ノジマ電気、自分もたまに家電製品を買いに出かけることもあるが、従業員の定年を80歳まで延長するという。新聞のニュースを読んで驚くと同時に、決断をした経営者に敬服した。今の時代は、特にコロナ禍以降は、生活も教育も仕事も、新しい様式になりつつあることを、実感している。誰もが、その様式を模索しているが、ノジマ電機の決断を支持したい。企業も学校も、いろいろな方針を矢継ぎ早に出しているが、例えば、今年いっぱい在宅にする企業、基本的に在宅勤務にして出勤は自由という企業、来年度いっぱいオンライン授業という英国の有名大学、など、これまでの経験や枠組みが変わってきた。それで良いのだ。80歳までの定年、それは素晴らしい。いろいろな働き方、学び方、生活の仕方があってよい。自分は、在宅が性に合っているので、このままで良いが、どうしても出勤したいという人は、そうすれば良く、その多様な選択肢を認めることが、この新しい生活様式ではないだろか。これまでの様式、それは永い年月をかけて定着してきたのだが、コロナ禍以降、本当にそれでいいのだろうか、別の方法はないのか、と模索し始めたのである。それは、世の中の改革の始まりである。イノベーションについて、あまり知識はないが、生活する人々の意識が変わらなければ、不連続的な変化は起きないはずである。今の時期は、その始まりのような気がする。コロナ感染者数の増加で第2波が来ているようだが、暗く考えるよりも、これを逆手にとって新しい発想をするほうが、楽しく建設的である。80歳定年、結構、在宅も出勤も自由、これも良い、オンライン学習と通常授業の選択も自由、としたら、これも面白い。自粛という自らを縛るようなことではなく、それよりもっと自由な生き方を模索し実践するほうが、楽しく有意義だろう。
自然に生きる
7月も最後の日となったが、ずっと雨だったので夏の印象が少ない。天気予報によれば、8月に入ると、つまり明日から暑い日が続きそうなので、ようやく夏の気分になれそうだ。夏は、日差しが強く、子供の麦わら帽子やシャツ姿、プールなどが浮かんでくるが、今年は、学校のプールもなく、子供たちのはしゃぐ姿や声も聞かれないだろう。夏は夏らしく、秋は街に枯れ葉が舞い、冬は雪で周りが真っ白になり、春は、と書けば、どこか郷愁に似た思いになる。それらしく、という言葉が死語になりつつある。こんなことを書くのは、年をとった証拠であるが、年齢を重ねるごとに、自然に触れたくなるし、自然が恋しくなるが、これは人の生きる年輪であろう。人は、最後は自然に帰るからかもしれないが、このコロナ禍の影響で、人は加速度的に自然から遠のいている。自分は古い人間なので、どうしても昔の姿を現在に重ねて生活しているが、それが自分に似合っている。小さな庭だが、雑草をとり、テントウ虫を見つけ、アリを見つけ、スズメが飛んできて百日紅の木に止まり、トマトやキュウリを収穫して食卓に並べ、無農薬の自然の風味を味わっている。鶏でも飼って、自家製の漬物で、朝の卵かけご飯でも食べれば、昔の暮しそのものだろう。自家製の漬物は、我が家でも食しているが、夕方は、夏なので浴衣で近所に小さな散歩に出ることもあるが、どうも近所からは古い人間と見られているかもしれない。朝の納豆、お昼のお蕎麦、夕食の天ぷらや刺身、など、美味しいものがいっぱいある。考えてみれば、自然の食材によって、私たちは生きている。これからも、たぶん自然な生き方をするだろう。
温泉に浸かる
夕方にブログを書く、と決めたが、なかなか実行できない。朝方に書くこともあれば、夕方になることもある。とすれば、好きな時に、時間が空いてる時に、書けばいいではないか、と思った。こんな単純なことが、人はなかなか思いつかない。計画通りに実行しなければ、と思うからである。だいたい計画通りにはいかないのが、人の常である。計画しても、内容も、時間と共に、書いている内に、実行している内に、変わる。それは、人が生きている、世の中が動いている証拠である。このブログも、その通りで、ふと思ったことを書いている。コロナ禍の前に、温泉に行きたいと思って、予約していたが、自粛要請が出て直前にキャンセルしたが、時節柄キャンセル代は無料だった。