夜中に目が覚めて、どうしても眠れない時がある。誰にもあるだろう。気になることや、しなければならないことがあって、寝たまま脳が休んでいないので、それが覚醒させるという当たり前の現象である。午前2時に目が覚めて、どうしても寝付かれず1階の居間に降りて、あまり飲めないが、しかし毎日晩酌を楽しみにしている、氷にウイスキーを入れて飲むと、どこか安らぎがある。シラスとノリ、キュウリとシーチキンの組み合わせなど、ちょっとした家内の手作り料理を摘まみながら飲んでいると、昔の若かった頃を思い出す。誰でも学生の頃は、自由で気ままであり、そして何かに夢中になりながら、しかし心の内は自信がなく、彷徨しているような状態だったような気がする。しかし、時間はたっぷりあったから、12時前に寝ることは無かった。居間で一人飲んでいると、今自分は自由で、時間がたっぷりとあって、好きなことを考えて、例えば、短歌とか俳句とか歌詞とか小説とか作ってみようかなど、実現不可能なことでも夢想すると、それは空に飛び立つ羽根を持った鳥のような世界で、学生のような気持ちになる。若い頃は、希望や夢を持っているが、それは実現する可能性がほぼないことも知りながら、喜びと失望を繰り返して心が少しづつ成長して、大人への階段を上っていくのだろう。若いから、夢中になって追いかけ、そしてつまづき、少しずつ分別がついて、年齢を経て振り返ってみると、いいではないか、それなりに頑張ったではないか、と思えるようになる。夜中の一人酒は、その時代に戻るようだ。そして、まだ夢中になっている自分に、苦笑している。8月末か9月に出版する本に、今心が奪われている。
植木等さん
昨夜テレビの録画番組を見た。自分が気に入ってる番組は、歴史秘話ヒストリアである。1時間以内なので、ちょうど良い時間で、夕食後のくつろいだ一時が適している。何故か、昨日は植木等さんのスーダラ節の録画だった。これが何故、歴史秘話なのか分からなかったが、見ている内に意図が伝わってきた。植木さんは、お寺の出身で謹厳実直な精神の持ち主だったらしい。その植木さんがどうしてこの世界に入ったのか、私にはその真意は定かではなかったが、スーダラ節の歌をレコードにする時、彼の気持ちと歌のメッセージとのギャップに悩み葛藤したらしい。やがて、歌は大ヒットして、サラリーマンの無責任時代という社会風潮まで創り出していった。そのことは植木さんも予見していたので、葛藤があったのであろう。それは日本の高度成長と歩調を合わせるかのように、右肩上がりのテレビや映画での人気が続いた。しかし、それはバブル崩壊を境にして、急激に下降した。無責任時代のような呑気な時代でないことは、誰でも知っている。元々植木さんは、謹厳で真っすぐに生きることを信条とする心の持ち主だったので、これからは自分に合った生き方ができると思い、これまでとは真逆な映画を作った。が、誰もがそっぽを向いた。まったく売れなかったのだ。植木さんに貼られたレッテルは、容易に変えることはできなかった。そして、スーダラ節を友としながら80歳の生を全うした、という秘話であった。植木さんは、たぶん悟ったのだろう。変えることができないなら、それが例え自分の心に反するとしても、このレッテルと共に生き続けようと。考えてみれば、ほとんどの芸能人は同じかもしれない。いや、私たちも同じなのかも知れない。
相手がいること
最近、原稿を書いて思うことがある。原稿を書くとは、自分との対話である、とバフチンの言う、自己対話である、ことは確かにその通りである。バフチンはロシアの小説を読むことを事例にして、小説の中の登場人物と自分との対話を比喩にして、述べたと思うが、細かいことは例によってお許しいただきたい。というのも、ブログを書いていて思うことは、自分の公開日誌であるが、公開であるために、向こうに他人がいることを意識しなければならない。つまり自己と他者の対話が前提となって書くのである。これは、自分だけの非公開の日記との違いであろう。公開と非公開の違いを、自分はあまり意識してこなかったという反省である。現在、締め切りが近い原稿を書いているが、自分にはよく分かるが、相手に伝わる言葉を使っているか、ということに最近気が付いた。独りよがりの自己満足だけの原稿になっていないか、専門分野の人だけに通用する用語を使って得意になっていないか、という反省である。これは、誰でも知っている当たり前のことだが、自分には晴天の霹靂のような、天啓のような気付きである。今日も続きの原稿を書くが、全体を見直さなければならない。しんどいことかもしれないが、この作業は文字通り自己対話で、大切なことだろう。
オンライン学習か授業か
