知り合いの先生、と言っても、彼が大学院生だった時、自分の研究室ではなかったが、何か指導したのだろうか、メールをもらったり、年賀状を交換したりする中だったが、この前嬉しいメールが届いた。オーストラリアの有名大学、たぶんトップクラスだと思うが、その大学のテニュアになった、と、嬉しそうな顔が浮かぶような文面のメールが届いた。テニュア、つまり正式雇用の職なので、そのままポストに残れる地位である。一般的であるが、日本の大学のポストは容易で、大学によっては、レフリー付きの論文がなくても、准教授や教授になる場合もある。研究は、どちらでも良い、あなたの研究など期待していない、と大学経営者が平然と本人に言うと聞いたことがあるが、どこか狂っている。このような大学は、世界から見れば、地球ではなくて別の惑星の話だと思うくらい、別次元なのである。大学教員は、やはり研究をし、学生達にその研究を基礎にして授業をし、知的な環境を提供することが、使命であることは、当たり前である。彼は、本当に苦労をし、多くの論文を書き、多くの研究をし、採択された論文を私に送ってくれたこともあった。残念ながら多少分野が違うので理解できなかったが、その意気込みは素晴らしく、影ながら異国で頑張っている彼に拍手を送っていた。彼の奥さんも、別の大学教員だが、夫婦で励ましあって、ここまで来たのだと思う。日本の大学のポストは、テニュアである。最近では、海外なみに、時限付きのポストもあるが、ほとんどはテニュアである。終身雇用制の考え方が、企業だけでなく大学にもあるからだろう。ふと思った。自分は、とても海外ではテニュアになれそうもない、日本で良かった、と怠惰な自分を振り返った。しかし、彼の苦労は、どうだったのだろうか、今思うに、たぶん楽しかったのではないか、論文が採択された、研究テーマが見つかった、それも嬉しいが、研究者は、そのこと自身に我を忘れる、そこが醍醐味なのだ。彼のメールの文面は、そこを語りたかったのではないか、さすがに彼は本物である。
うまくいっているか
家族会議を、久しぶりにオンラインで実施した。理由はたわいもないが、家内がたまには孫の顔を見たいからだと言う。無理もない。コロナ禍の関係で、東京とは行き来ができず、在宅勤務になって所沢から都心や他県に行きたくないので、どうしても疎遠になってしまう。自分はそれほどでもないが、祖母の立場では、孫はどうしているだろうか、と気がかりになることは同感できる。男と女の違いかもしれないし、仕事を持っているかどうかの違いかもしれないが、LINEの写真レベルでは物足りず、Zoomによる家族懇談会になった。近況報告と称して、自分も含めて10名全員が、在宅勤務のこと、電車通勤のこと、学校生活のこと、サッカークラブのこと、最近読んでいる本のこと、職場の人間関係のこと、コロナ禍の第2波のこと、など、どこにでもある四方山話を30分ほどして、終わった。しかし、どこか満足感があった。LINEとは違うリアルタイムの臨場感もあるし、家族の様子が実感としてよく分かる。家内が、孫たちが、以前より明るくなって、うまくいっている、と嬉しそうに夕食時に言った。確かに、自分もそう感じた。勉強がどうだとか、仕事がどうだとか、そんなことはどうでもよく、うまくいっているかどうか、それがすべてであった。夏休みなどの長い休みの後で、小学校の先生方が、子供たちは、この休みの期間でどうなっているか、顔を見ると分かる、と聞いたことがあるが、同じかもしれない。リアルタイムで話をすれば、全体の雰囲気で分かる。親や祖父母にとって、子供や孫がうまくいっているか、それだけがすべてである。
Kindleの本
