企業の経営者

企業の経営者の話を聞くと、どこか学校世界と違うことを感じる。それは良い意味であり、経営者は、はるか先を見ている。私学の教員だった頃、企業の皆さんに感謝する日があって、国立大学では考えられないイベントであったが、その会場に集まった経営者の方から多くのことを教わった。一言で言えば、人生を見ている、生き方を模索している、というか、言葉が重いのである。胸にドンと入ってくるのである。自分のようなものが、と別に卑下して言うわけでもないが、教員研修で話をする時は、それに比べると、どこか軽く表面的で受け売りで、という引け目を感じる時がある。コロナ禍の中で、中小企業が生きていくのは並大抵のことではないが、その中にあっても経営者が従業員をどう守るかと、美談ではなく、本気で考えていることに頭が下がる。テレビで松下幸之助の経営についての話題があったが、大不況で多くの企業倒産の嵐がやってきた時、松下電器は一人の従業員も解雇しないと心に決めて、金融機関を走り回ったと言う。同じような経験を、大なり小なり企業の経営者はしている。どこか武士道のような美しさを感じる。

対面とTV会議

昨日もある団体の会議があった。この6月は理事会や総会の季節である。TV会議か対面かのどちらかであるが、昨日は対面だった。対面の会議で、参加人数はそれほど多くなかったので、また自分は司会役だったことから、委員の皆さんに意見か感想を聞いた。大学も企業もほとんどがTV会議を利用しているが、その使い方については、当然ながら長所と短所がある。TV会議の長所は、何と言っても出かけなくて済む、つまり時間が節約できることだろう。これは絶対的に優れた特性と言える。大学の講義では、グループ活動ができる、資料が読みやすい、質問がしやすい、などが挙がった。短所としては、企業のトップの方が言っておられたが、どうしても細部のこと、ニュアンスのこと、心情的なことなどが、伝わらないことであった。実はそれが最も重要なことなので、今日は直接会ってきた、と話しておられたが、納得した。その通りだろう。大学の講義は、内容が決まっているし、論理的に考えて議論できるが、経営や人事や将来予測やあるべき姿などは、多面的に話さなければならないし、昔から小説などで読むと、経営者や政治家などは、腹を割って話すとか、意気に感じるとか、肝胆相照らすとか、論理以外の思考が働いているようで、その時は相手のすべてを、対面で、つまり自分の目で耳で口で話さないと分からないからであろう。メディアの特性について、勉強した。

実践という重み

学生の頃は物理を専攻したので最初の就職は、高校の物理の教師だった。自分には合っていて、研究は落ちこぼれのようだったが、教育が仕事の高校教師で生活できるのは幸せだった。ただ物理は文字通りモノのことわり、つまり理屈なので、どうしても頭で考え、理解しないと、すっきりしない。ところが、近年の高校生は物理を選択科目としない生徒が多く、物理教員は頭を抱えていると聞く。しかし社会に出てみると、物理的な思考方法で、あまり得をした経験がない。小学校の指導方法は、基本的に経験であり、いろいろ試行錯誤することから学んでいく方式が多い。頭で考えるより、手と足で学べ、という方法なのである。確かに、頭以上のことを学んでいる。このスタイルになかなか慣れなくて、苦しんだ。小学校の研究授業に呼ばれてコメントするのは難しく、今でもそれがコンプレックスなので、なるべく避けていた。しかし避けてばかりでは進歩がないので、実践から学ぶ、と頭を切り替えた。実践という重みに添ってみようか、と理屈から経験へと宗旨替えをして、多くの小学校の授業参観をする予定で、科研費も申請して採択された。しかし、世の中はままならず、コロナ禍のために予定がすべてキャンセルされた。これからという時に残念だが、仕方がない。来年を待って、実践の宝庫を探索してみたい。まだまだ、研究する楽しみは多い。

