省庁の仕事

昨日も郵便でどさっと書類が届いた。文科省関連の書類を見て審査するのであるが、あまりの分厚さにどっきとする。よく省庁の担当事務官は、このような書類を処理しているな、と本当に驚く。仕事をするということは、こういうことか、と感心するだけである。こちらは審査する側なので、むしろ勉強になるので有難いが、事務官はどうだろうか、と思うと、専門家以上に精通していることに、感心する以上に敬服する。精通していることの意味は、よく知っているという知識だけではなく、方向性を見て判断する力もある、という意味なのだ。会議で議論をすると、よくわかる。今朝、その担当事務官からメールが届き、明日から異動だという。その文面にある、戦線離脱という言葉に惹かれた。なるほど、事務官にとっては、戦線なのかもしれない、遊びではなく戦っている、という形容がふさわしい、と素直に思える。今はオンラインでの会議が多いが、この文科省の事業では、自分も、かなりの時間を使い、かなりの労力をかけ、会議も4時間などの長時間で、かつ実際の審査では、質問の端々まで気を遣い、気力の要る仕事である。その担当者は、ずっしと重い責任という荷物をしょって走ってきたのだから、その負担の大きさは、想像に難くない。確かに、戦線という言葉はふさわしい。それならば、自分も戦友の1人か、と思ったが、こちらは少し気後れする。異動する事務官は、まだ若い人だが、このような人が、陰ながら国を支えている。全力を挙げて取り組んできた姿は、どこか美しい。ささやかながら、エールを送りたい。

審査をする

年をとると、審査系の仕事が多くなるのか、昔から多かったのか、今週も来週もいろいろな審査で、頭を使う。こちらは審査をして、採択と不採択の候補を決めるだけだが、申請者は、その違いが天地のようなギャップになる。自分が審査される側に立った経験では、誰でもそうだが、落ちると、しばらく気力が出てこない。論文の採択でも同じで、修正の通知ですら、その内容を読むのが怖くて、しばらくそのままにして開封しなかった、昔を思い出した。不採択になったら、ひどく落ちこんだ経験から、審査の側では、なるべく採択する方向にしているが、やはり真実の前には逆らえないので、致し方ない。なるべく丁寧な審査をしたいが、時間という絶対的な制約があるので、申し訳ないが、あまり時間がかけられない。それでも、昨日はスムーズに審査が進んだ。審査している内に、効率的で、正確で、しかも妥当な審査ができる方法を思いついて、自分も納得した。方法とは、始めに決めるのではなく、やりながら、対象から教えてくれるような気がする。小中学校の授業でも同じではないか、と思う。子供から、授業の方法を教わり、臨機応変に対応するのだろう。ということは、指導案は計画なので、その通り実行しなくてよいことになる。あまり丁寧な指導案を書くと、むしろそれに縛られて、授業が生きてこないのではないだろうか。こんなことを書くと、専門の先生に叱られそうだが。

仕事と私用と趣味

天気予報によれば、今週は晴天が続きそうだ。昨日は、絵にかいたような青空で、しかも風が爽やかで、典型的な秋晴れであった。この日は3つのオンライン会議があったが、その合間に小さなジョギングをして、秋風に吹かれ、公園の緑の芝生を見て、身が軽くなったような感じがして、早めのお風呂に入って、夕方からのオンライン会議に参加した。自宅からなので、リラックスした格好、着物だが、であるが、オンラインなので、全体像が見えないことを理由にして、多少の後ろめたさを感じながら、パソコンの前に座った。このような時、自分は、風呂上がりでリラックスした格好であることを、断っている。オンラインで見えないから、と言っても、雰囲気は伝わるので、後ろめたさの弁明ではないが、一応許しを得ることにしている。在宅勤務になって、何よりも嬉しいことは、電車に乗らなくてよい、ネクタイをしなくてよい、普段着でよい、書斎で仕事ができる、夕方のジョギングができる、などであるが、仕事と私用の区別がつきにくいかもしれない。しかし、仕事と私用や趣味などを区別する必要もないだろう。昔、大学院生に研究は趣味と同じだから、忙しいとか難しいとか、それは理由にならない、と言ったことがあるが、研究者なら、ほとんど同じ感覚を持っているだろう。大学の仕事は、1に雑用、2に雑用、3、4が無くて、5が研究だとよく言っていたが、暇を見つけて研究するのである。凡人には、その雑用が実は重要で、落語家や伝統工芸家が修行する時、いきなり仕事ではなく、雑用から始める、というが、研究もどこか共通している。今日も良い天気のようだ、今の時刻は6時半だが、2階の書斎から、雲の間に希望のような青空が見える。有難いのかもしれない。

