昨日はオンライン理事会が2つあった。3月は役員会の時期とは言え、10以上もあると、どこか気疲れする。自分の立場では、何か話さなければならないから、別に準備はしないが、気遣いをするので、疲れるのかもしれない。自分の年齢では、これが仕事だ、と思いながらも、プレイヤーとマネージャーなら、現場であるプレイヤーの方が好きだ。時間の合間に、原稿書きをしたり、出版の構想を練ったり、資料を作ったりしているが、いくつになっても、それで充実感を味わっている。そして、運動することで、心身のバランスをとっている。昨日は、夕方、西方向にジョギングをした。もう、この桜は満開か、こちらはまだ4分咲きか、と思いながら走っていると、子供や年配者が、写真を撮ったり、のんびり眺めたりしている。西方向のコースは、東川という小さな川沿いに走るのだが、農家や畑などがあり、ある場所に、今は無くなったが、春の小川の歌詞を書いた看板が置いてあったので、その川のイメージは伝わるだろう。川を挟んだ向こうの歩道を、女子中学生3人が下校している。自分の走る方向に向かってくるが、対岸なので、その様子がよく見える、マスク越しに合唱をしている、仲良しなのだろう、マスクで見えない顔が笑っている、何か良いことがあったのか、と思っていると、同じように、大勢の中学生がこちらに向かってくる、手に工作の作品や大きな手提げ袋を持っていて、どこか嬉しそうだ、そうか、今日は終業式かもしれない。自分は、地元の中学校の評議員をしているせいか、受け持ちの生徒のような気持がして、下校する生徒をこのまま見守っていたい、と思った。ふと、昨日の原稿に書いた、well-beingの言葉を思い出した。君たちは、今、幸せか、つらいことはないか、いじめられていないか、いつまでも君たちの幸せが続くように、応援するから。幸せな子供を見ると、人は人に優しくなれる。
卒業式の季節
昨日は定例のオンラインの事務局会議があり、平穏な1日だったが、私用で街に出かけた。駅で、晴やかな和服姿の若い女性たちを見たが、大学の卒業式の時期らしい。そうか、今は、卒業式なのだ、コロナであっても、変わらない、と思いながら、それとなく眺めたら、昔ながらの格好で、きれいな和服に袴を着けたブーツ姿である。ブーツは、明治か大正時代を連想させるので、かつてはハイカラな格好だったのだろうか、と思いながら、あまり見ると怪しまれるので、チラッと見ただけだが、マスクをしてスマホを触って、写真を撮っている、これが現代風かもしれない。思い出すと、学芸大も東工大も白鴎大も、確かに、この姿だった。全体的には、国立のほうが地味で、私学の方が晴やかなことは納得できるが、謝恩会は学内の生協食堂という東工大のスタイルには、嫌気がさして、教員も学生も、卒業式も謝恩会も出席率はよくなかった。生協食堂は、普段の昼食でも学生が敬遠するくらいのまずさだったから、謝恩会はいくら何でも、という思いがあった。だから、自分が専攻長をした年に、変えた。大学の前の中華料理店で謝恩会をして、学位記は、その場で専攻長が渡すというセレモニーの後は、飲食をしながらの研究室の隠し芸の時間にした。この日のために、どの研究室も芸を磨いてきたらしく、研究室の寸劇、教授によるサキソフォーン演奏、漫才や落語の出し物、物まね、剣舞に至るまで、これまで見たことのない盛り上がりだった。この年か、その前年度からか、東工大ブルーと称する紺色の帽子やマントなども着て、写真を撮る姿が、キャンパスに見られて、どこか晴やかになった。どんなに硬い研究をしている人でも、どこか他人に見せる特技を持っている、ということに気が付いた。あの助教が、あの教授が、あの学生が、まさか、こんな面白い特技をもっていたのか、という驚きを、誰もが持ったに違いない。どんな人でも、一皮むけば、可愛げのある面を持っていて、お互いに理解しあえる。自分が東工大の専攻長だった時の、楽しい思い出である。
マスクで会議