今日は日曜日

今日は日曜日である。昨日土曜日は都内に仕事で出かけた。明日月曜日も都内に仕事があって出かける予定になっている。在宅勤務が長くなると、曜日の感覚が無くなってくるが、土曜と月曜に出勤となると、通常通り、というか、通常より出かける日が多いので、日曜日の存在感が高くなる。何か、得した気分になってくる。通常では、土日が休みなので、その午前中だけは自分の自由な時間として確保して、やりたいことをする、と言っても、調べものや原稿書きや資料作りなどであるが、その時間が楽しみだった。しかし、在宅勤務が日常になると、勝手が違って、毎日が土日のような生活になって、時間の有難味が薄れてくる。土日の午前中は、あれほど嬉しかったのだが、その嬉しさが半減したような気分になる。何故嬉しいのだろう、と詰まらぬことを考えた。仕事と言っても、自分の仕事は半分趣味か遊びのような気がする、と書くと、誤解されると思うが、正直に言えば、仕事と趣味の境界ははっきりしない。その感じは、研究者だからと思っていたが、そうではないかも知れない。自宅の小さな改築で、職人さんに来ていただいているが、その仕事ぶりはどうも好きなことをやっている、という自分の感覚と同じような気がする。職人さんも研究者も同じか、と思ったが、考え直すと、我々自称研究者は、実は職人さんではないか、と気が付いた。一生かけて、腕を磨く職業なのだろう。死ぬまで、職人でいたい。

水の流れのままに

歌謡曲の歌詞は、どうも似たような言葉が多いので、川の流れのように、とか、時の流れのままに、だったか、似ているので、水の流れのままに、と題名を書いた。どこかにあるかもしれない。しかし、心境は同じだろう。自分の意思というより、流れのままに自分もその流れに添って生きていく、ような意味だろう。ここ数日、諸々の仕事で忙殺されて、依頼原稿を書く時間がどうしても取れない。TV会議は電車に乗らない分だけ時間が取れるので有難いが、いろいろ入ってくる。考える時間も調べる時間もない、どうしようと考えていると、それだけで時間が飛んでいく、まったく意味がないのだ。挙句は、寝ていても原稿が気になって、早朝に目覚める。もう一度寝ようとしても寝つきに時間がかかる。ある朝、例によって3時ごろ目が覚めた。ふと思った、そうだ、水の流れのままに、流れに添えばいいのだ、と思って、そのまま起きて顔を洗い、朝早く机に向かって原稿に取り組んだ。思ったほどアイデアに時間はかからなかった。数日続いたら、3時でも4時でも、流れのままに起きるようになった。依頼原稿は予定通りに書けたのが、嬉しい。このブログも、ふと時間があると気が付いてパソコンに向かった。出来栄えとは関係ないので、念のため。

コロナ禍で得たもの

近所のスーパーマーケットが賑わっている。食材を買う人が多く、朝も夕方も人が買い物をしているようだ。家内は専業主婦なので、自宅から2分で行けるスーパーは食材倉庫のような感じで、店員さんとも顔馴染になっている。家で料理を作る人が増えたから、と店員さんは言うが、納得できる。在宅勤務で外出自粛が続くと、どうしても家での食事になり、料理をするようになる。そういえば、昼食は自分も自宅だが、そのお昼のテレビ番組では、料理や弁当など食事に関する番組が多くなった。人々が家庭に戻ったのか。名作、ALWAYS 三丁目の夕日の映画でも、超ロング番組、サザエさんの家でも、夕食は全員で食卓を囲んで談笑していた。それが、視聴者の心を掴んでいた。昭和の良き時代と言えば、単なる郷愁にすぎないが、幸せとは何か、を私たちは直感的に知っているからではないだろうか。同じ時間に通勤すれば、電車が混雑し、混雑すればストレスを感じ、ストレスが人間関係に影響を及ぼし、人間関係でうつ病などを誘発する、という因果関係ではないにしても、そのようなストレスのある生活の中で、テレビの中の夕餉の1コマに、安らぎを覚えたからではないか。ということは、私たちは、コロナ禍のおかげで、少し幸せの中にいるのかもしれない。

