進するような標語である。先生の言うことを良く聞く素直な子供は、実行しようとするだろう。しかし、大きな落とし穴が待っていることは、誰でも気づくだろう。stay homeを掲げる自治体責任者自身が守れるはずもなく、私自身も真面目に守る気持ちはない。その意図は、密を避けることであり、人との接触を避けることなので、表に出て公園に行って広々したところで、太陽を浴びさわやかな風に身をゆだね、新鮮な気持ちになるほうが、休校や自宅勤務の過ごし方としてよほど優れている。つまりgo outのほうが良い。当然ながら、パチンコ店や飲み屋などは最も密な場所だから、そこにgo outと言ってるわけではない。数字だけにこだわる専門家や自治体責任者は、生活者の声が聞こえないようだ。子供たちの、ストレスでどうにかなってしまう、受験はどうなるのか不安でたまらない、家の中だけでイライラしてしまう、という声が聞こえぬか。もちろん、分かっている、感染者数を押さえ命を守る方が大切だと言うだろうが、表面しか見えていない。コロナ感染者数は、前にも指摘したように決して0にはならない。同じ生命体として共存するしかないのだ。とすれば、その代償を最小に抑える方針を立てて、知恵を絞るべきだ。欧米諸国の真似をしてキャッチ―な言葉が人を動かすと勘違いしている。

若者たちの取り組み

久しぶりに若者たちの熱いプレゼンを聞いた。ある団体の審査会であるが、医療を生涯の仕事として情熱を燃やす医学生とそこを目指す高校生が運営するボランティア団体の取り組みの発表であり、自分はその審査を受け持った。書類審査の時から注目したが、プレゼンでさらに引き付けられた。職業に貴賤はないが、医療は特に人の命を預かる仕事として、多くの人から期待され、尊敬され、どこか憧れのような存在感を持つ仕事だろう。もちろん医学部に入学することは難関だから、頭の良い高校生をイメージするので、机にしがみついていて、どこか冷たい目線をした優等生のような偏見を持つ人も多いだろう。そのような偏狭な考えを払拭するかのような、さわやかな発表と、この仕事にかけたいという気持ちが伝わってきた。医学生は相当に忙しい、勉強と臨床で寝る間を削って、という言葉が誇張ではない生活の中で、この無報酬のボランティア活動をする時間をどうやって生み出すのか、という私の平凡な質問に対して、活動が楽しいから、役立つことが嬉しいから、という答えが返ってきた。今も昔も、このような若者がいたことで、嬉しくなった。人に役立つなら、自分のことは棚に上げて、という奉仕の言葉は死語かと思っていたら、生きていた。コロナ禍の中で、担当する医師や看護婦は文字通り睡眠時間を削っているが、彼らを動かしているのは、人に役立つという気持からだということが、素直にうなづける。自分もせめて一歩でも近づきたい。

人は慣れる

ここ数日間、久しぶりに自宅から都心に仕事で出かけた。1か月以上も自宅勤務を経験すると、それが日常になり、電車に乗ることに違和感があった。事務的な仕事、委員会、審査会など様々な仕事を終えて、帰りの電車に乗る頃は、魚釣りで糸を引く感覚に似た手ごたえが昼間の活動にあって、元の顔と気持ちに戻っていた。お風呂に入って夕ご飯を食べる頃、少ししか飲めないアルコールを喉に流しながら、家内と雑談をしながらテレビを眺めている、くつろぎのひと時があった。考えてみれば、自宅勤務になった時も、同じような違和感とくつろぎがあった。長い休み、といっても休みでは無い日々、仕事場は2階にある書斎なので、これから出勤します、と言って2階に行く、その毎日が重なると、それが日常になって、体に染み込んでくる。人は、慣れる動物らしい。だから、生きていけるのだろう。都心への出勤になれば、一応スーツを着てカバンを持って駅まで歩いていき、その途中で近所の人や道端の野花や川の流れや建築中の家や、ゴミ収集所や床屋や花屋や、数えれば切りがないほどの自然や人や建物に出会う。そんな毎日が、少し変わって自宅勤務になると、服装もお昼ご飯も気持ちも変わってくるが、いつのまにかそれで満たされている。コロナ禍もあまり心配することもないのだ。どんな事態でもあっても、人は慣れるという天から与えられた能力と知恵で、時に緊張したり喜んだり不平を言ったり安らぎを感じたりしながら、日常という日々を送ることができる。平凡だが、日常とは有り難いことである。

すさぶ気持ち

ネット注文する人が増えたのか、商品を配達する人が忙しそうだ。この時節に、自分は在宅勤務なのに、申し訳ない気持ちで商品を受け取るが、配達する人の気持ちは複雑で、手を触れないまでも、至近距離で商品を渡すので、明らかに嫌な顔をされたり、まるでウイルスを持ってきたのではないか、という目で見られると言う。日本人の心が、どこかすさんでいる。かつて、学校でいじめが出た頃、あいつはバイキンだという言葉が流行り、相手を差別し、除け者にしたと言う。同じ現象が今、起きている。配達人はウイルスだということと同じで、大人のいじめである。家の中にいる期間が長くなると、家庭内でも相手の嫌なことばかり目につき、家庭内DVが起きる、それが子供に反映し、親の言うことを聞かなくなる、相手をどこか疑いの目で見るようになる、そんなすさんだ気持ちが徐々に日本中を覆い始めた。こんなことを続けてはいけない。仮にコロナウイルスに感染しても病院に駆け込む、いづれ医療薬ができる、という対処ができるが、すさんだ気持ちの生活は、対処が難しく後々まで尾を引くので、もっと怖い。風邪にかかるより、うつ病になるほうが怖い、と同じである。どうすればいいのか、一刻も早く、学校を再開し、営業活動を再開し、前の状態に戻すことだ。人は、環境でなんとかなる。環境が変われば、気持ちも変わる。今できることなら、外に出よう、青空を眺め、光を浴び、深い緑の葉っぱと色鮮やかな花を見て、なんと気持ちがいいだろうと思うだけで、未来に希望が湧いてくる。まだまだ大丈夫。

9月入学の議論

テレビで9月入学の議論をしていて、視聴した。このままでいけば、都道府県によっても市町村によっても、子供の学力格差が開くという考えは、たぶんその通りだろう。だから9月まで延長し、かつ9月入学に教育制度を変えるという議論がされていた。もし9月入学にすれば、すべてが都合が良い、という都合論に傾いていた。しかし、その中で1人だけ若い女性が、あるべき姿は何か、から考えて慎重であるべきだという論に、傾聴したと同時に敬服した。都合論とは、現状から考え、現状の問題解決の方法論だが、あるべき論は、本質から考え、未来を考える思考法である。思考法が、逆なのである。9月入学という大きな制度改革は、当然ながら本質論で考えなければならない。未来の子供たち、未来の日本の方向を決めるのである。その若い女性のことを知らなかったので、家内に聞いたら、海外留学の経験があると言う。そうか、と納得した。これからの日本の教育の姿は、この若い女性のような、場当たり的ではなく、場の空気に流されることなく、芯まで届くような透き通るような論理的な思考ができる子供たちを育成することだと感じた。本質を語る姿は、どこか美しい。