研究の面白さ

昨日8月18日も忙しかった。自宅勤務であっても、お盆を過ぎると日常にもどるせいか、忙しくなる。理由はある。SSHの発表会に関する仕事と論文審査のためだった。論文と言っても、海外の論文誌なので30ページを超える英語論文で、読むのに時間がかかり、締め切りが近いので、どうしても昨日しか時間がとれない。しかし、どこかおかしい、と思ったのは、それほど時間をかけて読んだ割には、心に響かないのだ。平凡に言えば、面白くない論文だった。自分の英語力や知識量の差もあるが、なにしろ海外の研究者の論文は、参考文献の量は凄いので、相当に勉強して先行研究に目を通していることは確かなのだが、それでも面白くないものは面白くない。どうコメントを書くか、時間をかけたので、明日に伸ばすのは効率が悪く、もっとわかりやすく明確に記述してほしい、という査読コメントを、いくつか書いてWeb投稿した。しかし、SSHの高校生の研究は、素晴らしかった、と同時に、面白かった。同じ査読であり、同じ審査であっても、他人に伝える力は、天と地ほどの差がある。SSHの研究で優れたものは、いつまでも脳に残っていて、子供が秘密の宝物を持っていて、他人に嬉しそうにそっと言う、心境に似ている。だから、研究は面白さが最も重要で、引用文献の数や研究者の所属や地位など、まったく関係ないのだ。研究の素晴らしさは、すべての面で平等だということにある。昨日は、その違いをはっきりと勉強させてもらった。

不協和音

昨日8月17日は、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)の審査で一日中忙しかった。忙しいことは、脳を活性化すると同時に、体全体を前に進める体制にするようだ。高校生は若く青春の中にいるから、野球の甲子園と同じように、そこにすべてをかける。その波動が、私たちに伝わってくる。野球にかけるのもよし、SSHのように研究にかけるもよし、そのエネルギーは、池に投げた石の波紋が周りに伝わると同じように、私たちの脳に入ってきて、ある場合は共鳴し、ある場合は不協和音を出して、そこに議論が生まれる。時に不協和音が、飛躍する引き金になることもある。音楽でも、常に同じ調子ではなく、どこかで違和感のある音色によって、別の展開になることがあるだろう。研究でも、同じような気がする。そんな一日を過ごし、他の仕事は脇においてきた。昨日のブログでも書いたように、読みたい本を読む時間もなかったが、どうも今日も無理のようだ。時間は不思議で、手帳を見ている時は、十分できると思っても、実際にはできなくなることが多い。たぶん、先のことは自分の都合の良いように想定するからだろうが、実際にはいろいろな仕事が入ってきたり、手間取どったり、別のことを思いついたり、つまり不協和音のような、雑音のような音が飛び込んでくるのである。雑音という言葉は適切ではなく、その音は、先に書いたように飛躍の展開になることもあるので、どうなるのかわからないのである。それで、いいのだ。常に、いろいろな音が飛び込んできて、それに懸命に対応している内に、なんとか作曲できているような気がする。たぶん、明日19日は久しぶりに都心に電車で行く用事があるので、電車の中で読書するだろう、と、予定はしてみる。

読書

明日は17日月曜日だが、朝8時半からオンラインで、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)の審査日である。朝早いので、このブログを書く時間がないので、今日16日の夕方に書いておく。推敲時間を入れると30分くらいかかるので、明日の朝の時間は、メールの確認時間などが必須なので、8時半はかなり厳しい。今日16日は、日曜日であっても普段と変わらない。午前は資料資料作りや原稿書きなど、午後は買い物があれば車で出かけ、土日はスポーツジムへ出かけるが、今日8月16日は特別な日で、お盆の終わりなので、送り火を焚く。ただ、家内の買い物に付き合った時、隣に本屋があったのでのぞいたら、古関裕而自叙伝の本と渋沢栄一の文庫本があったので、買った。買ったのはいいが、すぐ読みたくなるので、帰宅して、居間で寝転んで読んでいたら、ますます面白くなる。スポーツジムに行けなければいけないし、仕方なく行って、2時間半後に戻ってきて、お風呂に入って、続きを読もうかと思ったら、ブログを書いておくことを思い出し、書いていたら、家内が送り火を焚くので手伝えと言われ、送り火が終わったら、今、ブログの続きを書いているので、いつ本を読めるのだろうかと、思った。本人が書く自叙伝と、朝ドラでは、かなり違う。ストーリではなく、印象が大きく異なる。朝ドラは、演出家の作品であって、史実ではないことが、よく分かる。そんなことを思いながら、早く、このブログを書き終えて、少しでも読んでおきたいと思ったら、夕食の時間になってしまった。早く食卓に来て、という家内の声がした。人生とは、このようなものだろう。仕方がない、読書は明日に延ばそう。別に、不都合ではない。

