仕事と休息

昨日は土曜日で、さすがにオンライン会議はないが、自分のやりたいことはある、よりも、週末までに締め切りの原稿があるので、午前はそこに集中した。さらに、来週早々までに校正があって、土日はスポーツジムに行くので、などと考えていたら、平日と変わらない。在宅勤務とは、区別がつかない生活でもあるので、自分できちんと生活のリズムを意識する必要がある。大学に在籍していた時代は、仕事中心だから、その他のことは脇に置いておく、意識があった。誰でもそうだろう。歳をとってくると、その意識が変わる。バランスなのである。仕事だけではなく、体の健康、心の健康、家庭、地域など、すべてに関わってくる、ようやく町内会の役員が、1年間だが、3月末で終わったが、これも地域との付き合いである。そして、適度の仕事があり、適度の原稿書きや出版や講演などがあり、適度のスポーツをし、適度の、など数えたら、何を下らぬことを、と思うかもしれない。若い頃は一瞥さえしなかったのは、プチブル(小市民)として、少し軽蔑した感覚を持っていたからだろう。スポーツジムから帰って、お風呂に入り、夕方に自宅の小さな庭に出ると、西空に茜色と青色の交じった雲が見える。今、自分は、最高の豊かな気持ちの中にいるのではないだろうか。ふと昔読んだ伝記を思い出した。石光真清という軍人なのだが、明治から大正にかけてシベリアや満州で、諜報活動に従事した人で、この人の書いた自伝が面白い。スパイ活動なのだから、まるで小説かドラマのような話だが、彼はある期間、3等郵便局長になる。血沸き肉躍るような危険なスパイ活動に比べれば、平穏で静かな仕事だが、彼は、夕空を見ながら、こんな穏やかな日が過ごせるのは幸せだと、記していた、と記憶しているのだが、本を読んだ印象は、そのようなものだった。人の感じ方は、夢中になっている時と穏やかな時と両方あるが、その両方が大切で、物事は、一方だけの論理や感情だけでは片付かないのではないか、と思う。夕空はきれいだ、と思うだけで、すべての疲れや小さな不幸も、飛んでいってしまう。

新しいこと

昨日は4月もまだ2日だから、例年だと暇になるはずだが、3つのオンライン会議があって、忙しかった。その内2つが重い会議である。仕事のことはブログでは書けないので、内容には触れないが、これから始める仕事は緊張と不安と楽しみが伴う。先が見えないし、どうなるか予測できない。新聞で連載しているファミレスの創業者の記事では、その事業の売り上げや店舗数は急カーブを描いて伸びていくが、徐々に業績が悪化していき、また投資をしたり銀行から借り入れたりしながら、持ち直して上昇していくが、また急落して、経営者の座を降りる、など、文字通り波乱万丈で、しかも金額が想像を超えているので、経営することの厳しさを、素人ながら感じて読んでいる。驚くのは、頂点を極めた人が、その座を降りても、新規事業を起こして、まだまだ引退はしないと、意気軒高なことである。人は、どこまで仕事に情熱を燃やすことができるのか、不思議な思いがする。外から見ると、もうそんな大借金までしなくていいではないか、老後を食べていければ十分ではないか、温泉でも入る生活にあこがれないのか、と思うが、経営者とはそういうものなのか、それは個人によるものなのか、分からない。しかし、先の重い会議での新事業では、いくつかのハードルがあって、それを乗り切らないと、これまでの努力も泡になるような印象があるので、先の経営者の事業と、規模は違っても、気持ち的には同じようだ。楽しみや意欲と緊張と不安は、裏腹の関係にあって、それが人を引き付けるのかもしれない。4月早々から、どこか武者震いしている自分に気付く。いいではないか、もし失敗しても大したことではないだろう、の気持ちと、緊張しながら慎重に、そして準備を怠らず事を進めていこう、という気持ちが入り混じっている。人は、どんな小さなことでも、新しいことは、緊張や不安とやる気と喜びを感じる。先のブログで書いたように、生きていることは、新しいことの連続だから、落ちこむことだけではなく、また楽しいことだけでもない、その両方の狭間を行き来しているようだ。

