昨日は土曜日だからオンライン会議はない。土日は私的な用事をすることに充てているので、お昼を外食にするとか、スポーツジムに行くとか、買い物に行くなどで、それは楽しみでもある。昨日は、月1回のお墓参りの日で、自宅から車で15分程度だからちょうど良い距離で、お花と線香を持って老夫婦で出かける。昨日は、雲一つない快晴で、花見のような気分である。静岡のお墓を所沢の墓地に移して以来、毎月お参りしている。絶好のお墓参りの日和、など聞いたことはないが、そんな感じで、法事があるせいか、喪服を着た10名くらいの団体が、墓地を歩いている。自分たちのお墓は、数年くらい前だろうか、墓地の開拓がブームになった頃、きれいな花と緑の森に囲まれた墓地が気に入って、初期の頃購入したのだが、今では相当の数になって、他人のお墓を探索するのも、楽しみになっている。最近では戒名も少なくなり、個性的なお墓も多く、故人が好きだったのだろうか、ゴルフボールの墓石が添えてあったり、好きな言葉が刻み込まれたり、共同墓地もあって、それも寂しくなくていいかもしれない、地震に耐えられるような西洋風のお墓、広くて掃除が大変そうなお墓、そして見とれるような美しい墓石もある。お線香の着火も、ガスバーナの設備があるので、どんなに風が吹いても問題なく、きれいに刈られた緑の芝生と色とりどりの花で墓地全体が敷き詰められていて、今や墓地は、公園か安らぎの里のような風情がある。昨日は、午前中は審査をした。締め切りが今日だったことに気が付いて、急いでやっていたのだが、めどがついたので今日中でなんとかなるだろう。仕事と休息、頭を使い、そして休める、運動と息抜き、体を動かし、そして休める、一生懸命に頭や体を使い、時に優しく労わる、これでバランスが取れる、こうして人は生き永らえるのだろう。
プレイヤーとマネージャ
昨日の夕方にオンライン会議があった。小学校の優れた実践報告で、圧倒された。この圧倒という言葉が示す意味は、自分の弱さを披歴してることと同義語なのである。このブログで何度も書いているが、小中学校の優れた実践を目の前にすると、ボクシングで倒されたように、文字通り圧倒されて、起き上がれなくなる。少しオーバだが、そんな印象で、自分が情けなくなる。たぶん、他人が聞くと、何を寝言のようなことを、とか、謙遜しているのか、と言われそうだが、そうではない。木曜日に、大人気の俳句番組がある。夏井先生が、見事に、そして辛辣に手を入れる、その切れ味は、時に絶賛し、時に破門だと言い放ち、時に滅多切りする、その小気味よさが、視聴者を魅了する。その爽快感とでもいうか、それは、夏井先生自身が優れた俳人であり、かつ指導者だからである。つまり、実践者と同時に指導者であり、一致するのである。スポーツでも優れた選手、野球でも相撲でもサッカーでも、卓越した選手、プレイヤーから選ばれて、コーチや監督、マネージャになる、のが普通である。しかし、優れた選手、必ずしも優れた監督にならず、の言葉通り、等しい関係ではない。プレイヤーの奥に潜む技、知識、方法などを見抜き、掘り出し、的確に提示して、相手に伝えなければならない。その技量は、プレイヤーとしての技量とは違う、という指摘が、先の言葉である。つまり、マネージャは、自分や相手の作品、スポーツなら動き、を客観視して、上から見て、メタレベルで認知して、言葉や動きなどで見える化、可視化する技量が問われるのである。時に、こうすればよいとモデルを見せる。俳句は見事にそれをやって見せ、水彩画なども、見事すぎるくらいで、アッと感嘆の声を上げる時もある。プレイヤーとマネージャが、きれいにマッチングした人が、その道の専門家と言ってもよい。自分は、どうか、と振り返ると、大学院生を研究指導するなら、少し自信はあるが、小学校は、刃が立たない、経験がないからである。小学校の先生に、そんなことを言うなら、お前が教壇に立ってやってみろ、と言われれば、すいません、と頭を下げるしかないのである。だから、圧倒される。恥ずかしながら、いつも抱いている奥深い劣等感である。自分の修業は、まだまだ続く。