コロナ禍で失ったもの

人に会わないと仕事にならない職業では、コロナ禍の営業自粛の影響は大きく、深刻な事態になっているとメディアは報道しているが、現実に私の周囲でも感じられるようになった。テレビなどでは、タクシー業者、小売業者、観光業者など、多くの職種でコロナ禍以前の状態に戻らず、苦境が続いていると報道している。なんとなく生活が質素になり、外食などは控え、自宅で食事の習慣ができて、街に人は多く行き来しても財布の紐は固く閉じたままのようだ。経済はお金が回って成り立つので、経済の活性化はやはり必要だが、まだ我慢の年月が求められているかもしれない。思えば、私が子供の頃、家は貧しかった。今になって、貧しかった、と言えるが、当時は人前で言うのは恥ずかしかった。中学校の同窓会などで昔の話をすると、皆が同じような感慨を持っている。ということは、日本全体が貧しかったのだ。世論調査でも、今の日本人は中流階級と感じているので、生活は豊かになっているのであろう。しかし、昔のような不況になって、また生活を脅かすかもしれない。子供の頃はそれも知らず、我儘を言って親を困らせたこともあった。新聞に掲載された一句が身に染みる。「母の日のゆるしてほしきことばかり」(根本理子)

すきま時間の活用

昔ベネッセの企画で、中学生に私が取材したことがあった。どのように中学生生活を送っているかという質問だったが、印象に残った回答があった。中学生は忙しい。中でも部活は、今と違って放課後にかなりの時間をとられていた。スポーツ系の部活なら朝練があって早朝に登校しなければならない。さらには生徒会活動や塾や通信教育などを考えれば、ぎっしり時間が詰まっていて、入る隙もないような生活のようだった。自分が中学生の頃はどうだったのか思い出しても、似たような生活だったかもしれないが、夢中で過ごしていたのだろう。ベネッセの企画なので、そのような忙しい時間でどのように通信教育を受けるのだろうか、つまりどのようにして時間を産み出しているのか、という問いのような気がするが、その回答が、すきま時間を活用する、ということだった。自転車通学では自転車に乗っている間、授業と部活が始まる間などのすきまを見つけて、英単語の勉強だったり歴史の年号の記憶だったり、中学生なりの工夫をしていた。ある程度まとまった時間が取れると、嬉しくて勉強するのが楽しいと答えた。今は在宅勤務と職場勤務の併用で、通勤時間の分だけ余裕がある。思えば、ぜいたくな時間をもらっている。

IoTのゆくえ

AIやIoTは底知れぬくらいの力を持っていることは、多くの分野で実証されつつある。IoTは文字通りすべてのモノがインターネットにつながり、それがデータになりAIによって分析されるというSociety5.0の中核的な技術になることは、よく知られている。スマホを持てば人を追跡することが可能になり、街のいたるところにカメラを設置すれば、人の行動は記録され、パソコンでWebをチェックすれば、その人の嗜好データとして蓄積され、というように生活のすべてがデータという形で蓄積される。この事自体に、善悪はない。問題はその使い方にある。コロナ禍のような非常時における人の行動記録は致し方ないが、平常時における個人の行動記録は、いかがなものか。中国は、監視型都市をISOに提案しているという。プライバシーのない国は、国家のいいなり、それは為政者の独断によって国民が統制される社会を意味している。自分は政治には口を出さないことを信条としているが、この中国の提案は常識を大きく超えている。非常時と平常時は違う。それはすべての人の自由を取り上げることに等しい。香港の人の気持ちが分かる。

自営業

在宅勤務になると自宅が職場になる、つまりある意味で自営業になる。在宅勤務に慣れない人、時間の使い方に戸惑っている人、どこか腰が落ち着かない人など、いるだろう。気持ちは分かる。定時に出社して、デスクワークや会議や来訪者と面談をし、定時になったら帰宅する、夕餉の食卓が楽しいという1日は、平凡ながら幸せな生活と言える。仕事でうまくいったら生きがいもあり、家族に少し自慢話をしながら、悪くない人生だと思ってテレビを見ている光景は、テレビドラマそのものだ。それが在宅勤務になると、仕事様式も生活様式も違ってくるので、戸惑うのは無理もない。だから、気持ちは分かる、と書いた。しかし、自分などは始めから自営業なのだ。法人という名を借りているが、それは軒下を借りているだけで、そこに自分はない、という言い方は少し誤解を生むかもしれないが、Identityは職業にあり法人にはない。つまり、教育研究家とか教育評論家とか教育を対象にした職業であって、大学名や組織名にはあまり依存していないので、教育研究という職業を持った自営業なのである。大学にいる人は、たぶん似た感覚を持っているだろう。これからの時代は、企業人ではなく職業人としての生き方が求められるだろう。