昨日は火曜日、平穏な1日だった。原稿を書きたかったが、当面の仕事を先に片付ける必要があって、取り掛かる。すると、別の用事を思い出す、など、どうも仕事の管理がうまくいってない。机の前にメモ用紙を張ってチェックしているが、抜ける時がある。日数がかかる時はToDoリストに書いて、パソコンのディスプレイに置いて、いつでも見れるようにしているが、やはり見落としてしまう。手帳に書いたことは、見落としが少ないようで、自分はアナログの手帳とデジタルのToDoリストを併用している。その日のことは手帳で、ある期間のことはToDoリストで、という方法である。併用すること、ハイブリッドということは、教育でも、対面とオンラインというように、主流の考えである。当たり前のことで、それぞれのメディアの良さを生かすことだろう。昔は、手帳に予定だけでなく、感じたことを後ろのメモ欄に書いていて、特に利用するわけでもないが、文字通りメモしていた。日誌代わりに手帳を使っていたが、今では、このブログがその代用になった。アナログからデジタルへの移行である。ただし、手帳には、腹が立った、会議で不満に思った、ムシャクシャした、嫌気がさした、など、マイナスのことは書かないようにしていた。因果関係はないが、そのほうが手帳の使い方としては優れている、と経験的に感じていたからである。教育現場では、子供を褒めよ、と言われているが、褒めてばかりいたら、人間的な成長はしない、非指示的カウンセリングの受け売りだろう、と思っていたが、どうもそうでもないようだ。というのは、時折手帳を見ると、後ろのメモ欄に、良いこと、つまり自分を褒める言葉を読むと、自分で自分を認めることができて、元気が出る経験をしたからである。だから、このブログも、マイナスのことは書かない、プラスのことを書くようにしている。その方が、楽しく前向きに生きられるからである。
他人の働き
昨日は、久しぶりに都心に出かけた。歯科医院と所属団体の事務所と新宿の事務所に行って、会議や用事を済ませた。歯科医院は、コロナ禍以前から通っているので、3ヵ月に1回、治療というか歯の掃除をしてもらっているが、少し歯茎が弱っているようで、直してもらった。所属の事務所も歯科医院も溜池山王にあって、徒歩で行って会議に参加する。会議が面白い、というとニュアンスが伝わりにくいが、知的な興味と事業的な面白さがあって、対話に惹かれるのである。対話と書いたが、会議と言うより自分の感覚では対話に近い。なんとなく大学の研究室で議論する光景に似ていて、会議ではなく、追求、探求、解決案の模索、のような感じがする。そこには、メンバーに共通する基盤が必要で、会議がちぐはぐになったり、すれ違ったり、鋭く対立したりする時は、お互いのスキームが異なっている場合である。自分は、この会議や事務所や雰囲気が好きで、単純には居心地が良い。それは、自分がどこかスタッフを尊敬しているからかもしれない。誰もが、自分にできないものを持っていいる。彼らの知恵やスキルで、この団体が運営されていると思えば、自分の役割は、応援しアドバイスする、セレモニーで挨拶する程度である。新宿の別の事務所に行って、机の片付けをして、廃棄する書類や自宅へ郵送してもらう物品を整理して、メモ書きをして依頼した。これも、スタッフのお陰である。ある高校生が、社会科の時間に、自分の身の回りを調べる授業があって、いろいろ調べて分かったことは、いかに他人に助けられて生きているかであった。何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、それ以来この高校生は、当たり前が当たり前でない凄いことなのだと思うようになって、成績が急速に向上したと言う。歯の治療はもちろん、団体の事業運営も、書類の郵送も、自分ではできない、専門家やスタッフのお陰、と思うだけで、心が明るくなる。春風に向かって口笛を吹きたくなる。
