今は火曜日の夕方、と言うより、その少し手前といった方が正確だが、白いカーテン越しに見える空は、8月の下旬とは思えないような強い日差しで、太陽がいっぱいの形容が似合っている。今は少し頭が重い、と言うのも、今朝の眠りで目が覚めて寝付きが悪かったからだろう。今日は珍しくオンラインの打ち合わせがなく、これで溜まっていた諸々の仕事ができると意気込んで、朝5時に起床し、食事の時間は除いて、ずっと書斎でパソコンに向かっていたら、さすがに疲れた。その疲れは、もちろん体ではなく脳であるが、仕事が片づいたという開放感は嬉しいが、やはり人間には時々の休息とゆとりが必要で、神経が張り詰めているのではなく、柔らかく弾力性を持った状態が必要なのである。そのために、自分の経験では運動が第一で、神経が柔らかくなり少しぐらいの外圧ではストレスは感じなくなる。つまり回復力や復元力が強くなる。そこで早めにブログを書いて、午後5時からジョギングをしようと計画した。今は午後4時過ぎなので、さすがに外に出て日差しを浴びると何かチクチクと痛そうな感じがあって、とても走る気にはなれない。しかし自然はよくしたもので、午後5時を過ぎれば、日差しは柔らかく降り注いでくる。若者から見ればずいぶんゆっくりした走りだと思うだろうが、自分にはそれでよい。そして1時間ジョギングをして帰宅する頃、ホースで水をかけられたように、シャツは汗でびっしょりになり、体が軽くなるような気がする。そんな楽しみを求めて、今ブログを書いている。歳をとってくると、価値観が、仕事よりも健康の方に移っていく。走れるだけ有難い、シャツがシャワーをかけられたかのような大汗をかけるだけ有難いのだ。まだ健康だと自分に少し自信が出てくるからだ。世間を見れば、どこかしら体の具合が悪くなったり、認知症とまではいかないが、その症状が出てきたり、そのために老夫婦が仲違いをしたり、そんなことが耳に入ってくる。体力も気力も知力も少しずつ衰えていくのだから、いろいろな歪みが出てくるのは当然であるが、そのままであれば晩年になればなるほど、希望や幸せという椅子から遠ざかっていくことになる。それはどう考えても、不条理である。若い頃から頑張って努力をしてなんとかここまで来たならば、老いれば老いるほど、老夫婦は豊かな生活を送ることが普通でなければならない。しかし世の中は、どうもそのような理想の姿に遠く、さまざまな問題を抱えながら生きていく人が多い。新聞に、先生の「いい字ですね」の一言が内気な孫の自信引き出す(野口啓子)の句があった。この言葉がけは、子供だけではないだろう、世の荒波を背負って仕事をしている大人、充分働いて今老境を迎えている年配者にも必要なのである。老夫婦はお互いに良い言葉がけをしながら、残り少ない人生を楽しく生きて行く権利がある。自分は、まあ、なんとか有難く暮らしている。
小さな幸せ
今は金曜日の夕方、西向きの窓から書斎に陽が差し、太陽光を避けるために西も南も東も窓側に白いカーテンをして、クーラーの効果を維持している。白いカーテン越しから空を見ると、雲一つなく晴れあがっている。青空と太陽は、心を温かくし希望の象徴のようなイメージがあるが、今は灼熱の代名詞のようで、容赦なく屋根や木々を照りつけている。屋根も木々も太陽光線と戦ってるような感じもするが、後一時間もすれば、すっかりと日は陰り気温も下がっていくだろう。待つしかない。今日もそれなりに忙しく過ごしたが、若い時ほどではないことは当然で、歳を取るにつれて、価値観が別の方向にシフトする。仕事だけの価値から、健康や家族や気持ちの豊かさなどに心が傾き、静かにその方向に向かっていく。周囲からも家内からも、いつも忙しいが口癖だねと言われていた時代は過ぎて、だいぶ丸くなったねと、息子や娘からも言われるようになった。それが良いことなのかどうなのか分からないが、確かに価値観は変わってきた。