現実と志の間
昨日の午前はオンライン会議があった、しかも重い会議である。内容は書けないので、別の感想を書こう。一昨日だったか、BS放送のNHKの番組を視聴した。今注目の渋沢栄一の生き方について、識者が語る番組で、大河ドラマとは別である。自分は、小説ですでに読んでいるので、筋書きは分かっているから、それをどう専門家が捉えるかに、興味があった。歴史学者、作家、脳科学者など多彩な顔ぶれで、その語りが視聴者を引き付ける。渋沢は若い頃は、倒幕派で徳川幕府を倒そうと奔走するが、縁あって一ツ橋慶喜の家臣になる、ここで、自分の志との葛藤があったが、その慶喜が、一ツ橋から徳川になって将軍になるが、ここで渋沢がひどく悩む。志と違う、倒そうとした幕府の側に立つ、ことで、自死まで考えたという。何をそこまで悩まなくても、とか、出世していいではないか、と庶民の感覚では思うが、識者の、それは現代人にも通用するという捉え方に、惹かれた。そうかもしれない、自分は長い間教育の仕事をしていて、どうも実践が分かっていない、なんとかしたい、科研費で研究したい、という思いは、本当に自分のしていることは、学校現場に役立っているのか、自己満足にすぎないのではないか、という素朴な疑問なのである。自分のしていることに意味があるのか、という問いは、生き方を規定する。前のブログでも紹介したが、NHKの朝ドラで、戦時中にお笑いの芝居をしていいのか、という思いで、主人公が悩むシーンがあったが、同じだろう。コロナ禍という国民の生命に関わることと、経済が下降して生活苦やDVやうつ病や自殺者が増えている、このジレンマの中で、為政者は、自分のしていることに意味があるのだろうか、と自問しながら苦吟しているようで、テレビ画面で見る菅総理の表情に、どこか哀切が漂う。庶民も、為政者も、管理職も、現実と志の狭間で、この仕事に意味があるのか、と問い続けているのではないだろうか。
ジョギングと優しさ
昨日はオンライン会議の後、疲れてジョギングに行ったが、コースの途中で出会う爽やかな風や、色とりどりの花を愛でて、疲れが一掃される、良い季節になった。生垣の赤い葉を見ると思わず触れてみたくなり、葉桜になった緑の葉もピンクの花に交じって美しく、赤と白の交じったハナミズキの花に心が安らぎ、赤や黄色や白のチューリップは見事な鮮やかさで目を奪い、菜の花は黄色い花を自由奔放に広げている。気に入った句があると、新聞を切り抜く習慣があるが、こんな句があった。幸せの形いろいろチューリップ(落合葉子)、そうだ、花は幸せの象徴なのか、しかし、その姿はいろいろで、歌謡曲のように、人生いろいろな幸せがあるのだろう、今は自分は幸せか、チューリップの花の色では、と自問すると、白か黄色か、などとつぶやいてみる。菜の花が揺れる私は立ち尽くす(福山理花)、も良い。川辺に咲いている菜の花に、走りながら、思わず見とれるようだ。西の方向に向かうジョギングだが、まだ春休みとみえて、公園では子供たちや高校生もいて、サッカーなどに興じている、若い人は大いに運動すると良い、体を動かし、持っているものを外に思う存分出すと良い、自粛やホームステイよりは、よほど良い、などと思いながら、コースを戻ってくる。感染者数の急増で、気持ちがどこか休まらないが、コロナ禍だけに染まることはない、日常の生活を楽しむ処世術を、庶民は持っている。どんな状況にあっても、なんとか生き抜く力と、ニコニコしながら前向きに進む方が、得だ。仕事の疲れも、春の息吹に触れれば、癒してくれるのは、自然の持つ優しさだろう。河合隼雄さんが言ったように、父性の厳しさと、母性の優しさがあって、人は生きていけるのだろう。仕事と休息の両方が、必要だ。
材料を増やす
