昨日は、都内の小学校での研修会で授業参観をして、コメントと講義をした。コロナ禍の今の時期では、授業参観そのものが珍しく、教育委員会から許可が出にくい。しかし、この授業が素晴らしい。前のブログでも書いたが、小学校は、まるで芸術作品のように、授業がよく練られていて、見事に引き付け、盛り上がり、時間が経つのを忘れる。昨日の図工の授業は、まさにその通りだった。というと、お世辞に聞こえるかもしれないが、実際その通りなのである。前のブログでも書いたが、夕食前に時間があると、パソコンで落語を聞くことがあるが、何度聞いても飽きが来ないし、分かっていても、笑ってしまうので、確かに本物の芸だ、と感じるが、同じ感じ方が、授業にもある。昨日の図工の授業は、教師の問いかけ、子供たちの活動、教材が、一体となっていて、落語よりもシステムは複雑で、指導案という流れはあっても、どのような寄り道にいくか分からないので、出たとこ勝負のようで、芸術作品のようだという形容が合っている。小学校では、特にその流れや子供の発想や認知を知っていないと、指導できないので、自分のような素人には、とても難しく、コメントも恥ずかしいくらいである。これも謙遜ではなく、実感である。都の指導主事も来られていたが、雑談でも、さすがこの道のベテランとなると、よく知っている。この先生もプロであった。果たして、自分はプロなのだろうか、と問いかけたが、ままよ、せっかく時間をかけて用意してきた資料なのだ、基礎的な内容だが、話すしかない、と心に決めて、後半の講義の時間を過ごしたが、先生方にとっては、刺身のつまのようなものかもしれない。自分だけが勉強になったような気がして、恐縮した。もう少し、自分もプロに近づきたい。
クラスの人気者
ふと思ったが、人は気になることがあったり、仕事上でうまくいかなかったり、予定が狂ったり、評価が低かったり、何か些細なことだけで、浮かない顔になることがある。それは誰にでもあるだろう。子供にはあるのだろうか、通学の小中学生を、朝見るのが楽しみだが、昨日まで4連休だったので、今日から登校なので、8時頃には、近所の小川の橋の所で、出会うだろう。彼らの元気そうな表情や、密はどこ吹く風と、雑談する風景が、癒しを与えてくれる。子供に、不登校やいじめがあれば、このような表情にはならないので、よほどつらいことだと推測するしかないが、それほど大きな悩みでなくても、サッカーの試合に負けた、成績が下がった、先生に叱られた、友達とトラブルがあった、などの小さな不幸は、大人と同じように持っているだろう。クラスの人気者とは、そのような時でも、あまり気にしない、傍にいると元気になれる、ワクワクする、などの、人を引き付ける魅力をもっている。通学風景でも、そのような光っている子供がいて、その周りに子供たちがいる。コロナの時代における、密を避けよ、とは、そのような人を引き付けることを避けよ、と言っているようなものなので、これまでとは真逆の要請なのである。そうであっても、ワクワクして生きるのが、この時代の生き方の理想だが、凡人には難しい。とすれば、このコロナ禍の時代では、クラスの人気者の姿が、モデルなのかもしれない。小さな不幸は蹴飛ばして、自分のやりたい楽しいことをすればよい、過去は過去で意味がない、と思えば、元気になれる。
他から学ぶ
昨日も合宿があり、帰宅してジョギングなどして1日が終わったが、考えてみれば4連休の3日目だった。都内も人出が多かったが、ホテル内は閑散とした感じだった。合宿では、マスクかフェースシールドで飛沫を防ぎながらの会議だったが、議論に集中すると時間を経つのを忘れる。委員の深い知識と実践に裏付けられた意見に、感心した。技術も知識も日進月歩であり、特に情報系の技術は社会への影響も大きく、教科書に掲載するとなれば、その先を見通す必要があり、その議論は密度の濃い内容になる。教科書とは、なんと丁寧で奥深く作るのだろう、と思う。編集者の凄さは、その知識は、専門家に匹敵するようで、相当に勉強している。たぶん、そのレベルに達しなければ、編集という仕事はできないだろうが、それぞれの分野に、専門家がいて、知識も人間性も素晴らしい、つまり優秀な人がいて、この世の中を動かしている。もう年だから、とは言いたくないが、事実としては、知識よりも、全体の見通しとか、包括的な考えや方針などとのずれを考える役割かもしれないが、会議では自分を見つめる良いチャンスであり、他人の凄さを知るチャンスでもある。長時間の会議も、あっという間で、連休中の充実した2日間であった。他から学べることは、素晴らしいことである。年を取ると頑固になる人も多いと聞くが、自分はそうならないようにしたい。
合宿