mustとwant
昨日は日曜日、オンライン会議はなく、土日は少し気ままな曜日である。が、昨日が締め切りの審査、正確には今日が締め切りだが、今日は都心に行くので時間がない、があって、午前中はそれに集中して終えなければならない。人は、このようにmustで仕事をするが、やっていく内に、その中に引き込まれていくのは、誰も経験しているだろう。英語が正しいかどうかわからないが、wantに変化するのである。審査なので、内容には触れないが、徐々にその浅さや深さ、申請者の意図が見えてくる、これは適当に書き流している、これは思わず相づちを打ちたくなる、など、手に取るように伝わってきて、審査する側が勉強になる。歳をとってくると、審査系の仕事が多くなって、年中審査をしているような気がする。頭の芯が痛くなるような論文審査もあるが、そのような難解な内容でも、調べたり何回も読んだりしていると、ふと気付くこともある。研究と同じかもしれないので、どこか惹かれる。昨日は、スポーツジムの日である。午後の早い時間に出かけたが、前半はランニングマシーンと筋トレで、後半はプールである。正直に言うと、昨日は気持ちの良い快晴の天気なので、公園をジョギングしようかなど考える。スポーツジムに行くと2時間半の時間を費やすが、ジョギングは1時間で済む、という時間もあるが、どこかmustの気持ちがあって、出かけるのである。が、ランニングでびっしょり汗をかくと、やって良かった、と思い、プールでその汗を流して、同じフロアだが屋外にあるジャグジーに身体に浸していると、天国のような気がして、wantに切り替わる。特に昨日は快晴だったから、温泉宿かリゾートホテルに行ったと同じである。mustがwantになるから、仕事でもスポーツでも続くのだろう。拡大解釈すれば、物事は、苦しさだけはなく楽しさに転嫁する。
墓地の探索
昨日は土曜日だからオンライン会議はない。土日は私的な用事をすることに充てているので、お昼を外食にするとか、スポーツジムに行くとか、買い物に行くなどで、それは楽しみでもある。昨日は、月1回のお墓参りの日で、自宅から車で15分程度だからちょうど良い距離で、お花と線香を持って老夫婦で出かける。昨日は、雲一つない快晴で、花見のような気分である。静岡のお墓を所沢の墓地に移して以来、毎月お参りしている。絶好のお墓参りの日和、など聞いたことはないが、そんな感じで、法事があるせいか、喪服を着た10名くらいの団体が、墓地を歩いている。自分たちのお墓は、数年くらい前だろうか、墓地の開拓がブームになった頃、きれいな花と緑の森に囲まれた墓地が気に入って、初期の頃購入したのだが、今では相当の数になって、他人のお墓を探索するのも、楽しみになっている。最近では戒名も少なくなり、個性的なお墓も多く、故人が好きだったのだろうか、ゴルフボールの墓石が添えてあったり、好きな言葉が刻み込まれたり、共同墓地もあって、それも寂しくなくていいかもしれない、地震に耐えられるような西洋風のお墓、広くて掃除が大変そうなお墓、そして見とれるような美しい墓石もある。お線香の着火も、ガスバーナの設備があるので、どんなに風が吹いても問題なく、きれいに刈られた緑の芝生と色とりどりの花で墓地全体が敷き詰められていて、今や墓地は、公園か安らぎの里のような風情がある。昨日は、午前中は審査をした。締め切りが今日だったことに気が付いて、急いでやっていたのだが、めどがついたので今日中でなんとかなるだろう。仕事と休息、頭を使い、そして休める、運動と息抜き、体を動かし、そして休める、一生懸命に頭や体を使い、時に優しく労わる、これでバランスが取れる、こうして人は生き永らえるのだろう。
プレイヤーとマネージャ
