時の流れのままに

今は、月曜日の午前10時半、何故ブログを書くのか、これしか時間が取れないからだが、それにしても変則なのは、11時からオンラインが始まるので、20分程度しか時間がなく、自分の計算では、お昼時間に30分、夕方に20分程度を確保して、と考えている。推敲時間がかかるので、1時間では無理で、1時間より余分な時間が必要なのだ。筆の向くままなので、書きっぱなしなら1時間だが、誤字脱字があるので、チェックする時間が必要だ。土曜日に書いたのに、と思うが、今週の金曜土曜は夜遅く帰宅予定なので、木曜日の夕方を確保しているのだが、そうすると月曜日くらいには書かないと、と思い、計画した。月曜日は、新聞に歌壇欄に俳句や短歌が掲載されるので、それを引用することが慣例なので、よし、この小刻みな20分や30分を使おう、と決意した。たかがブログで、そう気張ることもないのだが、初めてのことは、どこか不安があるので、そう書くことで、逃れられないからである。さて、何を書くのか、今週はまだ何も始まっていない、昨日は、日曜日だが、オンラインのシンポジウムに参加したので、勉強になった。この内容は面白く、自分とは専門の違う先生方の話は、なるほど、と素直に頷ける、これが自分の専門に近いと、どこか粗が見えてきて、そうではない、と言いたくなるから、人間とはやっかいな生き物だと思う。相手を認めること、そうありたいと思いつつ、いや、そうではない、と少しばかりの知識を持ち出して、議論したくなるから、本当に専門とは何か、良いことはあるのか、ネットで調べれば、それ以上の知識は直ちに得られるのに、と思うこともある。自分の知らないことの知識に触れることは楽しいし、得をした気分になるが、何故だろう、本音は、知識ではなくて、心のひだに触れるとか、感情が揺さぶられるとか、目から鱗のような、革新的なのだが、言葉は優しく、胸にストーンと落ちるような、対話を期待している。そんな無理な、と思いつつ、人間の心情とは、そのようなものではないか。ここらで、下書き保存しておこう。今は、お昼休みだが、再開しよう、1時から用事が入っているのだが、先ほどのオンライン会議の余韻が脳裏に残っている。内容もさることながら、その場の雰囲気とかやりとりの優しさや刺々しさが、残るのだ。どんな会議でも、山あり谷ありで、小さな振幅なのだが、それが、最も人間にとって、印象に残っている。人は、本質的には、理性的ではなくて、感覚的な存在ではないだろうか。特に、歳を取ってくると、切った張ったとか、勝った負けたとか、そのような世界から少しずつ距離感がでてきて、あいまいさ、ぼかし、などのように、油絵から水墨画に移っていくようだ。何か、そんな感覚が似合ってくるのは、やはり日本人だからなのか。今は、もう、締め切りに追われ、ウーンと考え、というよりも、気楽なほうが良い、と思う反面、原稿とか講演とかセミナーなどでは、ここは、これまでにはない新鮮な内容で、あっと思うような出来ばえにしたい、とも思う。どちらも、真実なのだが、少しづつ少しづつ、水墨画のほうに、収束していくようだ。新聞に、摘む人も刈る人も無く夏蓬(よもぎ)(一色正明)の句があった。ヨモギの草か、草餅を食べた思い出はあるが、特に感慨はないのだが、いかにも初夏らしい風情があって、すぐに胸の中に入ってくる。季節は移っていく、人は時の流れのままに、年老いていくようだ。この時間で終わったので、50分で書けた。