オンライン学習なのかオンライン授業なのか、用語はまちまちでメディアも統一していないようだ。かつては学習が主流だったが、大学などの利用の仕方は授業だろう。オンラインで講義を配信するという意味合いが強いからであるが、小中学校ではどうだろうか。対面授業をそのままオンラインで配信するならオンライン授業だが、あまり効果的ではない、もっとオンラインならではの使い方はないのか、という問いもある。一方、オンラインで授業をやっても、せいぜい15分程度ではないか、その後の30分くらいは自主学習やグループ活動とすればオンライン学習のほうが、用語としては納得しやすいのではないか、という考えもある。昔、CAIとCALの議論があった。Computer Assisted Instructionか Learningの違いであるが、Iのほうは教える、指示するという方向が強く、Lは子供が学ぶ、学習するので、背景が教員主導なのか子供主体なのかという授業観を反映している、という議論であった。実際は、CAIもCALも両方使われている。オンラインの場合はどうなるだろうか。最近はオンライン授業のほうが見かける頻度が高いような気がするが、この場合は双方向のリアルタイムの授業を意味しているようで、ビデオオンデマンドのように映像付きの授業を視聴する場合をオンライン学習と呼んでいるような印象を受ける。自分の場合は、リアルタイムの場合は、同期型オンライン学習(授業)、オンデマンドのようなリアルタイムでない場合を、非同期型オンライン学習(授業)と呼んでいるが、一般に普及しているわけではない。文部科学省ではたぶん用語を定義していると思うが、まだ読んでいない。いつもながら不勉強の文字が頭をよぎる。
原稿書き
いろいろな仕事で原稿を書くことが多い。有難いことである。正直に言えば、講演や授業は苦手で、原稿書きのほうが性に合っている。原稿は推敲ができ、修正ができるからである。講演や授業は時間軸なので後戻りできない、つまり後悔しても後の祭りなので思い出したくないことも多い。原稿の場合は、修正ができると書いたが、それでもその時の自分の考えで書いているので、後で読むと、なんと浅はかな、と思うことも多い。ということは、どちらもその時の自分の考えや感じ方、姿を映していることに他ならない。ということは、オーバーに言えば、人生に後戻りができない、と同じように、原稿も講演も授業も、後戻りできないことになる。その時思ったことや感じたことがすべてなので、自分の姿をさらけ出すことになる。昨日の原稿を読み返すと、やはりどうもおかしいと思う箇所が多々ある。それでいいのだ。今日の自分と昨日の自分は違う、という当たり前のことなので、違って当然である。と書きながら、昨日よりも今日のほうが良いという保証はないので、やはり精進するしかないのか、と自分に言い聞かせる。
オンラインの運命
オンラインが仕事や学習の手段として、日常的な手段となってきた。自分も、仕事上では手放せないようになっているが、この現象はパソコンやスマホにも似ている。パソコンが無くては仕事にならないし、スマホがないとたぶん若い人はパニックになるだろう。オンラインもいずれ同じような運命をたどるような気がする。何故だろうか。昔、村上陽一郎先生が、パソコンはドラッグである、という趣旨の講演をされた。ドラッグは薬なので体の中に入り込み、ドラッグ中毒を起こし、薬が切れると禁断症状を起こす。同じように、大人は仕事上ではパソコン依存症になっており、若い人はスマホ依存症で、スマホが無くなればパニックになってしまう、ことはドラッグと同じである。ドラッグ禁止、ドラッグ追放、ついでに禁煙運動などが起きて、タバコの煙は街から消えていった。同じように、禁パソ運動、禁スマ運動、禁オン運動を起こして、職場や家庭からパソコンやスマホやオンラインを無くそう、という運動は起こりそうもない。何故だろうか。違法ドラッグは、体を蝕むだけの有害物質であるが、一般の薬は、人の体を健康にするための有益物質だからである。全くの健康体だという人は、この世には誰もいないだろう。飲みすぎると副作用を起こすこともあるが、人は薬と共存しながら生きている。同じように、オンラインもセキュリティーなどの副作用もあるかもしれないが、共存しながら使われるだろう。どのように生かすかは人間の知恵にかかっている。
若い人の企画力
昨夜8時から高校生や教員などが参加するリモート会議に参加した。始めは、少し躊躇した。夜9時ごろは、普段は自分の机の整理などの習慣があるので、と思ったが、夕食を9時からにして変則の土曜日にした。参加して良かった。今どきの高校生は、凄い。デジタルネイティブというか、表現力が素晴らしく、アイデアも飛びぬけていて、とても自分のような昭和世代には、真似できそうもない。はるかに上を走っている。例えば、高校では課題研究を実施しているが、全国の高校生に呼び掛けて、そのデータベースを作ってWEBで公開すれば、そこから良いテーマが見つかるのではないか、ファッション系の服が大量に生産されて、しかも膨大な数の新品の服が捨てらている、大きな社会損失ではないか、どうすべきか、どの家にも余った食材があり、日本は多量のゴミを発生していることはよく知られているが、これを逆手にとって、この余った食材を使ってレシピを作り、なるべく安価で手軽にそして美味しい料理を作る、WEB上でのコンテストを企画して、現在実行中、というプレゼンがあった。どれも意表を突くような発表で、お世辞ではなく敬服した。すべてのイノベーションは、若い人が起こすのかもしれない。そのような新しい芽が、WEBの世界で生まれている。ちなみに、このプロジェクトは、ベネッセと岡山大学の共催で実施している。
