式典と会議

昨日は都内で3つの用事があって、出かけた。午後3時からは、ある企業グループの式典、固有名詞で書いてもかまわないと思うので、三菱グループ150周年記念式典、に参列した。岩崎弥太郎が明治の初期に創業して以来、今年でちょうど150年になるという。新装なったホテルオークラでの賑々しい式典で、コロナ禍とあって、招待者は限られているというが、それでも壮観な眺めであった。映画かテレビドラマで見るような光景だった。この中での注目は、三菱みらい育成財団の設立と事業活動の報告であった。三菱グループは、150周年を記念して、100億円を投じて、将来の日本を支える人材育成を目指す財団を設立した。理事会のメンバーは、三菱グループのお歴々に加えて、外部からは、女性の品格のベストセラーで有名な、坂東真理子・昭和女子大総長と、自分の2名である。これまで口外していないので、たぶん知らないと思うが、自分でも恐縮している。理事の他にアドバイザリーとかいろいろな役をいただいている。ホテルオークラは、溜池山王にある自分の団体事務所と歩いても10分くらいの近い距離にある。事務所での事務局会議に出て、それからホテルオークラに行ったのだが、事務局会議では、いろいろな話題が飛び交い、喧々諤々の議論になる。式典は、予定通りの進行で、きらびやかで、華やかで、輝くような舞台と客席が用意されている、つまり対照的なのである。一方が、ハプニングもあり意見が飛び交う、動、の世界ならば、式典は、予定外のことが起きればそれは事件になるので、プログラム通りなので、静、の世界と言っても良いだろう。この世の中は、そのどちらも必要だが、どちらかというと、動の世界のほうが、面白い。人の心は、外からは見えない。

平凡と三島由紀夫

昨日のブログで、三島由紀夫のNHKスペシャルについて触れた。もう少し、補足する必要がある。三島由紀夫が自殺して、正確には割腹自殺という衝撃だったので、社会に大きなニュースになった。数年前に、北欧やロンドンの学校を訪問したことがあった。音楽が盛んで、どの子供も楽器を熱心に演奏しているので、何故だ、と聞いたら、ビートルズが生まれた国だよ、と答えたので、なるほどと思い、日本のカリキュラムにはないドラマの科目があったので、何故だ、と聞いたら、シェークスピアの生まれた国だよ、と答えたので、なるほどと思い、ついでに、007の映画も生まれた国だよ、とも答えたので、さらになるほど、と思い、そして、ジョークにも長けていることも知った。国際バカロレアの中に、知の理論、という科目があり、哲学的な思考を促す科目で、生徒が論文を書く、と思えばよいが、その論文のテーマが壁に貼ってある。我思う故に我あり、ではなく、我見る故に我あり、のタイトルの中学生の論文がある。デカルトはフランス生まれであるが、中学生にしては、ずいぶん高尚な内容を考察したのだと思った。たぶん、我観る故に我在り、の漢字を宛てた方がいいだろうと思うが、日本との違いに驚いた経験がある。日本のカリキュラムでは、音楽や美術は、高校入試に出ない、その他科目として軽視される科目である。まして、ドラマや哲学などは、意識すらしていない。文化が違う、disciplineが違う、どこか本質的な美を追求しているような気がして、日本人がこの欧米の人たちに、文化的に対抗できるのは何だろうか、と考えたとき、それは武士道しかないのだろうか、と思ったことがある。武士道は、美学でもある。自分が思う三島由紀夫論は、このようなイメージである。しかし、その美学を行動で示すのは、狂気か天才のなせる業かもしれない、つまり平凡ではない。だから凡人には、不可解である。

