今日は都心に出かけて、いくつかの会議や打ち合わせなどがあり、以前と同じスケージュールになって、やや早めに帰宅したが、なんとなく疲れる。電車に乗るだけでも、マスクをしているだけでも、ジャケットを着ているだけでも、革靴を履くだけでも、どこか緊張しているのか、疲れるようだ。難しいことは何もないのだが、会議では、立場によって思惑が錯綜するだろうし、少し眉を寄せるような話題もあるだろうし、仕事とは落語や漫才を聞くのと訳が違うので、疲れるのは当たり前である。そういえば、企業人も役人もすべてタフだなと思うことがある。コロナ禍をモノともせず、何か田中角栄のような馬力のある人達ばかりだった。感心し敬服し、そしてどこか疲れる。帰宅した時夕方だったが、珍しく曇り空だが小雨も降らず、西の空は雲が明るく見えるので、ジョギングをしながら公園に行った。公園には、幼子を連れた若い夫婦、キャッチボールをする若者、それもかなり飛距離が長いので見とれてしまう、深緑のきれいな人工芝のサッカー場で、真っ赤なサッカーウェアを来た子供たちが走っている、どれをとっても、絵になる。自分のような老人もジョギングで仲間に入っているが、周りのエネルギーの溢れた人たちとは、年齢が違うのだが違和感はない。都内の会議と違って、その時の気持ちを表現するなら、快適の一言だろう。やはり仕事と余暇は性質が違うのだろうか。どちらも精力的な光景である。都心では、見事な仕事ぶりなので感心し敬服し、一方公園では、すべての光景がよく似あっていて、自分もそこに溶け込んで一員となれる。なるほど、年をとると言うことは、こういうことかもしれない。
眼科の検査
今日は都心に眼科の検診に行った。それだけのために、電車に乗って出かけたが、本心はためらった。都心の眼科は、当然ながら自分が所属する事務所に近いからという理由だが、コロナ禍のために事情が変わった。電話で予約を断ろうと思ったが、午前の予約なので、すでに遅しであった。明後日にはどうしても都心に行かなければならない会議があるので、その時に変更したかったが、これも時間がない。気が付いたのが遅かった。こんな時誰でも、今日はついていない、と思う。が、行って良かった。実は、都内から地元の眼科に変える予定を、話すつもりだった。つまり最後の検診だった。眼科の検診のためだけに都内に出かけるのは、眼科と言えども医療機関なので他よりは密であり、何より効率が悪いので、どう考えても得策ではない。検査はいつもながらの簡単な眼圧や視力検査で、何事もなく数値もよく、医師からの診断を受けて帰宅する、いつもの通りである。そして事情を話し、地元の眼科に移りたいので紹介状を、と言って、それから何気なく話が続いた。帰ろうとすると、何となく話足りないような医師の口ぶりで、話を引き延ばした。薬屋に行って薬をもらうとき、ふと気が付いた。医師にとって患者は、学校の教師が受けもつ子供のような存在かもしれないと。目の検査結果の数値が良かったので、自分のことのように、いい数値でいいですね、という言い方が、確かに教師のような言い方に聞こえた。自分は、自分の都合だけで考えていたが、医師の世界では、相手の良くなることを目的にして判断するのかもしれない、いや、確かにそうなのだ、教師と同じなのだ、という当たり前のことに気が付いた。今日は、眼科検診のためだけに都心に行って良かった。感覚の鈍い自分が情けない。長い間、お世話になって本当に有難い。目が見えるのは医師のお蔭である。忘れていた。
無駄な時間
今日は、今朝は、久しぶりに都心に出かける。在宅に慣れると、どうも電車に乗るのが億劫になるが、世の常として仕方がない。ただ、日本人の美徳して培ってきた勤勉さが、自分も欠けてきたような気がする。コロカ禍のせいにするわけではないが、在宅が日常になると生活のパターンが決まるので、その時間割を崩すことが嫌なのであろう。とすれば、勤勉と言うよりも習慣を崩したくないという、単なる惰性でしか過ぎない。家にいるほうが、自分のような仕事には適しているので、特にその傾向が強い。最近読んだ本で、現在社会は多くのモノで満たされ、人の仕事量は減少してくる。例えば、昔1日8時間働く仕事は1日3時間で済む時代が現代だ、という論理だが、どうもその理論通りには現実はいっておらず、現代人も相変わらず1日8時間仕事をしている。しかし、この本の考察は続く。だから、1日5時間は無駄な時間を過ごしているのだと。この考えは、確かに論理的で、現実をよく見ているような気がする。現在社会は、時間が速く進む。ネットで調べれば、昔なら1日かかる調べ物は、1時間で済む。確かに時間を産み出しているので、その余った時間は無駄に過ごしているのかもしれない。ふと思った。自分のような仕事は、無駄な時間でできている。学問とか哲学は、余った時間という意味らしいので。とすれば、無駄な時間も意味があるし、その時間でできる仕事は、面白い。