教科書編集の合宿で、都内のホテルに泊まっている。準天然温泉があって、昨晩も今朝も大きな湯船に浸かってリラックスしたので、合宿というより気持ち的には保養に近い。大学にいた頃は、毎年夏合宿があって、楽しみだった。朝のラジオ体操から始まり、朝の散歩、朝食、勉強会、昼食、勉強会、夕食、スポーツ、懇親会などだったが、すべて面白かった。まるで小学生のように、6時半からのラジオ体操をし、食事では、指名された学生が挨拶をして、いただきます、の合掌をして、という昔ながらのスタイルだった。体育系のスタイルかもしれない。思いだせば、きりがないが、よく学び、よく遊び、の言葉通りで、勉強会でも、質問時間になると、質問が多く出すぎて困るので、くじ引き制度にしたり、というバトルのような白熱した勉強会で、どうしても終わらない時は、夜もやったが、夜は飲み会やゲームなどで盛り上がった。若いころの楽しい思い出は尽きないが、この大人の合宿も、いい。同じ釜の飯を食べる、というが、子どもの頃や学生時時代の郷愁があるからからかもしれないが、その時代は、その時間が生きているすべてのような感じなので、懐かしんでいるのだろうか。
実践の中の気づき
昨日も平凡な一日であったが、資料作りが午前中の仕事で、8時から12時までに材料を集めて、原稿やセミナーなどの資料をまとめる作業で、自分にはこれが楽しい。作業だけでなく、気付くことがあるから、何か発見したような知的な喜びがある。資料作りでは、実践をいかに盛り込むか、実践に埋め込まれた、考え、思想、きらりと光るノウハウ、研究に裏付けされた知見、をどう引き出し、どう結びつけるか、が、自分の目指しているところだが、それが極めて難しい。実践そのものは、表面なので、作文を読んでいるような印象があるが、実はその背景に、隠されている本物の知見があって、それに気づくと、あっ、そうか、と思うことがある。小さな発見とでも呼びたいのだが、なかなかその気づきは起きない。かつてのブログでも書いたが、自分には小中学校の実践経験がないので、奥が見えない、本質に気付けない、ような気がしている。しかし、昨日は、実践記録を読んで、その中にも気付きがあることが分かった。それであれば、資料はいくらでもある。最近の研究も勉強して、実践の記録を読めば、なんとかなりそうだ、と気が付いて、嬉しくなった。うまくいくかどうか分からないが、楽しみなのだが、時間がなかなかない。今日から明日にかけて、ある教科書の編集会議の合宿で都内で宿泊の予定になっている。明日は、ブログはお休みになるかもしれない。
プロのレベルとは
金曜日の夕食は、外食することにしているが、昼食程度のメニューだから、昨日は歩いて10分ほど離れたカレー屋さんに行った。全国チェーン店のよく知られたカレー屋さんだが、何度行っても美味しく、飽きがこない。始めは、家内がファンになった、次は自分もファンになった。このカレーの味が、なんとも美味しく、家庭では出ない味だと、家内が言っていた。確かにプロとは、そういうものだろう。たまに夕食前に、パソコンで落語を聞くことがある。夕食は居間なので1階だが、1階にもパソコンがあって、何かの時に開くが、名人芸なら同じ落語を何度聞いても、飽きがこないで面白く、大笑いする。確かにプロなのである。飽きがこない、とは、プロの仕事なのか、と思う時がある。昨日のブログでも、各分野での優秀さ、つまりプロについて書いたが、プロとは、人を飽きさせない、引き付ける、ような魅力があるのかもしれない。このブログでも紹介した、評価の三角形の研究発表も、聞きほれた。研究の凄さも、人を引き込む。人は、そのようなプロを目指して努力をしているかもしれない。この観点から振り返ると、自分はまだプロのレベルに達していない。
優秀さとは何か
昨日は、SSHの長い会議があった。いつも思うのは、文科省の担当者の優秀さである。この優秀さという意味は、どこか学力とは別である。学力は、教科という枠があって、そこには決められた目標があって、すべて行くべき道が見えている。道がないので、どうしたらいいか、少しオーバに言えば、国民のためになるには、どのような制度設計をしたらいいのか、という視点である。教科ではなく、研究でもなく、行政なのであろう。行政とは何か、全体を見渡し、目標を達成するための道筋を作る、規則を作る、などであろうが、仕事の段取りや進め方も早い。委員会の委員は、一応その分野の専門家なのだが、先に述べた教科や研究などの専門家なので、見方や考え方が微妙に違う。研究という観点では、あまり結果の責任を感じていない、というと誤解されるが、独創性とか、面白さなどで評価するので、国民全体とか結果の責任などは、あまり意識していない。だからこの会議は、面白いのかもしれない。研究者と称される人は、相手が誰であっても、主張すべきことは遠慮はしない、子供のような姿に似ているが、官僚は、優秀であって、しかも先を見て、かつ結果責任を負う、ことを意識しているので、発言も慎重なのかもしれない。昨日のブログでも、政治家、官僚、企業の人たちの特性に触れたが、学校教育で目指すべき優秀さとは、何であろうか。教科だけではなく、研究だけでもなく、全体を見渡せる官庁の事務官のタイプなのか、企業のような競争に打ち勝つタイプなのか、まだわからない。優秀さとは何だろうか。