昨日は、ここ1週間くらい、前にも書いたが、今個人情報漏洩で騒がれているLINE社が設立したLINEみらい財団の仕事で、資料作りに夢中になっている。この歳になっても、夢中という言葉を使えるのが、嬉しい。内容は省略するが、学習指導要領やカリキュラムマネジメントなどの用語が、与えられているので、およその趣旨は分かるだろう。先のブログでも書いたが、どうも学習指導要領などは、自分の信条やdisplinに合わないのだが、仕方がない。理系の大学から教員養成系の大学に移った時、違和感を感じたのは、この 信条やdisplin の問題であった。教育学部では、学習指導要領はまるで聖書か教育勅語のように、どの教員も学生に教える光景を見て、こんなことは大学ですべきではない、と思った。しかし年月が経った。今、自分は仕事上で、受け入れざるを得ない状況になって、ようやく、清濁併せ呑む、心境になった。いいではないか、教育に関わる人間が、学習指導要領を崇め奉らなくてもよいが、真摯に読み、受け入れるのが、当然だろう。それは妥協ではないか、と思うかもしれないが、妥協とは、自分の信条の1部を変える、減らすという行為だが、そうではない。今の資料作りでは、材料なのである。自分の信条はそのままにして、新しい材料が入ってきて、それを跳ね返すのではなく、受け入れる、新しい食材が入ってきたので、料理法を変えて、別味の料理を作る、という感覚になった。そして、その別味が格別で、これまでの自分の資料とは違う新鮮さが出てきて、資料が輝いてきた。 清濁併せ呑む 、という言葉は嫌いだった、何か、狡猾な感じがして、凛として生きる武士のような清潔さが感じられなかったからである。しかし、老いるということは、減らすことではなく、材料を増やすことだ、と気が付いて、夢中になったのである。老いて減らす人は頑固者になり、増やせる人は豊かになる、とは言いすぎだが、自分は増やせる人を目指したい、それで仕事がうまくいく、夢中になれる。
老兵の心境
昨日は月曜日、定例の事務局会議の他に、2つの会議があったので、午後はすべて塞がった。春は三寒四温と言うように、寒い日と暖かい日が交互にやってくるが、昨日は少し寒かった。曇り空でどこか気が湿るような天気だったが、1つの会議は、所属団体にとって、ここ大一番の会議だったので、気持ちは高揚していた。会議の内容は書けないが、審査を受ける側である。自分の年齢だと審査をする側が多いが、受ける側になると立場が逆転する、自分の出番は始めの挨拶程度だが、それでも時刻前に何度も練習した。まるで子供が学芸会で演技をするようで、どこか緊張するのか、練習でも何度もつっかえた。自分でもおかしかったが、本番では、あっけないほど、すぐに終わった。挨拶だけだから、当たり前である。いくつになっても、人の気持ちはこのようなもので、緊張するぐらいが、ちょうど良いかもしれない。結果は、まだ分からないが、終わってみれば、どちらでも良いと思うから、人の心の動きは、女心と秋の空と同じで、移り気のようだ。夕方のオンライン会議というか研究会は、長年にわたって続いているが、自分にとっては、最後の研究会という気持ちだった。弟子と呼ぶ方が言いやすいが、もう世間では名前の知れた研究者であり、准教授であり教授になっているから、研究面では、自分は彼らから学ぶ立場になっている、のが本音である。老いては子に従え、の言葉通り、老いては弟子や教え子に学べ、であろう。こうして、昨日も1日が過ぎた。はらはらドキドキしながらの会議を終え、そして、そろそろ羽を降ろす時期か、親鳥が子が飛び立つのを見るように、と安らぐ気持ちになって、1日が暮れた。審査を受けた会議での、担当者の発表と質疑応答は、臨機応変にして、ここ大一番に相応しい、丁々発止のやりとりで、さすが表舞台で役者になっている、と思わせた。老兵は、挨拶で十分である。担当者でも弟子でも、成長していく姿は美しく、それを眺めることも、楽しい。
教育の基準とは