8月15日

健康維持のために、土日はスポーツジムに通っている。暑い日中に涼しいジムに行って汗を流すと、身も心も軽くなる。ランニングマシーンで軽いジョギングをする時、数メートル離れたテレビを見ることがある。音声はすべて字幕になっているので、ユニバーサルデザインの考えが生かされているのだろう。8月15日なので、沖縄、広島、長崎の人々の辛苦の報道だったが、いつもは心が痛むので目をそらしていたが、マシーンの上では見るしかない。長崎で爆心地から300メートルしか離れていなかったが、防空壕の中にいて奇跡的に助かった女性の証言に、ハッとさせられた。彼女は、戦後に近所の人々の差別が、最もつらかった、だから原爆のことは一切口にしない、と証言した。それほど、日本人は差別をするのか、奇跡的に助かったのなら、良かった、と共に喜ぶのが、日本人ではなかったのか、日本人はそのような卑劣な人種なのかと憮然とした。しかし、コロナ禍の第二波が収まらない現状で、多くの知事は、わが県に来ないでくれ、とテレビで言っている。何を寝言のようなことを言っているのか、地方に行けば、駅前通りでも人影はまばらで、これでも県庁所在地か、と目を疑ったことがある。地方は、もはや人が集まらず、人口減少の一途を辿り、死にかけている。若い人が移住してくれれば、土地も無料にします、と叫んだキャンペーンは、どこに行ったのか、人が集まること、それは人気があること、人気があれば活性化すること、それは人と共に生きることであり、人を排除することではない。コロナ感染よりも、熱中症に注意したほうが、よほど死者数は減るだろう。それは、自分だけの県、自分だけの地域、自分だけの村、が良ければ、他はどうでもよい、という差別でしかない。学校でのいじめが無くならないはずである。トランプのアメリカファーストを批判できない。まして、中国や韓国の反日教育に至っては、相手を憎め、と子供に教えているのだから、どんな大人に育つのだろうか。その予測は、日本の戦前の反米教育、ドイツの反ユダヤ教育の結末は何だったのかという、歴史から学べるはずである。そんなことを思いながら、運動していたら、マシーンの時間が終わった。確かに昨日は、終戦記念日であった。いつまでも、思いやりがあり、人を受け入れ、人と共に喜べる、日本人でありたい。少なくとも、子供たちには、そう伝えたい。

外食

コロナ禍の関係で在宅勤務になり、このため家庭での食事が多くなり、昼食も外で食べることはほとんどなくなった。家庭では経済的であるが、社会の経済活動は停滞する。お金が流通しないから、という当然の帰結である。江戸の時代も、何回も倹約令が出され、その時に使われた奢侈(しゃし)という言葉も、中学生の頃、社会科の教科書で知った。自分が育った頃は、日本全体が貧乏だったから、真っ白なご飯は、輝くようなご馳走だった。そして、幸せを感じるくらい美味しかった。だから、自分たちの世代には、もったいない、という言葉が染みついている。確かに、今の世の中は、モノを無駄にしてしまっている。これでは、地球の資源が枯渇するかもしれない、という危惧がある。一方、人間には、こうしたい、とか、こうなりたい、という欲望がある。良い意味でも悪い意味でも、ある。その欲望が、技術を生み出して、車も、テレビも、コンピュータも発明されて、この世の中を動かしている。考えてみれば、倹約、もったいない、我慢、という精神と、もっと楽に、もっと豊かに、もっと満足したい、という精神は、どちらも大切である。問題は、その精神を、どのように実現するのか、家庭の経済を無視して、ぜいたくをすれば、それは不幸な結果を招き、もっと良い仕事をしたいので、コンピュータを購入する、となれば、より豊かな生活になるだろう。今のコロナ禍における、自粛要請と経済活動は、そのジレンマの中でもがいているように見えるが、どこか基本を押さえていないような気がする。江戸時代の倹約令は、一時は成功したかに見えて、ほとんどが大失敗している。被害を被るのは、すべて庶民であった。家内と話し合って、金曜日の夕食だけは、外食をすることにしている。金曜日の昨日は、市内のスパゲッティ屋さんで、食べたかった渡り蟹のスパゲティを食べた。庶民のささやかなぜいたくであるが、世の中の経済活動には、少しだけ貢献しているだろう。

