厳しい世界

今は、月曜の夕方である、言うまでもなく、明日は対面での会議と講演があって、出かけなければならない、帰宅が夜になるので、今日ブログを書いている。考えてみれば、たかがブログと言えども、なかなか時間を生み出すのは容易ではない。誰しも、普段は当たり前とか、なんだ、この程度か、と思っても、やってみると、意外に難しいことは、経験している。今日も、何回もそんなことがあった。先ほどのオンラインでも、たぶん、こうなるだろう、というより、こうならないなどあり得ないと思うことが、現実に起きている。世の中は、本当に分からないことだらけだ、どうしてだろう、と思うと、それは、思い込みなのだ。これまでの経験からして、こうだと断言できることが、そうならないのは、その思い込みが強いからかも知れない。以前に、自分は頑固な年寄りになりたくないと、書いた、出来れば、ニコニコして世を達観したような顔をして、好々爺になりたい、とも書いたが、なかなかそれは難しいかもしれない。毒にも薬にもならず、大した役にも立たないが、若い者に任せて、機嫌よく応援する爺になることを夢見た、が、小説やドラマのようにはいかない。それは、現実に生きているから、仕事をしているから、組織に属しているから、山あり谷ありの浮き沈みが起きる。オンラインであっても、難しい話もある、厳しい言葉のやりとりもある、それでいいのだ、と言いながら、内心は、穏やかな日々を望んでいる。昨日は日曜日、1ヵ月近くもスポーツジムに行けなかったが、ようやく行けた。帰宅したら、録画している将棋番組などを観るが、大逆転の勝負だった。負けた棋士は、この世がひっくり返ったような怖さを知った、どんなにか指した一手を悔やんだろうか。日曜の夜は大河ドラマを観るが、昨日は、家康が、我が妻、我が息子の自害を、滂沱の涙を流しながも、認めるしか手がなかった。うーん、なんとこの世は、悲哀に満ちているのだろうか、棋士もプロだから、遊びではなく、人生をかけて戦っている、そして、一手のミスで負ける、生きることの意味さえ失うような表情をしたが、心情においては、戦国時代の武士と変わらないだろう。楽をしたい、そう思うのは人情だが、すべてはそうはいかないことも、認識しなければならない。どうすればいいのか、スポーツジムでプールで泳ぐことは、まるで極楽で、棋士や武士に比べれば、天と地のような差がある。小さなことだが、会議でも、浮き沈みがある、それでも、なんとかやりくりをしながら、生活をしている。その中に、どこか生き甲斐とか楽しさとか自己実現の喜びを感じたりするから、人生は分からない。扇子措(お)く話いよいよ難しく(石田わたる)の俳句が、新聞にあった。難しい局面になって、扇子で扇いでいる余裕がない、目も血走っているかもしれない、難しくなると、たぶん、胃も痛むだろう。そのような中でも、生き甲斐を感じ、面白さを味わう人はいるのだろうか、棋士は、そうかもしれない、思えば、勝ち負けなど、紙一重の差であり、プロはギリギリで頑張っているのだ。そこまで出し切って、戦っているので、厳しい世界であっても、離れられないのだろう。この世は、なんと厳しいのだろう、厳しいから続けられる、生きていけると書けば、叱られるかもしれない。