昨日の夕方にオンライン会議があった。小学校の優れた実践報告で、圧倒された。この圧倒という言葉が示す意味は、自分の弱さを披歴してることと同義語なのである。このブログで何度も書いているが、小中学校の優れた実践を目の前にすると、ボクシングで倒されたように、文字通り圧倒されて、起き上がれなくなる。少しオーバだが、そんな印象で、自分が情けなくなる。たぶん、他人が聞くと、何を寝言のようなことを、とか、謙遜しているのか、と言われそうだが、そうではない。木曜日に、大人気の俳句番組がある。夏井先生が、見事に、そして辛辣に手を入れる、その切れ味は、時に絶賛し、時に破門だと言い放ち、時に滅多切りする、その小気味よさが、視聴者を魅了する。その爽快感とでもいうか、それは、夏井先生自身が優れた俳人であり、かつ指導者だからである。つまり、実践者と同時に指導者であり、一致するのである。スポーツでも優れた選手、野球でも相撲でもサッカーでも、卓越した選手、プレイヤーから選ばれて、コーチや監督、マネージャになる、のが普通である。しかし、優れた選手、必ずしも優れた監督にならず、の言葉通り、等しい関係ではない。プレイヤーの奥に潜む技、知識、方法などを見抜き、掘り出し、的確に提示して、相手に伝えなければならない。その技量は、プレイヤーとしての技量とは違う、という指摘が、先の言葉である。つまり、マネージャは、自分や相手の作品、スポーツなら動き、を客観視して、上から見て、メタレベルで認知して、言葉や動きなどで見える化、可視化する技量が問われるのである。時に、こうすればよいとモデルを見せる。俳句は見事にそれをやって見せ、水彩画なども、見事すぎるくらいで、アッと感嘆の声を上げる時もある。プレイヤーとマネージャが、きれいにマッチングした人が、その道の専門家と言ってもよい。自分は、どうか、と振り返ると、大学院生を研究指導するなら、少し自信はあるが、小学校は、刃が立たない、経験がないからである。小学校の先生に、そんなことを言うなら、お前が教壇に立ってやってみろ、と言われれば、すいません、と頭を下げるしかないのである。だから、圧倒される。恥ずかしながら、いつも抱いている奥深い劣等感である。自分の修業は、まだまだ続く。
現実と志の間
昨日の午前はオンライン会議があった、しかも重い会議である。内容は書けないので、別の感想を書こう。一昨日だったか、BS放送のNHKの番組を視聴した。今注目の渋沢栄一の生き方について、識者が語る番組で、大河ドラマとは別である。自分は、小説ですでに読んでいるので、筋書きは分かっているから、それをどう専門家が捉えるかに、興味があった。歴史学者、作家、脳科学者など多彩な顔ぶれで、その語りが視聴者を引き付ける。渋沢は若い頃は、倒幕派で徳川幕府を倒そうと奔走するが、縁あって一ツ橋慶喜の家臣になる、ここで、自分の志との葛藤があったが、その慶喜が、一ツ橋から徳川になって将軍になるが、ここで渋沢がひどく悩む。志と違う、倒そうとした幕府の側に立つ、ことで、自死まで考えたという。何をそこまで悩まなくても、とか、出世していいではないか、と庶民の感覚では思うが、識者の、それは現代人にも通用するという捉え方に、惹かれた。そうかもしれない、自分は長い間教育の仕事をしていて、どうも実践が分かっていない、なんとかしたい、科研費で研究したい、という思いは、本当に自分のしていることは、学校現場に役立っているのか、自己満足にすぎないのではないか、という素朴な疑問なのである。自分のしていることに意味があるのか、という問いは、生き方を規定する。前のブログでも紹介したが、NHKの朝ドラで、戦時中にお笑いの芝居をしていいのか、という思いで、主人公が悩むシーンがあったが、同じだろう。コロナ禍という国民の生命に関わることと、経済が下降して生活苦やDVやうつ病や自殺者が増えている、このジレンマの中で、為政者は、自分のしていることに意味があるのだろうか、と自問しながら苦吟しているようで、テレビ画面で見る菅総理の表情に、どこか哀切が漂う。庶民も、為政者も、管理職も、現実と志の狭間で、この仕事に意味があるのか、と問い続けているのではないだろうか。