迎え火

今日から、少し忙しい。SSH(スーパーサイエンスハイスクール)の生徒研究発表会の発表資料を、このお盆の時期に読まなければならないからだ。しかし、気持ちはmustではなくenjoyであり、今から楽しみでワクワクする。17日の月曜日に発表会がある。今年はオンラインだが、例年は神戸市の国際展示場で開催される。5,000名近くの高校生が会場を埋めると壮観で、知の甲子園とか科学甲子園と呼ばれる。毎年、それが楽しみで、ポスター会場で生徒に質問しながら審査をするが、トップレベルの研究は、大人の研究者並みなので、学会の論文誌に掲載されたり、受賞したり、大学に推薦入学したり、多士済々なのである。そのポスターの前での質疑応答も素晴らしく、高校生達が自由に発言する。各分野での代表を決め、その中から文部科学大臣賞などを決めるが、このレベルになると、専門外の分野であっても、その凄さが伝わってきて、毎年感動する。甲子園で優勝する瞬間と同じで、生徒たちも指導教員もすべてが全力で頑張ってきた足跡に、外野の人間であっても、触れて、その黄金のような輝きに魅了される。美しいとしか表現できない。夏はイベントが多く、楽しいことが多い。今年は、コロナ禍の関係で、お盆に子供たちが来れないので、zoomのオンライン会合で近況報告をすることになっていたが、昨日LINEで家族旅行に出かけることになったと、知らせが届いた。孫たちの嬉しそうな顔が、目に浮かぶ。家族で、大いに遊ぶとよい、美しい自然に触れるとよい、プールで泳ぐとよい、美味しい食事をするとよい、満ち足りた体験のすべてが楽しい思い出になるだろう。昨日は8月13日で、夕方に玄関で迎え火を焚いた。老夫婦2人の亡くなった両親4人とご先祖が、我が家を見失わないように、天から霊が安心して降りてこれるように、オガラを燃やした。西の空は、絵に描いたような美しい夕焼けだった。SSHの審査、子供たちの家族旅行、お盆の迎え火、すべて良い、すべて心配ない、ただ有難い。

論文を読む

日本は台湾と正式な国交はないので、台湾にも日本にも大使館はない。その代わりに交流協会という外務省の外郭団体があって、大使館の代理的な業務を行っているが、その中の1つが、留学生の受け入れである。海外留学生受け入れ30万人計画に基づいて、奨学金による留学生の生活支援をしているが、国の税金を使うので、優れた人材を選抜しなければならない。将来、台湾と日本の橋渡しができるような人材が育てば、両国にとって国益になる。交流協会は、東京と台北市にあるが、外務省職員が出向している。例年なら、その審査である面接のために、9月に台北市に出張するが、今年はコロナ禍のためにオンラインになる。面接審査はよいが、その前に書類審査をしなければならない。書類といっても、審査員は、内容の審査なので、留学生の研究計画と論文を読まなければならない。日本の有名大学の大学院の修士と博士課程の希望者なので、卒業論文か修士論文か学会誌の論文、そして研究計画であるが、専門分野が少しでも違うと、きわめて難しい。分野は、社会学系、人文系、理工系、医学薬学系に分かれていて、自分は、理工系に所属している。一口に理工系と言っても、群論のような数学、宇宙論、有機化学、通信工学、AIや地震学まで、きわめて幅広いので、すぐに想像できるように、相当に勉強しなければ、とても理解できないし、質問もできない。その上、かなりの割合で英語論文で提出するので、英語で質疑応答する。その場合は、関連文献を英文で読んで、英語の専門用語も勉強する必要がある。ある年に、忙しくてどうしても時間がなく、次年度からこの審査を辞退しようと思って、もう一人の若い現役教授と話したら、自分と同じように、きわめて難しいと答えた。有名大学の理工系の現役教授でも同じなのだ、まして自分のような高齢の退官した人間なら、分からなくて当然と開き直って、今日に至っている。毎日少しずつ論文を読むことにしたが、昨日は、ハイエントロピーの合金に関する材料工学の研究で、エントロピーは物理概念だから知っているが、なぜ合金、それも記憶合金に使われるのか、読んでいると、そして関連論文をネットで調べていると、面白くなってくる。材料系では、最近流行っているらしい。どの分野でも研究は止むことがない。外は猛暑、書斎の中はエアコンで快適、その中で先端研究に触れること、こんなにも有難く、ぜいたくなことはない、と幸せな気持ちになった。