相談相手

今は、土曜日の朝の時刻だが、この後の事情があって、夕方でなく、今ブログを書く。最近は、なぜか資料作りが多く、その時間が必要なので、時間を工夫しなければならない。世の中で、働き盛りの人は、時間に追われ、時間を小刻みにして、仕事を割り振っているだろう。昔、同僚でよく言っていたが、人間には、食欲、性欲などの他に、仕事欲があるらしい、仕事のオファーが来るたびに、心のどこかが浮足立って、おお、とか言いながら、内面で喜んでいる。夕食時に、家内に、今日はこんなことがあった、まんざらでもないな、とか、まだまだ俺は大丈夫だ、とか、あの時に、こんな発言をしたので場が動いた、など、たわいもないことを言って、自己満足している。男は、一般的にだが、誰かに、自慢したい欲望を持っているらしく、それが仕事欲のはけ口で、仕事仲間に言うと、ひんしゅくを買うし、子供には言えないし、一番手っ取り早いのは、家内だろう。たぶん、聞くほうも嫌だろうが、まあ、他に言う人もいないから、聞いておこう程度しか思っていないだろう。思えば、仕事をする人、男も女も、なんとかやってみて、うまくいくと、子供のように喜び、失敗すると、愚痴をいったり、酒を飲んで憂さを晴らしたり、人はいつも大なり小なり、もがいているのかもしれない。その連続が、人生なのだろう。このブログでも、山本周五郎の小説で、苦しみても、なお働け、この世は修行である、という言葉を紹介した気がする。ずっと面白い、ずっと楽しい、ずっとワクワクすることは、あり得ない。ただ、面白くないこと、嫌なこと、逃げたいこと、でも、気持ちの持ちようで、なんとかなる、平常心に戻れる、自分を認められる、と思う。この世のことは、修行のような苦しみなのか、自分もまんざらでもない、と思うかで、天と地ほどの差がある。どんな人間でも、総理大臣でも、大企業の社長でも、官僚のトップでも、有名タレントでも、家に帰れば、愚痴を言ったり、自慢話をしたりして、心を平静に保っているのだろう。そうでないと、前に進んでいこうという勇気が出てこないのだ。それは、人の知恵である。それを、自己コントロールできないだろうか。年齢を重ねると、たいていのことは、それほど大きなことではない、まさか命が取られることではない、食事に困ることはないではないか、住む家がないわけではないか、などと考えるようになる。人間関係でも、まあ、目くじらを立てるほどでもない、とか、一度会って、話せばわかることではないか、相手も立場があるし、などと考えるようになる。それは前向きというより、心のクッションなのである。ベッドや布団などの柔らかい敷物の上で考えるイメージなのだ。そうすると、あまり大したことではないと思えてきて、それなら、こうしてみようと、意欲が湧いてくる。新聞に、妹の手作りブラウス藍染を今年も着るんだ夏がきたもの(岩本房子)の句があった。文脈はないが、嬉しそうな気持がにじみ出ていて、はしゃいでいる様子が目に浮かぶ。たぶん、年配者だろう、妹さんは、健在なのかそうではないのか、そして自分で自分を励ましている、今年の夏も良いことがありそうな、そんな気がして、この世の中を生きていくのか。人は、最後は、自分が相談相手になるのだろうか。