昨日は月曜日で、都内で対面の理事会があったので、定例の事務局会議は火曜日になった。理事会名は書いてもいいだろう、三菱みらい育成財団であるが、文字通り三菱グループ27社が資金を出して、三菱設立150周年記念で設立した財団である。自分は理事会よりも審査会のほうが面白く興味があるが、三菱企業の役員が顔を揃える理事会なので、多少緊張しながら昼食を兼ねて、その後の審議に参加した。丸の内界隈は皇居と隣り合わせの場所で三菱村と呼ばれているようで、昨日の会議も三菱クラブという商事のビル21階の高級そうな部屋で開かれた。昼食はマスクを取って黙食とでも言うのか、黙って食事をするのであまり美味しい味がしないし、会議はマスク越しで話すが、久しぶりのネクタイを着けているので、どこか硬くなる。小説かドラマのシーンのようで、自分でも何か場違いの部屋に居るような感じがする。隣席は、坂東真理子昭和女子大総長で、三菱企業以外の外部有識者は自分と2人だけなので、どこか気の利いたというか、本質的なことを言わなければ、というプレッシャーも感じる。だが、議論が始まると、緊張は飛んでいって、内容の深さに引きずられ、そして面白くなるから不思議だ。昼食の時とは別の世界が開けたのは、何故だろうと考えたら、ふとそれはマスクのせいではないか、と思った。人は、偉い人の前では小さくなる、影に隠れたくなるのは、人情である。教員が生徒の机を巡視するが、勉強が苦手な生徒がノートを隠す光景はよくあるが、その心情がよく分かった。今、自分はその生徒の立場なのだ、だから自分を隠したいのだ、ただマスクのお陰で、すべての自分を出さなくても良いので、自由に話せるのではないか。自分はこれまで、マスクを外せ、もっと堂々と話せ、と学生にもスタッフにも言ってきたが、あれは間違いだったかもしれない、自分が弱い立場になって、そこに気が付いた。自分は好きな道だけを歩いて来たので、横道にそれた人の気持ちが分からなかった、すまなかった、と思ったが、自分のことは本当に見えないものである。昨日は、それを教えてもらった。
研究の未熟さ
昨日は日曜日だったが、オンラインの発表会があった。このブログでも紹介したが、ベネッセが企画するSTEAMフェスタ2021で、主に高校生が課題研究を発表して、それぞれの分野の専門家がコメントするのだが、初めてのオンラインイベントになった。今回は、3月初旬の発表で推薦された11件の発表で、一般向けにYouTubeでも配信されて、多くの視聴者、約1000名位、があったと聞いた。高校生の発表内容と専門家のコメントについて、ここで述べるつもりはなく、自分が感じたことだけ、メモのように書いておきたい。土日と続いて学会と発表会があったが、脳裏から離れないのは、研究と実践の在り方や往還の仕方である。自分は物理を専攻したせいか、どうしても見方がある範囲を超えない、視野が狭いのである。理工系、特に自然科学系では、対象とする世界を限定して、その中で通用する知見を求める傾向がある、それは論理的かもしれないが、世間から見れば、研究と言う名の個人的な興味だけの世界に見えるだろう。社会科学系では、それは世の中、つまり社会における知見や、現実の問題解決を求めるが、それは自然のようにきれいな論理性があるわけではなく、どうもこんなようだ、というあいまい性が伴う、だから極めて研究が難しく、結果にも例外も出てくるのだ。教育は、社会科学の世界であるが、さらに生きた子供がいる世界なので、手探りで対象を把握するしかない、と言えば、研究ではなくなり、経験するしかない、ことになる。経験と書いたが、正しくは実践である、さらに正確には実践研究である。研究と実践を往還する姿が教育研究であるが、自分は、そこを目指しているが、まったく未熟であることを痛感した。この2日間で、既に多くの研究者や専門家が、そこを意識して、その知見を得て研究方法論を確立していることが、分かったからである。自分の研究は、まだまだ幼稚で、一から考え直す時期に来ている、と言っても、一般の人には意味不明かもしれないが、決して謙遜ではなく、自分は、その未熟さが明確に見える。