mustとwant
なかなか時間がとれない。読みたい文献、と言っても趣味の読書ではない論文だが、準備しなければならない資料、書かなければならない原稿、出版のための締め切り厳守の原稿、やっておくべきアプリの設定、そして遠隔の会議やメールなどの仕事、すべてmustの文字がついてくる。その優先順位は、mustから考えると、締め切りの早い順になるだろう。しかし、そこが人間の弱いところで、読みたい文献からにしたいので、少しだけと時間を切って自分を許す。考えてみれば、それも有難いことで、mustもwantも仕事があるだけで、自分の活動範囲が広がる。ということは、自分の脳を活性化しているので、脳は衰えない、つまり認知症になりにくい、と考えれば、高齢者の病気予防をしているのだから、まったく苦にすることはない。と思いながら、mustとwantでは、脳の活性化部位が違うのではないか、と思う。本当は調べてみたいのだが、そんな暇はないのであきらめるが、人の好奇心や興味は、プログラムのように予め決まっていないので、次々に発散していくようだ。このブログのタイトルは、実は後からつけている。何を書くのか決まっていないので、後から書くしか方法がない。と言いながら、読みたい文献を少しの時間だけ読んで、mustに取り掛かる。
伝えることと受け取ること
2020年6月26日読売新聞朝刊の第一面に、自分への取材記事が掲載された。読売提言で識者に聞く、という企画で、自分は教育、オンライン学習のテーマで依頼された。一面は凄いと思ったのは、すぐに目を引くからである。もちろん自分のことだから当たり前であるが、しかし読者によって何を見るかは、本当はわからない。取材を受けて、本当はそんなつもりでは無かったのにと、誰でも思うこともあるだろうが、受け取る人によって、その解釈は異なるので、それは当然である。この取材は、私の意をくんで、よく書かれていると感じた。たぶん、事前に原稿のやりとりがあったからだと思う。日常の会話や会議、テレビ討論などでも、その意味では、発信する側と受け取る側で、真意はどの程度伝わっているのか分からない、と思った方が自然ではないか。会話は時系列的に続くので、今の発言は訂正とか修正など、原稿に赤ペンを入れるようにはできないからである。とすれば、私たちは、たぶんに誤解をしながら会話や会議をしているのかもしれない。そもそも、言葉で自分の意を表現できるかどうかも怪しい。目は口ほどにモノを言い、の例え通り、我々はすべての五感を使わなければ、伝えられないし分からない。すべてを使っても通じるかどうかも、確かではない。と言うことは、コミュニケーションは誤解の上に立ってという前提で対応する必要がある。新聞を見て、そんなつまらぬ連想をした。
青い目茶色い目
昔、確か放送が白黒の時だった時代、NHKの番組で「青い目茶色い目」という題名のドキュメンタリーがあって、それをビデオ録画にしたVHSを、知り合いのメディア専門家の先生からいただいた。それは、アメリカの人種差別をテーマにした番組で、実際の話であるが、小学校での実践、というか実験であった。青い目をした子供と茶色い目をした子供に対して、お互いが差別することがいかに人を傷つけるか、という内容であったが、何故か今思い出した。その理由は分かっている。人は楽しいことばかり続くわけではなく、時に自分の意に反することもあって、感情的になることもある。また、その逆になることもある。それは、本当にとっさであって、人の感情は瞬間に変わる。人は、本当に自然のように悠久の時を生きてはいない、生きれない。すぐに変わってしまう、それが良いときも都合の悪い時もある。先のアメリカの番組では、先生の一声で、子供たちが瞬間的に変わってしまうことを実証して、教育の凄さと共に怖さも訴えたが、それは大人にも誰にも通じることではないか、と感じた。あの人はこんな人だ、この生徒はこんな性格だ、この先生はこのようだ、とか決められず、起きてくる事態や周囲の状況やその折々の人との会話によって、すぐに変わってしまうことに、気が付いた。昨日、ある学校の研究授業に参加して、講評や話をしたからかもしれない。子供も大人も、コロナ禍によっても、友達や先生との会話で、すぐに変わってしまうことも、念頭に置く必要がある。しかし、この番組は素晴らしい。是非一見することをお勧めする。たぶん、NHKアーカイブスにあるのではないか。
