オンライン審査

昨日は、一日中オンライン審査だった。省庁系の審査なので公表はできないが、終わった後に、ずっしりと重さが取れて、そして心地よい充実感が残った。この充実するとは何だろうか、何か生きている、とか、体いっぱいに花の香で満たされたような、嬉しい気持ちなのである。良かった、自分も少しは役立った、という感じなのだが、どの仕事にも共通しているのだろう。審査で思うことは、自分以外の審査委員には、すごい人がいる、ことである。それは専門的知識なのか、と思うと、そうではなく、知識をつなげて、俯瞰的に見えるようで、その質問には、自分もハッと気づくことがある。答える方も、いろいろあって、よく分かっている、と思う人もいれば、質問に対して、別のことを答える人もいる。質問をし、それに対して、答える光景には、何か、刀と刀がぶつかり合う、文字通り丁々発止のような響きがある。素晴らしい受け手の時は、こちらの刀が、跳ね返される。それは、嫌なことではなく、敬服することなのだ。それが刀での戦いと違うところなのだろう。さすが、という気持ちが湧いてくる。長時間であるが、責任という重さの代償として、充実というお土産をもらった。今日も、昨日の続きで、夕方6時までオンライン審査がある。頑張ろう。

小説を読む

お風呂に入って夕食までの間に、1時間くらいの余裕があって、30分くらい読書するのが楽しみになっている。夕食は1階の居間だが、そこにもPCやお菓子の類を置く小さなテーブルがあるが、読みたい本なども置いている。前にも書いたが、PCで落語を聞いたり、調べ物をしたりするが、このPCではなるべく仕事はしないようにしているが、気になることだけチェックする程度だが、便利ではある。しかし、読書、特に肩の凝らない小説などは、楽しい。昨日も読み続きの小説を読んでいたが、そこにごく平凡な人物が登場する。その老人は、妻と2人暮らしなので、自分と境遇が似ているので、親近感が湧くのかもしれないが、校長を最後に教員生活を終えて、今は悠々自適の生活で、その日もワカサギ釣りに出かけた、という、どこにでもある平凡な日々を描いているが、これからドラマが展開する、というのも、推理小説だからである。そのドラマ、事件についてではなく、その老人が、振り返ってみて、自分には子供はできなかったが、妻と2人の静かな生活で、悪くない人生ではないか、と述懐する場面に惹かれた。なんだ、こんな平凡なことをと思うが、自分を振り返って、無駄ではなかった、今の生活で良かった、と思えることは、最高の喜びかもしれない、と思ったからである。なんとなく、自分も同感する。本当に、これでいいのだ、悪くはない人生だと思えば、それは、幸せの代名詞であろう。

宿題をする

すっきりと秋晴れとはいかないようで、昨日は雨だったが、今朝は気持ちのよい晴れで何か嬉しい、というのは、珍しくオンライン会議がないからでもある。昨日は、2つのオンライン会議があったが、その間になんとか締め切り前に原稿などを終えて、送信したのでホッとしたが、それでもまたメールで宿題がやってくる。そうか、それがあったか、と思いだして、それを今日に持ち込むのだが、早めにやらないと、宿題をしないで外に遊びにいく小学生のようなもので、テレビ漫画のように母親には叱られないが、自分で叱るので、同じだろう。宿題でもやり始めると、そこに自分が入っていって何か見えるものがある。それは、どこかで役立つようで、そうだ、あの内容があったな、と他の原稿や講演の資料などに使うこともある。気づくのである。気づきとは、どういう仕組みなのか、たぶん脳のどこかに記憶されているのだろうが、キューとか何かの検索語やタグがあって、それで呼び出すのだろうか、と思うと、どんな宿題も無駄ではない。このブログはだいたい朝食前に書いているので、食事後にすぐに宿題にとりかかることにする。別に叱る人はいないが。

小さな風邪をひく

昨日は日曜で、天気も良かった。今日は、朝からどんよりした曇り空だが、自然のすることは文句は言えない。それよりも少し風邪をひいたので、くしゃみが出るので外に出にくい。コロナ感染と間違えられるかもしれないと思うと、自宅での仕事が有難い。昨日は、日曜日はスポーツジムに行く日なので、と思って、筋トレとプールで泳いだが、どこか体がシャンとして、回復したような気がする。しかし、今日の午前中のオンライン会議では、どこか眠たいようで、くしゃみが出て、なんとなく気が乗らないのは、仕方がない。それでも、気になっていた原稿を送ったので、これで肩の荷が下りたようで、気は晴れている。いろいろ小さな仕事が重なって、今朝のオンライン会議でも、参加の皆さんも忙しそうで、よくきちんとこなしていると、感心する。自分もその一員なので、なんとか役割を果たして、今ブログを書いているが、メールを見ると、すぐに次にとりかからなければならないことがあるので、今日は短く終えよう。