総会

今日も忙しい1日だった、木曜の夕方だが、ブログを書く。明日と明後日の金土は、都内と他県で用事があって、夕方に時間が取れないからだ。明日は、所属する団体の総会があって、都内に出かけなければならない。明後日も、講演があって、帰りが遅くなる。いづれも、夕方に懇親会が設定されていて、立場上、断れない。これも、仕事の内だから、文句は言えないだろう。人には、好きなことと苦手なことが、誰でもあるが、自分は、というより、誰でも、形式的な会議は苦手というより、面白くはないだろう。世間では、無難に通過することを願うが、総会はその通りだが、通常の理事会は違う。参加した理事の全員が発言できるように、自分は配慮しているので、それなりに、盛り上がる。盛り上がるように仕切ることが、会長の務めだと心得ているので、形式的ではない。だが、総会では事情が違って、なにしろ1分単位で、議事進行のプログラムが組まれているので、余分なことは話せない、臨機応変に、ではなく、予定通り、進行すように仕切るのが、会長の役目である。否、そうではなくて、事務局長が仕切るのであって、会長は、儀礼的な決議をする役目なので、プログラムの進行通りに、そのままの文章を読むしかない。その準備の打ち合わせが、今日の午後にオンラインであった。苦手な役割と思っていたが、今日の打ち合わせで、総会の進行がイメ―ジできると、どこか余裕が出てきて、明日は、無事だけではなく、せっかく参加していただく会員の皆さんに喜んでいただこう、という気持ちになる。団体の職員は、言わばホスト役であり、会員の皆さんがゲスト役だと心得ると、対応の仕方が、自然にできる。懇親会では、皆さんに分け隔てなく、ビールを注いで回ろうとか、出会ったら、明るい笑顔で挨拶しようとか、名刺はいつでも出せるようにしようとか、心構えが出来てくる。物事がうまく行くか行かないかは、ここが分かれ目ではないかと思う。自分の立場は何なのか、を自覚しないと、心が決まらないのだ。それが決まれば、どんな人にでも、頭を下げることができる、お礼を言うことができる、ありがとうと感謝を態度で示すことができる、形式的な会議であったとしても、人の誠意は伝わる。それは、これまでのすべてのオンライン理事会でも、気持ちは画面を通じて、必ず伝わる、それは何度も経験しているが、そのような研究論文もある。しかも、明日は、4年ぶりの対面とオンラインのハイブリッドの総会と理事会なので、満面の笑顔で出迎えたい。来ていただけるだけで有難いのだ。新聞に、四年振り友との会話弾みけり振り返る人に会釈で詫びる(寺岡美聖子)の句があった。本当に、その通りだ、明日は会話も弾むだろう、会釈で詫びる人もいるだろう、久し振りの対面で、嬉しい懇親会になると良い。人は、本来は、対面で話せば分かる、食事を共にすれば、わだかまりも溶ける、お酒を飲めば、笑顔で会話ができる、肩を組み合って話したい心情に駆られるかもしれない。そう期待して、明日の総会に臨みたい。