学会の研究発表
昨日は、小さな学会の年次大会がオンラインであった。小さくても学会は学会なので、研究発表、基調講演、総会、パネル討論などがあって、それぞれが頑張っていたと思う。大会は、学校では文化祭や体育祭、大きくは甲子園のようなものなので、大小を問わず、これまで蓄積してきたすべてを出そうと思うが、その結果は、三振したりエラーをしたり、そして逆転して応援団からエールを送られたり、大人の甲子園かもしれない。観客は、自分のチームの意識はないので、特にひいきの登壇者はいないので、良い発表には拍手を送り、つまらぬ発表には、そっぽを向く。多くの観客が、面白い発表だったら、満足して帰宅するだろう、大会の成否は、それが最も大きな指標である。さて、どうだったのか、わからないが、一つだけはっきりしていることがある。誰もが、一生懸命だったことである。昔、高校教員だった時、小さな話だが、校内合唱コンクールがあって昼休みにクラスで練習していたが、中にはそっぽを向いたり、どうせ負けるのだから、という態度に腹が立って、大声で怒鳴って叱った。結果はどうでもいいが、そこに向かう努力に価値があるのだ、という信念があったので、体育系のような指導だったが、クラスがまとまるとは、こういうことなのだ。テレビドラマに出てくるような教師像かもしれないが、その通りで、高校でも大学でも企業でも、およそ組織であれば、すべて同じだと思っている。論文も同じで、ブログでも何度も書いたが、出来あがったら、それが最後で何も興味もなく見向きもしたくない、そこに至るまでが楽しいし、そして苦しい。自分もパネルの司会をしたが、臨機応変に、その場の流れを掴んで、参加者の皆さんが満足できるように、それだけに心を配っていると、パネリストの言いたいこと、それを引きだすこと、それが場の中で相互作用して、すべてを出し切るような雰囲気が生まれる。甲子園で投打が噛み合って、何かドラマが生まれるような雰囲気が生まれ、それが観客を魅了する、というと少しオーバだが、発表会とはそのようなものである。準備してきたことを披露することではなく、その場で生み出す、誰も予測できない、それをドラマと呼ぶならその通りだが、そのためには、合唱コンクールのように、一生懸命さが必須条件なのである。自分も、勉強になった。
理事会を仕切る
昨日は、オンラインの会議が2つと期限が迫った仕事があって、なかなか時間が厳しかった。3月は団体・法人の理事会や評議員会の季節で、一斉に実施するので、予定が詰まってくるのだが、このブログでも書いた白鴎大学の評議員会も、その1つであった。たぶん、両手の指の数くらいは、理事とか評議員や顧問などの役をやっていると思うが、それぞれの団体・法人のやり方があって、なんとなく個性や文化を感じる。およその傾向は、無難にやり過ごすやり方だが、総会などでは分かる、企業では総会を壊す物騒な人達が来ると聞くから、無難が最も成功するカギであろう。担当者がほとんどの時間を説明に使って、質疑応答では何も意見が出ないで終了するパターンでは、委員は義理に参加することになる。発言しないのだから、楽しいはずはない。担当者は丁寧に説明しているが、誰も関心を持っていないことに、気が付かない。激論を交わすスタイルは、あまり経験したことがない、というのも、事前にシナリオを練っていて、過激にならないように根回しをしているからだろう。昨日、テレビでアメリカと中国の外交交渉の光景を見たら、正に真正面からぶつかって、事前のシナリオを変更したと報道していたが、テレビ受けを狙っていたかもしれない。昨日は、本家の団体の理事会があって、自分が議長をしているが、担当者の説明が終わってから、参加者の理事全員に発言してもらうのが、自分のやり方である。約20名ほどの理事がいるので30分位は必要だが、その時間が貴重なのである。理事会や総会は、説明のための場ではなく、議論する場、違う意見を出し合う場、建設的な考えを創出する場なのである。無難にやり過ごすという日本風も、意見が真反対で激論を戦わすやり方も後味が悪く、手前みそだが、自分のやり方は気に入っている。昨日の理事会は、終わってから、振り返ってみたくなるような、意見をもう一度噛みしめてみたいような、さわやかな後味のする会議であった。少し自画自賛で書きにくいが。