専門家

昨日は、午後1時から5時まで、zoomを使ったオンライン会議や打ち合わせだった。お盆の週だが、13日まではなにかとオンラインで仕事が入る。zoomと書いたが、webex、meet、teamsなど、相手によってアプリが違うので、ややこしい。ユーザとすれば、安全性とかあまり気にしないので、便利なほうが良い。どれも似たようなアプリなので、専門家は細かい違いを気にするだろうが、ユーザはそのようなことには興味がない。しかし、専門になればなるほど、ユーザの視点とかけ離れていく。ここまで書いて、ふと昨日のお昼に見た朝ドラを思い出した。作曲家の古関裕而は、西洋音楽の良さを曲に入れようとして、頭を掻きむしるほど苦闘するが、レコード会社の担当者や大先輩の作曲家は、見向きもしない、というか、どこか鼻について小賢しい、と軽蔑するというシーンだった。音楽のことは分からないが、主人公は、流行歌とか応援歌とか、自分は何をしているのか、と悩むが、確かにテレビ視聴者からすれば、それでいいではないか、音楽に上も下もないだろう、楽しめばいいいのだ、と思って、番組では憎まれ役のレコード会社の担当者の肩を持ちたくなる。何を粋がっているのだと思うが、それが専門家のプライドかもしれない。この番組の先は、たぶん主人公は、そこに気づくのだろう。そうでなければ、日本情緒たっぷりで、大衆の心に響く旋律を散りばめた、船頭可愛や、の作曲はできないからである。先のzoomや他のアプリも同じである。専門とは、逆に市井の人の感覚と離れていくものかもしれない。真の専門家は、それを乗り越えて、自分を高めている人かもしれない。自分は、まだそこまで達していない。

パソコン

今年は科学研究費に採択されて、喜んでいたが、コロナ禍の関係で、学校訪問も学会参加も国際会議も参加できないので、来年を期待しているが、研究しなければならないこと、したいことは山ほどある。平凡ながら、優れた先人達の跡を踏んでいき、汚さないようにしたい。故坂元昴先生は、亡くなる前日までか、その日までなのか、病室で出版原稿に手を入れておられたと聞いているが、あまりにも偉すぎて、ただ頭を下げるのみである。坂元先生に言われて、ある団体の会長を引き受けたが、とても格が違いすぎていたが、できません、という言葉は自分には禁句だった。どんなことでも、はい、と答えることを信条としていた。思えば、楽しい思い出ばかりである。科研費で、パソコンを買った。今は、価格は安くても、性能はかなりアップしているので、使いやすい。そして、クラウドでデータを格納するので、あまりパソコンの容量は気にしなくてよい。2日間かけて、と言っても仕事の合間であるが、旧パソコンのデータやアプリなどを新パソコンにインストールして、使えるようにした。自宅では、合計4台のPCを使うので、快適である。パソコンは、道具とかツールとか呼ばれるが、そこに、単なる道具に過ぎない、というような、軽い響きが込められている。自分には、道具ではなく、友である。朝から晩まで、ずっと付き合っていくから、友と呼ぶしか言葉は思いつかない。故坂元先生は、単なる先生ではなく、人前では言わないが、神のような存在である。それと同じで、人前では、パソコン、道具、ツールと言っても、心情的には、これから先もずっと付き合っていく、友である。よろしくお願いする。

お墓参り

昨日、8月9日に市内にある墓地にお墓参りに行った。数年前に、お墓を市内の新しい墓地に移して以来、毎月お参りをしている。年を経るにしたがい、それが老夫婦の楽しみになった。お墓の中にいる両親の前で手を合わせ、いろいろな報告もしながら、これからのことも心配しないでよい、と話しかけている。昔の人は、苦労ばかりして、生き延びてきたのが奇跡のように思うが、自分を振り返っても周囲を見ても、食べることにも住むことにも、少なくとも生活することで困っている人は、ほとんどいない。医療も年金なども税金で保証しているからであるが、ぜいたくな生き方ではないか、と手を合わせながら思った。若い両親と祖父母と小さな2人の子供の6人連れ家族が、お参りに来たようで、気温がぐんぐん上がっているお昼の真っ盛りに、お墓の前ですれ違った。小さな子供たちも、今時なのでマスクをしていたが、幸せの文字を背中いっぱいに描いているようで、目が笑っている。一足早いお盆で、家族全員が揃ったのだろうか、大型のバンが駐車場にあった。周囲が林なので、限りある命を精一杯生きるかのように、蝉の合唱団が鳴いている。今年も暑い夏がやってきた。子供の頃は、スイカ、灯篭、ラジオ体操、線香花火、海やプールでの水泳、盆踊り、大人になって、家族旅行、学生たちとの夏合宿、キャンプ、BBQ、など楽しい思い出ばかりである。井上陽水の少年時代の歌のように、やがて夏も過ぎていくだろう。しかし、蝉と同じように、限りある夏を精一杯生きたい。コロナ禍であっても、楽しい思い出を、すべての子供たちにいっぱい送ってやりたい。やがて、厳しい社会を生きる大人になっても、幸せな思い出を多く持っていれば、乗り切る勇気が出てくるからだ。蝉しぐれの声と、お墓詣りと、お線香の香りが、真っ盛りの夏によく似合う。