外食

コロナ禍の関係で在宅勤務になり、このため家庭での食事が多くなり、昼食も外で食べることはほとんどなくなった。家庭では経済的であるが、社会の経済活動は停滞する。お金が流通しないから、という当然の帰結である。江戸の時代も、何回も倹約令が出され、その時に使われた奢侈(しゃし)という言葉も、中学生の頃、社会科の教科書で知った。自分が育った頃は、日本全体が貧乏だったから、真っ白なご飯は、輝くようなご馳走だった。そして、幸せを感じるくらい美味しかった。だから、自分たちの世代には、もったいない、という言葉が染みついている。確かに、今の世の中は、モノを無駄にしてしまっている。これでは、地球の資源が枯渇するかもしれない、という危惧がある。一方、人間には、こうしたい、とか、こうなりたい、という欲望がある。良い意味でも悪い意味でも、ある。その欲望が、技術を生み出して、車も、テレビも、コンピュータも発明されて、この世の中を動かしている。考えてみれば、倹約、もったいない、我慢、という精神と、もっと楽に、もっと豊かに、もっと満足したい、という精神は、どちらも大切である。問題は、その精神を、どのように実現するのか、家庭の経済を無視して、ぜいたくをすれば、それは不幸な結果を招き、もっと良い仕事をしたいので、コンピュータを購入する、となれば、より豊かな生活になるだろう。今のコロナ禍における、自粛要請と経済活動は、そのジレンマの中でもがいているように見えるが、どこか基本を押さえていないような気がする。江戸時代の倹約令は、一時は成功したかに見えて、ほとんどが大失敗している。被害を被るのは、すべて庶民であった。家内と話し合って、金曜日の夕食だけは、外食をすることにしている。金曜日の昨日は、市内のスパゲッティ屋さんで、食べたかった渡り蟹のスパゲティを食べた。庶民のささやかなぜいたくであるが、世の中の経済活動には、少しだけ貢献しているだろう。

迎え火

今日から、少し忙しい。SSH(スーパーサイエンスハイスクール)の生徒研究発表会の発表資料を、このお盆の時期に読まなければならないからだ。しかし、気持ちはmustではなくenjoyであり、今から楽しみでワクワクする。17日の月曜日に発表会がある。今年はオンラインだが、例年は神戸市の国際展示場で開催される。5,000名近くの高校生が会場を埋めると壮観で、知の甲子園とか科学甲子園と呼ばれる。毎年、それが楽しみで、ポスター会場で生徒に質問しながら審査をするが、トップレベルの研究は、大人の研究者並みなので、学会の論文誌に掲載されたり、受賞したり、大学に推薦入学したり、多士済々なのである。そのポスターの前での質疑応答も素晴らしく、高校生達が自由に発言する。各分野での代表を決め、その中から文部科学大臣賞などを決めるが、このレベルになると、専門外の分野であっても、その凄さが伝わってきて、毎年感動する。甲子園で優勝する瞬間と同じで、生徒たちも指導教員もすべてが全力で頑張ってきた足跡に、外野の人間であっても、触れて、その黄金のような輝きに魅了される。美しいとしか表現できない。夏はイベントが多く、楽しいことが多い。今年は、コロナ禍の関係で、お盆に子供たちが来れないので、zoomのオンライン会合で近況報告をすることになっていたが、昨日LINEで家族旅行に出かけることになったと、知らせが届いた。孫たちの嬉しそうな顔が、目に浮かぶ。家族で、大いに遊ぶとよい、美しい自然に触れるとよい、プールで泳ぐとよい、美味しい食事をするとよい、満ち足りた体験のすべてが楽しい思い出になるだろう。昨日は8月13日で、夕方に玄関で迎え火を焚いた。老夫婦2人の亡くなった両親4人とご先祖が、我が家を見失わないように、天から霊が安心して降りてこれるように、オガラを燃やした。西の空は、絵に描いたような美しい夕焼けだった。SSHの審査、子供たちの家族旅行、お盆の迎え火、すべて良い、すべて心配ない、ただ有難い。