旧年度と新年度

昨日は、4月の初日で、もう新年度に入ったのは、なんとも早い。一昨日に、部屋の書類の片づけをして、昨日のゴミ収集に出した。毎年の書斎の大掃除は、3月末から4月初めである。年度の締めで掃除する方が、書類系はやりやすい、というか、12月は報告書作成のど真ん中だから処理できない。多くの人も、そうだろう。一度に書類や雑誌などを処分するのは疲れるので、少しずつ分けて行っているが、ゴミ処理も、燃えるごみと雑誌や本系では日にちが違うので、それに合わせている。昔は処理する時、少し眺めて、こんなことがあったか、よく働いたなど、少し感慨に浸ることもあったが、そんなことをしていると時間がなくなる。過ぎたことは、追わなくてよいと思いながら、あれほど丁寧に一字一句をチェックして、終わればゴミ箱か、と思うと、人の仕事は何だろうか、と疑問が起きる。昨日のお昼にNHK朝ドラを見たら、戦時中で国民すべてが戦っている最中に、お笑い劇場を続けていいのだろうか、と自問して、解散するシーンだった。どの仕事も、それが役立っている、社会で受け入れられている、と思えばこそ続けられるが、そうでなければ、仕事自身を止めるしかないのだ。自分の仕事も同じで、少し誇張して言えば、使命感があるから、それが子供の成長に役立つから、やがて日本の将来を支えてくれるから、という思いに支えられている。例え、1ヵ月ですぐにごみ箱に捨てられても、決して間違えのないように、誤字脱字がないように、論旨がおかしくならないように、丁寧に書類を作るのは、その思いがあるからだ。まして出版になると、多くの時間と労力をかけるが、それでも、年度末には、ゴミ箱に送られる運命になることもある。すべての仕事は同じだろう。朝ドラも一回見れば終わり、前回の朝ドラの俳優も、視聴者は興味を無くしている。ゴミ箱に捨てられることと同じかもしれない。歌手は2分間に全力を傾けるが、すぐに忘れられる。この世の中は、次々に新しく生まれ変わっているのだ。昨日は、早速、新年度のオンライン打ち合わせがあった。もう、新年度がスタートしている。

買い物と大学

昨日は3月の最後の日、会議は何もなかった。手帳には、午後は、買い物、ジョギング、整体院などと記されている、つまり私用である。こんな気軽な日があってよい。久しぶりに買い物に行った、といっても、自分は、庭のレンガ、下履きスリッパ、の類で、家内は、花や野菜の種を買ったが、園芸や生活用品の大型店が便利で、車で出かけるのが楽しみである。生活がアメリカ並みになったようで、30年前カリフォルニア大学に滞在した時、家内とヤオハンの店に行くのが、休日の楽しみだった。そこに行けば、日本の食材があって、少し高くても、日本の香りがあって、心が癒された。あんな生活をもう一度したい、と思うこともある。アメリカはどこに行くのも車で、1台しかないから、いつも家内と一緒だった。大学の自分の研究室にも、家内の机を用意してもらったが、学生、というか、大学院生も研究室に来るので、家内も仲良くなったし、教職員とも交流をした。夫婦で学生をしている大学院生がいて、生涯学習の意味を知った。奥さんは医学部、主人はコンピュータサイエンス学部だったが、こんな例は珍しくない。アメリカの大学の授業料は高い、だから就職して貯金をして、そのお金で再び大学に入るパターンも普通なので、授業も熱心で質問もするし、ゼミも凄い迫力で議論する。学生に依頼されて開講したゼミの英語についていけなくて、落ちこんだこともあったが、楽しかった。学生は、就職して、自分のやりたいことを見つける、というか、経験を積んで、始めて自分が見えてくる、だから、猛烈に勉強したくなるので、怠けるという言葉は、存在しないと言ってよい。生涯学習の時代なのだ。帰宅して、お風呂上りと夕食までの間、雑談したが、もし何も仕事の依頼がなくなったら、自分も大学に入学したいと言ったら、家内も賛成してくれた。実は、自分の知人も同じことを考えているが、多くの人の本音は、大学にもう一度行きたい、学びたい、勉強したい、と思っているのではないだろうか。授業料を支払う貯金さえあれば、たぶん人生の最後においても、自分を花咲かせることができる。