年の功

いろいろあって、今は火曜日の昼間だが、ブログを書くことにした。夕方は時間がないので、隙間時間を使って書くのが、効率的なのだ。この後、2つのオンライン会議が入っているので、仕方がない。先ほどは、来客があって、1階の日本間で、座敷テーブルを囲んで、打ち合わせをしたのだが、わざわざ拙宅まで来ていただけるのは、恐縮である。もちろん、仕事の話しで、来週の会議の下打ち合わせなのだが、確かに事前に内容が分かっていると、安心する。どの仕事でも同じで、即、本番ではうまくいかない、準備期間があることで、心構えも違ってくるので、とっさの対応が可能なのだ。事前に資料を持ってこられたが、読むには時間がかかる、どうしようかと思ったら、明日は他県に出張が入っているので、ちょうど良い、電車の中で読もう、と決めたが、世の中はよくできている、ちょうど間に合うように、段取りが運ぶようだ。そう言えば、7月の日程だが、うっかり夕方のセミナーを忘れていて、予定を入れていたが、昨日の会議で、あっと叫んで、予定がダブっていた、すぐにメールを出して、どうしたものか、と日程の変更などの打ち合わせをした。そして、すぐに調整をしたのだが、それは将棋の駒の置き方に似ている、こうすれば、べつの手が動く、ならばこうする、というように、予定を動かすしかない、それがピッタリ収まると、どこか快感が湧く。子供じみたような話だが、うまく収まる、それは体操競技で、着地がピタッと決まるような感覚なのである。まるで、始めから予想したように、会議や仕事の段取りが決まる。時間の無駄がないとは、どこか嬉しい。年齢と共に、なかなか収まりにくくなるが、最近は、どうも時間のやりくりに苦しむようになった、それは理由は分からないが、予約が増えたこと、そして、うっかり予約ミス、つまり忘れ癖が付いたことだ、と自省した。人の名前が出てこないのは、仕方がない。しかし、仕事でも少し物忘れがあるということは、頭の中の整理ができていないことだ。気付いたことは、すぐにメモを取る、手帳に書く、メールを出す、確認する、それもすぐに取り掛かること、時間をおかないことが肝要だ。隙間時間を活用する、という平凡な結論に落ちつく。最近思うことは、仕事の内容の吟味である。これまでの、どうしても、という気負いが少しづつ薄れていって、これは、誰かに任せよう、これは、自分で責任を持とうなどと、考えるようになった、あれほど執着していた事柄も、それほどでもないじゃないか、と思えると、気が楽になる。笑って過ごせるような余裕が生まれる、目くじらを立てなくても、という気持ちになる。新聞に、ひとの名をやっと思い出したるに何の為だかまた忘れたり(鈴木基充)の句があった。身に覚えがあるのか苦笑するしかないが、水の流れに身を任せ、というなら、それも年相応でいいではないか、とも思う。この世には、どうしても間に合わせなければ、という仕事と、なんとかなるさ、という仕事の両方があるらしい、そのどちらもいいではないか、それが年の功ということだろう。

枯れ木

今は、木曜日の昼間、午前11時半なのだが、ブログを書こうと思う。週末の感覚で言えば、金曜か土曜の夕方が良いのだが、日程が難しい。最近は、土日が塞がってしまい、なかなかスポーツジムにも行けない。どうしてだろう、歳を取ってきているのに、なぜか、手帳が埋まってしまい、自分の時間が削られてしまう。昨日の午前は大阪で講演をして、昨日の午後5時くらいに帰宅して、6時からのオンラインセミナーに間に合った。もし遅れたらどうしょうと思ったが、無事にこなせた。自分がホスト役なので、居ないと、とんでもないことになる。何か、綱渡りで、生活しているような気がする。何かの拍子で、躓いたら、電車が遅れたなどでも、後の歯車がすべて止まって、事態は大事になって、狂ってしまう。少なくとも、自分にとっては、そのような感覚だが、世の中は、どこかで、手を差し伸べてくれるようで、無事に通り過ごせた。今日の午前中は、論文の査読があって、といっても、事情を説明しないと理解してもらえないが、10編以上の査読だから、労力がかかるのだ、昨日の大阪からの新幹線の中で、パソコンに目を通したのだが、ふと、うとうとして、はかどらなかった。手帳を見ると、今日の午前がベストだと思って、査読を続けた。もちろん、何日もかけて、査読を継続しているので、最後の確認だが、論文を書いた研究者は、これが命と言ってもよいので、粗末にはあつかえないのだ。だから、論文には、著作権がある、というより、それ以上の存在で、研究者のすべてと言ってもよい。チャットGPTなど、なにおか、いわんや、という気持ちがある。それで、研究者の本心に触れるような気持で、査読するので、時間がかかるのだ。それなら、働き盛りの研究者、論文を書きまくっている若手、若手の中には、まるで、戦争をしている兵士、というか将校のような人もいる。それは競争の激しい分野なのだが、そんな若手に、査読を依頼すればいいではないか、と思うが、午前中の査読は、事情がかなり違うのだ。詳細は書けないが、自分がチェックするしか、他の手段がない。ただし、若手には、少し問題点がある。自分の研究への信念や論文査読の視点が厳し過ぎて、なかなか採録しない傾向がある。それは、論文誌の全体から見れば、問題点なのだ。その点は、自分のような年配者になると、角が取れてきて、まあいいではないか、この点を評価しよう、この点に面白さがある、などのように、欠点よりも、良さに目が行って、査読するようになる。長く生きていると、そんなに目の色を変えるほどでもない、と鷹揚に構えることができる。新聞に、一本の枯れ木に声をかけて行く空に向かって生きたんだねと(菊池秀悦)の句があった。我が身は枯れ木になっているけれど、ずっと長い間、まっすぐに空に向かって伸び続けてきたのか、その姿に、頑張ってきたんだねと、ふと声をかけたくなったのだろう。老いても、まだ世の中に役立つことはある、いや、いっぱいある。