雨降りと仕事

昨日は1日中雨降りで、今朝は良い天気で、昨日は寒く、今朝は暖かい。寒暖の差が激しいと、人並みに体が変調をきたし、少しだが鼻水が出るので、ティッシュが離せない。花粉症ほどひどくはないので、体は楽だが、仕事の能率は上がるのだろうか。昨日は、長い日数を費やしたが、ようやくオンライン講義の資料を送った。オンライン講義と言っても、大学の講義ではなく、免許更新講習のための講義資料だが、4回分となると、かなり文量がある。担当者に聞くと、平均1回が60枚程度だという。枚数は、プレゼン用のスライド枚数で、4回分となれば240枚なので、かなり多い。受講生は先生方なので、受講に足りる内容でなければならず、また著作権と肖像権のクリアが厳しいので、頭が痛い。あれはダメ、これを入れる、と迷っている内に、あっと言う間に時間が経ってしまう。頭はフル回転だが、この時間、つまりシミュレーションしているので、これが予習になっているので、本番でも講義できるのであろう。学会発表でも講演でも同じで、直前まで資料に触っているのは、予習だと思えばよく、それがないと頭に入っていないので、流れるようには話せない。しかし、対面の講義と違うのは、無駄な時間が少ないということだろう。75分なら、それに見合う分量か、それ以上の資料がないと、不安になる。講義で脱線するというが、あれは対面なので、相手の表情を見ながらなのでできるが、初めから予定することはできないか、難しい。ともかく終わって、メールで資料を送ってほっとした。これも、昨日が雨降りだったから、集中できたのかもしれない。雨降りにも、良いことがある。

忙しいということ

ホッと一息つくときがある。昨日は、忙しかったので、そのひと時が嬉しいが、その時間は、仕事から解放されているというより、追われているのだが、リラックスしている状態のような気がする。物理的な時間ではなく、精神的な時間によって、人は仕事がはかどったり、停滞したり、うまくいったり、雑になったりする。昨日は、久しぶりに対面での仕事があって、都内に出かけたが、立場が上になる人ほど、多くのことに気を配らなければならないので、忙しそうで、対応した人は毎日通勤しているようだ。しかし、どこかゆとりも感じられる打ち合わせで、久しぶりの会話を楽しむ余裕がある。それにしても、日本人はよく仕事をして、しかも丁寧で、昨日の夕方のうち合わせの記録が、今朝のメールで届いていた。しかも、すべてに目配りした内容だったので、敬服した。忙しい中でも、丁寧な文章を見ると、先に書いた、時間がないから、という、物理的な時間の量はあまり関係ないようで、仕事をこなす人の気持ちの持ち方、というか、取り組み方に依存するようだ。忙しい中に、丁寧で、余裕を持って、ということは、矛盾しない。むしろ、そのほうが自然のような気がする。

朝ドラのシーン

昨日は見落としたが、朝ドラなのか昼ドラなのか、NHKのエールが熱い。一昨日は、戦場で恩師の戦死に出会って、号泣するシーンが感動的で、不覚にも落涙してしまった。それほど心に迫るシーンで、恩師は、妻への手紙を古関裕而に託す。インパール作戦の失敗で、前線では大惨事になった。古関は音楽を武器にして兵士を勇気づけるが、兵士はその勇気で生きる力を持つのだが、現実は厳しく敵の襲来で多くの兵が戦死した。ドラマなので誇張もあり劇的にシーンを描いているが、実際も大敗北だったので、似たような戦況だったのであろう。絶望的な状況の中でも、楽器を演奏する、歌を歌う、それだけで生きる力が湧いてくるのは、真実だろう。それでも、恩師のどこか死を覚悟したような気持ちと平静な態度が、見る人の心を締め付ける。精一杯努力し、生きる勇気をもらっても、現実の死から逃れることができないと悟った時の覚悟とは、そのような静かなものなのだろう。東京の大本営の机上で練った作戦と戦場の間のギャップがいかに大きいことか、それを、教育理念と実践と置き換えれば、教育研究でも言えるかもしれないと思って、忸怩たる思いがした。しかし、それ以降、日本は戦争はなく平和である。いろんなことがあっても、食事ができ、寝床があり、住む家があり、ということは何と幸せで贅沢なことか、ただ感謝しかない。