穏やかなこと心が癒されること平和であること心身ともに健康であることが、最も尊いように思われるので、一言で言えばウエルビーイングを求めているのであろう。身体的にも精神的にも社会的にも健康な状態がウェルビーイングだとWHOは定義しているが、たぶんそれは正解だろう。ふと文脈もなく、夏目漱石が修善寺で療養していたことを思い出した。大文豪の漱石も、病気には勝てず、温泉で心と体を癒しながら創作活動をしたのかもしれない。後世に残るような大業績をあげた文学者とすれば大成功の人生であるが、もっと健康であったならばという願いを持っていたかもしれない。だから今自分は、体を動かすこと、心は感情的にならないで広く受け入れることを心がけている。凡人がそのようなことを考えても、無理なことは分かっているが、そうすることが幸せへの近道になるような気がする。明日からの土日は編集会議の合宿があって、スポーツジムに行けないので、1週間に1回は何とか体を動かしたいと思って、先ほどジムに行ってきた。やはり効果はある、いろんなことが起きても、まあなんとかなるという思いに染められて、今日の夕飯は何かなと、子供のような気持ちで帰ってきた。新聞に、トマト捥ぎ(もぎ)輪切りに塩や昼の畑(高橋和郎)の句があった。もぎたての新鮮なトマトを輪切りにして塩をふりかけて、あー美味しいと、呟いている光景が目に浮かぶ。束の間の幸せであるが、それが大切なのだ。ブログを書きシャワーを浴び夕食をいただく、そして明日から都内の合宿に出かける、それでもう充分である。先のことを考えるのではなく、今の瞬間が幸せであれば、それで十分で、先のことは本当に分からないことだらけだから、今の小さな幸せの連続を味わう方が得である。
子供の姿
今は8月21日月曜日の夕方で、昼間は熱風のような風と蒸し暑さで、歩くのが厳しかった。今日の午前中は、都内の青少年の施設に出かけて、イベントを参観した。これも仕事なのだが、小学生たちが集まっていたので、どこか心が癒された。このブログでいつも書くように、子供たちは日本の宝であり、子供たちの才能、特に創造性については驚くことばかりである。今日の午前中もそんな経験をして、心が生き返ったようで、高価な土産物を貰ったような気持ちで帰宅した。ブログを書くスタンダードな曜日は、火曜日と土曜日なのだが、明日は都内に出かけて、いろいろな仕事が重なって、帰りも遅くなるので、今日に変更した。日中、照り付ける太陽と闘いながら歩いていると、消耗も激しく小雨が恋しくなると思っていたら、一時間ほど前に、大粒の雨が降ってきて、庭の草花もすべてを広げて歓迎してるように見えた。残念ながら、ほんの短い時間だった。こんな異常な暑さが続くと、人間は自然と共存できるのか、自然はわざと人間を困らせようとしているのか、悪意があるのではないかと、どこか心がひねくれるようだ。それでも人間関係の難しさに比べれば、自然はまだ素直で、こちらも文句を言っても仕方がない、やがて猛暑も終わり、爽やかな風の吹く秋がやってくるだろうなどと、許せる気持ちになる。自分はもう歳を取って、あまり人間関係のいざこざに巻き込まれることはないが、仕事盛りのほとんどの人は、そのことで悩んだり愚痴を言ったり、憂さを晴らすために酒を飲んだりする。自分のような職業は、熱中する対象があって、そのことを思えば、人間関係のいざこざなどは忘れることが多いように思う。そう思えばなんとありがたい職業なんだろうと思う。人が夢中になれること、全力をぶつけられる対象があること、それは最も素晴らしい生き方である。非認知能力が教育界で注目されて久しいが、現実には、大人も子どもも、心の中で葛藤することが多い。子供の場合は、いじめ不登校や自殺という不幸な形で出てくるのだが、何とかこれを乗り越えることはできないのか。もちろん難問中の難問であることは、知っている。今日の午前中は朝9時から12時まで3時間、時間を忘れて子供たちは夢中で活動に取り組んでいた。