昨日は日曜日、と言っても、連休中なので特別な日ではない。講習用の資料の修正をしたが、どこか楽しい。学生に講義をしたり、ゼミをしたりすることは無くなったが、大人や先生方を相手にして講義するのだから、同じである。ビデオオンデマンドなので、一方通行だが、それも良し、いつまでも講義ができる、相手が誰であろうと、対面だろうとオンラインであろうと、それは、教師冥利に尽きる、と言ってもよいだろう。資料を修正すればするほど、気付くことがあって、それが楽しいのだろう。午後は、庭にある水道の横に置いているジョロなどの置台の修理をした。真鍮パイプの組み合わせの小さな置台だが、古い代物なので、鉄さびのような赤みがあって見苦しいので、1週間くらい前に、スチールウールできれいにした。赤みが取れて、真鍮の銀色が見えると、病気から回復して再び仕事に向かう人のように思えて、どこか愛着が出てくる。昨日は、その置台の位置を治すために、置台の下に砂利や置石をおいて、見栄えがよくなるようにしただけだが、それでも楽しい。小さな庭だが、今の季節は雑草が生えてきて、軍手で雑草を取って、少しきれいにした。昨日の午後は雨という天気予報が外れて、雲はあったが晴天だったので、庭で仕事をしたくなったのだろう。少しだけだが、それでも、雑草が減った庭や、ジョロの置き場と水場を眺めるのは、気持ちが良い。書斎で資料の修正をすることと、本質的には同じだろう。修正したものには、愛着があっていつまでも眺めていたい、それは、愛情を込めて育てる我が子と同じかもしれない、人間であろうと、植物だろうと、真鍮パイプだろうと、紙の資料だろうと、可愛く、愛おしい存在になる。
メンタルモデル
昨日は土曜日、手帳とto do listに従って、過ごしているので、平日と変わらないが、なんとなく気分によって、好きなことをしたくなるので、ある団体から依頼されている講習会の資料をチェックした。連休明けには、オンラインだが録画して、ビデオオンデマンドで配信する予定だから、気になっていたが、資料はできているので、気が楽だった。チェックすると、多くの個所が気になって、調べていると、午前中が潰れた。この意味は、とか、どうしてこの資料は、とか、まるで自分が認知症になったのかと思うくらい、この資料の流れのつじつまは、とか、どうしても納得ができないのである。自分はあの時、何をしていたのか、と思うくらい、気になった。ついでに言うと、修正しきれないので、今日の午前中に続きをしようと思う。昨日のブログで書いたように、確かに人は変わる、まるで人が変わった、という言葉は、世間ではよく聞くが、自分が自分に適用するとは思わなかった。その原因はなんとなく分かる、というのは、講習会とか研修会などのイメージが変わったのである。それは、数日前のオンライン講演がきっかけかもしれない。ふとこうすればいいのか、と気付くことがあった。それは、イメージと言うより、メンタルモデルと呼んだ方が適切で、昨日も、クロムブックはパソコンではない、と思った途端、謎が解けた、と思うことと同じである。タブレットだと認識したら、その操作法やデザインや、つまり設計思想が見える、ような印象なので、それはメンタルモデルなのである。別の視点と言ってもよいが、その視点から見ると、これまで作ってきた資料が、まるで違って見えるので、修正したくなるのだ、と分かった。確かに、人の認知も、日々変わっている。
人は変わる
昨日は、1つのオンラインの会議があったが、その他の時間は自由だった。この連休中は、2つの原稿と1つの論文を出したいと思っているが、他にもやることがあるので、予定通りにはいかないだろう。審査系が入るからだが、この連休を使って、実はもっと本を読みたい。昨日読んだ本では、学習によって人は変わる、という当たり前のことが分かった。しかし、当たり前かどうか、読む前までは疑問があった。IQなどは遺伝によるもので変わらないし、人の性格など変わりようがないし、思想や価値観など、そう簡単に変わらないし、と思っていたからである。IQも、最近ではどうも変わるらしい、社会環境が変わると脳が影響を受けるので、確かに変わるだろう。性格も価値観も変わるようで、長く生きて歳が来れば、丸くなったと言われるし、コロナ禍の今、住む家があり食事ができれば、有難いと思うようになるので、我が身を振り返っても、そうだろうと思う。ただ、教育は、変わるのではなく、変えるのだから、それが可能かどうかだが、それも可能のようだ。最後は、自分で自分を変えることが可能かどうかだが、これも可能だろう。明示的に文献には書いてないが、どうもそうらしい。ともかく、人は変わるのだが、その原動力は、新しさにあると思う。振り返ってみると、新しい文献や新しい知識に触れ、新しい事業に関わると、胸がワクワクして、嬉しくて、いかにも脳細胞がリフレッシュされたように思うので、たぶん変わるのだろう。昨日のオンライン会議も新しいカリキュラム構想だったので、身を乗り出すような気持で参加した。昨日読んだ本にも、新しい発見があったので、得をした気分になった。クロムブックの操作で、これはパソコンではなくてタブレットだと気付いて、その当たり前のことが自分にとっては新しい発見だったので、嬉しくなった。人は、常に新しさを求め続けるとすれば、たぶん、一生退屈することはないだろう。