恐縮したので、コロナ禍が収まったら、必ず行きますと言って予約していたが、第2波が来たので躊躇して家内と相談したが、2度も約束を違えるのはいけないと思って、曇り空と小雨の中を、車を走らせた。群馬県の四万温泉である。この天気とコロナ第2波の中では、人出も少ないと思っていたら満室だったので、聞いてみると、Go To Travelキャンペーンだからと言う。知らなかったが、どうも、この世の中は、計画通りではなく、刻々と変わっていくようで、Go Toのキャンペーンもキャンセルの可能性もあると聞く。それでいいのかも知れない。自粛せよ、東京アラートだ、Go Toだ、第2波だ、など、絶えず変わっている。自分のような凡人には、その流れに添って生きていくのが性に合っているようなので、そのようにしたいと思う。温泉宿は、四万川のほとりにあって、四万ブルーと呼ばれる青い水底に急流の水が流れ、その川のせせらぎを聞きながら、露天風呂に身をゆだねると、癒される。湯船の石は、温泉の硫黄で黄色みがかった白い色をしているが、それで自然の温泉だと気付く。江戸の昔から、人はこのようにして、この世の中で付いた垢を落としている。それで良い。
テニュアになる
知り合いの先生、と言っても、彼が大学院生だった時、自分の研究室ではなかったが、何か指導したのだろうか、メールをもらったり、年賀状を交換したりする中だったが、この前嬉しいメールが届いた。オーストラリアの有名大学、たぶんトップクラスだと思うが、その大学のテニュアになった、と、嬉しそうな顔が浮かぶような文面のメールが届いた。テニュア、つまり正式雇用の職なので、そのままポストに残れる地位である。一般的であるが、日本の大学のポストは容易で、大学によっては、レフリー付きの論文がなくても、准教授や教授になる場合もある。研究は、どちらでも良い、あなたの研究など期待していない、と大学経営者が平然と本人に言うと聞いたことがあるが、どこか狂っている。このような大学は、世界から見れば、地球ではなくて別の惑星の話だと思うくらい、別次元なのである。大学教員は、やはり研究をし、学生達にその研究を基礎にして授業をし、知的な環境を提供することが、使命であることは、当たり前である。彼は、本当に苦労をし、多くの論文を書き、多くの研究をし、採択された論文を私に送ってくれたこともあった。残念ながら多少分野が違うので理解できなかったが、その意気込みは素晴らしく、影ながら異国で頑張っている彼に拍手を送っていた。彼の奥さんも、別の大学教員だが、夫婦で励ましあって、ここまで来たのだと思う。日本の大学のポストは、テニュアである。最近では、海外なみに、時限付きのポストもあるが、ほとんどはテニュアである。終身雇用制の考え方が、企業だけでなく大学にもあるからだろう。ふと思った。自分は、とても海外ではテニュアになれそうもない、日本で良かった、と怠惰な自分を振り返った。しかし、彼の苦労は、どうだったのだろうか、今思うに、たぶん楽しかったのではないか、論文が採択された、研究テーマが見つかった、それも嬉しいが、研究者は、そのこと自身に我を忘れる、そこが醍醐味なのだ。彼のメールの文面は、そこを語りたかったのではないか、さすがに彼は本物である。
うまくいっているか
家族会議を、久しぶりにオンラインで実施した。理由はたわいもないが、家内がたまには孫の顔を見たいからだと言う。無理もない。コロナ禍の関係で、東京とは行き来ができず、在宅勤務になって所沢から都心や他県に行きたくないので、どうしても疎遠になってしまう。自分はそれほどでもないが、祖母の立場では、孫はどうしているだろうか、と気がかりになることは同感できる。男と女の違いかもしれないし、仕事を持っているかどうかの違いかもしれないが、LINEの写真レベルでは物足りず、Zoomによる家族懇談会になった。近況報告と称して、自分も含めて10名全員が、在宅勤務のこと、電車通勤のこと、学校生活のこと、サッカークラブのこと、最近読んでいる本のこと、職場の人間関係のこと、コロナ禍の第2波のこと、など、どこにでもある四方山話を30分ほどして、終わった。しかし、どこか満足感があった。LINEとは違うリアルタイムの臨場感もあるし、家族の様子が実感としてよく分かる。家内が、孫たちが、以前より明るくなって、うまくいっている、と嬉しそうに夕食時に言った。確かに、自分もそう感じた。勉強がどうだとか、仕事がどうだとか、そんなことはどうでもよく、うまくいっているかどうか、それがすべてであった。夏休みなどの長い休みの後で、小学校の先生方が、子供たちは、この休みの期間でどうなっているか、顔を見ると分かる、と聞いたことがあるが、同じかもしれない。リアルタイムで話をすれば、全体の雰囲気で分かる。親や祖父母にとって、子供や孫がうまくいっているか、それだけがすべてである。