昨日は日曜日、と言っても、コロナ禍にあっては、普段と変わらない。朝刊を見たら、脳科学者が、健康には運動と好奇心が欠かせない、と書いてあったが、その通りと誰でも分かる。とすると、学者は何の仕事をしているのか、常識で分かることを、時間をかけて証明しているのか、と思うこともあるが、特にそれは教育の世界で感じる。中教審や学習指導要領で述べていることは、ほとんど常識で分かることではないか、主体的対話的で深い学び、など教員を経験したものなら、直感的に分かるし、中でも深く学んでほしい、と思うから教材の工夫をしているのだ、と言ったら、たぶん教育学者に叱られるだろう。脳科学の場合は、運動をすると脳から、アドレナリンやドーパミンなどが分泌されて、前向きの考えにするからだ、と科学的な証拠があるので、なるほど、やはり専門家だと納得するので、常識的な忠告であっても有難いが、教育の場合はどうだろう。あまり科学的な根拠に基づいて、記載しているわけではなく、議論の末にまとめたものに過ぎない、どうせ10年経ったら変わるのだろう、と考えると、国の定めた基準をなんと軽く考えているのだ、と叱られるだろう。これは、難しい。幼児の育て方、子供のしつけ、若者の教育など、江戸の時代からやっている、何も科学的な根拠がなくても、それぞれの藩や家庭で独自に行ってきた、むしろ戦争時の軍事教育の方が誤っていた、ということは、国の定めた基準を鵜呑みにしたり、信奉したりするほうが、危険かもしれない、と書くと、危険思想の持ち主だと思われるだろう。自分は決して、学習指導用要領などの国の基準に反論をしているのではないが、科学とは基本的にすべての基準や制約から離れて考えることなので、自由に考える習性がついている。ただ、教育を科学で考えることが難しいとすれば、後は実践しかない、つまり経験則である。これは強力な根拠になるが、それだけでいいのか、と不安になる。教育は、科学なのか経験なのか、それとも国が英知を集めて議論して定めるもので、教員はそれに準じることなのか、うーん、難しい。
仕事と休息
昨日は土曜日で、さすがにオンライン会議はないが、自分のやりたいことはある、よりも、週末までに締め切りの原稿があるので、午前はそこに集中した。さらに、来週早々までに校正があって、土日はスポーツジムに行くので、などと考えていたら、平日と変わらない。在宅勤務とは、区別がつかない生活でもあるので、自分できちんと生活のリズムを意識する必要がある。大学に在籍していた時代は、仕事中心だから、その他のことは脇に置いておく、意識があった。誰でもそうだろう。歳をとってくると、その意識が変わる。バランスなのである。仕事だけではなく、体の健康、心の健康、家庭、地域など、すべてに関わってくる、ようやく町内会の役員が、1年間だが、3月末で終わったが、これも地域との付き合いである。そして、適度の仕事があり、適度の原稿書きや出版や講演などがあり、適度のスポーツをし、適度の、など数えたら、何を下らぬことを、と思うかもしれない。若い頃は一瞥さえしなかったのは、プチブル(小市民)として、少し軽蔑した感覚を持っていたからだろう。スポーツジムから帰って、お風呂に入り、夕方に自宅の小さな庭に出ると、西空に茜色と青色の交じった雲が見える。今、自分は、最高の豊かな気持ちの中にいるのではないだろうか。ふと昔読んだ伝記を思い出した。石光真清という軍人なのだが、明治から大正にかけてシベリアや満州で、諜報活動に従事した人で、この人の書いた自伝が面白い。スパイ活動なのだから、まるで小説かドラマのような話だが、彼はある期間、3等郵便局長になる。血沸き肉躍るような危険なスパイ活動に比べれば、平穏で静かな仕事だが、彼は、夕空を見ながら、こんな穏やかな日が過ごせるのは幸せだと、記していた、と記憶しているのだが、本を読んだ印象は、そのようなものだった。人の感じ方は、夢中になっている時と穏やかな時と両方あるが、その両方が大切で、物事は、一方だけの論理や感情だけでは片付かないのではないか、と思う。夕空はきれいだ、と思うだけで、すべての疲れや小さな不幸も、飛んでいってしまう。
新しいこと