忙中間ありの続き

昨日と一昨日はやはり忙しかったのであろう。ブログを書くのをすっかり忘れていた。年をとっているので、朝は早く5時くらいに起きて、6時から7時までメールチェックと、ブログ投稿を日課にしているが、メールチェックに時間がかかるので、だいたい朝食後の8時半くらいからチェックの続きをして、ということになり、午前中がすぐに終わってしまうので、原稿書きや書類作成など時間のかかる仕事は、午後にも引き継ぐことになるが、午後はオンラインの会議があって仕事と重なる。誰でも同じだろうが、オンラインになって、電車通勤時間が無くなって有難いが、その分忙しくなったような気がする。昨日は、決心して早朝から資料作成に取り組んだが、なかなか終わらない。アッという間に時間が経ってしまう。昨日は、夕方眼科に行った。これまで都心の溜池山王駅近くに行っていたが、在宅勤務になって所沢市内の眼科に変えた。これも電車に乗らなくて良いので、助かる。数か月に1回診察に行って目の検査をしてもらって目薬をもらうだけだが、それでも時間はかかる。インターネット予約なので、余計な待ち時間がなく有難い。この頃は、時間が短い、効率的、スピーディなどが、耳障りの良い言葉になっている。この季節は特別なのかもしれないが、仕事が重なって、処理に翻弄されているようだ。ただ、不思議なもので、なんとか失敗しないで、今日まで来ている。なるほど、何とかなるのか。このブログも書いているではないか。

忙中閑あり

昨日は久しぶりに出かける用事があって、電車に乗った。コロカ感染が怖いという意識はまるでないが、電車に乗って帰ってくると、その時間ロスが大きいのが気になる。特に9月10月にかけて、仕事が重なってしまい、内心ハラハラしている。締め切りに間に合うだろうか、と不安になるのだろうか、夜中に目が覚めて寝付かれないで、今朝は早朝に起きて机に向かった。すると不思議なもので、少しでも進んで先が見えてくると、落ち着いて軽い気分になる。昨日は、秋そのものの天気で、青空が太陽の光を一杯送ってくれて、草木も輝いていた。夕方に近くなると、草や木やベンチも影が長くなって、ちょうどよい気温で気持ちもリラックスする。秋の日の図書館のノートとインクの匂い、という歌謡曲があったが、その通りで、女学生などがカバンやリュックを持って家路に向かう様子は、秋に相応しい。枯草の色は、すでに役割を終えた色で、人に安らぎを与える。小さな庭だが、土を枯草で覆うと、正真正銘の秋を感じる。人は、暇なら暇で、忙しければ忙しいで、ストレスを感じるようで、どうも我儘な動物らしい。自然に寄り添うことができれば、気持ちも軽くなるのに、と思うが、凡人には難しい。それでも忙中閑あり、の例え通り、庭の手入れをするとか、散歩をするとか、などで、脳を切り替えると、また前に進んでいくらしい。昔から、人はそのようにして、困ったとか、無理だと言いながら、自然に慰められながら、進んでいったのだろう。秋は、風や草花、そして果物など、自然の恵みに満ちている。

習慣ということ

昨日は日曜日で、自由な時間の過ごし方をしているが、午前中は書斎で仕事をするのが、毎日の習慣なので、朝、歯磨きをするのと同じである。書斎はコロナ禍の現在では自分の仕事場になっているので、2階の窓から見える光景に馴染んでいる。ある雑誌の編集委員をしていて、その編集後記の最後に、季節のことに触れているが、ほとんどが窓から見える季節感である。空の様子、木々や花の様子、遠くに見えるマンションの様子など、毎日同じようで、どこか違う光景である。昔ある小学校で毎日登校する時に見る天気について、子供たちに書かせた先生がいた。そのクラスの生徒だった子供が、大学生になったとき、その時の感想を書いた。毎日見る空は、毎日違って見えるようになった、あれは、見ているのではなく、感じているのだ、それは目が見ているのではなく、脳や心が感じることなので、その感じたことを文章にする時、いろいろな表現方法があることを知った。その学生は、自分が非常勤講師をしたある大学の講義の中で、印象に残った授業を書かせたが、その中の1人だった。自分も、その感想文がまだ脳に残っている、というのは、その学生が、天気について書いた習慣で、文章に表現することに興味を持ち、中学校の国語の教師を目指すようになったからである。その学生が本当に教師になったのかどうか知らないが、子供の時の印象は、人生を支配するほど大きなものだ。昨日は、1ヵ月に1回のお墓参りの日で、無くなった両親にいろいろ報告した。これも、習慣である。