時の流れのままに

今は、月曜日の午前10時半、何故ブログを書くのか、これしか時間が取れないからだが、それにしても変則なのは、11時からオンラインが始まるので、20分程度しか時間がなく、自分の計算では、お昼時間に30分、夕方に20分程度を確保して、と考えている。推敲時間がかかるので、1時間では無理で、1時間より余分な時間が必要なのだ。筆の向くままなので、書きっぱなしなら1時間だが、誤字脱字があるので、チェックする時間が必要だ。土曜日に書いたのに、と思うが、今週の金曜土曜は夜遅く帰宅予定なので、木曜日の夕方を確保しているのだが、そうすると月曜日くらいには書かないと、と思い、計画した。月曜日は、新聞に歌壇欄に俳句や短歌が掲載されるので、それを引用することが慣例なので、よし、この小刻みな20分や30分を使おう、と決意した。たかがブログで、そう気張ることもないのだが、初めてのことは、どこか不安があるので、そう書くことで、逃れられないからである。さて、何を書くのか、今週はまだ何も始まっていない、昨日は、日曜日だが、オンラインのシンポジウムに参加したので、勉強になった。この内容は面白く、自分とは専門の違う先生方の話は、なるほど、と素直に頷ける、これが自分の専門に近いと、どこか粗が見えてきて、そうではない、と言いたくなるから、人間とはやっかいな生き物だと思う。相手を認めること、そうありたいと思いつつ、いや、そうではない、と少しばかりの知識を持ち出して、議論したくなるから、本当に専門とは何か、良いことはあるのか、ネットで調べれば、それ以上の知識は直ちに得られるのに、と思うこともある。自分の知らないことの知識に触れることは楽しいし、得をした気分になるが、何故だろう、本音は、知識ではなくて、心のひだに触れるとか、感情が揺さぶられるとか、目から鱗のような、革新的なのだが、言葉は優しく、胸にストーンと落ちるような、対話を期待している。そんな無理な、と思いつつ、人間の心情とは、そのようなものではないか。ここらで、下書き保存しておこう。今は、お昼休みだが、再開しよう、1時から用事が入っているのだが、先ほどのオンライン会議の余韻が脳裏に残っている。内容もさることながら、その場の雰囲気とかやりとりの優しさや刺々しさが、残るのだ。どんな会議でも、山あり谷ありで、小さな振幅なのだが、それが、最も人間にとって、印象に残っている。人は、本質的には、理性的ではなくて、感覚的な存在ではないだろうか。特に、歳を取ってくると、切った張ったとか、勝った負けたとか、そのような世界から少しずつ距離感がでてきて、あいまいさ、ぼかし、などのように、油絵から水墨画に移っていくようだ。何か、そんな感覚が似合ってくるのは、やはり日本人だからなのか。今は、もう、締め切りに追われ、ウーンと考え、というよりも、気楽なほうが良い、と思う反面、原稿とか講演とかセミナーなどでは、ここは、これまでにはない新鮮な内容で、あっと思うような出来ばえにしたい、とも思う。どちらも、真実なのだが、少しづつ少しづつ、水墨画のほうに、収束していくようだ。新聞に、摘む人も刈る人も無く夏蓬(よもぎ)(一色正明)の句があった。ヨモギの草か、草餅を食べた思い出はあるが、特に感慨はないのだが、いかにも初夏らしい風情があって、すぐに胸の中に入ってくる。季節は移っていく、人は時の流れのままに、年老いていくようだ。この時間で終わったので、50分で書けた。

相談相手

今は、土曜日の朝の時刻だが、この後の事情があって、夕方でなく、今ブログを書く。最近は、なぜか資料作りが多く、その時間が必要なので、時間を工夫しなければならない。世の中で、働き盛りの人は、時間に追われ、時間を小刻みにして、仕事を割り振っているだろう。昔、同僚でよく言っていたが、人間には、食欲、性欲などの他に、仕事欲があるらしい、仕事のオファーが来るたびに、心のどこかが浮足立って、おお、とか言いながら、内面で喜んでいる。夕食時に、家内に、今日はこんなことがあった、まんざらでもないな、とか、まだまだ俺は大丈夫だ、とか、あの時に、こんな発言をしたので場が動いた、など、たわいもないことを言って、自己満足している。男は、一般的にだが、誰かに、自慢したい欲望を持っているらしく、それが仕事欲のはけ口で、仕事仲間に言うと、ひんしゅくを買うし、子供には言えないし、一番手っ取り早いのは、家内だろう。たぶん、聞くほうも嫌だろうが、まあ、他に言う人もいないから、聞いておこう程度しか思っていないだろう。思えば、仕事をする人、男も女も、なんとかやってみて、うまくいくと、子供のように喜び、失敗すると、愚痴をいったり、酒を飲んで憂さを晴らしたり、人はいつも大なり小なり、もがいているのかもしれない。その連続が、人生なのだろう。このブログでも、山本周五郎の小説で、苦しみても、なお働け、この世は修行である、という言葉を紹介した気がする。ずっと面白い、ずっと楽しい、ずっとワクワクすることは、あり得ない。ただ、面白くないこと、嫌なこと、逃げたいこと、でも、気持ちの持ちようで、なんとかなる、平常心に戻れる、自分を認められる、と思う。この世のことは、修行のような苦しみなのか、自分もまんざらでもない、と思うかで、天と地ほどの差がある。どんな人間でも、総理大臣でも、大企業の社長でも、官僚のトップでも、有名タレントでも、家に帰れば、愚痴を言ったり、自慢話をしたりして、心を平静に保っているのだろう。そうでないと、前に進んでいこうという勇気が出てこないのだ。それは、人の知恵である。それを、自己コントロールできないだろうか。年齢を重ねると、たいていのことは、それほど大きなことではない、まさか命が取られることではない、食事に困ることはないではないか、住む家がないわけではないか、などと考えるようになる。人間関係でも、まあ、目くじらを立てるほどでもない、とか、一度会って、話せばわかることではないか、相手も立場があるし、などと考えるようになる。それは前向きというより、心のクッションなのである。ベッドや布団などの柔らかい敷物の上で考えるイメージなのだ。そうすると、あまり大したことではないと思えてきて、それなら、こうしてみようと、意欲が湧いてくる。新聞に、妹の手作りブラウス藍染を今年も着るんだ夏がきたもの(岩本房子)の句があった。文脈はないが、嬉しそうな気持がにじみ出ていて、はしゃいでいる様子が目に浮かぶ。たぶん、年配者だろう、妹さんは、健在なのかそうではないのか、そして自分で自分を励ましている、今年の夏も良いことがありそうな、そんな気がして、この世の中を生きていくのか。人は、最後は、自分が相談相手になるのだろうか。

