不安になった日

昨日はいろいろトラブル続きだった。午後に所属する団体の理事会がオンラインであったが、どういうわけか、相手の音声は聞こえても、自分の音声が相手に届いていないことを、始めの挨拶で知った。少し焦った、こんなことは初めてで、昨日までオンラインでやり取りしているし、パソコンは新しいし、理由がわからない。こんな時、人は焦る。理事会で自分が仕切っていて、30名ほどの参加者がいて、議題を可決しなければならず、定款で議長は代表者と決められていて、どうしようかと思ったが、たぶん頭が働かないのだろう、仕方がないので、一旦切って再度立ち上げようと思ったら、携帯に事務局から電話が掛かってきた。こんな時は、電話が代用になると、つまらぬことに感心したが、司会を事務局長に任せるから、しばらく待ってくれ、と言って、再立ち上げをしても駄目なので、隣のパソコンを立ち上げて、接続しようと思ったら、アプリをインストールしなければならないので実行したら、英文しか出てこない、ルータの電源を入れ直そうか、とあまり意味のないことを考えていたが、もう一度音声のテストボタンを押してもまったくレベルが上がらない、これはハードの故障かと思った時、マイクはどうかと気付いて、録音用の小さなマイクをUSBに差し込んだ時、画面の向こうから、聞こえました、と言う声が届いた。こんな当たり前のことがどうして気付かないのだろう、と自分が情けなくなった。第1号議案の採決はまだだったので、間に合った。第6号議案までと3つの報告事項と意見交換を終えて、予定通りの時間で終わった。忙しい人たちばかりが集まっているので、遅れると失礼になると思ったが、オンラインは機械ものなので、トラブルが起こる。後で調べたら、外付けマイクは良いが、内臓マイクは作動しない、故障であった、こんなことが本番で起きるのか、と恨めしく思ったのだが、仕方がない。午前も、オンライン採点をして、かなり反省することがあって、少し気持ちが沈んだ。自分はもう力もなく駄目なのかと、思うことがある。夜、録画していた名作おしん、を見た。けなげにも幼い子が苦労しながら生きていく姿に、涙が出た。まだまだ自分は、頑張らねばと、励まされた。

世の中は動く

昨日は、いろいろなことがあって、忙しく過ごしたが、さすがに連休が終わって、世の中が動き始めたのだと実感する。科研の報告は、専門家に聞いて完成して送ったが、何でも知らないことは恥ではなく、聞けばよいのだ、と素直に思う、こんな簡単な事でも、嬉しい。寝枕に置いた電波時計の電波の受信が弱いせいか、時計の時刻が数秒ずれている、こんなことでも気になるのか、電池を変えて自分の書斎に持ってきたら、すぐに受信して、また戻したら、スッとした。オンラインでセミナーなどがあると、スライドだけ映していると、スライドに集中するが、講師には目が行かない、セミナー内容によるが、対面のように、画面の端に居て説明するスタイルが良いと思って、調べると簡単にできる。これだけでも、面白い。昨日は、午後は所沢市の教育センターに行って、市内のすべての小中学校約50校にGIGAスクール構想の実現で、端末が整備されて、その活用に向けての打ち合わせがあった。ふと思い付いて、数日前に、これは良いと思った資料を持参して説明したが、これもタイミングが良く、会議が充実した。これも楽しい。帰宅して、気になることがあって、書斎に上がり、パソコンでメールなどのチェックをしたら、いろいろ面白い内容があった。所属団体の新企画、というか、委託事業があって、ワクワクする。事業家とは、このような面白さを感じているだろう、と思ったが、自分は研究や教育の分野と、団体の運営という2足の草鞋を履いているせいか、2倍の喜びがある。それは、同時に、2倍の苦しみもあるかもしれないが、昨日のブログで書いたように、ワクワクする方が先で、失敗とか大変さはすぐに忘れてしまうようだ。ともかくも、昨日は、わさわさと、活動的な1日だった。資料を作成していたが、これも、時間があればいつまでもと思いながらやっているので、それは、仕事ではなく、趣味の世界である。ワクワクすることは、良いことだ。