その姿を見ているだけで美しいと思い、参観する我々まで元気をもらったような気がした。非認知能力の中でも、特にレジリエンス、つまり復元力が注目されているが、今日の子どもたちを見ていると、十分にその能力を持っているように思える。とするならば、子どもの、いじめ不登校の問題も、大人の人間関係の難しさの問題も、何か熱中し、夢中になる対象があれば、解決するのではないだろうかと、ふと思った。今日の新聞に、心荒(すさ)む日やひたすらに草むしり(山田真理子)の句があった。この作者も草むしりという活動に夢中になることで、心と戦っているのかもしれない。本当に夢中になれば、心と葛藤することすら忘れて、こんなことぐらいは、小さい、小さい、大したことはないと思って、生きる勇気を持つのではないだろうか。人は死ぬ間際まで夢中になって生きていくのが本来の姿かもしれない。そんな理想的なことをと思いながらも、自分は目指したい。それは、大往生の代名詞のようなものだろう。
行ったり来たり
今は金曜日の夕方、西向きの窓から見える空は明るく輝き、南向きの窓からは雲ひとつない青空が見えている。そういえば今日は暑い一日だった。午前中、特定健康診断があって、近くの行きつけのクリニックに行って検査をしてもらった。いろいろ気になる数値もあるだろうが、それは仕方がない。年齢と共に、年相応の検査の数値になるのが自然なのだ。健診のため朝食を抜いたのでお腹が減って、お昼は家内とカレーライス屋さんに行った。久しぶりの外食のカレーだったが、プロの作るカレーは実に美味しく、生き返ったような気持ちがした。何でも専門家はその道で生きているので、美味しさの深さが違う。そのことは家内もよく知っていて、外食するときは一緒に出かける。回転寿司屋さん中華料理屋さんハンバーグ屋さんなどほぼ決まっているが、時々妙にラーメンが食べたくなったり、中トロの寿司が食べたくなったりする。そんな小さな喜びを味わう時、オーバーに言えば生きていて良かったなどと思う。飲食店は相当に競争が激しく、少しでも美味しい店ならばそちらの方にお客は流れる。どの仕事も同じかもしれないが、その差は歴然として、美味しくないと思えば、その店の駐車場は途端に閑散とする。世の中とはこういうものかと思って、自分ははたしてどうだろうかと振り返る時があるが、なかなか思うようにはいかない。自宅に戻ってメールを見たら、海外の学会から英語論文の査読依頼があった。いろいろ雑用もあって断ろうと思ったのだが、指が引き受けるボタンを押した。理由はわからないが、少し論文を読みたかったのだろうと思う。午後3時半からオンラインの仕事があるので、その前ならばと思ってダウンロードした英語の論文を読みはじめた。当然ながら英語の問題ではなく内容の理解の問題だが、読んでる内に面白さとつまらなさが入り混じって、こんな研究をする学者もいるのかと思いつつ、書けていない論文を抱えている自分を振り返り、まだまだ努力が足りないなと思った。歳をとってくると、歳なんだからまあいいかという気持ちと、いやいやまだまだ大丈夫頑張ってみようかという気持ちが、葛藤する。多分たいていの退職した人は同じだろう。新聞に、お隣も老いの二人や豆の飯(戎子千賀)の句があった。この句を読むと、ほのぼのとした安らかな気持ちになり、お互い長く生きてきたなあ、という優しさが滲み出て共感する。ただ一方、もう少しやってみようとか、この先にまだ何かある、探してみたいという気持ちも失われてはいない。それは若い頃と違って、競争するとか負けないとか全力で走るとかいうわけではなく、自分でも何かお役に立つかもしれない、世の中に少しでもお返しできるかもしれない、というニュアンスなのである。英語の論文の査読でも同じで、これはボランティアで、誰かが査読しなければならないので、少しは役立つかもしれないという思いが、引き受けたのだろう。3時半から5時までオンラインでの長い打ち合わせがあったが、これもどこかで少しは役立っているだろうと思うからだが、歳をとってくると、自分のことより他のことの方が気になってくる。そんな格好の良いことを書くつもりはなかったが、正直言えば、自分のことと他のことが行ったり来たりしている。人間はなかなか悟り切れない。