3月最後の役員会

昨日は、ある団体のオンライン理事会があった。さすがに、3月30日ともなると理事会や評議員会は終わりになる、文字通り今期最後の理事会だった。先般見た俳句のテレビ番組で、夏井先生が添削した句を思い出した、確か、志村けん 最初の最初の「最初はグー」、だった。志村けんは、このフレーズを作って全国に流行らせた人であり、その1周忌がやってくる。この句をもじって、3月期 最後の最後の 役員会、とでも言いたい会議だった。駄作で意味がない句だが、30日の役員会は珍しい。そして、珍しく意見が割れて、時間が超えた。理事会だから、シャンシャンで終わりでもよいが、もちろん意見を出し合うこともよくある。自分は、委員であるが、それほど熱心に関わっていないので傍観者的だが、強く関わっている人は思い入れがあるようで、口角泡を飛ばす、の言葉通りの論調であった。このような役員会での発言は難しい。自分は、だいたい発言することが多いが、予定時間をはるかに超えていたので、遠慮した。アメリカの大学では黙っていることは無能とみなされるので、発言する学生も多いが、それは内容の質とは関係ない。意味のない内容を長く話す人は、アメリカでも日本でも敬遠される。日本でも大学のゼミなどは、欧米の影響を受けた教授が多いせいか、学生も遠慮せずに、すぐに質問し意見を言い、きわめて活発である。昨日の理事会は、賛否の意見が飛び交う会だったので、それでいいのだが、どこか違和感がある。それは、研究や授業における意見交換ではなく、何かを決めるとか実施するという、事務処理的な内容だからかもしれない。そこでは、忖度のような気持が働いて、お互いが認め合う阿吽の呼吸で、収まることが多い。長い間、この日本流の会議の持ち方に疑問をもっていたが、歳をとってから、特に最近では、そのような在り方も必要かもしれない、大人の知恵かもしれないと、思うようになった。

探し物

昨日は月曜日で週の始めだから、午後に定例の事務局会議があったが、午前中は自分の仕事ができる。自分の仕事とは、昨日のブログでも書いたが、今取り掛かっている資料作成である。この仕事と午後の仕事は、使う脳の部位が違うので、切り替えなければならない。教育に関する研究や実践をする時、小学校が最も重視され、中学高校になるにつれて、その重要度が下がっていくのは、総合から教科へ移行するからである。教科とはその背景に親学問があり、学問は各分野に分化され、専門性があり、それは大学や大学院での研究につながる。つまり教科の専門は大学と変わらない、ということは、教科教育の専門性は相対的に低くなる。小学校は教科ではなく、教科横断、教科を統合した内容、つまり総合なので、教育の専門性がそこにある。それは、教科であるが、それをどのように子供が認知するかという、教科と認知の相互作用と言ってもよい。さらに言えば、そこに教師や教材やメディアが関わるので、複雑なシステムになり、背景とする学問を挙げれば、教科の親学問、子供の認知としての認知心理学、教材やメディアに関わる工学や情報技術などがあり、その総合的な内容なので、そこに専門性が出てくる。それは、小学校において最も顕著に表出されるので、教育では主に小学校での比重が大きい。昨日、資料作りをしながら、自分は小学校の実践が見えないことが、長年の引け目になっていて、なんとか乗り切りたいと自問自答して苦しんでいる。たぶん、他人には見えないだろうが、それで、悶々としながら、なにかヒントになる考えや資料はないか、と考えていたら、このような自分に模範解答のような資料が、かつて送られてきたことを思い出した。それで書棚を探して、見つけた。もちろん、その資料で解決するわけではないが、何故こんなことに気が付かないのだろうか、それは、結局、自分が見えないからではないか、と思った。自分の姿は、決して見ることができないと同じように、自分の探しているもの、知りたいこと、探求したいこと、が分かっているようで、分かっていない、自分のことは、見えていない、見えることは難しいのだ、と改めて気が付いた。人は、脳が目をオブラートで包んでいるようで、ほとんどは思っていることは見えていないのではないか。