昨日は4月もまだ2日だから、例年だと暇になるはずだが、3つのオンライン会議があって、忙しかった。その内2つが重い会議である。仕事のことはブログでは書けないので、内容には触れないが、これから始める仕事は緊張と不安と楽しみが伴う。先が見えないし、どうなるか予測できない。新聞で連載しているファミレスの創業者の記事では、その事業の売り上げや店舗数は急カーブを描いて伸びていくが、徐々に業績が悪化していき、また投資をしたり銀行から借り入れたりしながら、持ち直して上昇していくが、また急落して、経営者の座を降りる、など、文字通り波乱万丈で、しかも金額が想像を超えているので、経営することの厳しさを、素人ながら感じて読んでいる。驚くのは、頂点を極めた人が、その座を降りても、新規事業を起こして、まだまだ引退はしないと、意気軒高なことである。人は、どこまで仕事に情熱を燃やすことができるのか、不思議な思いがする。外から見ると、もうそんな大借金までしなくていいではないか、老後を食べていければ十分ではないか、温泉でも入る生活にあこがれないのか、と思うが、経営者とはそういうものなのか、それは個人によるものなのか、分からない。しかし、先の重い会議での新事業では、いくつかのハードルがあって、それを乗り切らないと、これまでの努力も泡になるような印象があるので、先の経営者の事業と、規模は違っても、気持ち的には同じようだ。楽しみや意欲と緊張と不安は、裏腹の関係にあって、それが人を引き付けるのかもしれない。4月早々から、どこか武者震いしている自分に気付く。いいではないか、もし失敗しても大したことではないだろう、の気持ちと、緊張しながら慎重に、そして準備を怠らず事を進めていこう、という気持ちが入り混じっている。人は、どんな小さなことでも、新しいことは、緊張や不安とやる気と喜びを感じる。先のブログで書いたように、生きていることは、新しいことの連続だから、落ちこむことだけではなく、また楽しいことだけでもない、その両方の狭間を行き来しているようだ。
旧年度と新年度
昨日は、4月の初日で、もう新年度に入ったのは、なんとも早い。一昨日に、部屋の書類の片づけをして、昨日のゴミ収集に出した。毎年の書斎の大掃除は、3月末から4月初めである。年度の締めで掃除する方が、書類系はやりやすい、というか、12月は報告書作成のど真ん中だから処理できない。多くの人も、そうだろう。一度に書類や雑誌などを処分するのは疲れるので、少しずつ分けて行っているが、ゴミ処理も、燃えるごみと雑誌や本系では日にちが違うので、それに合わせている。昔は処理する時、少し眺めて、こんなことがあったか、よく働いたなど、少し感慨に浸ることもあったが、そんなことをしていると時間がなくなる。過ぎたことは、追わなくてよいと思いながら、あれほど丁寧に一字一句をチェックして、終わればゴミ箱か、と思うと、人の仕事は何だろうか、と疑問が起きる。昨日のお昼にNHK朝ドラを見たら、戦時中で国民すべてが戦っている最中に、お笑い劇場を続けていいのだろうか、と自問して、解散するシーンだった。どの仕事も、それが役立っている、社会で受け入れられている、と思えばこそ続けられるが、そうでなければ、仕事自身を止めるしかないのだ。自分の仕事も同じで、少し誇張して言えば、使命感があるから、それが子供の成長に役立つから、やがて日本の将来を支えてくれるから、という思いに支えられている。例え、1ヵ月ですぐにごみ箱に捨てられても、決して間違えのないように、誤字脱字がないように、論旨がおかしくならないように、丁寧に書類を作るのは、その思いがあるからだ。まして出版になると、多くの時間と労力をかけるが、それでも、年度末には、ゴミ箱に送られる運命になることもある。すべての仕事は同じだろう。朝ドラも一回見れば終わり、前回の朝ドラの俳優も、視聴者は興味を無くしている。ゴミ箱に捨てられることと同じかもしれない。歌手は2分間に全力を傾けるが、すぐに忘れられる。この世の中は、次々に新しく生まれ変わっているのだ。昨日は、早速、新年度のオンライン打ち合わせがあった。もう、新年度がスタートしている。