日曜日の光景

昨日は日曜日だが、オンライン実験があった、と言っても、自分は手伝いをしただけだが、無事に終了した。研究途上のことは知的財産なので公開できないが、自分もアシスタントとして役目を果たせたので、ホッとした。ずっとパソコンの前に座っていると疲れるので、公園にジョギングに行った。最近は、固有名詞も許されるだろうと思うので、航空公園と書く。文字通り、飛行機の発祥の地を記念した公園で、きれいな青空の元、密の人だかりで、広い公園に、幸せとしか表現のしようがないような、笑顔で飾った人々の花が咲き乱れている。サッカー、キャッチボール、バレーボール、ランニング、吹奏楽、ゴム飛行機から紙飛行機、中には、ごろり横になって昼寝をしている男がいるテントや、あちこちに、自由に秋の日差しを浴びて、人々は連休を楽しんでいる。秋の日差しは短く、太陽が西に傾くころ、人々には長い影が寄り添って、夕方になるのを惜しむかのように、時を過ごしている。その光景を見ながら、公園から自宅に向かっていると、ふと思う。学生の頃の友達は今頃どうしているのか、同僚はまだ仕事をしているのか、病気になった男や、羽振りの良かった男、などが思い出される。西日が作る長い人影は、秋や冬の季節に相応しいようで、人を過去の思いに導いていく。そうか、誰もそれなりに、幸せを求めて生きているのか、自分も同じだ。夕飯時に、録画していた、NHKドキュメンタリー三島由紀夫の番組を見たが、天才の生き方は、自分には分からない。人生は、平凡でいいから、小さな幸せで十分ではないか、オンラインで仕事をし、公園でジョギングをし、平和な光景を見て、美味しい食事をする、それ以上は望まない、それ以上は、天才か狂気か、平凡ではないのだ。

整体院に行く

昨日は、久しぶりに整体院に行って、その後スポーツジムに行った。少し右腕が痛いので、家内に勧められて治療を受けた、と言っても、マッサージをしてもらって腕をほぐしてもらった程度である。1週間くらい前に転倒した時、体を支えようと、とっさに右腕がかばった時の打撲傷だろうと思うが、その後少し痛みがあったが、たいしたことではなかったので、そのままにしておいたが、やはり気になるので整体院に行った。わざわざ行くのは面倒なので、そこが自分の悪い癖なのだが、時間が無駄だ、という気持ちがあるので、整体院に行って、その足でスポーツジムに行くというコースなら、往復時間の無駄がない、という理屈で、納得した。整体院と言っても、健康保険が効くので、医療機関と同じである。そこでは、医師と同じで、先生と呼ぶ。担当になった先生が、痛くなった理由を説明してくれて、腕の治療というか、マッサージをしてくれるが、その説明が、自分にとっては有難い。なるほど、腕の痛みは、骨と筋肉との関係、つまり筋肉が打撲によって固まるからだという説明に、納得した。さすが、国家試験の資格を持っているだけのことはある、と妙に感心した。考えてみれば、整体院に行って、その近くのスポーツジムに行って、帰ってくれば時間的なロスがないという理由に納得したことと、同じかもしれない。人はどうも納得しないと、行動しにくいようだ。対面でもオンラインでも、聴衆が納得しなければ、講演の価値はない。自戒したい。

贅沢な日

昨日は高速道路を走って、鬼怒川温泉から自宅まで3時間までかからず、途中休憩時間も入れて、しかもガソリン代が安いのだがら、電車では行けないだろう。ホテルを朝9時前に出て、ガソリンも満タンにして、自宅に12時前に着いた。帰宅してから、オンライン会議や諸々の仕事を片付け、スポーツもすると、あっと言う間に夕方になって、金曜日なので近所のピザ屋さんに行って、ピザを買って夕食にした。久しぶりのピザで、こんなにおいしいのか、とワインの量が進む。ピザと言っても、デリバリーではなく、ピザ屋さんから自分たちで持ってくるので、値段が半額になるという信じられないサービスである。温泉ホテルで買った、たまり漬けは、絶品の味で食が進む。ワインは、頂き物で、素晴らしい高級酒のようで、堪能した。留守中に見たい番組があったので、録画しておいたが、それを見ながら食事をするという、本当に申し訳ないのだが、文字通りの贅沢だった。温泉で贅沢をし、帰宅してからも、その続きのような感じで、何か、こんなことをブログで書くのも気が引ける。贅沢とは、物質的なこともあるが、たぶんに精神的な要素が強い。どんなに美味しいものを食べても、面白い番組を見ても、心が満ちた状態でなければ、美味しくも面白いとも感じない、ことは、誰も経験しているだろう。今は、コロナ禍であるが、老夫婦にとっては、むしろ平穏で、浜辺に押し寄せる小さな波のようで、凪の状態のような気がする。働き盛りの時は、大波や大風に向かって進む船のようだが、役割を終えて浜辺に上がり、しかし、まだ海を監視している船頭のような気がする。