変わること

昨日は日曜だったが、平日と同じで午前は自分の仕事をし、午後はオンライン研究会に参加し、その後スポーツジムに行った。午前の仕事は、LINE社が設立したみらい財団の仕事、といっても、免許更新講習会のことであるが、今週中に目次と資料を準備して、4月5日の週に打ち合わせをする予定になっている。資料といっても、過去の資料はある、が、変えたい。世の中は日々変化している、教育も例外ではない。昨日のブログで書いたように、今日の自分は、昨日の自分ではない。現実に、昨日の午後のオンライン研究会に参加して、資料の構成を変えようか、と思った、ということは、ずっと同じなどということはなく、依頼が来るたびに、少しでもいいので、その場やその時に合った、最善の資料を作る必要がある。長年の経験で、そのほうが効果的であり、研修会や講演もうまくいくからである。同じ資料で、同じ内容で、同じ口調で話しても、視聴者の反応が全く異なる経験を何度もしているが、それは、自分が変わっている、聴衆者が変わっている、時と場所が変わっていることを、忘れているからだろう。だから、自分の仕事の信条は、新しく創る、ということである。時間の関係でできないこともあるが、もういちど眺めるだけで、別の視点に気付く。人の感じ方までも、変わってくる。昨日は日曜なので、スポーツジムに行って、マシーントレーニングと、プールで泳いだ。プールは2階にあり、そのまま屋外につながり、そこにジャグジーバスがあって、露天風呂のような気分になる。無情にも強風で、2階近くまで枝が伸びた満開の桜の花びらが、自分の身にも湯舟にも降りかかってくる。その風情は、極上の贅沢としか形容できないほど、素晴らしいものであった。昨日の自分の心情は、そんな風情を楽しめる余裕があったのだろう。できれば、感情だけは、浮き沈みの少ない、豊かで楽しく優しく、変わらないままで過ごしたい。

仕事と遊び

昨日は、午前中に資料作りがあって、なんとか形ができたレベルだが、それでも嬉しい。ここ数週間、そんな仕事をしている。はじめは、何かアイデア、コアのような形があって、それを元に粘土のような柔らかい素材で原形を作り、それに手を入れて外形にし、ヘラのような道具で整える、ようなイメージだが、昨日はまだ原形ができたような段階だ。まだ外形になっていない、というか、原形がいびつで、どうもしっくりしていない。昨日の自分と今日の自分は違うので、感じ方が変わってくる。そして、相手を意識して、相手によって、外形を変える必要もある。例えば、仕事の説明資料、講演の資料、セミナーの資料、出版や依頼原稿など、いろいろあるが、そのような仕事が自分は気に入っている。何か外から依頼があるごとに、資料を準備するが、その仕事が楽しく好きである。先に書いたように、子供が粘土細工をして、好きな形を作っているようなもので、どこか遊びに似ている。このように書くと、仕事は遊びではない、と言われそうだが、あまり区別はないだろう。昔、海外大学の教員が、研究室に滞在していたとき、研究と趣味の区別はない、と言ったら、ずいぶん気に入ったらしいが、研究者は、ほとんど同じ気持ちを持っているだろう。小さい時からの遊びや趣味を、そのまま大人になっても続けている人が研究者とも言えるから、あまり威張っていえる仕事ではない。研究しているのではなく、暇を見つけて、研究させてもらっている、と同僚と話したことを思い出す。午後はオンラインがあって勉強する予定だったが、時間調整が難しく、土曜なのでスポーツジムに行った。3月は土日が仕事で塞がって忙しいのだが、運動も大切なので、久しぶりのスポーツジムで、プールにも入って泳ぎの感覚を取り戻した。これも、健康維持とは言いながら、遊びか趣味と言ってもおかしくない。ということは、この世の中の仕事は、ほとんど遊びで満ちている、と言うと、たぶん多くの大人からお叱りを受けるだろうが、お許しいただきたい。