ジョギングと優しさ
昨日はオンライン会議の後、疲れてジョギングに行ったが、コースの途中で出会う爽やかな風や、色とりどりの花を愛でて、疲れが一掃される、良い季節になった。生垣の赤い葉を見ると思わず触れてみたくなり、葉桜になった緑の葉もピンクの花に交じって美しく、赤と白の交じったハナミズキの花に心が安らぎ、赤や黄色や白のチューリップは見事な鮮やかさで目を奪い、菜の花は黄色い花を自由奔放に広げている。気に入った句があると、新聞を切り抜く習慣があるが、こんな句があった。幸せの形いろいろチューリップ(落合葉子)、そうだ、花は幸せの象徴なのか、しかし、その姿はいろいろで、歌謡曲のように、人生いろいろな幸せがあるのだろう、今は自分は幸せか、チューリップの花の色では、と自問すると、白か黄色か、などとつぶやいてみる。菜の花が揺れる私は立ち尽くす(福山理花)、も良い。川辺に咲いている菜の花に、走りながら、思わず見とれるようだ。西の方向に向かうジョギングだが、まだ春休みとみえて、公園では子供たちや高校生もいて、サッカーなどに興じている、若い人は大いに運動すると良い、体を動かし、持っているものを外に思う存分出すと良い、自粛やホームステイよりは、よほど良い、などと思いながら、コースを戻ってくる。感染者数の急増で、気持ちがどこか休まらないが、コロナ禍だけに染まることはない、日常の生活を楽しむ処世術を、庶民は持っている。どんな状況にあっても、なんとか生き抜く力と、ニコニコしながら前向きに進む方が、得だ。仕事の疲れも、春の息吹に触れれば、癒してくれるのは、自然の持つ優しさだろう。河合隼雄さんが言ったように、父性の厳しさと、母性の優しさがあって、人は生きていけるのだろう。仕事と休息の両方が、必要だ。
材料を増やす
昨日は、ここ1週間くらい、前にも書いたが、今個人情報漏洩で騒がれているLINE社が設立したLINEみらい財団の仕事で、資料作りに夢中になっている。この歳になっても、夢中という言葉を使えるのが、嬉しい。内容は省略するが、学習指導要領やカリキュラムマネジメントなどの用語が、与えられているので、およその趣旨は分かるだろう。先のブログでも書いたが、どうも学習指導要領などは、自分の信条やdisplinに合わないのだが、仕方がない。理系の大学から教員養成系の大学に移った時、違和感を感じたのは、この 信条やdisplin の問題であった。教育学部では、学習指導要領はまるで聖書か教育勅語のように、どの教員も学生に教える光景を見て、こんなことは大学ですべきではない、と思った。しかし年月が経った。今、自分は仕事上で、受け入れざるを得ない状況になって、ようやく、清濁併せ呑む、心境になった。いいではないか、教育に関わる人間が、学習指導要領を崇め奉らなくてもよいが、真摯に読み、受け入れるのが、当然だろう。それは妥協ではないか、と思うかもしれないが、妥協とは、自分の信条の1部を変える、減らすという行為だが、そうではない。今の資料作りでは、材料なのである。自分の信条はそのままにして、新しい材料が入ってきて、それを跳ね返すのではなく、受け入れる、新しい食材が入ってきたので、料理法を変えて、別味の料理を作る、という感覚になった。そして、その別味が格別で、これまでの自分の資料とは違う新鮮さが出てきて、資料が輝いてきた。 清濁併せ呑む 、という言葉は嫌いだった、何か、狡猾な感じがして、凛として生きる武士のような清潔さが感じられなかったからである。しかし、老いるということは、減らすことではなく、材料を増やすことだ、と気が付いて、夢中になったのである。老いて減らす人は頑固者になり、増やせる人は豊かになる、とは言いすぎだが、自分は増やせる人を目指したい、それで仕事がうまくいく、夢中になれる。
老兵の心境