K文字

昨日は予定の講演が中止になって、オンライン会議が1つだけで後は自分の仕事ができるので、有難い。講演とか会議も、対面でなければ、という形式も多い。どうも昼食を含む会議の時に、対面になる。今時、夕食を含む会議はないが、昨日の予定の講演は、少々形式ばった講演だったが、これで2回延期になったので、どこか相性が悪いのだろう。起きてくることは、それで良い。世の中は面白いもので、中止や延期になるものもあれば、新しいものも生まれる、オリパラもどうなるかというご時世だから、世の流れに添うしかないだろう。前にも書いたが、今の企業は、K文字だと、ビジネスの世界では、言うらしい。右肩上がりもあれば、右肩下がりもある、という意味だが、それは、中止や延期もあれば、新しく生まれるものもある、と同じである。昨日は科研費の報告で手間取った、前年度の決算で研究費が余って、コロナ禍で学校訪問や海外出張などができない状況なので、仕方がないのだが、それで経理に戸惑っている。世の中は、自分にとって都合の良いこと悪いこと、終わってしまうこと新しく生まれること、楽しいこと嫌なこと、が常にやってくる、たいていは、小さな波で、やがてすべてが消えていく。昨日、携帯に電話がかかってきて、新しいことを依頼されて、引き受けた。仕事の中身なので書かないが、長年の経験からすると、すべてなんとかなるので心配ない。メールを読めば、これをオンラインでするのかとか、何で連絡してくれなかったのかとか、多少腹立たしいこともあるし、面白い、是非やってみよう、と思う意欲が起きることもある。歳をとってくると、少しそこが丸みを帯びて、だいたいはうまく行くので、いいだろうと、すべて受ける心境になる、テレビドラマの水戸黄門のような気楽な心境になる。しかし、それは気休めで言っているのではない。このブログでも紹介したが、嫌なことも腹立たしいことも、やがて古い細胞になって分解されて外に排出され、新しい細胞が生まれるという、脳科学の動的平衡論が実証されているからである。嫌なことは軽く考えよう、たぶん明日には古い細胞になって排出されるから、面白いことは大いに取り組もう、新しい細胞が生まれるからだ。

苦手な仕事

昨日は月曜でオンライン会議が2つあり、なかなか忙しかったのだが、今朝が忙しく、通常は早朝にブログを書いて、朝食という順番だが、さすがにそれはできなかった。今朝のメールで、科研費の実績報告を書かなければならない、ことに気が付いたからである。自分が代表の科研費と研究分担者になっている科研費があって、分担者のほうの代表者から研究実績の要求があったからである。それで、自分が代表の科研費の報告書作成に気が付いて、今朝はずっとそれにかかりきりだったが、あわれ、経理が苦手でまだできていないが、とりあえず息を抜いて、ブログを書いて、次に取り掛かろうと思った。昨日は定例の事務局会議と別の団体の打ち合わせだったが、一言でいえば、楽しかった。何故だろう、スタッフが全員前向きだから、という平凡なことしか言えないが、画面の向こうであろうと、気持ちは伝わる。何でも言える雰囲気があって、心にしこりがないから、楽しいのだろう。もちろん、この世の中で起きることは、面白いことや得意なことばかりではない、先ほどの科研費の経理はまるで駄目なので、よく知っている担当者に、科研の画面をコピーして教えてくれ、とメールを送った。それだけで、気持ちが前を向く、つまり、心にしこりがなく、すぐに別のことに取りかかれる。そう言えば、昨日は原稿を送った、送れたと言った方がよいが、自分が読み返して、今の自分の力ではこれで精一杯と思えることが、原稿を送る基準としている。後で、例え数日であっても、読み返すと、不備だと思うことが出てくるのだが、それは仕方がない、その時が精一杯だったから、と納得できるからである。苦手なこともあり、得意なこともあり、小さな浮き沈みの中で、人は生活するのだが、その生活の中に、いろいろな知恵が閉じ込められていて、ときどき顔を出すので、そうだ、こんな時はこうしよう、と思いながら、事を処理している。どんでん返しのような大異変は、滅多に起きない、だとしたら、心配することはない、口笛を吹くような気持で、仕事も生活もしていけば、心が空っぽになり、本当に困ったりするようなことは起きない。