研究発表会で学ぶ

昨日は、午前にオンライン打ち合わせ、午後は1時から5時までオンライン研究発表会があった。午前は、LINEみらい財団というと、あまり知られていないと思うが、まだ2年も経っていない団体だが、その関係の仕事の打ち合わせだが、面白い。いくつになっても、年齢に関係なく、新しいことは、どこか心が弾む、ということは、仕事や研究、いや、すべての活動は、新しいことに意味があるのではないか。新しいこと、それは研究の代名詞のようなもので、誰かがやったもの、既に分かっていることは、対象外で、常に新しいものに挑戦するので、面白いのだろう。昨日の午後は、教育テスト研究センター、英文の略称CRETであるが、その研究発表会があった。心理学と教育工学の分野であるが、それぞれが興味深く面白い。歳をとって、つまりベテランになってくると、およそ、題名で内容を予想して、発表を聞かない前に、こうだろう、などと判断する。しかし実際に聞くと、その予想と違うことがよくある。予断は油断である、と聞いたのは、オイルショックの頃だった、油が断つとは、前もって判断できなかったからである。研究発表でも同じで、最近はコロナ禍でオンラインなので、時間の調整がしやすく、研究や講演を聴くことが多くなったせいか、予断の怖さを感じている。歳をとればとるほど、なるほど、と教えてもらうことが多い。昨日は、心理学の先生方が、人はすべて同じはない、違うのだ、ということを、いろいろな面から、実験計画に基づいて、つまり根拠に基づいて結論を導いたので、強い説得力があって、なるほどと納得した。ほとんどの研究は、およその結果は予想できることが多いのだが、その結果が予想通りでも、そうでなくてもよいが、いかに納得できるかである。やっぱり、そうなんだ、なるほど、そうだな、と思うことが、生活や仕事や生きる上で価値が高い。それは、予断が油断でなくなるからで、なんだ、こんなことか、と思うのと、確かにそうだ、その通りだ、と納得することには、大きな差がある。人は、仕事や生活の中で、そうだ、大丈夫だと、自問しながら納得を求めているからである。

3月末の会議

昨日は、自分の所属団体の仕事の打ち合わせと委員会が、オンラインであった。連日、土日もなく3月はこのような会議が続き、4月に入ると、団体の仕事は暇になる。学校や企業とは違う面があるが、もちろん、4月から人事異動があって、少し新しさを感じるのだが、学校とは違う。学校は、生徒や学生がガラッと入れ替わるので、新年度であり、入学式や始業式があるので、気持ちの上でも切り替わる。今年は桜が3月中に満開になりそうなので、入学式の時は、たぶん葉桜になっているだろう。近所の小川に、桜の枝が覆いかぶさるようにして、ピンクの花びらを開いているが、この季節は、桜の幹や枝が黒く見える。黒と桜色は、コントラストがクッキリとしていて、日本人好みの配色かもしれない。それは、どこか時代劇に出てくる光景を思い出す。我が家では、先般光回線にBSテレビを視聴できるようにしたので、録画をして楽しんでいるが、老夫婦の好みは、最近では、蝉しぐれ、である。藤沢周平の小説は、大ファンで、何度も読んで、その都度、何か武士になったような気がして、というと、どこか子供っぽい。つまり、引き込まれてしまうのである。その映像もよく、脳に残像がある。蝉しぐれ、は夏の季節なので桜は出てこないが、弘前城あたりの桜は、時代劇にぴったりであろう。よく言われるように、梅は寒さに耐えて凛として咲き、桜は華やかに咲いて未練もなくサッと散る様が、武士を思わせるのだろうが、3月末から4月に移る様は、梅と桜の咲き方と散り方が、よく似合っている。昨日の会議は、3月までは、梅のように凛として頑張って、その成果が桜のように花開き、4月からは、新たな気持ちを持って、人事も動き、新芽の若葉で、新規事業を計画するという、どこか心弾むような議論ができた。自分としては、良い会議だった。