秋深し

昨日は土曜だから気が休まるが、コロナ禍以降は在宅勤務なので曜日の感覚がなく、いつも同じ仕事パターンであるが、気持ちだけはまだ土日の感覚が残っていて、どこかホッとするのであろう。天気の良い、正統派の秋晴れであった。土日は、街中のジョギングではなく、スポーツジムに行くが、そこでもマシンでランニングをする。街中や公園を走ると言っても、ゆっくりなので、若い人から見れば散歩レベルだろうが、マシンになると速度が速く、しかも風景が変わらないので時間経過が遅く感じるので、何か考えごとをしながら時計を見て走っている。昨日は、オンラインセミナーの内容について考えていたが、ふとこの構成のほうがいいかもしれない、と思いついた。ジムから帰って、早速書斎でその構成に変えてみたら、自分で納得できる内容になった。そんなことがあると、ジムのランニングマシンの有難味がわかる。一定のリズムで走ると、床から脳に一定の刺激が来るので、それが脳を活性化して、水面下に沈んでいたアイデアが浮かんでくる、という説を信じたくなる。今日は、良いことを思いついた、と思いながら、ジムからの帰宅途中に、夕日が沈む光景が見えて、光が当たる茜色と影の灰色の二色の雲が西方の空いっぱいに広がっていると、今日も良い日だった、という感慨が起きる。秋深し、秋のど真ん中、は、どこか静かで平和で平凡で、という雰囲気がある。

返信する

原稿を書いて送る、資料を送る、それだけでも、確かに受け取りました、とか、ありがとうございます、という返事が来ると嬉しい。自分の努力に対する評価とか反応があるからだ、というと当たり前であるが、反応がないとやる気が継続しないことは、スキナーの行動心理学で証明されているが、相手によって、その反応は違う。よく送ってくれた、という気持ちは、メールであっても行間で分かる、しかし、そうでもなく、ただ仕事としてやっている、という反応の時は、こちらの努力も知らないで、と言いたくなる。スキナーの行動主義は、まだ生きていて、相手からのフィードバックによって、こちらの動機付けが変わることは、確かである。出版社などは、その微妙な心理が分かっているようで、玉稿をいただき、など、たぶん習慣的だとは思うが、相手の気持ちに添う返信がやってくる。そうでない素人的な業者では、例えば、学生アルバイトか、早く仕事が終わらないかと窓から外を見ている人のようなイメージがあって、プロではない、と分かる。それも、行間でわかる。メールというテキストだけではわかならいだろう、と思うが、そうではない、という海外の論文があって、きちんと統計的な検定で裏付けている。プロなのか素人なのか、きちんと読んでいるのか適当に処理しているのか、努力を汲んでいいるのか何も考えていないのか、手に取るように分かる。プロの返信を昨日もらったが、ただそれだけで努力が報われた気がする。人は、何気ない言葉で、元気にもなれば、嫌になることもある。自分も、心して返信したい。

審査の意味とは

昨日も、オンライン審査で明け暮れた、が、前のブロブでも書いた通り、充実感があって、どこかその香りが体に残っていて、温泉の湯船にそっと浸かっていたい気持ちに似ているが、これで終わった。昨日も書いたが、質問をする側も答える側も、どこか真剣勝負のような感があって、その緊張感も今は懐かしい。丁々発止のようなやり取りは、審査だけに限らず、どこの世界でも同じだろう。先ほどメールを見たら、たぶん間違いメールだと思うが、人気お笑い芸人からFacebookの友達リクエストが来ていたが、承認しなかったが、TVタレントもコロナ禍で出演が少ないのではないか、と推測した。それは、あの丁々発止の緊張感が欲しかったのかもしれない。審査の専門家は、知識を俯瞰する力、メタ認知ができている、と書いたが、もっと言えば、詳細な知識も持っていて、それらの知識をつなげる知識がある、というより、そのメタの知識は、desciplineというか、概念というか、物理法則のような確固としてゆるぎない知識のようだ。そこに、いろいろな表面上の現象が紐づいていて、そのメタ知識で解釈したり、分析したりするように思える。ということは、審査でも仕事でもお笑い芸でも、そこに交わされる言葉は、背景に何かゆるぎない知識、それは物理法則のように公式として可視化できていないかもしれないが、何かがあって、その暗黙知が確かなものなので説得力があるのだろう。表面だけの会話なら、それは日常会話にすぎず、審査にもならず他人に見せるお笑い芸にもならないだろう。

