共感すること

昨日も、いつもと変わらない生活で、午前は仕事をして、午後はいろいろな用事があって、久しぶりに小さな庭の雑草を取って、少しジョギングをして、夕食になるという平凡な一日である。前にも書いたが、平凡な生活も慣れると、それも楽しい。テレビは、お昼の昼食時と夕食時である。昼食時は、ニュースと朝ドラだけ見て、途中の食べ物系の番組は消している。夕方は、番組によるが木曜は、家内も好きだが、俳句の番組が面白く楽しみにしている。昨日は、作った人の名前を忘れたが、ひぐらしのイヤフォンはずして立ち尽くす、が気に入った。若い人はイヤフォンを良くしているが、はずすと外の世界が良く聞こえるが、ヒグラシが鳴いている、ことに気付き、イヤフォンという音の世界から、現実の世界に戻り、立ち尽くす、という句のようで、誰でも経験があるので、情景が目に浮かび、共感する。午前の仕事は、ある学校での小さな講演の資料を作っていたが、いつも、自分と参加者をどうつなげばいいのか、に頭を悩ましているが、その解の一つが、この共感ではないか、と思った。自分が知っている世界の知識だけを話しても、相手に伝わらないし、面白くない。相手の知っている知識だけを伝えても、新しい世界が見えないので、分かるけれども面白くない。新しくて、お互いが理解できる、それが共感かと思ったのであるが、その意味では、講演も俳句も似ているようだ。その講演資料の中に、これから、授業デザインやカリキュラムデザインも、論理的な思考に基づくシステム思考から、直感や共感やイメージに基づくデザイン思考になる、というような内容を書いたので、先の俳句に共感したのかもしれない。

非認知能力

昨日もオンラインでの研究会があったが、これが日常になって、対面にしたいからと言われても、すいませんがオンラインでお願いします、という返事になってしまう。慣れとはこのようなものなので、やがて、コロナ禍、マスク、自粛、3密、stay home、social distanceなどの言葉も、人々から忘れられるようになるだろう。それでいいのだ、年月と共に、世の中は動いていく。ただ、教育はある時期を逃すと、取り返しのつかないことがある。3か月の休校処置によって、子供たちの間に大きな格差が生じたのではないか、と懸念している。その格差とは、学力だけでなく、社会的精神的な面も含めてであるが、それは非認知能力と呼んでもよいが、その差が今後大きく影響を与えるのではないか、という危惧である。ノーベル経済学賞の受賞者であるHeckman教授による、就学前プロジェクト研究は、教育界に大きな影響を与え、非認知能力として広く世界中の教育界に行き渡った。この研究は、就学前、つまり小学校に入る以前の子供たちの教育であるが、それは、就学中、つまり小学校から高等学校の児童・生徒であっても、同じ影響を与えるのではないか、という私の危惧である。3か月間の家庭における学習の在り方が、その後の人生に大きな影響を与えるかもしれない、と思っている。このような非認知能力について、昨日9日の打ち合わせでも、7日の白井先生、元早稲田大学総長、とも話し合った。私も、近著、オンライン学習・授業のデザインと実践、の中でも述べた。今後の推移を見守りたい。

心理実験

昨日は、1日中オンライン研究会というか、打ち合わせだった。人の意見や考えを聞くと気づくことが多い。昨日のブログでも書いたが、気付くことは凄いことで、他人から英知をもらって自分のものにすることと同じで、価値というお金を無料でもらったようなものだが、一方でもらいたくない、というこれまでの自分の考えに支配されることもある、というより、その方が多い。高齢者になるとこれまでの経験が蓄積されているので、その経験が益になることもあれば、邪魔になることもある。昨日は、自分は別の見方を知って有益だった。昨日、心理実験の例を出したが、アヒルに見えるかウサギに見えるかの絵柄、若い娘に見えるか老婆に見えるかの絵柄、などが有名であるが、考えると、この結果は人の見方や考え方に示唆を与えてくれる。ほんの些細なことで、自分はどうしてダメなのだろう、と高齢者になっても思うことがある。しかし、別の見方からすれば、そんな小さいことで何を心配しているのだ、という声も聞こえてくる。よく家内から、反省病だ、と言われる。いつも、反省ばかりいるからかもしれないが、周囲からみると、何が問題なのかわからない、と思うらしい。確かに、よく考えると、何も不安はなく、何も問題はない、ことが多い。つまり、不安や反省などは、自分が、正しくは自分の脳が、そう思い込んでいるに過ぎない。心理実験のように、若い娘に見えるか老婆に見えるか、できれば明るい方を選びたい。そう思うと、生きているだけで有難く、口笛を吹きたくなる。