年の功

いろいろあって、今は火曜日の昼間だが、ブログを書くことにした。夕方は時間がないので、隙間時間を使って書くのが、効率的なのだ。この後、2つのオンライン会議が入っているので、仕方がない。先ほどは、来客があって、1階の日本間で、座敷テーブルを囲んで、打ち合わせをしたのだが、わざわざ拙宅まで来ていただけるのは、恐縮である。もちろん、仕事の話しで、来週の会議の下打ち合わせなのだが、確かに事前に内容が分かっていると、安心する。どの仕事でも同じで、即、本番ではうまくいかない、準備期間があることで、心構えも違ってくるので、とっさの対応が可能なのだ。事前に資料を持ってこられたが、読むには時間がかかる、どうしようかと思ったら、明日は他県に出張が入っているので、ちょうど良い、電車の中で読もう、と決めたが、世の中はよくできている、ちょうど間に合うように、段取りが運ぶようだ。そう言えば、7月の日程だが、うっかり夕方のセミナーを忘れていて、予定を入れていたが、昨日の会議で、あっと叫んで、予定がダブっていた、すぐにメールを出して、どうしたものか、と日程の変更などの打ち合わせをした。そして、すぐに調整をしたのだが、それは将棋の駒の置き方に似ている、こうすれば、べつの手が動く、ならばこうする、というように、予定を動かすしかない、それがピッタリ収まると、どこか快感が湧く。子供じみたような話だが、うまく収まる、それは体操競技で、着地がピタッと決まるような感覚なのである。まるで、始めから予想したように、会議や仕事の段取りが決まる。時間の無駄がないとは、どこか嬉しい。年齢と共に、なかなか収まりにくくなるが、最近は、どうも時間のやりくりに苦しむようになった、それは理由は分からないが、予約が増えたこと、そして、うっかり予約ミス、つまり忘れ癖が付いたことだ、と自省した。人の名前が出てこないのは、仕方がない。しかし、仕事でも少し物忘れがあるということは、頭の中の整理ができていないことだ。気付いたことは、すぐにメモを取る、手帳に書く、メールを出す、確認する、それもすぐに取り掛かること、時間をおかないことが肝要だ。隙間時間を活用する、という平凡な結論に落ちつく。最近思うことは、仕事の内容の吟味である。これまでの、どうしても、という気負いが少しづつ薄れていって、これは、誰かに任せよう、これは、自分で責任を持とうなどと、考えるようになった、あれほど執着していた事柄も、それほどでもないじゃないか、と思えると、気が楽になる。笑って過ごせるような余裕が生まれる、目くじらを立てなくても、という気持ちになる。新聞に、ひとの名をやっと思い出したるに何の為だかまた忘れたり(鈴木基充)の句があった。身に覚えがあるのか苦笑するしかないが、水の流れに身を任せ、というなら、それも年相応でいいではないか、とも思う。この世には、どうしても間に合わせなければ、という仕事と、なんとかなるさ、という仕事の両方があるらしい、そのどちらもいいではないか、それが年の功ということだろう。

