振り返ればアジサイの花

昨日2020年6月10日の総会で日本教育情報化振興会(JAPET&CEC)の会長を退任し、名誉会長になった。振り返ると、平凡だがアッと言う間で、まるで夢か幻想のような気がする。人の生き方とは、このようなことかもしれない。同じ日の読売新聞朝刊の編集手帳に、「あじさいはすべて残像ではないか」(山口優夢)の俳句が紹介してあった。バラの赤は芯まで届くような真紅であり、白は1点の曇りもない純白であり、すべて原色だが、アジサイは、青色も赤色もすべてが薄く白みがかっている。小雨に煙るアジサイは現実の花というよりも残像ではないかという感じ方は、その通りだと読む人の心に響いてくる。大学教員を卒業して、団体役員もまた卒業して、振り返ってみれば、それは遠くに見えるアジサイのような淡い色をしていて、あれは幻想のような残像のような夢のような、現実ではなかったような気がする。確かに過ぎ去ったことは、すべて残像である。それは、遠くから見る雨の中のアジサイの花かもしれない。

あいまい思考

何でも計画を立てて、実行して、うまくいかなければどこに原因があるかを調べて、その原因を除去するような方策を立てて、実行して、というPDCAサイクルは、ほとんどの仕事や生活をそつなくこなす方法論である。問題解決や課題解決が重要視されている学校教育でも、このPDCAサイクルの考えは反映されており、ほとんどの学校でも実施されていると思う。考えてみれば、この方法論は科学という土台に立っている。どこか原因があるので結果が生じるという考えは、科学的思考とか論理的思考なので、誰もその方法論の妥当性について疑問は持たないだろう。しかし、現実の生活や仕事ではどうだろう。予期せぬ出来事が起こる、例えば、新型コロナウイルスパンデミックのような予期せぬ出来事にどう対応するのか、計画はない、あっても過去の経験であり役立つかどうか分からない、そもそも原因が不明確である、という状況の中で、世界中が右往左往した。国や自治体の責任者は、論理的な資料を持っていないので、専門家という科学的な根拠を求めた。科学とは明確な論理なので、因果関係に基づいて判断する。しかし、この科学もあてにならないのではないだろうか。忖度で付き合う人間関係、あいまいな決め方、アナログの文化、空気を読む日本など、科学的な思考とは正反対の日本におけるコロナ禍への対応であったが、世界が不思議がるような感染者数や死者数の低さになった。たぶん、これは科学に基づく意思決定の危うさを示しているのではないだろうか。現実世界は、科学のようなきれいな論理で、できていないと思う。

対面も楽しい

数日間、どうしても都心に出かけなければならない仕事があって、久しぶりに電車に乗った。どこか違和感があったが、いつの間にか昔と同じ電車の人になって、座席になじんでいる自分がいた。空気とは不思議なもので、すべてを飲み込んで包んでしまうようだ。やがて会議が始まり、議論をしていつの間にか時間が経って、お昼になった。時の過ぎゆくまま、と言えばその通りで、時間の流れに身を任せていると、どこか小舟に体が揺られてゆっくりと時間が経つようだ。昔の流行歌の歌詞のようだが、気持ちはまったく違って、身を任せることの楽しさである。このようにして、人は仕事をしていたのかと思い、午後の会議にも出て、いろいろな仕事をしていたが、いつの間にか自宅に戻って、お風呂に入って楽しい夕餉になった。なんと平凡な1日だったかと思ったが、これも楽しい。とすれば、新しい生活様式は在宅勤務と職場勤務の両方をブレンドすることだから、それも悪くない。いつの時代も、心配ない。どんなことが起きても、口笛を吹きたくなるような楽しさがある。