よく学びよく遊び
在宅勤務の状態になると、曜日の感覚がなくなるが、今日は日曜日だった。土日の午後は、スポーツジムに行くことにしているが、当然だが汗をかく。都心に通勤している時でも、そんなに汗はかかないし、しかも爽快感が違う汗だから、体内の雑物を排出したので、体が軽くなる気持ちがする。今日は久しぶりの晴れで夕方に庭の草とりや石などを運ぶ仕事をした。これも、びっしょり下着が濡れて洗濯機に放り込んだ。居間で、家内が持ってくるキンキンに冷えたお茶を飲む、そして8つ切りにした冷えたグレープフルーツを食べると、文字通り五臓六腑に染みわたる。こんなに美味しいのか、と感動すらする。子供は、よく学びよく遊び、というが、今日はまるで子供のような1日で、精いっぱい生きたような気がした。大人は子供をモデルにして生きれば、幸せなのだろう。
気づくこと
「生徒の気づきと学び」を最大化するPJに、参加している。PJとはプロジェクトの略で、ベネッセが主催していて、高校生や高校の先生方が中心メンバーで、遠隔TV会議で議論するプロジェクトだが、入れてもらっている。実感としては、参加しているというより、入れてもらうという表現のほうが合っている。というのも、中学生も混じって高校生や先生方の話を直に聞けることは、私の年齢ではほとんどないからだ。私の就職のスタートは、高校の物理の教員だった。大学院にいたが乏しい研究能力を自覚しており、しかも大学紛争のど真ん中、全学バリケード封鎖の中で勉強も研究も身が入らず、都市の論理やチェゲバラなどの本を読んでいたのだから、まともな学生ではなかったろう。だから高校の教員に拾ってもらったのは、嬉しかった。ただ夢中で過ごし仲の良い教員仲間が多かった。まだ学生のような気分だったのだろう。今思えば、勉強しようと思えばいくらでもできる、というぜいたくな環境の中にいた。自分の環境のことは、後になってみなければ気づかないか、他人に言われなければ分からない。このPJのもう一つの魅力は、生徒の気づき、という言葉が入っていることである。生徒自身がコロナ禍の中で気づいたことを是非聞きたいし、生徒自身も大切にしてもらいたいと思う。この年になっても、毎日が気付きの連続である。後悔する気づきもあれば、発見と呼びたいような気づきもある。人は、気付きの中で生きている。
アプリの操作とは
単純なことだが、アプリの操作でわからないことがある。誰でも経験したことがあると思うが、プロに聞くとすぐに答えてくれて、その場にいれば操作までしてくれる。ただ感心するだけである。例えば、スマホの調子が悪くて、スマホショップに行って相談するとアッという間に直してしまう。あれほど苦労して、どうしてもできなかったことが、いとも簡単に、手品のように見せてくれる。PCでもスマホでもおよそ機械や道具は、人によってやさしくしたり難しくしたり、相手を見て態度を変える高等動物のような気もする。一度機嫌が直ると、それ以来まるで飼いなれたペットのように従順で、こんな便利なものはない、といつも手元に置く。利用者は素人なので、スマホに翻弄されても仕方がないが、スマホショップの店員さんは若いのに、何でも知っている。どうしてそんなプロになれるのか、不思議で仕方がない。絶えず触れているからだろうか。もしそうなら、練習や経験だけでプロになるのだろうか。ショップに行って横で話を聞いていると、的確な推論が働いているような気がする。ではその推論はどこから生じたのか、と考えると、科学的なスマホの構造についての知識が必要だが、本当だろうか、という気もする。現代はテクノロジーの時代である。ショップの店員さんのような使いこなすプロになるための最短時間の講習会があれば、参加したい。実は、その原理と言うかプロの推論の仕組みを知りたいのだが。
緩んだ一日