明日は、朝、昼、夕方とオンライン会議があって、ブログを書く時間がなさそうなので、今日の夕方である今、書いておこう。ブログは別に義務ではないが、なんとなく日曜の夕方、お風呂上りの一息ついた時が、最も気楽になっているので、書きやすいのであって、別に深い話があるわけでもない。夕方6時半から、家族のオンライン談話会がある。これも、たわいもない気楽な顔合わせに過ぎない。そして、1週間が終わり、明日から次の1週間が始まる。夕方の今、久しぶりに太陽が雲の合間から光を放ち、小さな庭の木や草を照らしている。百日紅(さるすべり)の桜のような花が、ようやく出番が来たかのように、輝いている。空も、白い雲よりも、青空のほうが面積が大きく、雲が空に浮かんでいる、という形容が似合う風情になった。この時間に、Kindleの本を読みたいと思っている。このブログを書いたら、と思って、楽しみにしている。コロナ禍のおかげで、Kindleの本を読み始めた。ともかくamazonで注文すると、即座に読めるから、これまでどうして見向きもしなかったのだろうか、と思うくらいである。本は、デジタルでは読まない、読めない、と思い込んでいたのだろう。Kindleの本は、ともかく面白い、というと言いすぎだが、紙かそれ以上の良さがある。夕方の一時、本を読むのも悪くない。コーヒーかお茶をおいて、誰にも煩わされないで、自由な時間を過ごせるのは、まるで学生時代のようである。どんな本かは、またの機会に。
運が良いとは
昨夜、zoomでのある研究会に参加した。大人になって役立つ身に付けておきたいことは、というテーマで、主に高校生と教員との自由討論であったが、夜遅いので途中で抜けた。夜と言っても9時だったが、それから夕食なので、普段は7時からなので、自分としてはかなり遅い夕食である。高校生は、英語を勉強しておいたほうがいいのか、などの高校生らしい質問を持っていたようだが、大人のほうはもっと深い、というか処世術のような哲学的な話であった。だから少し噛み合わない気もしたが、視点が違うので、それでよいと思う。自分の場合は、他人にもよく言っているので、繰り返すが、能力はないが運だけで生きてきた、と思う。すると、運も実力の内、と言って気を遣ってくれるが、どうもそうとは思えない。確かに、実力ではなく運なのである。しかし、運を得る方法はないので、あっても霊感師のような話になるので、因果関係で説明できない。また高校生に話しても、だから勉強しなくてもいいのだ、という結論になると、参加している先生方からも叱られるので、黙って聞いていた。果たして、運とはどのようなものなのか、タイミングが良い、とか、欲しいものが入手できるとか、などかもしれないが、なんとなくラッキーと思うことだろう。以前のブログでも書いたが、すべて都合の良いことばかり起きてくることはないから、悪い出来事は忘れて、良いことだけ記憶していれば、自分は運がいいのだと、思うのだろう。ということは、忘れることと、自分の思い込みだけ、という詰まらない結果になる。高校生に何も話さなくて良かった。
自由研究
今朝は久しぶりに晴れ間が見える。雲の合間にのぞくような青空だが、それでも爽やかな贈り物のような気がする。手帳を開くと、今日は何もない。考えてみれば、休日なので当たり前で、昨日は休日なのに大学の授業があったので、どこか曜日の感覚がおかしくなった。コロナ禍ではいろいろな事情が変更になるが、これが新しい生活様式と言われると、それもいかがなものか、と思う。晴れ間のほうが嬉しく、休日のほうが文字通り身も心も休まる、という正常なスタイルが、凡人としては、居心地が良い。自宅にいる時は、午前中は書斎で何か好きなことをしているが、それは仕事でもあるが、趣味のようなものと思っているので、他人に威張って言えない。休日ならば、それも威張って言ってもよく、調べたいテーマがあって、それを知りたいので、この年になっても、子供の夏休みの自由研究のようなものだろう。去年、孫が夏の自由研究で、大きな荷物を引っ張って、どのくらいの重さまで引っ張れるのか調べている写真をLINEで送ってきたことがある。意味が分からない。聞けば、カブトムシがどのくらい引っ張れるのか、アリはどのくらい力があるのか知りたいので、実験していると言うが、科学的かどうかは別にして、男の子には面白そうで楽しそうな実験である。自由研究とは、文字通り自由なのだ。誰が何を言おうと、好きなことをやればいいので、夏休みという期間に、学校の授業を離れて、自分のやりたいこと、趣味と呼んでもよいが、それが許される意味である。とすれば、自分が今日やりたいことは、休日の自由研究と言ってもよいので、今朝の晴れ間が見える空のように、爽やかな気分になっているのかもしれない。そういえば、今年の子どもたちの夏休みの自由研究は、どうなっているのだろう。まさか、コロナの研究はできないだろうが。