オンライン審査

昨日は、一日中オンライン審査だった。省庁系の審査なので公表はできないが、終わった後に、ずっしりと重さが取れて、そして心地よい充実感が残った。この充実するとは何だろうか、何か生きている、とか、体いっぱいに花の香で満たされたような、嬉しい気持ちなのである。良かった、自分も少しは役立った、という感じなのだが、どの仕事にも共通しているのだろう。審査で思うことは、自分以外の審査委員には、すごい人がいる、ことである。それは専門的知識なのか、と思うと、そうではなく、知識をつなげて、俯瞰的に見えるようで、その質問には、自分もハッと気づくことがある。答える方も、いろいろあって、よく分かっている、と思う人もいれば、質問に対して、別のことを答える人もいる。質問をし、それに対して、答える光景には、何か、刀と刀がぶつかり合う、文字通り丁々発止のような響きがある。素晴らしい受け手の時は、こちらの刀が、跳ね返される。それは、嫌なことではなく、敬服することなのだ。それが刀での戦いと違うところなのだろう。さすが、という気持ちが湧いてくる。長時間であるが、責任という重さの代償として、充実というお土産をもらった。今日も、昨日の続きで、夕方6時までオンライン審査がある。頑張ろう。

小説を読む

お風呂に入って夕食までの間に、1時間くらいの余裕があって、30分くらい読書するのが楽しみになっている。夕食は1階の居間だが、そこにもPCやお菓子の類を置く小さなテーブルがあるが、読みたい本なども置いている。前にも書いたが、PCで落語を聞いたり、調べ物をしたりするが、このPCではなるべく仕事はしないようにしているが、気になることだけチェックする程度だが、便利ではある。しかし、読書、特に肩の凝らない小説などは、楽しい。昨日も読み続きの小説を読んでいたが、そこにごく平凡な人物が登場する。その老人は、妻と2人暮らしなので、自分と境遇が似ているので、親近感が湧くのかもしれないが、校長を最後に教員生活を終えて、今は悠々自適の生活で、その日もワカサギ釣りに出かけた、という、どこにでもある平凡な日々を描いているが、これからドラマが展開する、というのも、推理小説だからである。そのドラマ、事件についてではなく、その老人が、振り返ってみて、自分には子供はできなかったが、妻と2人の静かな生活で、悪くない人生ではないか、と述懐する場面に惹かれた。なんだ、こんな平凡なことをと思うが、自分を振り返って、無駄ではなかった、今の生活で良かった、と思えることは、最高の喜びかもしれない、と思ったからである。なんとなく、自分も同感する。本当に、これでいいのだ、悪くはない人生だと思えば、それは、幸せの代名詞であろう。

宿題をする

すっきりと秋晴れとはいかないようで、昨日は雨だったが、今朝は気持ちのよい晴れで何か嬉しい、というのは、珍しくオンライン会議がないからでもある。昨日は、2つのオンライン会議があったが、その間になんとか締め切り前に原稿などを終えて、送信したのでホッとしたが、それでもまたメールで宿題がやってくる。そうか、それがあったか、と思いだして、それを今日に持ち込むのだが、早めにやらないと、宿題をしないで外に遊びにいく小学生のようなもので、テレビ漫画のように母親には叱られないが、自分で叱るので、同じだろう。宿題でもやり始めると、そこに自分が入っていって何か見えるものがある。それは、どこかで役立つようで、そうだ、あの内容があったな、と他の原稿や講演の資料などに使うこともある。気づくのである。気づきとは、どういう仕組みなのか、たぶん脳のどこかに記憶されているのだろうが、キューとか何かの検索語やタグがあって、それで呼び出すのだろうか、と思うと、どんな宿題も無駄ではない。このブログはだいたい朝食前に書いているので、食事後にすぐに宿題にとりかかることにする。別に叱る人はいないが。

小さな風邪をひく

昨日は日曜で、天気も良かった。今日は、朝からどんよりした曇り空だが、自然のすることは文句は言えない。それよりも少し風邪をひいたので、くしゃみが出るので外に出にくい。コロナ感染と間違えられるかもしれないと思うと、自宅での仕事が有難い。昨日は、日曜日はスポーツジムに行く日なので、と思って、筋トレとプールで泳いだが、どこか体がシャンとして、回復したような気がする。しかし、今日の午前中のオンライン会議では、どこか眠たいようで、くしゃみが出て、なんとなく気が乗らないのは、仕方がない。それでも、気になっていた原稿を送ったので、これで肩の荷が下りたようで、気は晴れている。いろいろ小さな仕事が重なって、今朝のオンライン会議でも、参加の皆さんも忙しそうで、よくきちんとこなしていると、感心する。自分もその一員なので、なんとか役割を果たして、今ブログを書いているが、メールを見ると、すぐに次にとりかからなければならないことがあるので、今日は短く終えよう。