思い込み

昨日は、一日中都心で仕事だったので、帰宅してからジョギングする時間がない。習慣とは恐ろしいもので、ジョギングをしないと体調がおかしくなる。ふと、そうだ、早朝にジョギングをすればいいのだ、という当たり前のことに気付いた。こんな当たり前のことでも、ジョギングは夕方するものだ、という考えがあると、なかなか気付かない。すると、若い人も年配者も、夕方よりも早朝のほうがジョギング人口が多いことにも気づいた。何でも気づくことは素晴らしい。思い込みは、文字通り思い込みの世界しか見えないから、他に気付かないのである。よくある心理実験で、どちらの顔でも見える絵があるが、その人の思いによって、見える顔が違うのは、そのことを言っている。自分の思い、つまり脳が見ているので、なかなか自分の思い込みから脱するのは、難しい。何かのきっかけでもないと、気付かない。読売新聞に連載中の、獺祭、という有名な日本酒がブランドになるまでの失敗と成功の繰り返しの回想録があるが、読みごたえがある。失敗というきっかけが、気付きを促すのだが、詳細はまた紹介するが、失敗とか、これまで通りいかないとか、道がふさがれたとか、という事態になって、そうか、この手があった、と気づくのだが、しかも、その手も、考えてみれば、当たり前のことが多く、奇抜なことではない。道がふさがる、ということは、思い込みを脱するチャンスなのだ。

平凡な一日

通常は、翌日の朝にブログを書くことにしているが、明日は一日都内で仕事があるので、朝から出かけなければならないので、今日日曜日の夕方、食事の前に書いている。日曜日でも通常と変わらず、午前中は仕事をして、お昼は外食などで家内と出かけ、その後、スポーツジムに行って、今に至っている。どこにでもある平凡な生活であるが、天気予報では大雨と聞いたので、傘を持ってスポーツジムに行ったが、帰る時は晴天だった。西の空には、まだもくもくとした夏の雲が出ているが、時計の針が午後5時を示す頃になると、風に優しさがあって、夏の定番である汗ばむことがないので、歩いても周りを楽しむ余裕が出てくる。もう9月か、と当たり前だが、季節の移り変わりを知り、自宅の近所の川の橋に来ると、いつものように、橋の上から川の流れを見るが、朝に見た魚の群れがいない。たぶん、ハヤ、らしいが、雨が降った後なので、どこかに避難したのだろうか、あるいは朝と夕方では居場所が違うのだろうか、などと考えながら、いつもと違う少し濁った水の流れを見た。もう、9月の第一週も終わりか、忙しかったような、そうでないような、とにかく明日から、何か忙しそうな気がする、などと考えて、自宅に着く。お風呂上りに、ビタミンCと称して、冷やしたグレープフルーツを家内に出してもらうのが定番になっているが、文字通り五臓六腑に染みわたり、体が生き返ってくるようだ。何事もなかったが、このような日常生活も良い。平凡であることは有難きかな。

自宅勤務の生活

昨日は土曜日だが、朝から夕方まで、教育系学会の理事会と研究会があったので、一日中2階の書斎のパソコンの前に座っていた。お昼の時間だけ、居間に降りてパンとゆで卵の昼食を取った。お昼のメニューもおよそ決まってきて、パンか、麺か、ご飯だが、軽いものが良い。12時過ぎに終わり、1時に開始となれば、その前後にオンラインの確認も必要なので、お昼時間は短いからである。都心のオフィスは溜池山王の駅近くにあるので、超高層ビル、ANAやオークラなどの高級ホテル、レストラン街など、虎ノ門や霞が関、国会議事堂前などの官庁街が直ぐ近くなので、華やかでもあるし、便利もよい。その分、お昼はレストランでは栄養過多になるので、コンビニでパンやお握りなどを買って、自分の机で食べることも多い。つまり、今と変わらないような昼食だ。若い人や働き盛りの人は、レストランを利用しているが、自分の年齢では、簡素が良い。新宿のオフィスに出かける時は、へぎソバを食べさせる新潟出身のそば専門店があって、楽しみだった。オフィスの近くも、都庁や高層ビルや高級ホテルなどがあるので、賑やかな雰囲気があって、好きな場所だった。大学は校庭も必要だから、都心のど真ん中はまれで、少し離れた場所にあるが、どの場所も通い慣れれば、居心地が良くなる。だから、コロナ禍後の生活で、自宅の2階の仕事場と1階の居間との行き来も、また楽しからずや、の心境になる。人は、適応しやすい動物らしい。あまり心配しない方がいい。

電車に乗る

9月に入ると、市内にも都心へも出かけることが多くなった。週に2回程度だが、やはり対面でないとオンラインでは済まないことがあるからだ。昨日も都心に出かけたが、物理的な体の運動はないが、電車に乗ったり人と話をすることだけで疲れるのは、誰も経験しているだろう。気が疲れる、と人は言うが、気だけでなく身体的にも疲れる、ということは、どういうことだろう。人が外界と接している状態を電子顕微鏡で見れば、分子が出入りしているので、疲れるのは、外に出る分子と外から入る分子によって、疲れる状態が異なるということだろう。私たちの体は、常に外界と分子レベルで交流しているので、外界が変化すれば、当然ながら体内の状態も、その影響を受けるだろう。空気の悪い部屋に長くいれば、体内に入ってくる分子が物理的に異なるので、当たり前だが体には良くない。同じように、気を遣う人とか、難しい交渉とか、何か脳や体内の部位から発する分泌物が異なる場合には、外界から入ってくる分子との相互作用が違ってくるので、当然ながら影響を受けるだろう。あまり意味のないことを考えたが、電車に乗ることの楽しみもある。昨日は、自宅ではなかなか小説など読む余裕がないが、電車の中ならば、気持ちがリラックスして文庫本を開ける。読むと面白いので、体内から楽しいホルモンか何かが出ているのかもしれない。しかし、このような楽しい時間だけでなく、難しい話の終わった後の解放感は、小説を読むよりも、もっと快感があるのは、何故だろう。いつまでたっても謎ばかりだが、それが生きている証拠のような気がする。