温泉に浸かる

昨日は、というか今日は、日光市の鬼怒川温泉に来ている。Go To Travelで安いので申し込むと、アッと驚くほどの安さとサービスで歓待される。食事はバイキングで、食べ放題、当然ながら温泉はお湯の流し放題、アルコールも有料だが飲み放題、とすべて放題なのである。印象から言えば、これまでの1人分の価格で、夫婦2人分が支払える。きれいなホテル、WiFiも部屋から接続できて、仕事も困らない。何もかも、至れり尽くせり、なのだが、凡人には、このような経験をすると、これでいいのだろうか、と老婆心が出てくる。コロカ禍では曜日の感覚が無くなって、仕事も遊びも同じ目線で見るようになり、平日だが旅行に行こう、という気持ちになるから不思議だが、ホテルも満席に近い状況で、どうも同じ思いかもしれない。放題とは読んでも字のごとしで、制限がない状態なのだが、裏を返せば、タガが外れた状態でもある。何か、自分がつまらぬ人間のような気分にもなるが、有難いサービスだが、どこか放蕩息子になったような気持ちもするし、たまにはいいか、という許す気持ちもある。果たして、どうすればいいのか、人とはどこまでも、迷う動物らしい。今日、今は朝の散歩が終わって、これからチェックアウトする時刻、といっても、8時半であるが、の前に書いている。午後には、オンライン会議があるので、9時前に出発しなければならない。どこか、矛盾したまま過ごしている。でも、温泉は素晴らしかった。

プログラミング教育のコンテスト

昨日もつつがなく過ぎたが、ブログなので感じたことを記録する。KOOVというソニーのプログラミング教育用キットがある。よくできているが、毎年、このコンテストを行っている。今年は、昨年までの日本と中国だけでなく、アメリカも参加するという。ブログでどこまで書いていいかわからないが、あまり漠然とした記述だと、何のことだか意味不明になるので、今後はある程度のことは書く。KOOVコンテストは既に公募されているから、構わないだろう。自分は、3年間、KOOVコンテストの審査を続けているが、今年は少しニュアンスが違う。KOOVを使うのは当然ながら、身の回りの道具も使って、音楽をプログラミングしよう、というテーマなのだ。ソニーはウォークマンのように、新しい発想を尊重する社風があって、それで世界に認められている。小中学生が音楽をプロジュースしようという試みは、面白いではないか、いかにもソニーらしい。審査員は、自分を除いてすべて音楽系の専門家なので、畑が違うので、自分でいいのかと思っていたら、どの分野も共通する基準が存在しているようで、例えば、独創性、魅力度、ワクワク感など、規則を守りながらも自分を表現することを、評価基準にすることなので納得した。課題曲と自由曲があって、課題曲は、上を向いて歩こう、なので、確かに、3か国の子供たちに、なじみがある曲だろう。オンラインでの打ち合わせだったが、自分の知らない世界は、また面白い。午後は、人事に関するオンライン会議で、通常の仕事の話だが、これも大切なことで、仕事にすべて無駄なことはないようだ。