枯れ木

今は、木曜日の昼間、午前11時半なのだが、ブログを書こうと思う。週末の感覚で言えば、金曜か土曜の夕方が良いのだが、日程が難しい。最近は、土日が塞がってしまい、なかなかスポーツジムにも行けない。どうしてだろう、歳を取ってきているのに、なぜか、手帳が埋まってしまい、自分の時間が削られてしまう。昨日の午前は大阪で講演をして、昨日の午後5時くらいに帰宅して、6時からのオンラインセミナーに間に合った。もし遅れたらどうしょうと思ったが、無事にこなせた。自分がホスト役なので、居ないと、とんでもないことになる。何か、綱渡りで、生活しているような気がする。何かの拍子で、躓いたら、電車が遅れたなどでも、後の歯車がすべて止まって、事態は大事になって、狂ってしまう。少なくとも、自分にとっては、そのような感覚だが、世の中は、どこかで、手を差し伸べてくれるようで、無事に通り過ごせた。今日の午前中は、論文の査読があって、といっても、事情を説明しないと理解してもらえないが、10編以上の査読だから、労力がかかるのだ、昨日の大阪からの新幹線の中で、パソコンに目を通したのだが、ふと、うとうとして、はかどらなかった。手帳を見ると、今日の午前がベストだと思って、査読を続けた。もちろん、何日もかけて、査読を継続しているので、最後の確認だが、論文を書いた研究者は、これが命と言ってもよいので、粗末にはあつかえないのだ。だから、論文には、著作権がある、というより、それ以上の存在で、研究者のすべてと言ってもよい。チャットGPTなど、なにおか、いわんや、という気持ちがある。それで、研究者の本心に触れるような気持で、査読するので、時間がかかるのだ。それなら、働き盛りの研究者、論文を書きまくっている若手、若手の中には、まるで、戦争をしている兵士、というか将校のような人もいる。それは競争の激しい分野なのだが、そんな若手に、査読を依頼すればいいではないか、と思うが、午前中の査読は、事情がかなり違うのだ。詳細は書けないが、自分がチェックするしか、他の手段がない。ただし、若手には、少し問題点がある。自分の研究への信念や論文査読の視点が厳し過ぎて、なかなか採録しない傾向がある。それは、論文誌の全体から見れば、問題点なのだ。その点は、自分のような年配者になると、角が取れてきて、まあいいではないか、この点を評価しよう、この点に面白さがある、などのように、欠点よりも、良さに目が行って、査読するようになる。長く生きていると、そんなに目の色を変えるほどでもない、と鷹揚に構えることができる。新聞に、一本の枯れ木に声をかけて行く空に向かって生きたんだねと(菊池秀悦)の句があった。我が身は枯れ木になっているけれど、ずっと長い間、まっすぐに空に向かって伸び続けてきたのか、その姿に、頑張ってきたんだねと、ふと声をかけたくなったのだろう。老いても、まだ世の中に役立つことはある、いや、いっぱいある。