論文を読む

日本は台湾と正式な国交はないので、台湾にも日本にも大使館はない。その代わりに交流協会という外務省の外郭団体があって、大使館の代理的な業務を行っているが、その中の1つが、留学生の受け入れである。海外留学生受け入れ30万人計画に基づいて、奨学金による留学生の生活支援をしているが、国の税金を使うので、優れた人材を選抜しなければならない。将来、台湾と日本の橋渡しができるような人材が育てば、両国にとって国益になる。交流協会は、東京と台北市にあるが、外務省職員が出向している。例年なら、その審査である面接のために、9月に台北市に出張するが、今年はコロナ禍のためにオンラインになる。面接審査はよいが、その前に書類審査をしなければならない。書類といっても、審査員は、内容の審査なので、留学生の研究計画と論文を読まなければならない。日本の有名大学の大学院の修士と博士課程の希望者なので、卒業論文か修士論文か学会誌の論文、そして研究計画であるが、専門分野が少しでも違うと、きわめて難しい。分野は、社会学系、人文系、理工系、医学薬学系に分かれていて、自分は、理工系に所属している。一口に理工系と言っても、群論のような数学、宇宙論、有機化学、通信工学、AIや地震学まで、きわめて幅広いので、すぐに想像できるように、相当に勉強しなければ、とても理解できないし、質問もできない。その上、かなりの割合で英語論文で提出するので、英語で質疑応答する。その場合は、関連文献を英文で読んで、英語の専門用語も勉強する必要がある。ある年に、忙しくてどうしても時間がなく、次年度からこの審査を辞退しようと思って、もう一人の若い現役教授と話したら、自分と同じように、きわめて難しいと答えた。有名大学の理工系の現役教授でも同じなのだ、まして自分のような高齢の退官した人間なら、分からなくて当然と開き直って、今日に至っている。毎日少しずつ論文を読むことにしたが、昨日は、ハイエントロピーの合金に関する材料工学の研究で、エントロピーは物理概念だから知っているが、なぜ合金、それも記憶合金に使われるのか、読んでいると、そして関連論文をネットで調べていると、面白くなってくる。材料系では、最近流行っているらしい。どの分野でも研究は止むことがない。外は猛暑、書斎の中はエアコンで快適、その中で先端研究に触れること、こんなにも有難く、ぜいたくなことはない、と幸せな気持ちになった。

専門家

昨日は、午後1時から5時まで、zoomを使ったオンライン会議や打ち合わせだった。お盆の週だが、13日まではなにかとオンラインで仕事が入る。zoomと書いたが、webex、meet、teamsなど、相手によってアプリが違うので、ややこしい。ユーザとすれば、安全性とかあまり気にしないので、便利なほうが良い。どれも似たようなアプリなので、専門家は細かい違いを気にするだろうが、ユーザはそのようなことには興味がない。しかし、専門になればなるほど、ユーザの視点とかけ離れていく。ここまで書いて、ふと昨日のお昼に見た朝ドラを思い出した。作曲家の古関裕而は、西洋音楽の良さを曲に入れようとして、頭を掻きむしるほど苦闘するが、レコード会社の担当者や大先輩の作曲家は、見向きもしない、というか、どこか鼻について小賢しい、と軽蔑するというシーンだった。音楽のことは分からないが、主人公は、流行歌とか応援歌とか、自分は何をしているのか、と悩むが、確かにテレビ視聴者からすれば、それでいいではないか、音楽に上も下もないだろう、楽しめばいいいのだ、と思って、番組では憎まれ役のレコード会社の担当者の肩を持ちたくなる。何を粋がっているのだと思うが、それが専門家のプライドかもしれない。この番組の先は、たぶん主人公は、そこに気づくのだろう。そうでなければ、日本情緒たっぷりで、大衆の心に響く旋律を散りばめた、船頭可愛や、の作曲はできないからである。先のzoomや他のアプリも同じである。専門とは、逆に市井の人の感覚と離れていくものかもしれない。真の専門家は、それを乗り越えて、自分を高めている人かもしれない。自分は、まだそこまで達していない。

パソコン

今年は科学研究費に採択されて、喜んでいたが、コロナ禍の関係で、学校訪問も学会参加も国際会議も参加できないので、来年を期待しているが、研究しなければならないこと、したいことは山ほどある。平凡ながら、優れた先人達の跡を踏んでいき、汚さないようにしたい。故坂元昴先生は、亡くなる前日までか、その日までなのか、病室で出版原稿に手を入れておられたと聞いているが、あまりにも偉すぎて、ただ頭を下げるのみである。坂元先生に言われて、ある団体の会長を引き受けたが、とても格が違いすぎていたが、できません、という言葉は自分には禁句だった。どんなことでも、はい、と答えることを信条としていた。思えば、楽しい思い出ばかりである。科研費で、パソコンを買った。今は、価格は安くても、性能はかなりアップしているので、使いやすい。そして、クラウドでデータを格納するので、あまりパソコンの容量は気にしなくてよい。2日間かけて、と言っても仕事の合間であるが、旧パソコンのデータやアプリなどを新パソコンにインストールして、使えるようにした。自宅では、合計4台のPCを使うので、快適である。パソコンは、道具とかツールとか呼ばれるが、そこに、単なる道具に過ぎない、というような、軽い響きが込められている。自分には、道具ではなく、友である。朝から晩まで、ずっと付き合っていくから、友と呼ぶしか言葉は思いつかない。故坂元先生は、単なる先生ではなく、人前では言わないが、神のような存在である。それと同じで、人前では、パソコン、道具、ツールと言っても、心情的には、これから先もずっと付き合っていく、友である。よろしくお願いする。