両面を味わう

今日は月曜日、週の始まりだが、ブログを書くことにした。明日は、大阪に出張で、夕方も夜も時間が取れない、ホテルで夕食を済ませたら、すぐに寝てしまいそうで、今書くしかない。今日も、4つのオンライン会議があって、ずっと画面を見ていたから、身体は疲れないが、脳や神経が疲れる。黙って座って画面を見ているだけではない、この歳になっても、発言したくなり、言わなくてもよいことでも、つい話して、後で反省することになる。生まれついた性分なのか、馬鹿な性格なのか、もっと優しく、もっと柔軟に、と思いつつ、つい口を出す。ただ、後々になってみると、あの時は、苦い思いをしたとか、相手にも悪い気分にさせたとか、と思うが、どこかで好転していることが多い。いつも、迷うのだ、ここで相手に合わせようか、いや、言うべきことは言おう、という2つの思いが、葛藤するのだ。楽な道なのか、苦い道なのか、人はいつも迷う。若い時でも、歳をとっても、会議などで、自分の意見を言うのは、なんとなく迷いがある。それでいいのだ、それが人の生き方だろう、などと思って、慰めている。すぐに忘れるといいのだが、少し尾を引くこともある。床に入っても、思い出して反省することもある。昔から、変わらぬ性癖で、家内から反省病だと言われる。小説だのテレビドラマだの、この世の中は、そのような筋書きが見えないので、もがきながら、迷いながら、生きているのだろう。今日は、画面の見っぱなし、目は疲れる、脳が疲れる、心も疲れる、会議の合間に、梅雨空で小雨が降っていても、傘をさして、近所を回る、弘法大師の社、スーパーの前の小川、ローソンの通り、などを一周しても、5分か10分ほどだが、それでも、次の会議に出て発言しよう、という気持ちになるから、運動とは、素晴らしい疲労回復剤なのだ、ふっと頭の重みが消えていく、今日は、そんなことを3回繰り返した。元気が出ないと、人はついてこない、発言も弱くなる、メッセージが相手に届かないのだ。1階の居間に降りて、といっても、会議の合間は、30分から1時間程度だから、疲れたと言って、お茶やコーヒー、栄養ドリンクを飲んだり、スナック菓子を食べても、頭や心は回復しない。身体を動かすことが、最も効果的なことを、今日、体験した。歳を取ってくると、毎朝、飲む薬は決まっている。高血圧などの薬だが、ほとんど習慣なので、効果があるかどうか、分からない。それより、今日の夕飯は何か、と家内に聞く方が、心が弾む、それまで頑張ろうか、と思えば、なにやら子供じみている。新聞に、朝ごとに飲む錠剤は手のひらの生命線に添いつつ転ぶ(岡田孝道)の句があった。年配になると、気持ちが分かる、生命線に注目した所が、面白い。生命線が、この錠剤にゆだねられているようで、自分の命も永くないのか、かろうじて、薬の力を借りて生き永らえているのか、と思う気持ちと、目の前の楽しいこと、夕飯のおかずは、晩酌は、風呂上がりの小説は、などを思う気持ちと両方ある。歳を取るとは、枯れていくことと、子供に戻ることと、両面があるかもしれない。世に無常を感じることと、それでも生きる喜びを感じること、その両面は、矛盾しない。淋しいだけでは、生きていけない、身の回りに、喜びはいっぱいある、せめて、両面を味わいたい。