日常の平穏とは
昨日は、さて何があったのか、手帳を見ると、3つのオンライン会議があり、月に1度、正しくは5週間に1度の床屋に行った。こう書くと忙しそうだが、電車に乗って移動する時間がないだけ、時間の余裕がある、つまり、平穏な日だった。と言っても、このブログで書くように、中身は楽しい話題もあれば、そうでない話題もある。それが、通常の仕事の世界であって、楽しいだけ、苦しいだけ、ではないので、救いがある。オンラインで議論していると、すっかり団体役員の顔になって、頭がその方向に切り替わり、いろいろな考えが浮かんでくる。自分の所属する団体のスタッフと打ち合わせをしていると、どこか頭の神経がピーンと張って、獲物を狙う鷹のような鋭さを感じる。というと少しオーバだが、古来から外で男たちは狩猟をしていたので、その遺伝子が流れていて、それが働くのだろう。うん、そうしよう、とか、そのやり方で、彼にお願いしよう、ここは無視しよう、とか、企業では経営企画室、戦時では大本営の作戦本部、のような雰囲気があるのは、規模は違っても中身は同じだからである。誰も仕事をする時、同じような思いをしているだろう。家にいる時と外にいる時は、違う顔になっているはずである。が、コロナ禍で、家の内と外の区別がつかなくなって、コロナうつ病や、家庭内のいざこざが起きる。そこは、大人の知恵が必要で、これまでと同じでは、当然に問題が生じる。昨日の夕方、久しぶりの人から励ましのメールが届いた。たった、それだけで、自分はまだ大丈夫、心配することもない、落ちこむ必要もないのだ、と安心して心が弾んだ。いくつになっても、外で喧嘩して帰宅したら、母親に大丈夫と言われ、また元気になって外に遊びに出かける子供のような姿になる。日常とは、頑張る、失敗する、励まされる、また元気を出す、というような繰り返しなのだろうか、それが、日常であり平穏ということかもしれない。
大学の役員会
昨日は、久しぶりに栃木県小山市に行った、のは、白鴎大学の役員会があったからである。駅前にあるキャンパス11階の会議室で、昼食を兼ねて、その後に議案を評議した。自分の左右両隣は、オリンピックの体操で著名な加藤澤男先生、フォーク歌手として有名な山本厚太郎先生がおられて、昼食時に雑談と昔の話をした。加藤先生は、教育学部に在籍されて、山本先生は、研究室が隣だった関係で、よく話をしたし、どこかウマが合った。共通しているのは、白鴎大学の学生は、気質が素直で、伸びる学生が多く、どこか昭和の時代を連想させるような学生像だった。自分は、5年間学部長を拝命していたせいか、どの先生とも懇意にさせてもらったが、楽しい思い出ばかりである。先生の研究室は、いつも学生が多く来ていましたね、とか、よく走り廻っていましたね、とか、外から見ると、自分はそのように思われていたらしい。加藤先生は、今でもメダル数の記録は破られていない、ミスターオリンピックとでも呼びたい人物で、山本先生は、気さくな人だから、どうも歳をとってね、走れコータローが歌えるか自信がないよ、と話していたが、役員会のメンバーを見ると、誰も年月を経て、それなりの年恰好になっている。自分もそう見えるのか、と思うが、誰もが教壇に立っていた時、ゼミで議論をしていた時を、思い出すのだろう、どこか郷愁に浸るような表情をする。会議の内容も、学生数、付属の幼稚園や中学高校に至るまで、学校の話題である。心が昔に戻り、自分も、こうして講義をし、ゼミで議論し、夏と春の勉強合宿をし、教授会を仕切り、本音を言うと、自分は毎月の教授会を仕切るのが楽しみだった、などが走馬灯のように頭をよぎっていった。すべてが楽しい思い出だった、今度生まれ変わっても、学校の教員でいたい、と思いながら、会議の一時を団体役員ではなく大学の人として過ごした。高校や大学は、今でも、片思いを続ける、いとしい人なのである。