お墓参り

昨日、8月9日に市内にある墓地にお墓参りに行った。数年前に、お墓を市内の新しい墓地に移して以来、毎月お参りをしている。年を経るにしたがい、それが老夫婦の楽しみになった。お墓の中にいる両親の前で手を合わせ、いろいろな報告もしながら、これからのことも心配しないでよい、と話しかけている。昔の人は、苦労ばかりして、生き延びてきたのが奇跡のように思うが、自分を振り返っても周囲を見ても、食べることにも住むことにも、少なくとも生活することで困っている人は、ほとんどいない。医療も年金なども税金で保証しているからであるが、ぜいたくな生き方ではないか、と手を合わせながら思った。若い両親と祖父母と小さな2人の子供の6人連れ家族が、お参りに来たようで、気温がぐんぐん上がっているお昼の真っ盛りに、お墓の前ですれ違った。小さな子供たちも、今時なのでマスクをしていたが、幸せの文字を背中いっぱいに描いているようで、目が笑っている。一足早いお盆で、家族全員が揃ったのだろうか、大型のバンが駐車場にあった。周囲が林なので、限りある命を精一杯生きるかのように、蝉の合唱団が鳴いている。今年も暑い夏がやってきた。子供の頃は、スイカ、灯篭、ラジオ体操、線香花火、海やプールでの水泳、盆踊り、大人になって、家族旅行、学生たちとの夏合宿、キャンプ、BBQ、など楽しい思い出ばかりである。井上陽水の少年時代の歌のように、やがて夏も過ぎていくだろう。しかし、蝉と同じように、限りある夏を精一杯生きたい。コロナ禍であっても、楽しい思い出を、すべての子供たちにいっぱい送ってやりたい。やがて、厳しい社会を生きる大人になっても、幸せな思い出を多く持っていれば、乗り切る勇気が出てくるからだ。蝉しぐれの声と、お墓詣りと、お線香の香りが、真っ盛りの夏によく似合う。

昨日、8月8日土曜日は、午後はずっと高校生の研究発表や会議などで、充実していた。ベネッセコーポレーショの企画で、自分はその審査を頼まれたからであるが、参加して良かったと、毎年思う。今年は、オンラインだったが、十分に彼らの意図が伝わった。何よりも、若竹のようにまっすぐに未来に向かって進む、疲れを知らない子供のようで、年配者にとっては、輝くような存在であり、文字通り元気をもらう。夜は、将来についての雑談のようなオンライン会だったが、それも面白い。大学生だったが、今は妖怪ブームだそうで、鬼について探求をしていると、話した。若い時は、何でも楽しい。昔の新聞記事を思い出した。老々介護で疲れ切った読者の投書だった。認知症になった母親の介護で、経済的にも身体的にも精神的にもぼろぼろになって、ふと母親を殺したい、と思った。そんなことを思う自分の心には、鬼が住んでいるのかと思い、悲しくて悲しくて、泣きながら母親に詫びた、という。大学生も、大人になり、世の荒波にもまれ、老いていき、やがて自分の心の中の鬼と闘う日が来るかもしれない。このブログでも紹介した一句に、目が潤む。「母の日のゆるしてほしきことばかり」(根本理子)