本を読む
昨日は祝日だが、平日と変わらない。緊急事態宣言が東京に発令されているから、当然ながら都心に出かけることはないので、オンラインとメールでのやり取りになる。メールの数も、休日は少ないので、久し振りに購入しておいた本を読んだ。学習科学に関する学術的で実用的な本だったが、良かった。良かったとか面白かったということは、昨日のブログでも書いたように、読み手は映画評論家なので、物語を鑑賞して評価している。名作ならば、何度鑑賞しても面白いが、それ以外の作品は、新しさが面白さの基準になるのではないか。既に知っている内容であれば、時間を損したと思うし、感動がない。映画を見るように、本も論文も、読みながら自分なりの物語を作っているが、ロシアの学者バフチンの言う通り、自己対話の世界なのである。昨日の本は、最新の脳科学の知見が盛り込まれていて、なるほど、と納得することが多かった。それは、自分の知識に枝葉を追加しているようなイメージで、全体が膨らんできて、自分のモノになっているので、得したという気持ちになるのだろう。さらに、自分のモノにするために、昨日はキーワードだけを抜き出して、資料としてまとめておいた。これで、かなり自分に近くなった。自分も、たぶん他の研究者と同じように、いろいろ本や論文や文献も読んだと思うが、あまり身についていないと思うのは、まとめていないからかもしれない。自分の木とは別の木があるだけで、他人の木なのである。講演などで思うのは、なんとか自分の木と実践を枝葉として結びつけたい、それで花が咲く、その方法を探求しているのだが、まだ道は遠い。この連休で、本や文献などを読んで、探ってみたい。
論文査読とは
昨日は、何事もなく平穏無事に過ぎた。手帳には仕事の予定を書いているので、その予定に従って、行動している。昨日は、海外論文誌の査読である。海外の論文査読は、英語だけに時間がかかる、だけでなく、英語が苦手だから意味を理解するのに、頭を使う。それはいいとして、どうも海外論文は、査読しても面白みを感じない。著者はヨーロッパ系の学者のようだが、欧米の研究者の論文は、文字通り型にハマっていて、隙がない。隙がないから面白くない、とも言えるが、型通りで、目的、方法、データ、結果、考察、参考文献と、その通りで、特に参考文献などは6ページにわたり引用している。人工知能の父と言われるアランチューリングの有名な論文、機械は知性を持つか、では、参考文献は1つもない。この論文は、確か数十ページにもわたるような長い論文だが、独創性に溢れていて、名著である。これは例外としても、型通りなのか、型破りなのか、どちらがいいかは分からないが、面白いことが、論文の良さを測る尺度ではないか。意外性があって、そうだったのか、と膝を打つような論文や本や資料に出会うと、宝物を探し当てたような喜びがある。という訳で、昨日は早々と、Webサイトから査読結果を送った。後は、GoogleOSのパソコンを操作していた。使い慣れたwindowsと違うので、戸惑うことも多いが、触っていると、少しずつ分かってきて、そうか、こんな考え方なのか、とか、こんな設計なのか、とGoogle の開発者の考えを知ることができる。とすれば、これも論文査読と同じではないか。論文は紙で、パソコンはデジタル機器だが、論文を読むのも機器の操作をするのも、同じではないか。論文の著者の考えや、機器の開発者の設計思想を、理解しようとして、査読したり、操作しているのである。新聞に掲載されていた小学生の文章、本を読むと自分だけの映画館が始まる、を思い出した。そうなのだ、本でも論文でもパソコンでも、そこに自分の物語を作って、楽しんでいるのではないか。それが、面白いのかどうかは、映画の評価であるから、論文や作品の審査員や機器の利用者は、映画評論家である。
講演をするには