春の陽気
昨日は火曜日で、朝9時から夕方6時まで4つのオンライン会議があったので、忙しかった。おまけに、深夜に腹痛で目覚めたので、寝不足もあってどうなるかと思ったが、人のすることは思い過ごしが多く、現実は何事もなくスムーズに進行していった。何も心配することはないのだ。心配とは、ほとんどが自分勝手にそう決めているだけで、他人は何も思っていない、というと語弊はあるが、概してそのようだと、経験的には思う。忙中閑あり、の言葉通り、会議と会議の間に隙間があって、その間に溜まっている仕事や調べものなどをするのがいつものパターンだが、昨日は止めた。寝不足なので、机に向かうと、うとうとする、というか、向かう気持ちが薄れている、まだ正露丸が効いているのか、と思ったり、体を労わらないと、との思いで、1階にある居間の南側に腰かけて、1時間くらいをボーとして過ごした。小さな庭と小さな菜園だが、昨日の陽気は5月並みで、真っ黄色い菜の花が目にまぶしい。そういえば、今は春なのだ、忘れていた。朝刊の句、菜の花の側に止めおく乳母車(入田葉子)があった。昨日は火曜日だが、月曜が休刊だったので、歌壇の掲載があった。こんな陽気だと、直射日光はきついから、日よけをしているだろう、そこから黄色い菜の花を見れば、幼児も気持ちよく春の息吹を感じるだろう、と思ったのか、母親は、しぐさの隅々まで、優しさが隠されている。そして夕方6時を過ぎて、お風呂や楽しい夕餉の時間になる。同じ歌壇に、今日のこと大方終えて草の餅(吉羽あつ美)、の句があった。なるほど、人は同じようなことを感じるようだ。ありふれた日常生活の1コマだが、誰も何かを感じながら生きている。
腹痛で目覚める
昨日は、月曜日なのでオンラインで、定例の会議と別団体の理事会があったが、ここでは触れない。昨日と言うか、今朝1時に目が覚めて、お腹がしくしく痛い。どうもいけないと思って、トイレに行ったり水を飲んだりしても、痛みは変わらない。これでは寝れない、と思い、隣に寝ている家内を起こしたら、正露丸の薬を持ってきて、併せて、ホカロンを下着の上から貼ってもらった、そして靴下をはいた。体を温かくしたら、少し気が休んだのか、気が付いたら、5時と5時半のスマホの目覚まし音で、目が覚めた。つまり、それまで寝れたのである。本当に有難い、と思う。体の痛みで寝れないのは、本当に切ない、なんとかしてくれ、と天か神に祈りたくなる。正露丸とホカロンと靴下で、助かった。体を温めることは、安らかな眠りに導くのだろうか、お腹は少し痛くても、優しさで包まれているような気持がして、気が楽になったのだろうか、人には、どこかで安らぎが必要なのかもしれない。体を鍛える、動かす、と同時に、労わる、包む、などの優しさも必要なのだろう。昨日の夕方、お風呂上りと夕食の隙間時間に、三浦しをん作の、風が強く吹いている、の小説を読み終えた。大学生が自主的に陸上部を作って、箱根駅伝に出場するという、文字通りの青春小説だが、小説の題名通り、読み終えると、さわやかな風が体いっぱいに吹き抜けたような気がする。若い人の箱根駅団にかける情熱に、共感を覚える。体に、暖かさ、優しさ、が時に必要であると同時に、頭も心にも、時に安らぎのような気持が必要だ。それは、一服の清涼剤のように、浜辺でそよぐ気持ちのよい風のように、身も心も頭も、包み込んでくれるからだ。今日は、朝から夕方まで4つのオンラインの会議がある。こちらの方は、頭を鍛える方だが、優しさと元気をもらったせいで、なんとか乗り切れそうだ。