お盆
今日は8月15日、いろいろな呼び名がある、終戦記念日であり、お盆の中日であり、そして今は日本列島を縦断している台風が暴れていて、太陽が覆いかぶさって記録的な猛暑をもたらしていて、そして観光シーズンでもある。この時期はいろいろなイベントが重なる。8月に入って仕事で出張したり、家族旅行をしたり、そして昨日はご先祖様をお迎えするために玄関で迎え火を燃やし、今日はお墓参りに行った。いろいろな出来事が、走馬灯のように走り去っていく。お墓参りの霊園は、それなりの人出があったが、台風の影響もなく青空が広がり、しかし風が爽やかで、心安らかに眠っている両親に近況報告やらお願い事やらをして、お線香を焚き、花を添えた。この墓地は木々で囲まれて森の中にあるような雰囲気があって、ふと見ると赤とんぼが飛んでいた。早いなあ、もうじき秋になるのか、こんなこともあった、あんなこともあった、と思いながら、両親に手を合わせて、墓参りを済ませた。そして自分はスポーツジムに行って、汗をかきプールで汗を流し、ジャグジーで街を眺め、帰宅してガリガリ君のアイスを食べて、今パソコンの画面に向かっている。外は、台風の影響は殆どなく、暑い夏の日差しだが、風が吹いてむしろ心地良い。明日は両親が帰り道を間違えないように、送り火を焚くのだが、ママゴトのような行事を昔の人はよく考えたもので、こんな些細なことでも優しい心にしてくれる。こうして毎日が過ぎていく。午前中はいつもの通り仕事をして、このブログを書き終わったら、シャワーで体をさっぱり綺麗にして、夕餉に向かう。家内に聞いたらカレーライスだと言うので、近所のスーパーに行って、ビールを買ってきた。今日は、ビールとウイスキーの二本立てで、両親とよもやま話でもするような気持で、夕食に向かう。新聞に、簾(すだれ)してきのふの遠くありにけり(中村重雄)の句があった。その通りだ、夏はすばやく通り過ぎていく、昨日もその前も、あっという間に過ぎ去って、こうして人は歳を取っていくのだろう。人生のページがそろそろ終わりに近づく頃、人は、過ぎ去った事を思い出したり、亡くなった人と話をしてみたくなったり、もう会えないと思いながらも、どこか心が惹かれる自分がいる。そうか、今日は8月15日お盆の日なのか。
走って越える
今は金曜日の夕方、自分の書斎でパソコンに向かっている。昨日までは大忙しの3日間だったが、ようやく一段落して平常の生活に戻った。と言っても、昨日までの余韻が体の中に残っていて、少しばかりの疲れと過ぎ去った数日への思いと、けだるさと楽しさが体と心に染み込んでいる。このブログでも紹介したが、3日間神戸に滞在して、若い高校生たちの研究発表に接してきた。彼らは、何とすばらしい活力を持ち未来に向かって進んでいるのだろうか、まばゆいばかりのエネルギーを持っていることに、ある面で感動を覚えた。言うまでもなく、スーパーサイエンスハイスクールの研究発表会があり、自分もそこに関わって、いわば非日常的な経験をして、知的な興奮を覚え、これからの日本を背負っていく若い人たちに、心の中で拍手を送った。昨日は大阪空港で飛行機が遅れ、帰宅が深夜になったが、何とか自宅に戻れた、それだけで運が良かったなあと神に感謝した。ブログにも書いたが、水曜日にはオンラインのセミナーがあって、自分がホスト役なのでやきもきしたが、ラッキーにも、ホテルの一室で、セミナーが無事に、そして活発に議論ができた。