昨日は、朝10時前から夕方4時過ぎまで、オンラインの協議会に参加した。1日中、お昼時間を除いて、オンラインでパソコンの前に座り続けるのは、疲れる。脳が疲れるのだが、仕事となれば仕方がない。企業の人は、もっと厳しい仕事の仕方をしているので、文句は言えないだろう。午後にオンライン講演があったが、昨日のブログでも書いたように、寝不足があって内心不安だった。だから、朝食後に講演の練習をした。およそのことは分かっているので、目を通して修正などをする程度だが、昨日はどこか不安だったので、実際の講演と同じように、声を出して練習をした。黙読から音読への切り替えであるが、そこで気付いたことで助かった。なにしろ、時間が足りない、急遽、話す内容を削った、順番を変えた、など10時寸前まで時間がかかったが、やって良かった。そして、午後になって講演をするまでの間、胸がドキドキして、どうしてこんなに緊張するのだろうか、と不安になった。一昨日の寝不足がまだ尾を引いているのか、と思いつつ、緊張のまま、オンライン講演をした。あっという間に終わって、始めてホッとしている自分に気が付いた。こんなことは、あまり経験したことが無かったが、学ぶことがあった。音読することの大切さである。慣れとは恐ろしいもので、眺めるだけで安心するが、実際は違うのだ。声を出してみて、始めて、時間が足りないとか、冗長だとか、追加すべきだとか、思いつくのである。それは、本番のシミュレーションだからかもしれない。パソコンの操作も、やってみなければ分からないし、そこで気付くことが多い、審査でも書類だけでは見方が狭いし、対面での質疑で初めて分かることが多い、頭で分かっただけではまだまだ不足している、認知だけではなく行動で分かるのが、現実である。音読のお陰で、失敗しなくて済んだ、恥をかかなくて良かった、実際に行動することで、助けられた。評判も良かったようだが、結果よりも、この気付きが自分にとっては、宝物のように思える。
浅いメディア
昨日は月曜日、諸々の仕事や人に会う用事があって、都内に出かけた。定例のオンライン会議に、溜池山王の事務所で参加した。事務職員は事務所に来ているので、書類の手渡しなど、何かと都合は良い。他にも用事があって、帰宅した時に、平日にやっているジョギングをしようと思ったが、できなかった。書斎でメールのチェックや返信などをして、夕食に後に録画番組を見た。西部劇だったが、つい最後まで視聴したので、普段よりかなり遅く床に着いた。珍しく、寝つきが悪く、夜中に目が覚め、早朝にも目が覚めて、そのまま床の中にいたが、そんな時は、いろいろ考える。どうしてだろう、と思ったら、ジョギングをしなかった、録画番組を長時間見た、という原因で、寝つきが悪かったのだろう、という結論だが、ただ今日はオンラインの講演があるので、これはまずいと反省した。ジョギングをすればできたが、心のどこかに止めたい、という思いがあったからで、録画番組も途中で止めて早く寝なければ、と思いつつ、そのまま引きずられて、という結果だった。昨日のブログで書いたように、今を楽したい、気ままにしたい、と誰でも思うだろうが、自分も同じで、朝起きると、どこか少し昨夜の気まずさが残っていて、脳が鈍感になっているような気がする。西部劇は面白い、が、それはエンターテインメントであって、娯楽でしか過ぎない、しかもプロが作る映像は、頭に強く印象付けられるので、寝ていてもシーンが浮かんでくる。メディア論に弾丸理論があって、弾丸のように強烈に印象付ける、つまり洗脳のような機能を持つという説だが、確かにそうだが、寝ながら考えたのは、しかし浅いのではないか、と思う。表面だけ面白いのであって、脳の深い部位に届かない、くすぐられて笑う漫才や落語のようなもので、やはり名人芸だ、と感じるような深みがない。自分は、浅いメディアと深いメディアがあるように思う。そんなことを考えていたので、さらに寝不足になったのだろう。小市民のすることは、分かっていながら止められない、という意志の弱さと言うことか。今朝、講演の予習をしなければ、と思う。
小市民の生活
昨日は日曜日、4月25日であるが、東京を始め4都道府県に緊急事態宣言が発令された。ただ慣れてきたせいか、あまり意識が高くないのは、誰も同じだろう。自分も、そうか、と言う程度だが、テレビ報道では切迫感が伝わってくるのは、担当大臣や医療関係の責任者の発言だからである。いつも庶民は、目の前のことしか眼中にないような気がする。それがいいことなのか、いけないことなのか、正直分からない。海外報道でも、例えば韓国の反日報道などは、怒り心頭に達したように感情的で、本当に庶民はそんな気持ちでいるのか、と思ったり、ミャンマーなどの軍部政権と庶民の衝突は、信じられないような光景が報道されるが、一般庶民はどうなのかなど、この世は、分からないことだらけである。今は、コロナ禍で在宅勤務になっているので、特に世の中の動きに鈍感になっているかもしれないが、今目の前にあることだけしか、自分は関心がないのかもしれない。昨日は午前中にやっと廃棄する本や雑誌などを片付けた、というのは、自分の年末の大掃除は12月末ではなく、3月末か4月末だからである。