記録に残す
今日の午前中は、都内の大学の授業にゲストとして参加した。その授業担当の先生に頼まれたからだが、少し緊張した。留学生のために開講されている科目で、今日は前期の最後で、学生のプレゼンがあって、それを先生が評価して成績をつけるらしい。私のゲストの意味はあまりないが、大学教員だった経験について、最後に学生へのコメントも含めて話すという依頼だった。少し緊張した、という意味は、英語だからである。最近は、国際会議も出ていないし、英語でコミュニケーションするチャンスが無かったので、大丈夫だろうか、と内心思っていた。少し緊張したと書いたが、かなり緊張した、と書いた方が正確だが、実際に学生のプレゼンを聞いてみると、その内容は、学部相当であって、正直に言うと、あまり深くはなかった。だから緊張したのは始めだけで、後は気楽な授業であった。最後に10分程度話して終わったが、この授業は、今どきなので、当然ながらオンラインである。Zoomを用いていたが、録画機能があるので、すべて録画していて、後でその録画を見て評価点をつける、と言っていたので、なるほど、Zoomは便利だと思った次第である。しかし、デジタルの良さもあるが、この記録はいつまでも残るので、もし失敗したプレゼンなら早く始末してもらいたいと思う学生もいるかもしれない。自分の場合は、事前にスライドを用意していたが、授業や講義では、あまり著作権などは気にしないので、それが記録に残るとなると、少し躊躇する。いつまでも残る、のは便利な反面、不便でもある。人は、楽しいことはいつまでも記憶に残り、嫌なことはすぐに忘れる、ような気がするが、それは、自分が勝手にそう思っているだけかもしれない。ともかく、忘れることは人の優れた特性である。
明日に延ばす
今日もつつがなく過ぎて、夕方から雨になった。昼間はちょうど良い日差しだったが、夕方になって突然に大粒の雨となり、小粒の雨に変わり、などと自由自在に天気が変わる。天候の気まぐれに人が左右されるのも癪だが、書斎の窓に映る雨跡は、穏やかな筋の模様なので、気持ちが鎮まる。スマホの天気予報によれば、今夜にかけて豪雨になると言うが、窓から見える向こうのマンションが煙っているので、まだ小雨だろう。お風呂から上がって、一息つく頃にブログを書くのが一番リラックスするのは当然だが、テーマが決まっていないで書くので、少々気が引ける。論文を書くのとは、随分かけ離れている。しかし、いつもは書いている内に、着地点が見えて、落ち着くところで筆が止まるが、今日はそれも見えず、文字が彷徨しているだけである。お風呂上りの一時ならば、それもいいではないか、人は場合によって気分によって、時間に流されるだけでも、生きている甲斐はある。今、雨が小雨なので、少し風情がある。昔は縁側に出て、隣近所の大人や子供が将棋などを指した、というから、のんびりしたものだったろう。そんなことは今では夢のまた夢だが、気持ちだけは、そんな気分で過ごしたい。何もしたくない時があっても、いい。まだメールを見終わっていないが、いいではないか、今日できることを明日に延ばすことも、また確かな処世訓である。
ウイルスと戦う
このブログはなるべく夕方に書く予定にしているが、時間がとれない日がある。昨日がそうで、どうしても時間が取れず、今朝書いている。誰でも同じだが、時間の取り方は難しい。昨日の午前は、地元中学校の評議員会があって出かけて、その後Zoomの会議などがあり、気が付くと夕方になっている、といういつものパターンであった。中学校の授業参観をさせていただき、先生方や生徒たちが、与えれれた環境の中で精一杯の学びを継続していることを、知った。先生方はマスク、場合によってフェースシールドをして、授業をし、生徒たちも全員がマスクをしているが、それはどこか別の星の学校のような印象だった。