両面を味わう

今日は月曜日、週の始まりだが、ブログを書くことにした。明日は、大阪に出張で、夕方も夜も時間が取れない、ホテルで夕食を済ませたら、すぐに寝てしまいそうで、今書くしかない。今日も、4つのオンライン会議があって、ずっと画面を見ていたから、身体は疲れないが、脳や神経が疲れる。黙って座って画面を見ているだけではない、この歳になっても、発言したくなり、言わなくてもよいことでも、つい話して、後で反省することになる。生まれついた性分なのか、馬鹿な性格なのか、もっと優しく、もっと柔軟に、と思いつつ、つい口を出す。ただ、後々になってみると、あの時は、苦い思いをしたとか、相手にも悪い気分にさせたとか、と思うが、どこかで好転していることが多い。いつも、迷うのだ、ここで相手に合わせようか、いや、言うべきことは言おう、という2つの思いが、葛藤するのだ。楽な道なのか、苦い道なのか、人はいつも迷う。若い時でも、歳をとっても、会議などで、自分の意見を言うのは、なんとなく迷いがある。それでいいのだ、それが人の生き方だろう、などと思って、慰めている。すぐに忘れるといいのだが、少し尾を引くこともある。床に入っても、思い出して反省することもある。昔から、変わらぬ性癖で、家内から反省病だと言われる。小説だのテレビドラマだの、この世の中は、そのような筋書きが見えないので、もがきながら、迷いながら、生きているのだろう。今日は、画面の見っぱなし、目は疲れる、脳が疲れる、心も疲れる、会議の合間に、梅雨空で小雨が降っていても、傘をさして、近所を回る、弘法大師の社、スーパーの前の小川、ローソンの通り、などを一周しても、5分か10分ほどだが、それでも、次の会議に出て発言しよう、という気持ちになるから、運動とは、素晴らしい疲労回復剤なのだ、ふっと頭の重みが消えていく、今日は、そんなことを3回繰り返した。元気が出ないと、人はついてこない、発言も弱くなる、メッセージが相手に届かないのだ。1階の居間に降りて、といっても、会議の合間は、30分から1時間程度だから、疲れたと言って、お茶やコーヒー、栄養ドリンクを飲んだり、スナック菓子を食べても、頭や心は回復しない。身体を動かすことが、最も効果的なことを、今日、体験した。歳を取ってくると、毎朝、飲む薬は決まっている。高血圧などの薬だが、ほとんど習慣なので、効果があるかどうか、分からない。それより、今日の夕飯は何か、と家内に聞く方が、心が弾む、それまで頑張ろうか、と思えば、なにやら子供じみている。新聞に、朝ごとに飲む錠剤は手のひらの生命線に添いつつ転ぶ(岡田孝道)の句があった。年配になると、気持ちが分かる、生命線に注目した所が、面白い。生命線が、この錠剤にゆだねられているようで、自分の命も永くないのか、かろうじて、薬の力を借りて生き永らえているのか、と思う気持ちと、目の前の楽しいこと、夕飯のおかずは、晩酌は、風呂上がりの小説は、などを思う気持ちと両方ある。歳を取るとは、枯れていくことと、子供に戻ることと、両面があるかもしれない。世に無常を感じることと、それでも生きる喜びを感じること、その両面は、矛盾しない。淋しいだけでは、生きていけない、身の回りに、喜びはいっぱいある、せめて、両面を味わいたい。

夢中になる

今は、金曜日の夕方、といっても、明るい空ではない。薄暗く、梅雨入りしそうな曇り空で、どことなく気だるい空の色だ。明日にブログを書いてもよいが、週末と週始めに書くことにしているので、何も断らなくてよいだろう。今日も、午後に3つのオンライン会議があって、そう言えば、今日は外に出ていないことに気が付いた。身体には良くないな、と思いながら、仕事に追われた。面倒な仕事もあるが、その中にも、どこか面白さがあって、一概にすべて気が乗らないということはない。それでも、午前の方が、面白い。すべてが、自分の時間なのだ。取り掛かったのは、資料作りだが、それが終って、別の宿題に取り組んだが、どうにもうまくいかない、詳細を述べるわけにはいかないが、シミュレーションで、データを作り出さねばならない、実際のデータがないから、生み出すしか手はなく、乱数の関数を使うが、それが、まったくの架空ではなく、とは言っても、目的に合う実データは得られない、類似の実験データはあるが、それは、かなり条件が違う、あれやこれやと試行錯誤して、ネットで関数を探したり、マクロでプログラミングできないか考えたり、あっという間に時間が経ってしまった。あれも駄目、これも失敗、などを繰り返して、諦めかけていたが、午前の時間切れに、最適な方法が見つかった。おーと声を上げて、一階の居間に行き、昼食を取った。午後は、1時からのオンライン会議があるので、パンを食べながら、テレビを見ながら、ニヤニヤと思い出し笑いをしたので、家内が怪しそうに見ていたが、食べ終わってから、すぐに書斎に戻った。もう一度確かめたかったからだが、ふと思った、子供がおもちゃに夢中になったり、大人が趣味にのめり込んだり、若い人がタレントに夢中になったりすることと、同じだ。少し知的で上品な気はするが、プログラムを作るのは、ゲームにはまることと、同じだと思っている。講演資料を作っていて、ふと思う、作ることは、何でも面白いし、人を夢中にさせるのか、それは人に与えられた特権かもしれない。昨日は都心で対面の会議があったが、日本を救うのはエリートじゃない、夢中になって仕事をする人だ、という言葉を聞いた。この通りではないが、似たようなフレーズだった。なるほど、夢中になることは、素晴らしいことで、それだけ遠くに飛べるのだ。そんな小さなことでも、夢中になれば、生きていける。新聞に、取説をくり返し読みて掃除機が動きましたよおお五月晴れ(金尾絢子)の句があった。歳を取ると、なかなか機械操作が難しく、パソコンもスマホも苦手になり、まして取説など読んでも分からないことが多いが、この読者は、何度も何度も読んで、ようやく掃除機が動き出した、おお五月晴れ、の言葉に、嬉しさが身体じゅう満開になって、青空に向かって叫びたい気持ちだったのだ、夢中だったのだ。その喜びを何と表現したらいいのか、おお、と感嘆したが、プログラムに成功した、ゲームをクリアした、公演で好きなタレントに会えた、と同じである。それは、子供も大人も若い人も年寄りも、関係ない。夢中とは、年齢を超えて、全身に喜びをもたらす魔法の杖である。