初夏のような日曜日

昨日は日曜日、気温がぐんぐん上昇して、初夏のような天気だった。昨日は母の日なので、子供から食品が届いたが、夕食のおかずとして、お墓参りと外食をして、その後はスポーツジムに行く、という予定通りだが、夏のような気分で、何か人が大勢出ているような印象だった。コロナ禍と言っても、いつまでも自粛生活という訳にもいかず、街に出るのだろう。スポーツジムに行く途中に、旧市役所の跡地が広場になっていて、子供たちや若者の良い遊び場になっている。跡地と言っても、コンクリートなので、自転車乗りやバトミントン、ローラ―スケートに興じている子供が多いが、時々、高校生だろうか、ダンスをしている。今時の若者は、ダンスがうまく、男女とも体をリズミカルに動かしているが、かなりの運動量なので、汗をいっぱいかくだろう。それでよい、大いに汗を出して、エネルギーを発散するとよい、文字通り若さがいっぱいだ。お墓参りは月に一度実行してしているが、昨日はかなり人出があって、どこか楽しそうだ。墓地というより、公園と呼んだほうが合っている。バラが満開で、色とりどりの花が、目を和ませてくれる。バラではないが、前に紹介した句、幸せの形いろいろチューリップ、を思い出した。墓地に来ている人の表情が、どこか嬉しそうなのである。ご先祖様にお参りして、幸せを感じているのだろうか、人の世は、変わっていく。墓地は、悲しみや追憶の場から、花園のような場になり、広場は、ダンスの場になり、今を謳歌している。それでいいのだ、外食は回転寿司に行ったが、ここも密で、家族連れも老いも若きも、楽しそうに寿司を摘まんでいるが、寿司屋さんは、今は大衆店であり、高級店ではない。世の中は変わっていく、自分の仕事の仕方も、内容も、水の流れのように、変わっていく。初夏のような日曜日が、墓地や広場や寿司屋さんに出かける人の気持ちに寄り添って、安らぎを与えてくれる。

考えながら運動する

昨日は土曜日だが、午前はオンライン会議、午後は買い物、外食、草取り、スポーツジムと、土日は何かと活動がある。コロナ禍になって、どうしてこんなに郵送物が多いのだろう、と思うくらい、毎日のように書類が来る。その書類の処理などもするが、手を動かしていると、何か仕事をした気分になるが、草取りをした後、少しうたた寝をしたようで、15分位夢見心地だった。すると、人間の意志は弱くできているのか、スポーツジムに行くのも面倒だ、などと思ったが、なまった体を直す、という気持ちになって、出かけた。何でもそうだが、行くと良かった、と思う。行動に勝るものはない、ランニングマシーンで走りながら、何もすることがないと、自分は研究か仕事のことを考える。すると、ふと思い付いたことがあった。このブログでも、何度もつぶやいているが、学習を科学として追求し、それは自然科学と同じような方法だが、かつ実践とどのように結び付けるか、その方法である。当たり前のようで、何か見つからない、と思いながら、これでやってみよう、と気付いたことがある。考えながら運動すると、足の振動が脳を刺激するから、アイデアが湧きやすい、という俗説があるが、正しいかもしれない。プールでこの考え事をするのは、ターンの回数を忘れるので、自分の経験では、あまりよろしくない。ともかく、この気付きが気になって、帰宅して、早速2階の書斎に上がって、文献をチェックしたら、どうもうまく進みそうな気がした。こんな漠然とした話を書いても、誰も興味を持たないだろうが、ふと新聞の連載記事で、著名な物理学者の研究方法を思い出した。雲泥の差であるが、何か思考方法に共通する部分があるような気がして、研究するのは、ずっと追い求めることではないか、それが、何かのきっかけで、結び付くような印象である。自然は、追い求める恋人だけに、心を開く、と寺田寅彦は言ったというが、それは、自然だけでなく、人文系も社会科学系も、すべてに通じるのかもしれない。スポーツジムに行って良かった。