作品つくりの楽しさとは

昨日の午前中は都内の病院に出かけ、午後に帰宅してオンライン会議をこなし、と言っても2時間を超える長丁場だったが、楽しい会議だった。オンラインの教員免許更新講習、と言っても、75分の4回分なので、かなり長い。通常の授業なら、余裕があるが、オンラインだと事前にきっちり用意しなければならない。何よりも、著作権と肖像権のクリアが厳しいが、3人で議論しながら時間を経つのを忘れた。昼食は駅のコーヒー店だったので、朝ドラのエールが見れなかったので、夕食時にビデオで見た。佳境に入っているが、11月で終了だという。忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ、という名文で、当時の女性の感涙を誘って大評判になった、菊田一夫原作、君の名は、の場面だった。菊田一夫の才能はすごい、また古関裕而との名コンビも、朝ドラを魅力あるものに仕上げている。NHKのディレクターと3人の共同制作の様子が、大ヒットを生むドラマを物語っているが、ふと思った。制作することは、こんなにも楽しいことなのだ、という当たり前のことに気が付いた。スケールはまったく違うが、小さな4回分の免許更新講習用の資料作りであったが、同じように3人で話し合って、時間がアッという間に経った。各自が宿題を抱えて、12月の収録に向かう。ビデオオンデマンドなので、スタジオを使ってプロが収録するのだが、どこか面白い。75分を4回も話すのは、それなりの緊張も伴うが、何かワクワク感がある。それは、作品を生み出す、受講生に自分のメッセージを届ける、こと自身の楽しさだろう。

聴衆を引き付けるとは

昨日は月曜日で週の始まりだが、自分が所属する団体の定例の会議が、午後にオンラインであった。昨日は、その会議に後に、ブレーンストーミングをして、今後の方向性や新規プロジェクトなどについて話したが、前向きな話なので、議論が盛り上がる。議論する時、正解がある場合は学校における議論であり、正解がない場合は実社会における議論になる。世の中のことは正解がないのが通例だが、それでも知恵を絞って議論するのは、正解に近づきたいという意識があるからだろうか。あの人の意見は傾聴に値するという時、何が基準なのだろうか、とふと思う。政治家などの発言では、所属する党によって主張が異なるので、何が正解というわけではないが、それでもそれぞれの党には、論客がいて、聴衆を巻き込むので、どこか違いがあるのだろう。同じ内容を書いても、話しても、書き手や話し手によって、響きや影響や印象が異なるのは、何だろうか、と思うと、書き方や話し方ということになるのだろうか。そうだとすると、表面的な技の違いになってしまい、本質ではないような気がする。受け手に響くのは、例えば、昨日のブログで書いた小説などは、事件の展開の仕方や書き方に依存することが多く、さらに落語などでは、同じストーリでも話し手によって、全く違う。それは、エンターテイメントだから、と昨日のブログで書いた。聴衆を引き付ける講演とか、議論における論客などは、本質的な点で違うような気がする。自分には、まだ分からない。

推理小説を読む

昨日は、オンライン実験が始まり、自分の研究が終わって、正直ほっとする。オンライン実験では、やはり気を遣うが、オンラインセミナーでも講演でも、事前にチェックするのは、失敗するとやり直しができないからだが、それでもどこかでミスが生じる。小さなミスなら仕方がない、いいではないか、と最近思うようになった。夕方になって気が楽になったのだろうか、久しぶりに読みかけの小説を、お風呂上りで夕食前の時間に読んだ。推理小説なので、何かの事件が起きて、推理して解決するというストーリーは同じだが、そこに人間模様が反映される。その人間も、殺人などの犯罪が出てくるので、市井の人とは違って、人の邪悪な面が出てきて、その葛藤の中でもがく姿なので、現実ではない世界である。だから、今の自分には少し違和感がある。先に書いたように、少しぐらいのミスはいいではないか、人生とはそういうものだよ、というような幅が出てくるのが、年配者の特長だ。意外な結末とか、悲惨な人生を辿るような物語なので、今の自分の気持ちには、ずれが出てくる。若い頃とは違うのである。しかし、さすがにプロの小説家とはすごいもので、引き付けて離れられず、最後まで読んでしまった。それは、研ぎ澄まされた技としか言いようがないが、どこか末梢神経の満足のような印象で、研究とか知的な凄さとは別のようだ。だから、エンターテイメントなのだ。