今日は久しぶりに都内で会議、ある団体の理事会だが、があって出かけた。午後の会議なので、行きは電車が空いて本も読めたが、帰りは立っている人もいるくらいだが、コロナ禍以前ほどではない。乗客全員がマスクをしていることや、肩と肩は両隣と触れているので、多少ぎこちなさが残ることが、コロナ禍の後遺症であろう。しかし、あまり気にするほどでもない。会議といっても、決まった議題を承認するだけで、形式的な儀式が終わって、最後に雑談となった。考えてみれば気楽な会議であり、電車に乗ってと言っても、混んでいるわけでもなく、肩が触れ合うが座席に座れるほどの緩さがある。座席に座れば読みたい本を鞄に入れているので、読むのが習慣だが、今日は居眠りをしていて、駅で止まる度に目が覚めた。気持ちもどこか弛緩しているので、多少コロナ禍で感染数が気になるが、それほど神経質でもない。窓の外は時折小雨が降る曇天だが、はっきりしない。気持ちも、天気も、会議も、電車の混み具合も、すべてがゆるんでいた。こんな日があってもいいだろう。人は、いつも元気とは限らず、いつも失望しているわけでもない。はっきりしない緩んだ1日を過ごすのも、また一興である。
曇り空の光景
毎日雨が降る。梅雨だから当然だが、九州などは大変な事態になっており、日本は本当に自然災害の多い国だと思うし、これからが心配になる。毎年、被害が大きくなりつつあるようで、どこか不安がよぎる。人知を超えた自然のなせる仕業なので、待つしかないし、後始末しか手が出ない。いつか大きな天地異変が起きないか、いや既に起きつつあるような気がする。しかし、決定的な打つ手はなく、昔の人の神頼みや仏頼みの心境に似ているようだ。昨日の朝8時ごろ散歩していたら、曇り空にちょっとだけ青い空がマンションの向こうに見えた。いたずらをした子供がそっとドアからのぞくような感じの青空だったが、その美しさにほっとした。そのマンションにつながる川の道路を、小学生が列を作って登校していた。全員がマスクをつけて、たぶん6年生を先頭にして、傘を持って、きょろきょろしながら、話をしながら、何も屈託がなく歩く姿は、コロカ禍の前と変わっていない。少しだけの青空と小学生の登校風景に、安らぎを覚え、こんなにも美しい光景とは思ってもみなかった。災害のない日常とは、なんと有難いことだろう。
専門外のこと
今朝、学校図書館協議会のパフレットが届いて、ふと目にした。活字文化推進に関する記事で有識者会議が開かれたという記事で、アピール文が掲載されていた。普段あまり目を止めないことが多く、見逃している。活字文化を大切にすることは当然だが、現実はデジタル化が進み、子供たちも図書や新聞などを読まなくなって、PISAの読解力の成績も下がったから、あまりにも当然なので普段は目に入らないのだろう。今朝は、どうして目が留まったのだろうか、と詰まらぬことを考えた。以前に北海道教育大の姫野先生の研究を、このブログで紹介したことがあった。授業における教師の見え方の研究で、見ることと見えることの違いであった。優れた教師は、子供たちの背景をよく見るのだと言う。じっとよく見ることの研究に興味を持った。文章でも写真でも映画でも何でも、専門家はじっと奥を見る、偽物と本物を見分けるような鑑識眼を持っている、と考えれば、納得がいく。しかし、今朝はどうだろうか。当たり前のことだから見ないはずだが、アピール文を読んでなるほどと思った理由はなんだろう、と考えた。年を経るにしたがって、自分の専門を深める、というより、専門外にも広げる、という変化が起きている。アピール文を読んで、この分野の人たちは、活字を大切にしたいのか、確かにそうだろうな、と趣旨に添っている自分に気が付いた。年を経ると言うことは、専門外にも優しくなれることかもしれない。もっとそうなりたい。
宝探し
長い時間をかけて方法を考え、関連する資料を探して熟読し、ようやく実験や観察や調査などの研究が始まる。右往左往しながら、ともかく制約された時間の中でデータを収集し分析して結果を得る。文献を調べると、特に新しい知見が得られているわけではないが、しかし対象者も違うし、多少の結果の新しさもありそうなので、発表に応募する。面白そうな内容なら、参加者から質問やコメントが送られて、評価されれば少し自信を持つので、論文として投稿する。たぶん、こんな営みが研究者の常ではないかと思うが、なんと気の長い仕事だろうと思うことがある。多くの研究発表は、よほどでないと引用もされず、物置に閉まったオモチャのように置きざれにされてしまう。なんと無駄な作業だと思うこともあるが、わずかでも良い評価を得ると、嬉しくなってまた走り出す。どこか宝探しの子供に似ている。小学生の孫が友達と秘密基地を作るのに夢中になって砂だらけの真っ黒な姿で夕方遅く自宅に帰って、母親に叱られたと、ラインで読んだ。考えれば自分とあまり変わらないのかもしれない。研究者とは、子供がそのまま大人になった職業である。望むらくは、雑音に惑わされず宝探しだけをしたいが、そうはいかないのが世の中である。それが、子供と大人の違いである。