対処法

昨日は、朝から晩まで1日中のオンラインの審査だった。お昼休みはあっても、かなり疲れる。どこかで運動をしたいと思っても、時間もなく、小雨も降っていたので、終わってお風呂に入って、そのまま夕食にしたが、体を動かして発散したかったが、仕方がない。人の世は、そのようなもので、仕方がないときは仕方がなく、その中で生きるしかないが、コロナ禍における自粛とかstay homeは、このような状態が続くことだ思うと、それは人の本性に反している。まして、成長盛りの子供にとっては、マイナスの効果しかないことは、誰でも感じているだろう。よく学び、よく遊び、とはその通りだが、それができない状況下における対処法を身につけておきたいのだが、良い処方箋はなさそうだ。居間でリラックスするという動画が、かつて配信されたが、現実を見ていないので、市民から反感の声が上がった。自分は、お昼の時間の少しの間近所を歩き、夕方玄関に出て雨の外を眺めたが、それだけでも違う。外に出る、外を見る、だけで、世界が違う、空気が違うので、体の中が洗浄されたような気がする。戦争中に、絶望的な戦況の中で、常に身ぎれいにしていた兵士が、周囲の兵隊のすべてに希望を与えたという逸話を読んだことがある。そして、奇跡的に生き延びた。昨日と違って、今日は空いっぱいの青空で、口笛を吹きたくなるような気がする。と言っても、オンラインの打ち合わせや会議で、今日も夕食前まで詰まっている。しかし対処法を知っていれば、心配ない。

問答法

昨日もいろいろな仕事が詰まって、忙しかったが、なんとかこなせたようだ。いろいろな用事が入ってくると、脳は活性化するようで、能率的に処理できる。どうしてもチェックしておきたい論文があって、英文だったが、かなり時間がかかった割には、どうも納得しにくかった。考えてみると、日本語と英語の違いによって、内容の理解度に相当に差が生じるのかもしれない。当たり前ではないか、と言われそうだが、その当たり前に、これまであまり気が付かなった。言葉は道具や手段だと思っていたので、道具や手段で思考は変わらないと思っていたが、どうもそうではないようだ、と思い始めた。それは、既にビゴツキーも指摘したことだと思うが、しっくりこなかったが、この頃、確かにそうかもしれないと思うようになった。この前、小学校の図工の授業参観に行って、カリキュラムマネージメント、単元のテーマ、デザイン、見方・考え方、の意味に改めて気が付いたが、それまでは、言葉だけ知っていて、本当は分かっていなかった。昨日も、同じことを知った。ソクラテスの問答法と同じかもしれない。この場合は、他人との問答ではなく、自己対話であるが、汝自身を知れとか無知の知とは、その通りである。

デジタル庁

今週と来週は、いろいろな仕事が詰まっていて、時間がとれない。30分なのだが、ブログを書く時間が厳しいので、少しだけ書くことにしたい。昨日は、理事会があってオンラインだが、参加度が高いのは、時間や場所の制約がないので、当然だろう。デジタル庁が発足して、オンライン教育も登場した。定常的にオンライン授業も行われるだろう。いづれ対面とのブレンドか、ハイブリッドになる。新しい学習方式になるからだ。理事会でも、アフターGIGAが話題になった。最後は、学校現場にどれだけ受け入れてもらえるのか、である。そのこともよく分かっているので、どうするかが問題で、教師の実践知だけに頼っているのが、これまでの方式だが、さらに研究知見からのアプローチはないものか、と思う。子供の認知、メディア特性、そして目の前にある画面があることの、関係性の研究なのだが、これまでの教師の名人芸的な方法論だけでは、解は難しいのではないか、と思う。課題は、自己対話にあると思うが、今日はこれで閉めにしたい。

オンライン会議が続くと

昨日は、オンラインの会議や打ち合わせが4回もあって、忙しかった。身体的な疲れはないが、気持ちや脳が疲れる。移動という身体的な疲れがない分だけ、脳への負担が大きくなるようだ。なるべく運動を心がけて、脳と身体の両方をバランスよく使うことは、健康のためには必須である。脳の疲れを残したまま、少しだけでもジョギングをすると、少しづつ薄皮をはがすように、飛んでいくような気がして、元気が戻ってくる。あの時こうすれば良かったのに、とか、どうも自信がない、という、家内に言わせれば反省病が少し弱くなって、これでいいのだ、という軽い気持ちになってくる。前のブログで書いたが、今の時代は、クラスの人気者モデルが適しているようで、成績が良いとか、スポーツに秀でているとか、ではなくて、気にしない、苦にしない、周囲を笑わせる、など、明るい性格が、求められているように、思う。コロナ禍という時代を生きるには、この人気者モデルが適しているようだ。と言っても、今週はずっとオンラインでの仕事で詰まっており、27日の日曜日に至っては、朝9時から晩の7時半まで、ずっとオンラインで、思うだけでも疲れそうだ。しかし、人気者モデルでいえば、いいではないか、失敗しても、すいません、と言えば済むことで、気にしなければよいし、人気者モデルは、文字通り人の気がある、つまり人が集まることなので、そのような仕事があるだけで、有難いのであろう。