学習科学と生活

昨日は予定されていた講演がコロナの関係でキャンセルになったので、時間が空いた。審査系の仕事と、文献の整理をしたのだが、文献を読むと、引き込まれてしまう。審査の目と、文献調べの目が、違うからだろう。審査の目は、何か上から目線というと、偉そうで印象は良くないが、審査基準があるので、どうしても良し悪しの基準で判断するが、文献読みの時は、自分の知りたい問いがあって、そこに投影して判断するので、学ぶとか、何か参考にならないか、という下から目線で読むような気がする。すると、アッと気付くこともあって、この著者は凄い、と感じることが多い。つまり、目線によって、気付きが違うのである。それは、自分の脳が、知識を付加して、形作る過程でもある。読解力の高い人は、知識を関連づけようとする、予測して読む、意図して読むなどを、実証的に示している文献があって、ハッとした。残念ながら、詳細データはなく、概要だけの研究発表資料だったのだが、本質をついている。自分の分野では、優れた研究は、自分の生活や学習や授業に照らし合わせて、納得することが多く、そうでない研究や知見は、どこか違和感があって、受け入れにくい。そこが、自然科学との違いである、相対性理論などは、常識とかけ離れていて、しかも真理として実証されているので、誰もが驚愕するのだが、教育は、そうではなく、生活や学びや子供の行動に潜む、学び方、育て方、関わり方についての研究や実践なので、主役は、育てる母親や指導する先生、つまり実際に子供と接している人であろう。だから、自分などは、その脇役で、指導に必要な材料や、参考になる視点を提供していることに過ぎない。あるいは、指導する先生と共に、学ぶことになる。こんなことも最近になって分かった研究で、デザイン研究と呼ばれる方法だが、学習科学は、そのことを述べている。

試験の採点

昨日は5月の連休も終わって、仕事や学校も始まる日だが、在宅勤務であっても同じで、1つのオンライン打ち合わせと採点と審査の仕事をした。採点とは、免許更新講習の受講生の試験の回答を読んで、採点するのだが、これが面白く勉強になる。ビデオオンデマンドなので、受講生は、かなり長時間の視聴をした後で、試験を受けるのだが、記述式と選択式の両方が課される。選択式は自動採点するが、記述式は、当然ながら講師が採点する。ある高校の先生が、教員なり立ての若い頃の経験を盛り込んだレポートがあった。この先生は、その頃、定時制高校に勤務していたが、若い教師が、年齢層の幅広い生徒を前にした時、どうして授業をしていいか戸惑った、無理もない、保健体育の授業だったので、出産とか健康とか怪我の対応など、知識はあっても、経験がないことを話すのは、何か絵空事のように思えて、生徒に話してもらった。既に出産を経験した女生徒は、どんなに苦しい思いをしても、我が子を見たときの感動は忘れないとか、運転手をしている男生徒は、帰宅する時、アパートの窓から灯りが見えると、温かいお風呂や湯気の出る夕餉や、幼い我が子が待っていると思うと、家族の有難さを感じるとか、現実を生きている姿を語った。なるほど、保健体育の授業であっても、保健や健康だけではない、すべてが関わっている、その現実の世界と離れて授業をしても、何も役立たないのではないかと思い、それ以来、この教員は、なるべく現実との関わりを意識するようになった、と言う。こんなエピソードに満ちたレポートを読むと、こちらが勉強になる。自分が担当した講義科目は、コンピュータと教育のような内容だが、これも現実や社会や生活と切り離して論じることはできない、すべての科目は総合的で教科横断的で、人々が暮らす今の生活と密接に関わっている。私たちの生活の中に、知識が埋め込まれている、という学習論を思い出す。採点とは、受講生から学ぶことである。

