伊東温泉

正直に書くと、このブログは伊東温泉で書いている。朝のお風呂上がりの気持ちの良い時間に、朝食の前に書いている。なんと優雅な、なんと呑気な、仕事はどうするという声も聞こえるかもしれないが、確かに、かつては自分もそうであった。年を経るにしたがって、ここ何年間かは9月の時期に温泉に行くことが、定例になっている。前にも書いたが、例年7月から8月にかけては、研修やイベントで忙しく、その準備にも忙殺されて、温泉で癒されたいと思うようになったからである。家内は、もちろん喜んでいるが、今年はお盆で家族も集まることができず、家族旅行もできず、その代用である。自宅を出る時は、どんよりとした曇り空が、小田原か熱海あたりから晴天で、車で走っていて、気持ちが良い。誰でもそうだが、身も心も洗われる。温泉、特に露天風呂、散歩、ビール、特に生ビール、新鮮な魚、料理、誰もが好きなはずである。意外と、若い人も多く、このホテルはかなり混んでいる。チェーンホテルなので、一度入力しておけば、自動的にWi-Fiに部屋からつながる。これも有難い。メールを確認し、手帳に日程を書き込むと、もう仕事が終わったような錯覚をする。人間は、どうも楽を好むようだ、という当たり前のことに気がついたが、どこか申し訳ない気持ちが残っている。

8月31日

今日は、昨夜久しぶりに雨が降ったせいか、気温が低く涼しい朝である。昨日は、8月31日で8月の最後の日、残暑はまだまだ続くが、夏の終わりを感じる日である。今年の夏はどうだったのか、たぶんこれまでの夏とは違う感覚を誰でも持っているだろう。昨日は月曜日、読売新聞の歌壇の掲載日である。8月31日にふさわしい、ふと目を引いた一句がある。子供らの夏の形は砂時計日が減るほどに積もる思い出(宮園佳代美)。子供たちは、楽しい思い出を残しただろうか、平年の夏と違って、海にも山にも川にも、それほど行けなかっただろう。プールにも入れなかったかもしれない。永い人生には、そんな季節もあるだろう。この地域では、8月のお盆明けから子供たちは登校している。もう夏休みではないのだ。大人は、まだ気持ちがついていかないので、ぐずぐずして、過去と比べてみたり、ため息をついてみたり、切り替えが遅いようだ。しかし、今日から9月に入ったから、メールを開くと、これまで通りの会議や日程調整の問い合わせが相次いでいる。そうか、大人の夏休み明けは例年と同じ9月1日で、8月31日は気持ちの上での夏の最後なのか、と気づいて、さっそく仕事の頭に切り替える。総理大臣も辞任し、内閣も再スタートの季節になった。また、世の中が動き始める。

テクノロジーを使う

昨日8月30日の日曜日は、午後スポーツジムに行って、夕方床屋に行った。昨日のブログで書いたように、スポーツジムの、特にプールが爽やかでリゾート地に行ったような気分になる。コロナ禍の影響で、入館前に名前の記入と体温を測定することになっていたが、変更された。以前は紙に書いていたが、8月のお盆以降、非接触で体温を測定するカメラが登場した。このカメラの認識が素晴らしく、マスク付きでも認識して、画面に即時に体温が表示されて、入館できる。ネットで調べたら、AI検温システムと書かれていた。なるほど、AIか、と思ったが、確かにAIぽいのである。カメラの向こうにAIがいて、体温と正常ですと、画面に表示する仕組みは、ロボットのようで、そのカメラの前に立つのが面白い。紙の時は、あまり意味のないことをするのか、と半分適当で、体温計で測らなくても平熱かどうかわかるので、不満であった。なにしろ、今時入館するのに、紙に書くなど、お金を支払っているのに、という気持ちが起きて、しかも住所、氏名、電話番号、会員番号、体温など、俺はお客だ、という不満が起きる。それは、紙に書くという行為そのものが、嫌なのである。いや、正確に言うと、書かされているから、嫌なのである。論文や原稿を書くのと、違うのだ。紙からAIへ、これだけで、気分が天と地ほどに違い、お客の心を掴む。そういえば、このスポーツジムは、老舗であると同時に、人気が続いている。この業界も競争が激しいが、お客を引き寄せるには、いろいろな方法があるが、テクノロジーも、その一つだろう。夕方の床屋も、店員さんが、非接触の体温計で、測ってくれる。こちらは、人の優しさと一緒に、先端ではないがテクノロジーを使って、お客を受け入れている。この店も繁盛している。相手への気遣いが、大切なのだろう。