授業参観のコメント

昨日は、都内の小学校での研修会で授業参観をして、コメントと講義をした。コロナ禍の今の時期では、授業参観そのものが珍しく、教育委員会から許可が出にくい。しかし、この授業が素晴らしい。前のブログでも書いたが、小学校は、まるで芸術作品のように、授業がよく練られていて、見事に引き付け、盛り上がり、時間が経つのを忘れる。昨日の図工の授業は、まさにその通りだった。というと、お世辞に聞こえるかもしれないが、実際その通りなのである。前のブログでも書いたが、夕食前に時間があると、パソコンで落語を聞くことがあるが、何度聞いても飽きが来ないし、分かっていても、笑ってしまうので、確かに本物の芸だ、と感じるが、同じ感じ方が、授業にもある。昨日の図工の授業は、教師の問いかけ、子供たちの活動、教材が、一体となっていて、落語よりもシステムは複雑で、指導案という流れはあっても、どのような寄り道にいくか分からないので、出たとこ勝負のようで、芸術作品のようだという形容が合っている。小学校では、特にその流れや子供の発想や認知を知っていないと、指導できないので、自分のような素人には、とても難しく、コメントも恥ずかしいくらいである。これも謙遜ではなく、実感である。都の指導主事も来られていたが、雑談でも、さすがこの道のベテランとなると、よく知っている。この先生もプロであった。果たして、自分はプロなのだろうか、と問いかけたが、ままよ、せっかく時間をかけて用意してきた資料なのだ、基礎的な内容だが、話すしかない、と心に決めて、後半の講義の時間を過ごしたが、先生方にとっては、刺身のつまのようなものかもしれない。自分だけが勉強になったような気がして、恐縮した。もう少し、自分もプロに近づきたい。

クラスの人気者

ふと思ったが、人は気になることがあったり、仕事上でうまくいかなかったり、予定が狂ったり、評価が低かったり、何か些細なことだけで、浮かない顔になることがある。それは誰にでもあるだろう。子供にはあるのだろうか、通学の小中学生を、朝見るのが楽しみだが、昨日まで4連休だったので、今日から登校なので、8時頃には、近所の小川の橋の所で、出会うだろう。彼らの元気そうな表情や、密はどこ吹く風と、雑談する風景が、癒しを与えてくれる。子供に、不登校やいじめがあれば、このような表情にはならないので、よほどつらいことだと推測するしかないが、それほど大きな悩みでなくても、サッカーの試合に負けた、成績が下がった、先生に叱られた、友達とトラブルがあった、などの小さな不幸は、大人と同じように持っているだろう。クラスの人気者とは、そのような時でも、あまり気にしない、傍にいると元気になれる、ワクワクする、などの、人を引き付ける魅力をもっている。通学風景でも、そのような光っている子供がいて、その周りに子供たちがいる。コロナの時代における、密を避けよ、とは、そのような人を引き付けることを避けよ、と言っているようなものなので、これまでとは真逆の要請なのである。そうであっても、ワクワクして生きるのが、この時代の生き方の理想だが、凡人には難しい。とすれば、このコロナ禍の時代では、クラスの人気者の姿が、モデルなのかもしれない。小さな不幸は蹴飛ばして、自分のやりたい楽しいことをすればよい、過去は過去で意味がない、と思えば、元気になれる。

他から学ぶ

昨日も合宿があり、帰宅してジョギングなどして1日が終わったが、考えてみれば4連休の3日目だった。都内も人出が多かったが、ホテル内は閑散とした感じだった。合宿では、マスクかフェースシールドで飛沫を防ぎながらの会議だったが、議論に集中すると時間を経つのを忘れる。委員の深い知識と実践に裏付けられた意見に、感心した。技術も知識も日進月歩であり、特に情報系の技術は社会への影響も大きく、教科書に掲載するとなれば、その先を見通す必要があり、その議論は密度の濃い内容になる。教科書とは、なんと丁寧で奥深く作るのだろう、と思う。編集者の凄さは、その知識は、専門家に匹敵するようで、相当に勉強している。たぶん、そのレベルに達しなければ、編集という仕事はできないだろうが、それぞれの分野に、専門家がいて、知識も人間性も素晴らしい、つまり優秀な人がいて、この世の中を動かしている。もう年だから、とは言いたくないが、事実としては、知識よりも、全体の見通しとか、包括的な考えや方針などとのずれを考える役割かもしれないが、会議では自分を見つめる良いチャンスであり、他人の凄さを知るチャンスでもある。長時間の会議も、あっという間で、連休中の充実した2日間であった。他から学べることは、素晴らしいことである。年を取ると頑固になる人も多いと聞くが、自分はそうならないようにしたい。