SFの世界のような光景だった。こうして、学校はウイルスと戦っているのだ。給食や体育以外は、マスクを外さない、social distance をとる、大声を出さない、など、これまでの学校とは別の授業風景だったことに、ある意味で衝撃を受けた。校長室での情報交換では、これ以上の休校が要請されたら、もはや留年させるしか、打つ手はないと言う。教室やトイレは、感染しやすい場所なので、掃除は先生方がやっていると言う。これまでの学校の常識が崩れてきた。給食はまだ完全ではない、その理由は、最も感染しやすいからで、パンと牛乳だけの給食にしているが、どこか遠い昔の戦時中のような話であった。それでも、生徒たちは勉強している、その姿は、どこか尊い。先生方、生徒諸君、頑張れ。お役に立てるなら、応援したい。
面白さ
久しぶりの晴れ間になって、汗ばむ陽気に、無邪気に嬉しくなった。政治家や官僚は、このような外の空気には動かされないような人種なので、どこか遺伝子が違うような気がする。と書きながら、待てよ、と考えた。遺伝子ではなくて、環境なのかもしれない。そういえば、国立大学で大学院生を指導していた頃は、12月30日まで研究室に行き、1月2日は1年の始まりだったから、外から見たらどこかおかしい人種と映るだろう。私立大学に異動してから、朝は5時57分に家を出ていたので、近所の人たちからは、大変な大学だと思われていたかもしれない。慣れれば、それは何でもない、当たり前のことなので、遺伝子説ではなく、環境説に軍配を上げたい。問題は、それが楽しいか、苦痛なのか、面白いのか、仕方がないのか、で大きく分かれるだろう。自分や他人の研究を振り返ると、何が決め手なのかは、面白いかどうかではないか、と思う。面白いという感覚は、何にも勝る魅力のような気がする。お金や名誉などは平凡だがあまり魅力ではなく、面白さには勝てないだろう。楽しいか、と言われれば、趣味やゲームや談笑や、今はできないが、気の合った仲間との飲み会なども、楽しいが、面白いという感覚とは違うような気がする。感じる神経が違うようで、例えば、ずっとやっても飽きないとか、寝ても気になっているが、それは不快ではなく、快適かというとそうでもないので、やはり感じる神経系統が違うのかもしれない。ともかく、人は面白さを追求して一生をすごすと考えたほうが自然である。政治家や官僚や研究者を見ていると、それで十分満足そうな顔をしているので、幸せなのだろう。
議連の会議
コロナ禍の中、まだ多くの感染者数が続いている、ということは、東京は既に第2波が起きていると考えたほうが良さそうだ。なんとなく暗い雨雲が重くのしかかってくるような予感がする。現実に、いつ梅雨は空けるのだ、明るい太陽は隠れてしまったのか、まして、九州では大被害が起きているので、この先が見えない、と誰もが感じている。先のブログでも書いたが、16日木曜の会議は、自民党のEdTech議連の会合だった。集まった人々は、当然ながら国会議員、省庁、企業などの人々で、教育に関わりのあるメンバーであったが、その意見や考え方が、卓越しているのである。例えば、自治体のセキュリティーガイドラインが厳しすぎて、学校ではクラウドにつなげない、オンライン学習ができない、などの意見が出て、なんとかしようという雰囲気で盛りあがった。もちろん、これまでも厳しいという意見はあったが、なんとかするというデッドラインまで決めるような雰囲気ではなかったと思う。先のブログで、良い意味で田中角栄のようだと形容したのは、その積極性な姿勢のことである。自分の場合は、冒頭に書いたように、雨ばかりで憂鬱になる、九州も大変でこの先どうなるのか、コロナの第2波が来ているようだ、とか、材料が悪すぎて、とても元気になれそうになかったのである。政治家や省庁の役人は、日本を背負っているのだろうか、ウイルスや天候くらい何事もないような表情で、いつもの威勢のよい声を出している。感心したし敬服もしたのである。そういえば、会場も狭くきわめて密だったが、ウイルスも近寄れないのかもしれない。