新鮮な気付き

今は、火曜の夕方、ブログを書く日で、書斎の窓から外を見ると、うすどんよりした曇り空で、可もなく不可もなく、とりあえず日が暮れる、という感じである。今日は、どうだったか、と自分に問うてみる。午前は市内の学校訪問があって、その報告を書いて午前は終わって、すぐにお昼だが、12時から13時までにオンライン会議があったが、別段に珍しくもない。会議の時間を調整するのは、至難のことだから、お昼を抜かせば、この時間なら、なんとか皆さんが集まれる。自分は、フリーランスだから、比較的時間の余裕はあるが、現役の先生方は、忙しい、超忙しい人ばかりだから、この時間帯を選ぶことが多い。超党派議連の会合などは、議員会館で、朝8時半という時間が好まれるが、自分は行かない。オンラインでも参加できるので、それで十分である。この歳になると、国会議員の先生であろうと、著名な大学教授であろうと、同じ人間ではないか、という思いがあって、特別な対応はしないが、所属する団体の立場上、代表の顔として、対面で参加しなければならないことがある。それが、仕事なのだから、と言えば、その通りで、役職になると、どの世界でも同じだろう。マネージャーとプレイヤーの違いだが、プレイヤーの方が楽しいに決まっている。役職では、ほとんどが、予算とか決算とか数字を追いかけて、何が面白いのか、たぶん、大企業であっても、面白くないだろう、それでも、会社や団体の顔となれば、それをこなさなければならない。そうして、年月が経っていく、もう6月か、1年の半分近くも過ぎて行ったのか、と思うと、我が身の頼りなさを実感する、実は何もしなかったのか、無為に過ごしてきたのか、いやいや、ともかくも、努力したのだから、まあいいではないか、と我が身を慰める。もう夕方か、このブログを書き終えたら、お風呂に入って、夕食かと思って、なんだ、子供みたいに、夕ご飯を楽しみに、一杯を楽しみに、しているのは、なんと小さなことだろうか、と思う。それにしても、楽しみにしていた午後4時からのオンラインは、予想が外れた内容だったが、後味は、すこぶる良かった。それは、午前の学校訪問も同じで、新しい気付きがあって、知的な興奮を感じたのだが、何気ない生活の一コマ、会議や打ち合わせの一コマ、学校訪問の一コマ、ほんの些細なことで、気付きがあって、それが新鮮な驚きにつながる場合がある。なるほど、刻々と時間が経つということは、すべて違うと言うことだから、新鮮な出来事と言っても良いのか。今日の夕食のおかずに、好物の、ぬた、があると、家内から聞いた。そんなことでも、どこか新鮮なのだ。文脈は離れるが、母の日やぬた茄炒め笹団子(与田博司)の句が新聞にあった。母の日は過ぎたが、美味しそうな食事風景が目に浮かぶ。ぬたは、あの酢味噌味がたまらない、箸がつい出てしまい、お酒がすすむ、ナス炒めは豚肉と味噌味で、一緒に食べるご飯が、飛び切り美味しい、食後だろう、笹団子は素朴な田舎の味がする、どれをとっても、美味しいと言うことは、すべて、新鮮な気付きなのだ。