土日の生活

昨日は土曜日だったが、在宅勤務なので、平日と生活スタイルは変わらない。しかし、意識が違うようだ。どこかホッとする余裕があって、平日ではできないこともやってみたくなる。アプリの設定で気になっているのだが、時間がかかりそうだから後回しになっている仕事を、昨日はしたが、やりだすと面白い。平日は軽いジョギングだが、土日は契約しているスポーツジムに行って汗を流すが、これも気分転換と健康維持には最適だ。コロナ禍以降、マシーンを使った筋トレだけにしていたが、8月も終わってしまうので、プールにも行った。なんと気持ちの良いことか。筋トレルームは、窓は開けているものの室内のイメージだが、プールは、すべて大きな窓で囲まれ、そこから青空が大きく見えるので、その解放感は何とも言えない。さらに、屋外にジャグジーがあって、まるで露天風呂のようで、青い空と夏の雲と街中のビルが一望に見渡せる。昨日は、週に1回の外食をした。以前は、かなりの頻度でお昼を外で食べていたが、栄養過多になるので、週一回夜の外食にしたのだが、これも新鮮な気持ちがする。ラーメン店、スパゲッティ店、回転すし屋、焼き肉店など、お昼メニューの店で、値段は安いが、これが夕食だと思うと、ディナーなので少し高級感がある。昨日は、ステーキ店だったので、なおさら高級感があって、家内が喜んだ。土日は少し意識が違って、普段とは違うことも生活に取り入れているが、このような遊び、余裕、ゆとり、アクセント、とでも呼びたい一コマも、楽しい。こんなことを書くと、それはお前に余裕があるからだと、言われそうだが、そうではなくて、お金とか、余裕とか、モノがあるから、という唯一の原因に帰すことに疑問を持っている。モノが先行して、すべてを決めるという因果関係は、いかがなものか。このような些細なことは、気持ちの持ち方次第である。今日は、日曜日、普段は6時から7時に書斎でメールなどをチェックするが、今日は8時までである。8時からNHKの小さな旅の番組を見ながら朝食をとり、9時からは平日と同じように仕事をしている。7時までか8時までか、こんな小さなことでも、どこか嬉しさが違う。生活にアクセントつけることは、良いことだ。

SSHの発表会

昨日のオンライン審査は、素晴らしかった。文科省が主催するSSH(スーパーサイエンスハイスクール)の最終審査で、生徒たちが発表し、生徒たちが質問し、私たちが審査するのであるが、最も言いたいことは、その発表が極めて分かりやすいことである。サイエンスと言っても、物理、化学、生物、地学、数学、情報、工学などがあるので、審査委員も、すべてが専門ではないので、分野が違えば分からないことが普通である。それが、専門外の人にも明確に伝わるように話すので、聴いている方は、なるほど、と納得することが多い。比喩的には、テレビの池上彰さんの解説に似ている。池上さんも相当に勉強しておられるから、何が本質なのか、何が重要なのか、を解説されるので、人気があるのだ。同じような印象を持った。その研究の本質をよく知っているだ。高校生なので、同級生にも話すことも多いだろうし、専門以外の発表も聞くこともあるだろうし、先生から指導されたこともあるだろうが、本質を知っていることは、すごいことなのだ。それは、言葉がやさしい、などの表面的なことではなく、理解の深さと言ってもよいだろう。また、質問がすごい。質問する高校生も、何が本質か、何がポイントかをよく知っているので、そうか、そのような観点があったのか、と膝を叩くような質問なのである。オンラインということもあって、審査委員は質問できないルールだが、それが良い。審査委員は、確かにそれぞれの分野の専門家だとは思うが、このSSHの発表会にはふさわしくない。審査の目で質問するからで、高校生のように、純粋に分からないことを質問する視点ではないからである。外は猛暑で、エアコンの効いた書斎で、高校生のトップレベルの研究発表を聴けるのは、なんと贅沢なのだろう。ここにも、高校生の青春がある。青春をかけた発表には、感動がある。聴く人の胸に響いてくるものがいっぱいあって、オンラインでは届かない拍手を何度も送った。