Kindleの本
明日は、朝、昼、夕方とオンライン会議があって、ブログを書く時間がなさそうなので、今日の夕方である今、書いておこう。ブログは別に義務ではないが、なんとなく日曜の夕方、お風呂上りの一息ついた時が、最も気楽になっているので、書きやすいのであって、別に深い話があるわけでもない。夕方6時半から、家族のオンライン談話会がある。これも、たわいもない気楽な顔合わせに過ぎない。そして、1週間が終わり、明日から次の1週間が始まる。夕方の今、久しぶりに太陽が雲の合間から光を放ち、小さな庭の木や草を照らしている。百日紅(さるすべり)の桜のような花が、ようやく出番が来たかのように、輝いている。空も、白い雲よりも、青空のほうが面積が大きく、雲が空に浮かんでいる、という形容が似合う風情になった。この時間に、Kindleの本を読みたいと思っている。このブログを書いたら、と思って、楽しみにしている。コロナ禍のおかげで、Kindleの本を読み始めた。ともかくamazonで注文すると、即座に読めるから、これまでどうして見向きもしなかったのだろうか、と思うくらいである。本は、デジタルでは読まない、読めない、と思い込んでいたのだろう。Kindleの本は、ともかく面白い、というと言いすぎだが、紙かそれ以上の良さがある。夕方の一時、本を読むのも悪くない。コーヒーかお茶をおいて、誰にも煩わされないで、自由な時間を過ごせるのは、まるで学生時代のようである。どんな本かは、またの機会に。
運が良いとは
昨夜、zoomでのある研究会に参加した。大人になって役立つ身に付けておきたいことは、というテーマで、主に高校生と教員との自由討論であったが、夜遅いので途中で抜けた。夜と言っても9時だったが、それから夕食なので、普段は7時からなので、自分としてはかなり遅い夕食である。高校生は、英語を勉強しておいたほうがいいのか、などの高校生らしい質問を持っていたようだが、大人のほうはもっと深い、というか処世術のような哲学的な話であった。だから少し噛み合わない気もしたが、視点が違うので、それでよいと思う。自分の場合は、他人にもよく言っているので、繰り返すが、能力はないが運だけで生きてきた、と思う。すると、運も実力の内、と言って気を遣ってくれるが、どうもそうとは思えない。確かに、実力ではなく運なのである。しかし、運を得る方法はないので、あっても霊感師のような話になるので、因果関係で説明できない。また高校生に話しても、だから勉強しなくてもいいのだ、という結論になると、参加している先生方からも叱られるので、黙って聞いていた。果たして、運とはどのようなものなのか、タイミングが良い、とか、欲しいものが入手できるとか、などかもしれないが、なんとなくラッキーと思うことだろう。以前のブログでも書いたが、すべて都合の良いことばかり起きてくることはないから、悪い出来事は忘れて、良いことだけ記憶していれば、自分は運がいいのだと、思うのだろう。ということは、忘れることと、自分の思い込みだけ、という詰まらない結果になる。高校生に何も話さなくて良かった。
自由研究
今朝は久しぶりに晴れ間が見える。雲の合間にのぞくような青空だが、それでも爽やかな贈り物のような気がする。手帳を開くと、今日は何もない。考えてみれば、休日なので当たり前で、昨日は休日なのに大学の授業があったので、どこか曜日の感覚がおかしくなった。コロナ禍ではいろいろな事情が変更になるが、これが新しい生活様式と言われると、それもいかがなものか、と思う。晴れ間のほうが嬉しく、休日のほうが文字通り身も心も休まる、という正常なスタイルが、凡人としては、居心地が良い。自宅にいる時は、午前中は書斎で何か好きなことをしているが、それは仕事でもあるが、趣味のようなものと思っているので、他人に威張って言えない。