文献を読む

昨日で、連休も終わったが、月日の経つのは矢のごとし、である。ふと、梅沢富美男が、テレビ番組で読んだ句、四日はや雪駄をはいて駅の蕎麦、を思い出した。お正月も3が日が終わると、お節料理に飽きて蕎麦が食べたくなる、という誰もがうなづける句だが、連休も同じかもしれない。今年は、コロナ禍で自粛要請があるので、外出は控えているだろうが、そろそろ仕事に戻りたくなる企業人や、生徒の顔を見たくなる教員も多いかもしれない。自分は、いつもと変わらない生活なので、まるで学生気分のようで、気ままである。昨日は、探していた文献が見つかって、アッと驚いた。本箱の隅のほうに、そっと置かれた本、探していた内容が詰まっている、開いてみると、あちこちに鉛筆でコメントまで書き込んでいるのだが、全く記憶がない。なんと有難い、宝のような文献なのだが、どうしてだろう、と思った。先に書いた、アフォーダンスであるが、比喩的には、たぶん、この本も見つけてくれ、とメッセージを発信していたと思うが、それは探す方のアンテナの精度による、つまりキャッチできるかどうかである。昔読んだ時には、やはりピンと来ていなかったのではないか、否、単に記憶が無くなったのではないか、と言うかもしれないが、読んだ瞬間、そうではないと確信した。見え方がまるで違うのである。今、探している自分は、昔の自分と違う、それはオーバーに言えば、別人かもしれない、その今の自分のアンテナには、本の主張がキャッチできたが、かつての自分では、それができなかった、あるいは、視点が別方向だったかもしれない。こんなことは当たり前で、自分も、学生の頃、何年か経って、アッ、そうだ、波とはこういう意味なのか、と分かった、すっぽりと入ってきた、経験がある。小学生でも知っている波の物理的概念は、大学生、大学院生になって、理解することもある。そんな感じなのだが、見えないものが見えるのは、嬉しい。いくつになっても、否、経験を重ねれば重ねるほど、見える部分がある。歳をとっても、若い頃とは違う面白さがある。

安い商品

昨日は早や4日で、連休も終わりに近づく。原稿2編と論文1編を、と書いたが、何もできていない。子供が夏休みの宿題ができなくて、8月末に母親に叱られる心境だが、サボったわけではなく、関連文献を調べたり読んだりしている内に、時間が過ぎてしまった。しかし知識を得ることは良いことなので、別に悔いはしない。Wi-Fiがどうも弱いと思って、中継器の電源を入れ直したら、弱から強に変わったなど、つまらぬことだが、人は失敗をすることで学ぶが、これも失敗の科学という本を買ったから、妙に納得する。昨日は、午後は家内と100均に行って買い物をしたが、自分は油性マジックペンと歯間ブラシを買った。あの大きいサイズの油性マジックペンが3本入っていて、100円とは何と安いのか、歯間ブラシも、細い棒のようなものだが、150本で100円とは、何と安いのか、これで経済は成り立つのか、と不思議に思う。今の日本の商品は、何もかも安いような気がする、昔はお寿司屋さんと言えば、高級レストランだったが、回転寿司屋さんができて、極めて安くなった。中でも、自分は、軍艦ものが好きで、とびっこ、つな、かんぴょう巻き、などの安いものなので、注文の時は、さすがに、最初のオーダーは気が引けて、最後にまとめて注文するのだが、こんなに美味しいものが、どうして安い、と驚く。安いことはいいことだ、と思っていたが、どうもそうではないようだ。安い食材や材料の提供のために、どこかで安い人件費や安くするための資源の浪費によるとしたら、ましてそれがバングラディッシュやアフリカの子供たちの労働力にとるものと知ったら、手放しでは喜べない。帰宅して、いつものように、東の公園をジョギングしたら、親子、若者、お年寄り、幼児など、老いも若きも、男も女も、サッカー、バレー、キャッチボールなどに興じて、広大な公園に、飛び切り上等の笑顔の花が咲いている。公園で遊ぶ人も、ジョギングしながら眺める人も、お互いに幸せな気持ちを共有している。幸せとか安らぎとかwell-beingとか平和などは、一方だけでは成立しないことを、知った。100均も回転寿司も、経済的な不均衡の上に成り立っているとすれば、その是正をしようとする運動がSDGsかもしれない。これも、どこかの知識の受け売りであるが。