夢中になる

今は、金曜日の夕方、といっても、明るい空ではない。薄暗く、梅雨入りしそうな曇り空で、どことなく気だるい空の色だ。明日にブログを書いてもよいが、週末と週始めに書くことにしているので、何も断らなくてよいだろう。今日も、午後に3つのオンライン会議があって、そう言えば、今日は外に出ていないことに気が付いた。身体には良くないな、と思いながら、仕事に追われた。面倒な仕事もあるが、その中にも、どこか面白さがあって、一概にすべて気が乗らないということはない。それでも、午前の方が、面白い。すべてが、自分の時間なのだ。取り掛かったのは、資料作りだが、それが終って、別の宿題に取り組んだが、どうにもうまくいかない、詳細を述べるわけにはいかないが、シミュレーションで、データを作り出さねばならない、実際のデータがないから、生み出すしか手はなく、乱数の関数を使うが、それが、まったくの架空ではなく、とは言っても、目的に合う実データは得られない、類似の実験データはあるが、それは、かなり条件が違う、あれやこれやと試行錯誤して、ネットで関数を探したり、マクロでプログラミングできないか考えたり、あっという間に時間が経ってしまった。あれも駄目、これも失敗、などを繰り返して、諦めかけていたが、午前の時間切れに、最適な方法が見つかった。おーと声を上げて、一階の居間に行き、昼食を取った。午後は、1時からのオンライン会議があるので、パンを食べながら、テレビを見ながら、ニヤニヤと思い出し笑いをしたので、家内が怪しそうに見ていたが、食べ終わってから、すぐに書斎に戻った。もう一度確かめたかったからだが、ふと思った、子供がおもちゃに夢中になったり、大人が趣味にのめり込んだり、若い人がタレントに夢中になったりすることと、同じだ。少し知的で上品な気はするが、プログラムを作るのは、ゲームにはまることと、同じだと思っている。講演資料を作っていて、ふと思う、作ることは、何でも面白いし、人を夢中にさせるのか、それは人に与えられた特権かもしれない。昨日は都心で対面の会議があったが、日本を救うのはエリートじゃない、夢中になって仕事をする人だ、という言葉を聞いた。この通りではないが、似たようなフレーズだった。なるほど、夢中になることは、素晴らしいことで、それだけ遠くに飛べるのだ。そんな小さなことでも、夢中になれば、生きていける。新聞に、取説をくり返し読みて掃除機が動きましたよおお五月晴れ(金尾絢子)の句があった。歳を取ると、なかなか機械操作が難しく、パソコンもスマホも苦手になり、まして取説など読んでも分からないことが多いが、この読者は、何度も何度も読んで、ようやく掃除機が動き出した、おお五月晴れ、の言葉に、嬉しさが身体じゅう満開になって、青空に向かって叫びたい気持ちだったのだ、夢中だったのだ。その喜びを何と表現したらいいのか、おお、と感嘆したが、プログラムに成功した、ゲームをクリアした、公演で好きなタレントに会えた、と同じである。それは、子供も大人も若い人も年寄りも、関係ない。夢中とは、年齢を超えて、全身に喜びをもたらす魔法の杖である。