午後は、土日はスポーツジムに行くが、出かける前は、ランニングマシンで走るのかと少し気が重く、30分間を終えるとびっしょり汗をかいて、ああ、良かったと思い、その後、プールに行く時は、このままシャワーを浴びて帰ろうかと思うが、水に入った瞬間、これは爽快だと思い、屋外にあるジャグジーに浸かって空を眺めていると、今日も良い天気で、幸せだと思う。西日に照らされた白い雲と灰色の雲が、青空をバックにして、悠々と浮かんでいるのを見ると、なんと贅沢な、と思う。自分は、ただ、目の前のことしか考えていないのか、今を楽したいとか思っていないようだ。これでいいのかどうか分からないが、今が良ければ良しとしたい。今の自分は、典型的な小市民らしい。
他人の言葉
昨日は土曜日だが、生活や仕事は平日と変わらないのは、誰も同じだろう。プリンターが壊れて、新品なものを購入したので、その設定をした。今週は3日間都心に出かけて時間が取れなかったので、隙間時間を使って設定をしたのだが、購入した量販店のレジ係りの人が、USBケーブルはどうですか、と言った言葉を思い出した。その時は、何をとぼけたことを言っているのだろうか、と思って、いいえ、Wi-Fiで接続するので、と答えたのだが、ふとその言葉を思い出した。そういえば、電波状況が時折不調のことがある、その時にはオンラインの会議も、プリンターの出力もうまくいかない、すぐ近くにパソコンとプリンターがあるのに、どうして無線接続なのだ、と当たり前のことに気が付いて、USBケーブルを買いに行って、接続し直した。快適になった。これでまったく心配ない。メインのパソコンの隣に、学校に導入されているクロムブックがあるので、これはWi-Fi接続にしたので、プリンターはどちらも活用できる。ふと思い出した。どこの先生だったか、クロムブックのタッチペンは100均で売っている、子供たちには、これを使わせている、という言葉が浮かんできて、家内と一緒に100均に行って、2本買ってきた。帰宅して試してみると、操作が楽なのだ、そうか、クロムブックはタブレットなので、スマホと同じなのだ、ペンでも指でも操作できる、だから、子供向きで良いのだ、と当たり前なことに納得した。古いプリンターを廃棄しようと思ったが、インクがもったいないので、家内に聞いたら、コピー機に使いたいと言うので、そのまま新旧の2台を置いた。使ってみると、これも便利だ。実は、ここ1週間くらい、他人の言葉で、事なきを得た、うまく行った、失敗しなくてよかった、ということが連続して起きた。他人の言葉は、実は優れた知恵を含んでいる。
議員連盟の議論
昨日は朝8時からのオンライン会議であった。と言っても,傍聴程度なので、気が楽だった。超党派議連の会議で、主に国会議員と官僚の会議に、アドバイザーとしての参加だが、時間が限られているため、ほとんど発言の時間はない。ただ、議論は面白い。内容はここでは書かないが、いつも感心するのは、官僚、つまり文科省、経産省、総務省の課長クラスの説明と、国会議員からの質問に対する答弁の、そつのなさ、鋭さ、その論理的な発言である。頭が切れると言えば、その通りである。さらに凄いと思うのは、精神的なタフさである。早朝8時に始まるということは、その前に、議員会館に来ていること、そのためにかなり多くの資料を準備していること、その説明する時間も、文字通り秒単位と言っても良いくらいで、よくここまで対応できると、感心する。それが、いつも同じで、決してミスはしない。城に勤める武士と同じだろうと推測するが、日本はいろいろな問題があっても、優秀な官僚で保っていると言われるが、その通りだろう。官僚は一流、政治家は三流、学者も三流などと揶揄されるが、当たっている。欧米の政治家は、官僚と同じように、舌鋒も鋭く、先鋭的な言葉を発し、日本の官僚と似ているようだが、日本の政治家は、人間関係が難しく、忖度の世界のようで、鋭く見えて、白黒が混じった灰色の議論になって、結論が見えにくい。コロナ禍においては、なおさら政策決定が難しく、その影響が大きいので、舵取りが難しいのだろう。有識者と言われて会議に参加しているが、なんとなく発言するのが憚られるような気がして、何もお役に立てていないが、これも相手を忖度しているからかもしれない。ということは、コロナ禍における政策、それは医療だけでなく、教育もまた難しい選択を迫られるのは、科学のようなyesかnoなのかの決定論でいくのか、周囲の状況も勘案しながら、というぼかした墨絵の世界、つまり日本的な決定の仕方なのか、どちらかが問われているからだろう。日本人は、なかなか日本流を脱することは難しい。ただ、官僚のような責任感は、武士道を想起させるようで、この日本人らしさは、続けていただきたい。