昨日は月曜日、定例の事務局会議の他に、2つの会議があったので、午後はすべて塞がった。春は三寒四温と言うように、寒い日と暖かい日が交互にやってくるが、昨日は少し寒かった。曇り空でどこか気が湿るような天気だったが、1つの会議は、所属団体にとって、ここ大一番の会議だったので、気持ちは高揚していた。会議の内容は書けないが、審査を受ける側である。自分の年齢だと審査をする側が多いが、受ける側になると立場が逆転する、自分の出番は始めの挨拶程度だが、それでも時刻前に何度も練習した。まるで子供が学芸会で演技をするようで、どこか緊張するのか、練習でも何度もつっかえた。自分でもおかしかったが、本番では、あっけないほど、すぐに終わった。挨拶だけだから、当たり前である。いくつになっても、人の気持ちはこのようなもので、緊張するぐらいが、ちょうど良いかもしれない。結果は、まだ分からないが、終わってみれば、どちらでも良いと思うから、人の心の動きは、女心と秋の空と同じで、移り気のようだ。夕方のオンライン会議というか研究会は、長年にわたって続いているが、自分にとっては、最後の研究会という気持ちだった。弟子と呼ぶ方が言いやすいが、もう世間では名前の知れた研究者であり、准教授であり教授になっているから、研究面では、自分は彼らから学ぶ立場になっている、のが本音である。老いては子に従え、の言葉通り、老いては弟子や教え子に学べ、であろう。こうして、昨日も1日が過ぎた。はらはらドキドキしながらの会議を終え、そして、そろそろ羽を降ろす時期か、親鳥が子が飛び立つのを見るように、と安らぐ気持ちになって、1日が暮れた。審査を受けた会議での、担当者の発表と質疑応答は、臨機応変にして、ここ大一番に相応しい、丁々発止のやりとりで、さすが表舞台で役者になっている、と思わせた。老兵は、挨拶で十分である。担当者でも弟子でも、成長していく姿は美しく、それを眺めることも、楽しい。
教育の基準とは
昨日は日曜日、と言っても、コロナ禍にあっては、普段と変わらない。朝刊を見たら、脳科学者が、健康には運動と好奇心が欠かせない、と書いてあったが、その通りと誰でも分かる。とすると、学者は何の仕事をしているのか、常識で分かることを、時間をかけて証明しているのか、と思うこともあるが、特にそれは教育の世界で感じる。中教審や学習指導要領で述べていることは、ほとんど常識で分かることではないか、主体的対話的で深い学び、など教員を経験したものなら、直感的に分かるし、中でも深く学んでほしい、と思うから教材の工夫をしているのだ、と言ったら、たぶん教育学者に叱られるだろう。脳科学の場合は、運動をすると脳から、アドレナリンやドーパミンなどが分泌されて、前向きの考えにするからだ、と科学的な証拠があるので、なるほど、やはり専門家だと納得するので、常識的な忠告であっても有難いが、教育の場合はどうだろう。あまり科学的な根拠に基づいて、記載しているわけではなく、議論の末にまとめたものに過ぎない、どうせ10年経ったら変わるのだろう、と考えると、国の定めた基準をなんと軽く考えているのだ、と叱られるだろう。これは、難しい。幼児の育て方、子供のしつけ、若者の教育など、江戸の時代からやっている、何も科学的な根拠がなくても、それぞれの藩や家庭で独自に行ってきた、むしろ戦争時の軍事教育の方が誤っていた、ということは、国の定めた基準を鵜呑みにしたり、信奉したりするほうが、危険かもしれない、と書くと、危険思想の持ち主だと思われるだろう。自分は決して、学習指導用要領などの国の基準に反論をしているのではないが、科学とは基本的にすべての基準や制約から離れて考えることなので、自由に考える習性がついている。ただ、教育を科学で考えることが難しいとすれば、後は実践しかない、つまり経験則である。これは強力な根拠になるが、それだけでいいのか、と不安になる。教育は、科学なのか経験なのか、それとも国が英知を集めて議論して定めるもので、教員はそれに準じることなのか、うーん、難しい。