新鮮な気付き

今は、火曜の夕方、ブログを書く日で、書斎の窓から外を見ると、うすどんよりした曇り空で、可もなく不可もなく、とりあえず日が暮れる、という感じである。今日は、どうだったか、と自分に問うてみる。午前は市内の学校訪問があって、その報告を書いて午前は終わって、すぐにお昼だが、12時から13時までにオンライン会議があったが、別段に珍しくもない。会議の時間を調整するのは、至難のことだから、お昼を抜かせば、この時間なら、なんとか皆さんが集まれる。自分は、フリーランスだから、比較的時間の余裕はあるが、現役の先生方は、忙しい、超忙しい人ばかりだから、この時間帯を選ぶことが多い。超党派議連の会合などは、議員会館で、朝8時半という時間が好まれるが、自分は行かない。オンラインでも参加できるので、それで十分である。この歳になると、国会議員の先生であろうと、著名な大学教授であろうと、同じ人間ではないか、という思いがあって、特別な対応はしないが、所属する団体の立場上、代表の顔として、対面で参加しなければならないことがある。それが、仕事なのだから、と言えば、その通りで、役職になると、どの世界でも同じだろう。マネージャーとプレイヤーの違いだが、プレイヤーの方が楽しいに決まっている。役職では、ほとんどが、予算とか決算とか数字を追いかけて、何が面白いのか、たぶん、大企業であっても、面白くないだろう、それでも、会社や団体の顔となれば、それをこなさなければならない。そうして、年月が経っていく、もう6月か、1年の半分近くも過ぎて行ったのか、と思うと、我が身の頼りなさを実感する、実は何もしなかったのか、無為に過ごしてきたのか、いやいや、ともかくも、努力したのだから、まあいいではないか、と我が身を慰める。もう夕方か、このブログを書き終えたら、お風呂に入って、夕食かと思って、なんだ、子供みたいに、夕ご飯を楽しみに、一杯を楽しみに、しているのは、なんと小さなことだろうか、と思う。それにしても、楽しみにしていた午後4時からのオンラインは、予想が外れた内容だったが、後味は、すこぶる良かった。それは、午前の学校訪問も同じで、新しい気付きがあって、知的な興奮を感じたのだが、何気ない生活の一コマ、会議や打ち合わせの一コマ、学校訪問の一コマ、ほんの些細なことで、気付きがあって、それが新鮮な驚きにつながる場合がある。なるほど、刻々と時間が経つということは、すべて違うと言うことだから、新鮮な出来事と言っても良いのか。今日の夕食のおかずに、好物の、ぬた、があると、家内から聞いた。そんなことでも、どこか新鮮なのだ。文脈は離れるが、母の日やぬた茄炒め笹団子(与田博司)の句が新聞にあった。母の日は過ぎたが、美味しそうな食事風景が目に浮かぶ。ぬたは、あの酢味噌味がたまらない、箸がつい出てしまい、お酒がすすむ、ナス炒めは豚肉と味噌味で、一緒に食べるご飯が、飛び切り美味しい、食後だろう、笹団子は素朴な田舎の味がする、どれをとっても、美味しいと言うことは、すべて、新鮮な気付きなのだ。