自己開示

今は、木曜日の夕方なので、ブログを書くには変則的だが、お許しいただきたい。明日は金曜日で、明後日は土曜日だが、世の中は、思い通りにはいかない、また、いかない方が自然である。両日とも、ブログを書く時間が塞がっているし、日曜日も終日仕事で、出かける、良いことだ。仕事は、日常の世界であり、それが大切なことは言うまでもないが、人は時々非日常に出かけて、心や脳が別の部位を刺激されて、また日常に戻る。今日は時間があったので、午前中、皮膚科に行った、理由は、腕にイボができたので、取ってもらうためで、朝、駅前のクリニックに出かけて、ついでの用事も済ませてきたので、効率が良かった。家内に、あの医院は人気で、混むから、朝早く行ったほうが良い、という忠告にしたがったが、正解だった。いとも簡単に取り除き、お風呂上りに、膏薬を塗って絆創膏を張るだけで、1週間で終わりと言うから、まあ、かすり傷のようなものだが、それでも、イボができるのは、どこか違和感があったので、平常ではない気持ちだったのだろう。文脈が外れるが、最近のNHKニュースで、不登校児童生徒数が増えているという。また、信じられないような、恐ろしい殺人事件などが、頻発しているし、芸能人の摩訶不思議な事件が、起きている。それは、自分たちのような凡人とは違うとはいえ、非日常の怖さを感じる。不登校の子供たちに、何が起きたのだろうか、学校という宝石のような、桃源郷のような、と自分には思えるのだが、そこに出かけるのは非日常で、自宅で生活するほうが日常で、心が落ち着くのだろうか。殺人事件や芸能人の異常な世界には、何も言えないし、関わりたくないが、凡人の日常生活が、彼らにとっては、居心地の悪い世界で、そこから飛び出したいのかもしれない。どうしたらいいのだろうか、と言っても、この大問題にブログで書けるはずもないが、不登校のニュースを聞いて、ふと昔の研究を思い出した。詳細は書けないが、20年位前だったと思うが、当時はまだパソコン通信の時代だったが、パソコンで電子メールでやりとりすることで、不登校が改善しないかという、当時としては、誰もが首を傾げるような方法だったが、見事に成功した。不登校だった10名の子供たちは、1年後には、すべて登校できるようになった。この研究は、自分が手掛け、その後、大学院生に引き継いだが、そこでも同じような成功例を導いた。メールの中身を分析して得られた結果は、どれだけ、自分の姿を書いているか、それを自己開示と呼ぶが、その量によって、改善が決まるという知見だった。このことは、今でもしっかりと、自分の中に根付いていて、その通りだと、信じている。どれだけ、自分の本当の姿を、書けるのか、外化できるのか、他人に語って聞かせることができるのか、である。不登校の子供達も、殺人を犯した青年も、異常な事件を起こした芸能人も、自分の気持ちを赤裸々に打ち明けることができたら、誰かが聞いてあげたら、救いの道もあったのではないだろうか。新聞に、相槌を打ちつつ病状をきく医師の津軽訛りにこころの和む(安田渓子)の句があった。投稿者は青森市と記されている。医者とは、こういう存在なのか、否、教師も、企業の上司も、すべての人は、この医者のようでありたい。対峙する相手が、本当の自分を語れるような存在でありたい。