メールを見ていると、その3日間でも色々な出来事が起きて、仕事上の関わりが出てくるので、神戸の国際会議場では、先端的な研究という目を輝かせるような世界と、現実の仕事という厳しさやきれいごとだけでは片づかない世界を行ったり来たりした。ホッとするのは、仕事が終わって夕食に外に出る時だ。神戸三宮界隈には多くの飲食店と居酒屋があって、串カツ居酒屋に入って、生ビールを飲みながらの串カツは、こんな美味しかったのかと、オーバーに言えば、感動があった。こんなふうにして、人は喜んだり、どうしようかと不安になったり、さまざまな思いをして過ごしていくようだ。新聞に、ぼちぼちと言われることにも飽きてきてこの坂道を走って越えたい(清水恭子)の句があった。年配者になると、周りからぼちぼち行きましょうとか、まあゆっくりやってくださいとか、いたわるような言葉を聞かされるが、本音は実はそうでないかもしれない。高校生のように全力を掛けて一気にこの坂を登ってみたいという気持ちが起きたり、そして、いややっぱり無理だったかと思う気持ちと、まだまだやれるではないかという嬉しさなどが交じり合いながら、仕事を続けているかもしれない。それは若い高校生であっても、同じだろう。野球の甲子園も、研究の甲子園も、山あり谷あり、嬉しいことも悲しいことも包み込んで、全力で進んでいくしかないのだろう。自分にとっては、走って越えてきた3日間であった。有難い。
ウェルビーイング
今は火曜日の午前中、変則的な時間だが、午後神戸に出張するので、この時間にブログを書くことにした。この後オンラインでの取材があり、この年になっても、いろいろなオファーがあって、まだ自分は大丈夫かと、小さな自己肯定感を感じる。神戸はスーパーサイエンスハイスクールの生徒研究発表会が開催されるので、自分にとっては大一番のイベントである。毎年の事ながら、心が弾むようで、科学の甲子園と呼ばれるように、全国の優れた研究発表が聞いて審査できることは、若者からエネルギーと勇気と生きる力をもらっていることなのだ。野球の甲子園を、大人も子供も素晴らしいと感じるのは、その一生懸命さであろう。SSHも同じで、この一年間をかけた研究成果を大勢の参加者の前に披瀝する姿も、また人の心を揺さぶる。近隣の高校生も見学に来るので、4000名以上の参加者が国際会議場を埋め尽くす。今年もそんな季節になったのか、夏は若者の季節かもしれない、全力で駆け抜けそして過ぎ去っていく。年老いた人間にとっても、どこかまぶしい光景を目にして、自分もその一員であり、微力ながら若者のお役に立ちたいという気持ちが、心を浮き立たせるのだろう。ただ今回の神戸の出張は、少しばかり気になることがある、明日水曜日の夕方はオンラインセミナーがあり、無事にそして活発な議論ができるのか、ネットトラブルは無いか、時間的な問題はないかなど、不安が頭をよぎる。明日の夕方はホテルに帰る時間がなく、国際会議場の一部屋を借りて、オンラインセミナーを開催する予定だが、上手くいくことを神に祈るばかりである。連日の猛暑は耐え難いが、沖縄地方は、台風の影響で観光客も足止めされ、テレビを見るたびにやきもきする。日本列島を襲う太陽エネルギーと台風エネルギーをうまくコントロールして、猛暑の地域には雨を、大洪水の地域に溢れるばかりの太陽光線を振り分けられればいいものを、と思うが自然は人間の思うようにはいかない。新聞に、刻々と地球は痛み夜の雷(清正風葉)の句があった。そうか雷も台風もそして灼熱の暑さも、地球が痛みを訴えているのか、長い間耐えてきた結果、人間と同じように衰えていき、悲鳴に似た苦しさを声に出しているのか、と思えばどこか愛着がわく。異常気象、地球温暖化など、人間の知恵ではどうにもならないことが頻繁に起きている、いや人間同士が異常な国際戦争や内戦や摩擦が起きて、世界は健康ではなく病気にかかっているような気がする。今、世界はウェルビーイングを目指しているが、まだまだ先が遠いようだ。庶民とすれば、少しずつ目の前のことを丁寧に対応するしかない。午後はトラブルが無いように、羽田から予定通り飛行機に乗りたい。