自己開示

今は、木曜日の夕方なので、ブログを書くには変則的だが、お許しいただきたい。明日は金曜日で、明後日は土曜日だが、世の中は、思い通りにはいかない、また、いかない方が自然である。両日とも、ブログを書く時間が塞がっているし、日曜日も終日仕事で、出かける、良いことだ。仕事は、日常の世界であり、それが大切なことは言うまでもないが、人は時々非日常に出かけて、心や脳が別の部位を刺激されて、また日常に戻る。今日は時間があったので、午前中、皮膚科に行った、理由は、腕にイボができたので、取ってもらうためで、朝、駅前のクリニックに出かけて、ついでの用事も済ませてきたので、効率が良かった。家内に、あの医院は人気で、混むから、朝早く行ったほうが良い、という忠告にしたがったが、正解だった。いとも簡単に取り除き、お風呂上りに、膏薬を塗って絆創膏を張るだけで、1週間で終わりと言うから、まあ、かすり傷のようなものだが、それでも、イボができるのは、どこか違和感があったので、平常ではない気持ちだったのだろう。文脈が外れるが、最近のNHKニュースで、不登校児童生徒数が増えているという。また、信じられないような、恐ろしい殺人事件などが、頻発しているし、芸能人の摩訶不思議な事件が、起きている。それは、自分たちのような凡人とは違うとはいえ、非日常の怖さを感じる。不登校の子供たちに、何が起きたのだろうか、学校という宝石のような、桃源郷のような、と自分には思えるのだが、そこに出かけるのは非日常で、自宅で生活するほうが日常で、心が落ち着くのだろうか。殺人事件や芸能人の異常な世界には、何も言えないし、関わりたくないが、凡人の日常生活が、彼らにとっては、居心地の悪い世界で、そこから飛び出したいのかもしれない。どうしたらいいのだろうか、と言っても、この大問題にブログで書けるはずもないが、不登校のニュースを聞いて、ふと昔の研究を思い出した。詳細は書けないが、20年位前だったと思うが、当時はまだパソコン通信の時代だったが、パソコンで電子メールでやりとりすることで、不登校が改善しないかという、当時としては、誰もが首を傾げるような方法だったが、見事に成功した。不登校だった10名の子供たちは、1年後には、すべて登校できるようになった。この研究は、自分が手掛け、その後、大学院生に引き継いだが、そこでも同じような成功例を導いた。メールの中身を分析して得られた結果は、どれだけ、自分の姿を書いているか、それを自己開示と呼ぶが、その量によって、改善が決まるという知見だった。このことは、今でもしっかりと、自分の中に根付いていて、その通りだと、信じている。どれだけ、自分の本当の姿を、書けるのか、外化できるのか、他人に語って聞かせることができるのか、である。不登校の子供達も、殺人を犯した青年も、異常な事件を起こした芸能人も、自分の気持ちを赤裸々に打ち明けることができたら、誰かが聞いてあげたら、救いの道もあったのではないだろうか。新聞に、相槌を打ちつつ病状をきく医師の津軽訛りにこころの和む(安田渓子)の句があった。投稿者は青森市と記されている。医者とは、こういう存在なのか、否、教師も、企業の上司も、すべての人は、この医者のようでありたい。対峙する相手が、本当の自分を語れるような存在でありたい。

世の中の楽しみ

今日のブログは書きにくい、しかも、今は火曜日の午前である。今日の夕方が定例のブログ書きの時間だが、事情がある。この事情は、まったく私的な都合なので、なんだ、そんなことをしているのか、と軽蔑されそうな気がしているからだ。ベトナムに来て、純粋な観光旅行をして、今日が最終日で、ホテルでパソコン画面に向かっている。土曜に成田空港を出発して、今日帰国するのだが、別にやましいことは何もないのだが、日本人は、というより、自分が、他人に言いにくいのは、平日だからだろう。所属する団体には、休暇というか、会議を欠席することの了解を得ている、しかも、4月と5月は前日まで忙しく、久しぶりの海外旅行をしたくて、以前から計画していた。老夫婦で参加したJTBツアーで、乾季の真っただ中、夜に少しの雨が降るが、日中は、カンカン照り、日差しがきつく、汗をいっぱいかいて、レストランで飲むビールの味がたまらない。バスで、名所旧跡を辿り、誰でも経験する観光コースだが、コロナ以前に数回来ているが、申し込む時点から、もうすっかり忘れていて、そうだ、ここは、あの遺跡だ、と思い出す始末だが、何回来ても、観光は楽しい。しかも、歩く歩数が半端ではなく、運動量を考えれば、スポーツジムに行ったことと変わらない。ホテルのWiFiに繋げば、仕事が途絶えることはなく、メールの受信者は、海外からとは思わないから、平常と変わらないのだ。有難い、海外での観光という非日常を経験しながら、ホテルに戻れば、日常を過ごしているのは、文明の賜物である。この国では、今は、学校が夏休みだそうで、観光地は、人人であふれ、物売りの声が響き、ビーチでは海水浴を楽しむ人など、コロナ以前と変わらのだ、というより、昭和の日本のような気がする。成田空港、それは羽田空港とは、少し感じ方が違う、海外という少し異文化の匂いがして、非日常の感覚を刺激するようだ。飛行機の中で、パソコンで仕事ができた、その嬉しさは、どう表現したらいいのだろうか。よく遊びよく学びとは、健康という言葉と同義語かもしれない、真夏の太陽の元で、歩き、観光巡りをし、汗いっぱいの体を、レストランでの食事で、冷たいビールが元気を取り戻す、なんと非日常なのか、昼間からアルコールとは、お正月以外は、あり得ない。なるほど、人は、平常通り仕事をし、1日の勤めが終わったら、夕食時に好きなワインでもウイスキーでも飲む、これが、昼間にビールを飲む、まあ、なんと贅沢なと思うので、気が引けて、ブログで白状しにくかったのだが、まあ、いいか。新聞に、汗にじむ野良着を脱ぎていそいそと投票にゆく風薫る道(熊田敏夫)の句があった。この、いそいそと、の文字が、どこかウキウキする気持ちを表している。投票も、そういえば、非日常である。今頃の季節の風は、薫風で、肌に優しい、その風を感じながら、投票所に行く様は、観光旅行に出かけることと、心情的には変わらないのかもしれない。人は、こうして、世の中の楽しさを見つけて、過ごすのか、ささやかな庶民の知恵である。