美しきことは良きかな

武者小路実篤 の、仲良きことは美しきかな、は有名であるが、登校や下校する子どもたちの光景は、仲良しの言葉がそのまま当てはまるようで、文字通り美しいと思える。自宅の庭を少し改造するために、工事が進行中である。小さいけれども芝生は自分の係なので、雑草を取りきれいな緑の一面を目標にして、毎朝少しずつ手入れをしてきた。それが工事が始まると、コンクリート、トロッコ、土砂、スコップなど当たり前であるが、緑の芝とは対照的な土色の道具が現れた。それが、小さな芝の上に積み重ねられている。きれいに芝の高さを揃えていたが、無造作に置かれた土砂がその一面を壊している光景を見ると、数日前の緑の美しさがよけいに恋しくなった。美しきことは良きことなのだ。言い古された言葉だが、身も心も洗われる。学校は、静かな環境、仲良く登下校、授業前後の起立礼、掃除、整理整頓、学校菜園など、美しさで囲まれて、子どもたちは学習している。年をとっても、いつまでも美しさを求めて生活したい。

Well beingに生きたい

Well being は、スウェーデンの学校に訪問した時、2019年1月頃と記憶しているが、教室の後ろの壁に貼ってあった学校目標のような内容だった。その写真を撮っていなかったのが残念だが、イギリスでもフィンランドの学校でも見たような気がする。幸福と訳してもいいが、WHOは、身体的・精神的そして社会的も健康な状態という記述が、納得しやすい。分かりやすい日常語では、満たされている状態とでも言えるだろう。この町に生まれて良かった、この学校に通えて良かった、この担任の先生で良かった、と心身ともにそして周りにも受け入れられていると思える状態、それは、文字通り幸せだと言える。学校は、子供たちがWell beingになるように環境を提供することだと、スウェーデンの校長先生が言ったことを思い出す。アフターコロナで、子供たちが登校する風景が見られるようになった。子供たちは、笑顔で過ごしているか、行きたくないと駄々をこねていないか、先生方は笑顔で迎えているか、下校する時、また明日も来ようと思うか、来てほしいと願っているか、子供も先生もそして送り出す親も、well beingで6月を迎えただろうか、できれば6月からの毎日がそうあってほしい。

アフターコロナですること

アフターコロナのことを考える時期になった。言うまでもなく、仕事、家庭、教育などメディアで広報されているように、新しい様式となって大きく変わるだろう。これからも自分は在宅勤務で仕事をしたい、子どもや孫は独立しているので老夫婦の生活にゆとりを持ちたい、学校では対面授業とオンライン学習のブレンド型が広がるだろう、などと考えると、今回のコロナ禍がもたらした影響はきわめて大きい。ただ、人は適応し慣れる生物だと、ブログで書いた。年年歳歳、いろいろな出来事が起きるだろう、些細なことから大きなことまで、嬉しいことから悲しいことまで、ワクワクすることから不安になることまで、誰にでも天から降ってくる。しかし、もがきながらも対応するすべを人は知っている。すでに街は動きだしている、車が走っている、ジョギングをする人もいる、レストランも開店し始めた、コロナ禍の中で身に付いた習慣やすべを身にまといながら、コロナ後の新しい生活様式が動き始めた。それもまた楽しからずや、という心境になった。今日は日曜日、数か月ぶりに駅前のレストランに行って、昼食をとるとしたい。

見えのわざを磨く

北海道教育大学の姫野先生の、教師の見え、についての優れた研究がある。教師のわざの中でも優れたわざは、見えにあるという。詳細なデータを元に、見えについて分析しているが、私がその研究を直接に聞いたのは、日本教育工学会のポスター発表であった。ベテラン教師と教育実習生の、子どもに対する見えの違いについての研究であったが、ワクワクするような面白い内容だった。確かに、教師は昔から、ずっと子どもをどう見るかのわざを磨いていたのかもしれない。その可視化しにくい見えに対して、科学というメスを入れて見事に教師の経験による差を明らかにしたので、いくつかの質問をした覚えがある。見えとは理解することでもある。物理的には目の網膜に映り、それが脳の部位に伝達する仕組みであろうが、その脳の働きによって、見えが違ってくる、つまり対象の理解が異なるので、いかに正しい脳の働きにするかとも言える。正しい脳では身も蓋もないが、私たちは目で見たり読んだり耳で聞いたりしながら、つまり五感を通して脳に情報を入力しているので、ベテラン教師は、子どもを正しく理解したいと思って、五感を研ぎ澄ましているのだろう。表面でない子供の真意を汲み取っているのだろう。それは、すべての人に通じることでもある。