笑顔
もう真夏の天気で、外は灼熱の太陽に照らされて、とても歩けたものではない。今日は先ほどスポーツジムから帰ってきたが、行き帰りは、贈り物の日傘をさして歩いた。男が日傘か、と忸怩たる思いはあるが、暑さにはかなわない。帽子をかぶるより、よほど日陰の効果は高い。プールに入って泳いだり水中ウォーキングをしていると、身も心もリフレッシュして、子どもの夏休みのような気分になる。昨日は市内の教育センターで講演をした。夏休みは講演やら研修やらのシーズンで、8月いっぱい忙しい。帰宅すると、今日は仕事をしたんだなあという充実感に溢れて、夕食のお酒も進んだ。金曜日の夜は、朝ドラの1週間分をまとめて見る習慣になっている。植物学者の自叙伝に基づくドラマだが、見ると面白くハラハラドキドキする。昨日は主人公にいろいろな不幸が次々と襲いかかって、人生が翻弄される場面だった。実家の酒屋は倒産し、まだ二歳のかわいい盛りの娘が病死し、本人は大学への出入りを禁止されるという四面楚歌の物語だった。テレビ番組とは言え、何か身につまされるようで、もし自分がこんな目に遭ったらどうするんだろうと思ったので、夜中に夢を見てしまった。この物語が史実なのかどうか分からないが、たぶんほぼ現実も同じであったろう。ということは、植物学者もその奥さんも、また実家の夫婦それぞれが、人生の悲哀をかみしめてなんとか立ち上がろうともがいている姿が目に焼き付いて、夜中に一旦目が覚めて、寝つきが悪かった。それに比べれば、自分などはまるで呑気な生き方をしているようで、有難いような申し訳ないような、そんな気持ちがした。今日などは、まるでセレブのような過ごし方で、猛暑の天気だが空は晴れて青く、沖縄は台風で大変だなあと思いながらも、自分だけこんな贅沢をしているのかと思った。本当に人の生き方は様々だが、人の力ではどうしようもないのである。自然の猛威の前には、なすすべもなく、ただ通り過ぎるのを待つばかりである。やがて台風も去り危険な暑さも穏やかな天気になるのだろうか、そんな日を心待ちに待っている。文脈から離れるが、新聞に、ひなげしや笑顔で手話のできる人(井原修)、の句があった。この人は楽しそうに笑顔で手話で会話しているのだろうか、こんな人に出会えば、誰でも心が和んで嬉しくなるに違いない。猛暑の毎日であっても、大型台風で生活が不自由になろうとも、もし笑顔で会話ができるなら、こんな素晴らしいことはないだろう。残念ながら自分はその境地に達するには無理だが、確かにそのような人がいる、そこに居るだけで笑顔になれる人、幸せを運んでくれる人、あまり関連はないが、ひなげしの花を歌ったアグネスチャンを連想した。そういえば、この句はどこか昭和の時代の匂いがする。
成長
今日は火曜日、ブログを書くにはちょうど良い日であり、南側の窓から見える空に、久しぶりにどんよりした灰色の雲が浮かんでいて、西向きの窓からは、白い雲が太陽を遮って目に優しい。昼間は雷が鳴り、短い時間ではあったが雨が降って、庭の木々が生気を取り戻したようで、緑の葉の色が濃い。入道雲は夏の象徴であり、ギラギラした太陽と共に夏休みを連想させ、活動的な季節にふさわしいが、それも長く続くと疲れてきて、涼しげな木々に囲まれた小川に行ってみたい気がする。つい先ほど、オンラインの講演が終わり、一息ついたところで、今日の仕事は終わったかという安心感とリラックス感で、体から力が抜ける。まあいいだろう、このようにして毎日が過ぎていく。先ほどのセミナーは自分にとっては、ここ一番の仕事であり、うまくいくと平凡ながら充実感がある。充実感とはもちろん自分の心が満たされることだが、それ以上に聴衆者の心に響いたのか、何かのお役に立ったのかの尺度が重要で、その評価を知りたいが推測するしかない。