休日ならば、それも威張って言ってもよく、調べたいテーマがあって、それを知りたいので、この年になっても、子供の夏休みの自由研究のようなものだろう。去年、孫が夏の自由研究で、大きな荷物を引っ張って、どのくらいの重さまで引っ張れるのか調べている写真をLINEで送ってきたことがある。意味が分からない。聞けば、カブトムシがどのくらい引っ張れるのか、アリはどのくらい力があるのか知りたいので、実験していると言うが、科学的かどうかは別にして、男の子には面白そうで楽しそうな実験である。自由研究とは、文字通り自由なのだ。誰が何を言おうと、好きなことをやればいいので、夏休みという期間に、学校の授業を離れて、自分のやりたいこと、趣味と呼んでもよいが、それが許される意味である。とすれば、自分が今日やりたいことは、休日の自由研究と言ってもよいので、今朝の晴れ間が見える空のように、爽やかな気分になっているのかもしれない。そういえば、今年の子どもたちの夏休みの自由研究は、どうなっているのだろう。まさか、コロナの研究はできないだろうが。
記録に残す
今日の午前中は、都内の大学の授業にゲストとして参加した。その授業担当の先生に頼まれたからだが、少し緊張した。留学生のために開講されている科目で、今日は前期の最後で、学生のプレゼンがあって、それを先生が評価して成績をつけるらしい。私のゲストの意味はあまりないが、大学教員だった経験について、最後に学生へのコメントも含めて話すという依頼だった。少し緊張した、という意味は、英語だからである。最近は、国際会議も出ていないし、英語でコミュニケーションするチャンスが無かったので、大丈夫だろうか、と内心思っていた。少し緊張したと書いたが、かなり緊張した、と書いた方が正確だが、実際に学生のプレゼンを聞いてみると、その内容は、学部相当であって、正直に言うと、あまり深くはなかった。だから緊張したのは始めだけで、後は気楽な授業であった。最後に10分程度話して終わったが、この授業は、今どきなので、当然ながらオンラインである。Zoomを用いていたが、録画機能があるので、すべて録画していて、後でその録画を見て評価点をつける、と言っていたので、なるほど、Zoomは便利だと思った次第である。しかし、デジタルの良さもあるが、この記録はいつまでも残るので、もし失敗したプレゼンなら早く始末してもらいたいと思う学生もいるかもしれない。自分の場合は、事前にスライドを用意していたが、授業や講義では、あまり著作権などは気にしないので、それが記録に残るとなると、少し躊躇する。いつまでも残る、のは便利な反面、不便でもある。人は、楽しいことはいつまでも記憶に残り、嫌なことはすぐに忘れる、ような気がするが、それは、自分が勝手にそう思っているだけかもしれない。ともかく、忘れることは人の優れた特性である。
明日に延ばす
今日もつつがなく過ぎて、夕方から雨になった。昼間はちょうど良い日差しだったが、夕方になって突然に大粒の雨となり、小粒の雨に変わり、などと自由自在に天気が変わる。天候の気まぐれに人が左右されるのも癪だが、書斎の窓に映る雨跡は、穏やかな筋の模様なので、気持ちが鎮まる。スマホの天気予報によれば、今夜にかけて豪雨になると言うが、窓から見える向こうのマンションが煙っているので、まだ小雨だろう。お風呂から上がって、一息つく頃にブログを書くのが一番リラックスするのは当然だが、テーマが決まっていないで書くので、少々気が引ける。論文を書くのとは、随分かけ離れている。しかし、いつもは書いている内に、着地点が見えて、落ち着くところで筆が止まるが、今日はそれも見えず、文字が彷徨しているだけである。お風呂上りの一時ならば、それもいいではないか、人は場合によって気分によって、時間に流されるだけでも、生きている甲斐はある。今、雨が小雨なので、少し風情がある。昔は縁側に出て、隣近所の大人や子供が将棋などを指した、というから、のんびりしたものだったろう。そんなことは今では夢のまた夢だが、気持ちだけは、そんな気分で過ごしたい。何もしたくない時があっても、いい。まだメールを見終わっていないが、いいではないか、今日できることを明日に延ばすことも、また確かな処世訓である。