雨降りと仕事

昨日は1日中雨降りで、今朝は良い天気で、昨日は寒く、今朝は暖かい。寒暖の差が激しいと、人並みに体が変調をきたし、少しだが鼻水が出るので、ティッシュが離せない。花粉症ほどひどくはないので、体は楽だが、仕事の能率は上がるのだろうか。昨日は、長い日数を費やしたが、ようやくオンライン講義の資料を送った。オンライン講義と言っても、大学の講義ではなく、免許更新講習のための講義資料だが、4回分となると、かなり文量がある。担当者に聞くと、平均1回が60枚程度だという。枚数は、プレゼン用のスライド枚数で、4回分となれば240枚なので、かなり多い。受講生は先生方なので、受講に足りる内容でなければならず、また著作権と肖像権のクリアが厳しいので、頭が痛い。あれはダメ、これを入れる、と迷っている内に、あっと言う間に時間が経ってしまう。頭はフル回転だが、この時間、つまりシミュレーションしているので、これが予習になっているので、本番でも講義できるのであろう。学会発表でも講演でも同じで、直前まで資料に触っているのは、予習だと思えばよく、それがないと頭に入っていないので、流れるようには話せない。しかし、対面の講義と違うのは、無駄な時間が少ないということだろう。75分なら、それに見合う分量か、それ以上の資料がないと、不安になる。講義で脱線するというが、あれは対面なので、相手の表情を見ながらなのでできるが、初めから予定することはできないか、難しい。ともかく終わって、メールで資料を送ってほっとした。これも、昨日が雨降りだったから、集中できたのかもしれない。雨降りにも、良いことがある。

忙しいということ

ホッと一息つくときがある。昨日は、忙しかったので、そのひと時が嬉しいが、その時間は、仕事から解放されているというより、追われているのだが、リラックスしている状態のような気がする。物理的な時間ではなく、精神的な時間によって、人は仕事がはかどったり、停滞したり、うまくいったり、雑になったりする。昨日は、久しぶりに対面での仕事があって、都内に出かけたが、立場が上になる人ほど、多くのことに気を配らなければならないので、忙しそうで、対応した人は毎日通勤しているようだ。しかし、どこかゆとりも感じられる打ち合わせで、久しぶりの会話を楽しむ余裕がある。それにしても、日本人はよく仕事をして、しかも丁寧で、昨日の夕方のうち合わせの記録が、今朝のメールで届いていた。しかも、すべてに目配りした内容だったので、敬服した。忙しい中でも、丁寧な文章を見ると、先に書いた、時間がないから、という、物理的な時間の量はあまり関係ないようで、仕事をこなす人の気持ちの持ち方、というか、取り組み方に依存するようだ。忙しい中に、丁寧で、余裕を持って、ということは、矛盾しない。むしろ、そのほうが自然のような気がする。

朝ドラのシーン

昨日は見落としたが、朝ドラなのか昼ドラなのか、NHKのエールが熱い。一昨日は、戦場で恩師の戦死に出会って、号泣するシーンが感動的で、不覚にも落涙してしまった。それほど心に迫るシーンで、恩師は、妻への手紙を古関裕而に託す。インパール作戦の失敗で、前線では大惨事になった。古関は音楽を武器にして兵士を勇気づけるが、兵士はその勇気で生きる力を持つのだが、現実は厳しく敵の襲来で多くの兵が戦死した。ドラマなので誇張もあり劇的にシーンを描いているが、実際も大敗北だったので、似たような戦況だったのであろう。絶望的な状況の中でも、楽器を演奏する、歌を歌う、それだけで生きる力が湧いてくるのは、真実だろう。それでも、恩師のどこか死を覚悟したような気持ちと平静な態度が、見る人の心を締め付ける。精一杯努力し、生きる勇気をもらっても、現実の死から逃れることができないと悟った時の覚悟とは、そのような静かなものなのだろう。東京の大本営の机上で練った作戦と戦場の間のギャップがいかに大きいことか、それを、教育理念と実践と置き換えれば、教育研究でも言えるかもしれないと思って、忸怩たる思いがした。しかし、それ以降、日本は戦争はなく平和である。いろんなことがあっても、食事ができ、寝床があり、住む家があり、ということは何と幸せで贅沢なことか、ただ感謝しかない。