アプリの操作法

すべての会議がオンラインになって便利だが、コロナ禍以前と同じように忙しくなった。講演や発表会はキャンセルになったが、オンライン開催が多くなった。その打ち合わせがオンラインなので、手帳に記録しておくこと、時間通りにURLにアクセスしないと、欠席になってしまう。便利だが、不便でもある。オンラインアプリも、アイコンや操作が微妙に違うので、戸惑うこともある。かつてパソコンの操作は難しいと言われ、講習会がよく開かれたが、ICTの進化は留まることろを知らず、ますます加速するようで、老いも若きも、パソコンとスマホを触っている。パソコンよりもスマホが主流だが、若い人は苦も無く使いこなし、シニアはガラケーに愛着があるので微妙に引け目を感じているようだが、そのギャップが大きい。しかし、若い人はコンピュータの仕組みを知っているかと言えば、ほとんど知らない。プログラムを作った経験もなく、CPUの仕組み、その基礎となる論理回路、そのまた基礎になる電子やホールなどの物理的な知識になれば、ほとんど理解していないであろう。自分のような世代で、理系の場合は、理屈がわかると満足し、操作はその次という思考法になっているので、操作はできなくてもよい、という割り切り方をしている。しかし、現実は、理屈が分かって、かつ操作も玄人であれば、誠に都合が良い。操作のプロは、スマホショップの店員さんや、よく使っている若い人である。どうも、このギャップは埋まりそうもない。操作についてのきちんとした研究はないのだろうか、たぶん、プログラムの考え方になるだろうが、たとえそれを理解しても、アプリの操作のプロにはなれないだろう。操作とは、結局、練習量だとすれば、どこかおかしい、と思っている。

歌を歌う

時々、朝の時間に、自宅の前の通りを女の子が通る。そして、大きな声で歌を歌っていく。その歌声が聞こえると、私たち老夫婦は、手を止めて、その歌声を聞く。何か幸せの歌のように聞こえるからだ。何も屈託がなく、何も心配がなく、何も不安がないような歌声は、爽やかな一日が始まるような、門出の歌のように聞こえる。そして、私たちは、今日も聞けた、と言って、おみくじで大吉を当てたような気持ちになる。たぶん、この子には、何も邪気がなく、きれいな心の持ち主だろう。周囲に、その幸せを分けて歩いているようだ。先のブログで書いたように、朝ドラの古関裕而の自叙伝が放送されているが、彼の作曲した、船頭可愛や、に惹かれて、口ずさむようになった。ある時、居間で大声で歌ったら、家内に、外に漏れている、近所迷惑だから、と釘をさされた。なるほど、歌う人によって、幸せを運ぶのか、迷惑なのか、に分かれる。それ以来、大きな声では歌わない。しかし、歌いたい時は、気持ちがいい時なのだ。コロナ禍以降、いろいろな経験をしたが、自宅での昼食時間に朝ドラのお昼版を見るのも、ジョギングをするのも、遠隔会議が常連になったのも、すべて自分には適している。歌うことは、良いことだ。

日本人の美学

コロナ禍の影響で、番組制作ができないので、過去の番組の再放送が多いのは、仕方がない。自分はあまりテレビを見ない方だが、夕食時は音がないと寂しいので、視聴することにしているが、昨日は録画番組だった。歴史秘話ヒストリアが好きで、NHKの取材に敬意を表することが多い。昨日は、愛新覚羅溥傑と松下幸之助の夫婦愛のストーリだった。溥傑と浩の話は、よく本で読んだし、二人とも純粋な人だったので、溥傑は浩と一緒になって、良き人生だったのではないか、と思う。松下幸之助さんは、幸之助館が大阪門真のパナソニック本社にあって、パソニック教育財団の理事会がそこで開かれた時に、案内してもらったので親近感がある。このブログで言いたいことは、夫婦愛のことではない。この時代に生きた人たちは、どこか日本人としての生き方を忠実に守ったような気がする。溥傑も陸軍に勤めていた軍人なので、日本人としての精神構造を持っているような気がするし、浩は華族の出身で、この時代の良き日本人教育を受けた人である。幸之助さんは、世界的企業を一代で築いたが、従業員を決して解雇しないとか、日本人としての美学を持っているような気がする。言いたいことは、何か立派な業績を上げてきた人は、美学を持っている、あるいは備わっている、自分は日本人しか知らないので、日本人美学のような精神構造を持っているのではないか、ということである。景気が悪くなれば解雇するのは、仕方がないが当然だと言う考えは、論理的であるが、美学ではない。学校における教科の学習は、自然科学、人文科学、社会科学のように、すべて科学なので、根底に論理的思考がある。西洋哲学の流れを汲んでいると言えるが、美学は逆であり、行為や思考が美しいかどうかの基準なので、別の世界と言ってもよいだろう。近代社会は、論理によって作られて成功したが、その物語は今後続くかどうか不安である。コロナ禍のような、これからの世界が見えない時代では、論理ではなく美学を基礎にするほうが良いのではないか、と思った。ただ、これは自分の独り言レベルの言説である。