秋の気配

今日も、朝から夕方までオンラインで1日が終わった。明日は、もっとオンライン漬けで、朝8時から夕方までオンライン審査である。明日の朝はブログを書く時間がないので、今、夕食前の時間に書いている。今日も忙しかった、というより、脳が疲れた。先のブログでも書いたが、オンラインには遊びがなく、準備運動も整理体操もなく、いきなり全力疾走のような仕事の仕方なので、頭の芯が疲れるのだ。もちろん、参加するだけなら疲れはしないが、会議を仕切るとなると、神経を使うので、アドレナリンかドーパミンか知らないが、訳のわからない脳内物質が分泌されているようで、ただ疲れる。そのような時には、体を動かすに限るのは、誰でも知っている処方箋である。自分は、少しの時間だがジョギングをするが、帰宅すると、汗びっしょりになって、身も心も軽くなる。そして途中でいろいろな変化に気づく。今日は、初めてツクツクボウシの声を聴いた。ようやく小さな秋を連れてきたようで、優しい気持ちになる。昨夜は、コオロギの声を聴いた。少しずつ季節が移っているのだ。いきなり夏から冬へ、いきなり雨季から乾季へ、という季節は、日本人には馴染まない。少しずつというアナログ文化であり、着物の柄も、日本画も、墨で書く文字も、琴の音色も、すべて墨絵のように、淡くぼけている。いきなりyesかnoかと言われても、いきなり都市封鎖(ロックダウン)と言われても、デジタル文化ではないのだから、生ぬるいと言われても、自粛とか要請とか、忖度の物差しで事を運ぶのである。少しずつだから、日本人は、先のブログで書いたように、自然と調和しながら生きてきたが、ここ数年の異常な暑さでは、調和ではなく、毅然と対応するしかない。しかし、ようやく涼しさが空気に交じってきて、人の心も穏やかになってくる。少しづつ、秋の気配がしてきた。

研究発表

昨日も、オンラインで一日暮れた。午前は、初めての経験だが、科学系の学会の年次大会がオンラインで実施されて、講演を聴いた。およそ研究発表の定番は、研究仮説を立て、デザインして実験か実践をして、得られた結果と課題を述べるストーリであるが、もちろんこのスタイルに誤りはなく、それを外れると基礎を知らない、と指摘される。その基礎を習得した上で、新しい方法やデザインを工夫するところに面白さがあるが、その講演は、その通りだった。何か調査をすると、この場合は、科学技術や子供向けのの理科実験であったが、その調査や実験に参加する大人や子供は、元々興味関心があるのだから、得られた結果が仮説通りになるのは当たり前ではないか、むしろ大多数の人は、科学嫌い、理科嫌い、技術嫌いなので、その人たちを対象にした研究でないと、土台が間違えているのだから、結果を一般化することができない、という発想から出発している。面白い。誰でも感じているが、それを真正面から取り組むには、勇気が要る。ips細胞を知っていますか、AIって知っていますか、と聞くと、プイとそっぽを向いて嫌がる大人を相手にして、どのように研究を進めるのか、と問われると、その通りだと納得する。それは研究になるのか、論文になるのか、大学に籍を置くものなら、誰でも頭をかすめるので、果たして成果は出るのか、時間の浪費にならないのか、と不安になるのは当然で、先に述べた定番のストーリで研究を行うことが多いのである。だから、この研究は素晴らしい。この先生を動かしているのは、業績ではなく、使命感ではないか、と思った。学校の教員は、できない子供が楽しく勉強するには、官僚や政治家は、多くの国民がより良い生活をするには、もちろん医者は苦しんでいる患者の病気を治すには、と知恵を絞り努力をするのだから、使命感によって動いている。知識や技能の前に、使命感がある。そして使命感がある人は、前を向く。