赤のれん

今は、金曜日の夕方、ブログを書くには変則的だが、事情は書けないが、今日しか時間がない。世の中は、なかなか自分の思い通りにはいかないことは、百も承知しているが、それでも凡人の身としては、なるべく都合の良いことが起きないか、と考えている。誰でも、そんな思いで過ごしているのだろうが、棚からぼた餅はあり得ない、と思いつつ、どこかそんな期待をするのだろうか、詳細は書けないが、時折、そんなことを考える。今日も、1日が終ろうとしている、天気が良いので、窓の外は明るい、明るい空を見ると、心が癒されて、穏やかな気持ちになるが、そうやって、人は日々を過ごしているのだろうか。面白きことのなき世を面白く、とは、高杉晋作の句らしいが、昔から、英雄も凡人も、同じようなことを考えるらしい。国を二分するような大それた仕事は、面白いのか面白くないのか、わからないが、庶民は、些細な仕事をして、些細な心配事を抱えて、些細な喜びを味わうものらしい。たまに、嬉しいことが起きるが、それが続くことは、めったになく、後は平凡な日々が続く、それでも、平凡であることは、有難いことで、ニュースで流れるような出来事は、ほとんどが、恐怖か、信じられないようなことばかりで、平凡とは程遠い、あの世のことか、と見紛うようなことばかりである。それに比べれば、自分は、正常な神経で暮らせるだけで、この上ない幸せな生活をしている。ほとんどの人は、その幸せの中に包まれているのだが、それは、なかなか自覚できないので、ときどき暗い顔をするのだろう。今日は、まあ、あまり書くこともなく、短めに終わるとするか、と思い、新聞を見ると、女湯ののれんの赤に夏兆す(久保栞)の句があった。何か、なまめかしい感じもするが、確かにお風呂屋の女湯は、赤いのれんである。近所に、お風呂屋があるが、常連客がいるようで、昼間から並んで開店する時間を待っている。赤のれんを見ると、夏を連想するのか、分からないでもない、浴衣で身を包み、赤のれんをくぐるのは、どこか江戸情緒をような光景なので、ほっとするのか、小さな喜びを感じるのだろう、文脈はないが、そんな季節になりかかっている。はて、タイトルは何にしたらいいのか、今日は、どうも、読んでいただける方々に、お詫びしたい心境である。赤のれん、とは、何とも芸がない。