ただ約一時間話をしている間は夢中で、聴衆者のことは頭にないが、終わったときふと気づく。自分の話はお役に立ったのか、飽きてはいなかったか、と少し自省する。聴衆者の数が多かったりチャットの質問が多かったりすると、皆さんが多少とも関心を寄せてくれたのだなと思って、安心する。それは多分、子供も同じだろう。授業の中で、子供たちは質問したり発表したり答えたり、多くの活動をしているが、すべて自分の心への振り返りがあるはずで、それで嬉しかったり不安になったりするだろう。まあ良い評価ばかりではないだろうが、そうして子供は成長していくのだが、大人であろうと年寄りであろうと同じである。振り返ってみて次はこうした方がいいのではないだろうかと思うこと、それは成長への足がかりである。思い出せば、今日話したことはそのような内容であった。つまり授業の一コマ一コマに、子供の自信と不安が生まれ、そして喜びと反省が繰り返されるのである。子供はそうして成長していく。そしていつの間にか、こんなにも大人びたのか、こんなにもすごかったのか、と気づく時が来る。つまり大人を乗り越えていく。新聞に、夏の雲少年貯金箱壊す(加藤木よういち)の句があった。文脈はよくわからないが、少年は何か思い切った決心をしたかもしれない、これまで貯めていた貯金箱を壊して、どうしても欲しいものを手に入れたいと思ったかもしれない。幼い子供から決断を下した少年に、飛躍したのかもしれない。老人にとっては、どこかまぶしい生き様である。
人生いろいろ
今は金曜日の夕方、かなり外も過ごしやすいような気温になって、カーテン越しに見える空も、真夏の白い雲もあるが心なしか穏やかな色をしている。夏は入道雲のようにモクモクとした力強い雲の形だが、西空に見える雲は綿菓子をちぎったような形で、少し安らぎを覚える。しかし今日も暑かった、思い出せば昨日は博多から夜遅く帰宅した。その理由は、空港で雷雲と雷雨が発生し、2時間半の遅れが出てようやく飛行機が飛んだからで、自宅に着いたのは夜遅かった。こんな時、疲れたというより、自宅に帰れて良かったという安堵感で満たされる。遅い夕食を食べて、ウイスキーの水割りを飲むと、ありがたいと感謝でいっぱいになる。今朝はぐっすりと休んだおかげで、さわやかに目覚めた。そして今日も、三つのオンラインの会議や打ち合わせがあり、先ほど長引いた打ち合わせが終わった。仕事には、嬉しいこともあれば不安なこともある、楽しい出来事もあれば反省するような終わり方をすることもある、まだまだ頑張れると思うこともあればそろそろ看板を下ろすかと思うこともある、文字どうり人生いろいろなのである。先ほど意見をぶつけ合った余韻と、今朝の少し歯車が噛み合わない打ち合わせの後味が頭の中にあって、仕事が終わったという安心感と少しばかりの気がかりなことが頭を覆って、夏休みの子供のように、全身がわくわくするような気持ちにはなれない。大人になれば、子供のようにはいかない、歳をとっても、全て思い通りに行くはずもなく、生きているということは、自分に都合の悪いことにも出会うことと同じなのだ。ただ、何故か、そのプロセスの中で、努力したり考えたり小さな気付きを得たりアイデアを思いついたりする、まるで小学生の宝物探しのように大切にしたいことが起きる。それが、この先もずっと生きていきたいと思う原動力になっているのかもしれない。小さな喜び小さな気づき小さな発見小さな幸せ、それは子供も大人も年寄りも同じであろう。そんなことがあるから、不平も言わず平凡ながらも生活していける。新聞に、夏 雲の 白より 白き産着干す(難波佳代)の句があった、赤ちゃんは、世間の汚れとは全く関係のない純粋で、天使のような存在であるが、やがていろいろな出来事に出会って、苦労と喜びを味わって、なんとか生きていくのだが、この句のように、真っ白な産着を見れば、誰でもが心が洗われるに違いない。すべての赤ちゃんは、真っすぐに幸せに育ってほしい。