教育委員会の会議

昨日は、17時から20時までという長時間の会議が、市役所の教育委員会の会議室であった。今時、対面も珍しいが、3時間の会議も長い。いじめ対策委員会なので、非公開であり、詳細を述べることはできないが、対面の会議は、教育関係に多いような気がする。所沢市だけでも、いじめ対策委員会、学び創造アクティブプラン、所沢市教育審議会、所沢中学校評議員などあるが、すべて対面である。教育は対面で、というより、保守的というか伝統的というか昔かたぎのような面がある。いづれもすべて大切な委員会であるが、当然ながら内容によって、前向きと後ろ向きの雰囲気がある。いじめ対策委員会は、どう考えても後ろ向きにならざるを得ない。学び創造アクティブプランなどは、名前からして、創造やアクティブなど現代風であり、元気が出てくる。やはり教育は、元気が出るほうが良い。昨日は、長い割には結論は決まっているので、時間の消耗でもあるが、人の世には、このような無駄とも思える会議や時間も必要なのかもしれない。いじめ問題は、時間が風化させるのだろうか。親や関係者にとっては、どんなに耐え難いことであっても、やがて、そんなこともあったのか、もう昔のことだから、今生きるのが精いっぱいで、あの頃はそうだが仕方なかったかもしれない、と思う時がやってくるだろう。教員は、未来を生きる子供たちを育てなければならないから、自らが落ち込んでいたら、子供たちまで道連れにしてしまう。どんなことを言われようと、どんな批判を浴びようと、教員は、やはり顔で笑って心で泣いて、の映画の寅さんのように、子供たちの前で涙を見せてはならない。子供たちを預かる身のつらいところである。

出版

店頭に出るのは9月1日と聞いているが、著書を出版した。オンライン学習・授業のデザインと実践、と題する新刊であるが、出版することは、自分の子供を世に送り出す心境に似て、玄関先で子供を見送る光景に似ている。花屋さんが丹精込めて育てた花を店頭に並べる時、役者さんが晴れ舞台で演劇を披露する時、たぶん同じであろう。自分では精一杯書いたつもりでも、他人から見れば、いろいろな欠点が目に付くだろう。その評価は、ただ待つしかない。この新刊は、これまでと少し違い、出版社からテーマが提示されて執筆を依頼された。執筆期間も短く、材料も不十分で自信が無かったので、初めは乗り気ではなかったが、いろいろな条件が揃って、出版にこぎつけた。それまでは、楽しさと生み出す苦しさで、夢中に過ごす。しかし不思議なもので、上梓した後は、憑き物が落ちたように、頭から去ってしまう。この出版社で1年に1冊の出版、と決めて8冊目になった。しかし、出版業界も不況で、ほとんどの人はネットで済ませることが多く、地域にある昔からの小さな書店はほとんどが姿を消してしまった。寂しい限りであるが、子供が立ち読みする姿もどこか郷愁をさそうようになったので、過去のことなのだろうか。それでも、本は知的な商品である。特に、多少学術的な内容の本は、手に取って読んでいただくだけで、嬉しい。それは、花屋さんも役者さんも同じだろう。

伊東温泉

正直に書くと、このブログは伊東温泉で書いている。朝のお風呂上がりの気持ちの良い時間に、朝食の前に書いている。なんと優雅な、なんと呑気な、仕事はどうするという声も聞こえるかもしれないが、確かに、かつては自分もそうであった。年を経るにしたがって、ここ何年間かは9月の時期に温泉に行くことが、定例になっている。前にも書いたが、例年7月から8月にかけては、研修やイベントで忙しく、その準備にも忙殺されて、温泉で癒されたいと思うようになったからである。家内は、もちろん喜んでいるが、今年はお盆で家族も集まることができず、家族旅行もできず、その代用である。自宅を出る時は、どんよりとした曇り空が、小田原か熱海あたりから晴天で、車で走っていて、気持ちが良い。誰でもそうだが、身も心も洗われる。温泉、特に露天風呂、散歩、ビール、特に生ビール、新鮮な魚、料理、誰もが好きなはずである。意外と、若い人も多く、このホテルはかなり混んでいる。チェーンホテルなので、一度入力しておけば、自動的にWi-Fiに部屋からつながる。これも有難い。メールを確認し、手帳に日程を書き込むと、もう仕事が終わったような錯覚をする。人間は、どうも楽を好むようだ、という当たり前のことに気がついたが、どこか申し訳ない気持ちが残っている。