訃報

一昨日、知人から電話があった。私の友人であり先輩である方の訃報であった。80歳手前の年とは言え、今日では70歳代では早すぎる。年に1回くらいでしかないが、数か月前に本人から電話があった。至って元気の様子で、コロナ禍が終息したら会おう、と言ったが、それきりになった。そうか、もう君はいないのか、の城山三郎の本を思い出す。人の命は儚い。いろいろな事情があったようで、連絡がすぐにはできないという知人の伝言であった。9月にお墓参りに行くと約束をしたが、彼との出会いを思い出す。自分が初めて就職したのは、高校の教師だった。新設された進学校で、運動場の前が、美しい見晴らしの良い海水浴ができるような砂浜だった。大学院出立ての24歳だった自分は、若かった。彼がクラス担任で私が副担任という関係で、ずっと仲が良かった。たぶん、ウマが合ったのだろう、北海道の自動車旅行や、何かにつけて一緒だった。その高校を離れての人生は違ったが、苦労も多かったようで、生涯独身で過ごしたが、決して愚痴はこぼさなかった。昭和の男だったのだろう、俺が責任を持つ、という気概があって、自分はそこに共鳴した。この暑さの中で、ミンミン蝉が朝からまるで声もかれよとばかり、大声で鳴いている。限りある生きている時間を惜しむかのように、精一杯鳴いている。あれは、何かを訴えているのか、何か言いたいことがあるのか、と思うが、蝉の抜け殻を見ると、すべて出し切って、生を全うしたように見える。たぶん、彼も苦労も多かったと思うが、悔いはなかったのではないか、と思いたい。自分も、命ある限り、論文を読み、原稿を書き、人と話をし、出版もして、生きて生きて生き抜きたい。先輩であり友人である彼のご冥福を祈る。合掌。

異常な暑さ

今日は8月25日である。8月も残り少なくなってきて、平凡ながら月日の経つのは、矢のごとしである。朝食後に5分程度の小さな散歩をするのが、日課になっている。正しくは、自宅すぐ近くの小川の傍にある、弘法大師を祭っているお社に参拝して帰ってくるのだが、ついでに橋から小川の魚なども眺める。魚のことはよく知らないので、家内に聞くと、ハヤだという。背びれや腹部が赤色になっていて、素早く動く。その周りを、たぶん夏のトンボだと思うが、よく飛んでいる。空は、まだまだ入道雲かワタ雲のようなもくもくとした夏の雲が、居座っている。ミンミンゼミが鳴いているから、まだまだ夏の盛りなのである。今年も異常な気温が続いているが、自然も昔を忘れてしまったようで、コロナ禍と夏の暑さで、人に挑戦しているようで、どうも勝ち目はなさそうである。日本人は、いかに自然に調和するか、という思想や文化を持っているが、このような異常な場合には、どう調和すればいいのだろうか、あるいは、調和ではなく、どう挑戦するのだろうか、中間をとって、どう対応すればいいのだろうか。高齢者が熱中症で死亡している、それも室内がほとんどだと報道していることを考えると、どうもその対応ができていないようだ。屋外ならば、高温にさらされて熱中症で死に至った、と納得できるが、室内だと、エアコンを作動しなかったか、皮膚感覚が鈍っていたか、分からない。季節は夏の終わりだが、自然はまだ人を許していないようだ。調和という馴染んだ処方を超えて、対応する心構えと行動が求められている。

哲学

昨日は23日で日曜日だが、自宅勤務の現在では、気持ちは別として、平日と変わらない。午前中は、自分の時間として大切にしているが、締め切りのある仕事もこの時間にする。午後は、オンラインでの会議や打ち合わせなどがあって、自由にならないことが多いからである。先にブログでも書いたが、台湾から日本の大学院への留学生の審査があって、その数も多いので、少しずつ論文を読んでいるが、なにしろ理工系という大きなくくりなので、幅が広い。昨日は、建築分野で、ハイデガーの哲学を背景にした建築デザインのテーマであったが、学部教養科目の哲学の授業以来、勉強したことがない。どうも、読んでいると、建築とは、自然環境、人間、建築という人工物の関係性を、いかにデザインするか、人間にとって機能的であると同時に、環境にとっても良い関係性を保つ、というような趣旨のようだが、哲学は言葉そのものが難しく、人間のことを現存在とハイデガーは呼んでいるので、その背景の文献を読まなければならない。何故、現という文字が付いているのか、など考えていると、脳は別の世界に飛んでいくようで、すぐに時間が経ってしまう。ハイデガーは、存在とは何かの考察で有名であるが、この難解哲学の代名詞のような存在論とか、孤独とか、にはまっていた頭の良い友達を思いだした。学部では一般教養科目で哲学を履修するので、今の学生は、パン教と呼んで軽く見ているが、深い学問であることは、誰でも知っている。審査のおかげで、学生時代に戻ったような気がして、頭がリフレッシュした。有難い。