菅内閣の発足
毎日オンラインの会議やセミナーや研究会などがある。そろそろ対面での会議やイベントも入ってきたので、世の中は動いているのだろう。政府も菅内閣が発足したが、確かにこの世の中は、じっと待ってはくれない。人は、歳をとるにつれて、時々過去を振り返るが、ずっとこのような生活だったような気がする。菅内閣の副総理の麻生大臣は79歳と新聞に記されていたから、ずっと活躍してきた人なのだろう。一度、議員の昼食会で講演を聴いたことがあるが、常に前を向いているようで、当時何かの問題でメディアに叩かれていたと思うが、どこ吹く風のごとく、聴衆を笑いに誘い、元気を与え、我が道を行くことが、国民の幸せに通じる、というような、多少独善的な印象の講演をした。自分も団体の役員をしている関係で、政治家とも多少は付き合うこともあるが、住む世界が違うので、意見が違うこともあるし、尊敬することもある。自分の所属している団体の活動の1つとして、省庁、国会議員、企業の3つを連携した議員連盟に関わるプロジェクトがある。省庁の役人は、鋭く議論をし、議員は、庶民の感覚も含ませながら、場合によっては人情も入れて主張し、企業側は、現場の意見も入れて、かつ技術的な観点から論理的に要求し、という会議が、年に数回ある。通常は、朝8時から議員会館会議室で、という早朝であるが、電車が混まない時間なので、意外に参加しやすい。菅内閣の発足で、ふとそんなことを思い出した。それぞれの分野で、人々は精一杯生きているようだ。
セミナーに参加して
昨日は、素晴らしいオンラインセミナーに参加した。国立教育政策研究所の主催の教育評価についてのセミナーだったが、午後から夕方まであったが、仕事の関係から前半だけ視聴した。センサーなどが至る所に使われる現在、教育も例外でなくなるが、例えば、教室での発言、表情、しぐさなど、膨大なデータが収集され、AIが分析することが可能になるだろう。個人情報の問題はあるだろうが、そのデータ、それはセンサーでも人の目や耳でもいいが、観察によって得られる証拠、エビデンス、であるが、そのデータを元に、人は、この子は優れている、劣っている、と解釈するが、それには、何をもって、そう解釈するか、という認識の仕方、見方や考え方に依存する、という枠組みである。それを、観察、解釈、認知、という関係で、教育評価を捉える、という方法論と実際のテストへの応用についての議論であった。面白い。特に、認知に依存するという視点が独創的で、どのように現象やデータを認知するかで、解釈や評価の結果は、雲泥の差になる。後半は聞けなかったが、その認知は、たぶん教師の経験や教科の見方考え方、文化的な背景に依存するだろう。昨日のブログでも、日本の合わせの文化と欧米の選びの文化の違いに触れたが、どのような文化や価値観を持っているかで、同じデータや証拠を見ても、解釈は異なるので、評価は難しい。PISAの問題自身に、文化が反映されているので、完全に平等の結果にならないことは、かつて言われたことでもある。この評価の枠組みを拡張すれは、子供たちの成育歴や家庭環境などによって、つまり個によって感じ方が違うので、個の評価は、難しいことになるだろう。セミナーに参加して良かったと思うのは、その内容の深さだろう。
秋を感じる頃
朝も夕も涼しくなって、夜には鈴虫が鳴いている。鈴虫の鳴き声は、心を和ませるような優しさがあって、季節を感じる。昼間はまだ気温は高いが、空を見れば、うろこ雲や、すじ雲のような、もくもくとした形容ではなく、刷毛でこすったような、手でちぎったような雲が多くなり、秋を感じさせる。今年は、前半の長雨で、毎日雨ばかりでいつ青空が見えるのだろうか、と思っていたら、急に気温が上昇して、灼熱の夏になったので、いつまで暑さが続くのかと思っていたら、朝夕はめっきり秋らしくなった。自然は、人に季節という贈り物をすることを忘れてはいないようで、私たちは、自然と対話しながら暮らしている。NHKの日曜日朝の番組、小さな旅が好きで、音楽も素晴らしいが、日本の自然やそこで暮らす人々の人情に、心が動かされる。つい最近、大分県日田市の陶磁器村が紹介された。その村では、川の水を利用した水車で、その地域の土を細かな土にして、ろくろで素朴な陶磁器を形をつくり、窯で焼いて出来上がるが、その作業は、文字通り職人芸であり、長年の修業が必要とされる。この道、何十年の職人が、自分が作っているのではない、自然が作る、と語っていたが、そうかもしれない。土も水も窯もすべて自然のものであり、人がしているのは、ほんの少しだけ手を加えただけなのだ。人が、自然と共生する考えは、日本人の思想であり、よく知られているように、合わせ、の文化として、欧米の、選び、の文化と対比される。年を経るにしたがって、人の心は原点に戻るようで、自然に合わせ、人に合わせ、地域に合わせる、生き方が馴染むようになる。自分の専門であるテクノロジーとの合わせは、少し別の文化なので、またの時に考察しよう。