SNSを正しく使う

このブログも継続することが必要だが、現実は難しいこともある。緊急事態宣言が解除されて少し余裕がでてきたか、街にも人や車が多く出るようになって、仕事も活発化したようだ。遠隔会議もかなり多く開催されるようになって、なかなかブログを書く時間が難しくなった。ブログなので何かの記録であり、日記のように自分を振り返ることだが、今は特に振り返ることもなく、これを平凡と言うならいつまでも平凡でいたい。SNSでタレントなどを誹謗中傷することで事件が起きたが、これに対して厳しい批判が出ているが、まったく同感である。世間に知られることで仕事をする人は、どこかそれも仕事の内と思っているかもしれないが、心中は悲憤の塊だろう。自分から文句を言えない立場の人には、心から同情する。人はいつまでも他人にやさしくありたいが、それがSNSなどの匿名になった途端、真逆の言葉を発する人が多いのは、まだ我々が人間として成熟していないからだろうと思う。いや、武士の生き方を知るにつけて、むしろ人間としての成熟さは退行している。もちろん、自分も含めて自戒の言葉である。

慣れると戻れない

自宅勤務になって以来、電車で通勤して対面で会議をすると思うと、正直にしんどい。営業活動に従事している方々には、誠に申し訳ないが、今の自分には自宅勤務が慣れてしまって、戻るのが困難である。通勤時間の節約、時間だけでなく精神的身体的にも楽になったことが、元に戻れない心境にさせている。自宅にいると自由に仕事ができる、時間がかなり自由になる、原稿が書ける、とっさの用事を入れられる、計画通りでなくてよい、内容によるが会議の途中でも別件にも手が出せるなど、ともかく自由なのである。この自由さを体験すると、体が覚えてしまう。何度も言うが、対面で人に会うのが仕事の人にはすまないが、自分には自宅勤務のほうが合っている。その気持ちは、自分が所属する団体の職員にも言えるようで、当面は遠隔会議を維持することになった。有難いことである。このコロナ禍によって、世に中の仕事の仕方、学校の在り方、コミュニケーションの仕方、テクノロジーへの認識、家庭での生活と仕事の仕方など、すべて変わっていくような気がする。新しい生活様式と言えばその通りだが、それによって適応できる仕事とそうでない仕事の間に格差が生まれることも確かであろう。頭の痛いところであるが、しばらくは自分はこのままでお許しいただきたい。

自慢と落とし穴

昨日のブログで、自己PRをして反省した。書評をしながら自説を述べるのは初めてだったので、少し自慢したかったのだろう。私も読書が好きなことは確かだが、世の中には星の数ほど読書好きで文章達者な人がいる。そんなことは承知だが、つい自慢したくなるのが年寄りの癖かもしれない。努力してもなかなか思うレベルに達しないことを思えば、いくら年をとっても若輩者である。コロナ禍との戦いはまだとは言っても、世界的に見れば日本は不思議なくらい感染者数も死亡者数も少ないことは、国の為政者は自慢してもいいと思うが、そこが上に立つ人のつらいところで、安倍内閣の支持率が低いようだ。我が料簡の狭さに比べれば、雲泥の差で、日本の為政者は謙虚さを絵に描いたような気がする。中国米国は当然ながら韓国なども自国の自慢ばかりで、外から見ると自己顕示欲の塊のような国だと思うが、自分だけだろうか。日本のコロナ禍への対応は大成功だが政府の支持率が低いのは、マスコミなどが叩くばかりで褒めることがないからだと言うと、たぶん誰も賛同しないだろう。国の行く末を預かる責任者とはそういうものかもしれない、と思いながら、陰ながら拍手を送っている。自分のことは棚に上げてであるが、日本は世界に向けてもっと自慢してもいいのではないか。ただ自慢の後に落とし穴が待っていることも多いので、これまで多くの政治家がそれで地位を失った。そのことは政治の世界だけでなく、世の中で活躍している人々や、市井で暮らす人々、すべてに通じることかもしれない。もちろん、自分も自戒をこめて心に刻んでおく。