合宿

教科書編集の合宿で、都内のホテルに泊まっている。準天然温泉があって、昨晩も今朝も大きな湯船に浸かってリラックスしたので、合宿というより気持ち的には保養に近い。大学にいた頃は、毎年夏合宿があって、楽しみだった。朝のラジオ体操から始まり、朝の散歩、朝食、勉強会、昼食、勉強会、夕食、スポーツ、懇親会などだったが、すべて面白かった。まるで小学生のように、6時半からのラジオ体操をし、食事では、指名された学生が挨拶をして、いただきます、の合掌をして、という昔ながらのスタイルだった。体育系のスタイルかもしれない。思いだせば、きりがないが、よく学び、よく遊び、の言葉通りで、勉強会でも、質問時間になると、質問が多く出すぎて困るので、くじ引き制度にしたり、というバトルのような白熱した勉強会で、どうしても終わらない時は、夜もやったが、夜は飲み会やゲームなどで盛り上がった。若いころの楽しい思い出は尽きないが、この大人の合宿も、いい。同じ釜の飯を食べる、というが、子どもの頃や学生時時代の郷愁があるからからかもしれないが、その時代は、その時間が生きているすべてのような感じなので、懐かしんでいるのだろうか。

実践の中の気づき

昨日も平凡な一日であったが、資料作りが午前中の仕事で、8時から12時までに材料を集めて、原稿やセミナーなどの資料をまとめる作業で、自分にはこれが楽しい。作業だけでなく、気付くことがあるから、何か発見したような知的な喜びがある。資料作りでは、実践をいかに盛り込むか、実践に埋め込まれた、考え、思想、きらりと光るノウハウ、研究に裏付けされた知見、をどう引き出し、どう結びつけるか、が、自分の目指しているところだが、それが極めて難しい。実践そのものは、表面なので、作文を読んでいるような印象があるが、実はその背景に、隠されている本物の知見があって、それに気づくと、あっ、そうか、と思うことがある。小さな発見とでも呼びたいのだが、なかなかその気づきは起きない。かつてのブログでも書いたが、自分には小中学校の実践経験がないので、奥が見えない、本質に気付けない、ような気がしている。しかし、昨日は、実践記録を読んで、その中にも気付きがあることが分かった。それであれば、資料はいくらでもある。最近の研究も勉強して、実践の記録を読めば、なんとかなりそうだ、と気が付いて、嬉しくなった。うまくいくかどうか分からないが、楽しみなのだが、時間がなかなかない。今日から明日にかけて、ある教科書の編集会議の合宿で都内で宿泊の予定になっている。明日は、ブログはお休みになるかもしれない。

プロのレベルとは

金曜日の夕食は、外食することにしているが、昼食程度のメニューだから、昨日は歩いて10分ほど離れたカレー屋さんに行った。全国チェーン店のよく知られたカレー屋さんだが、何度行っても美味しく、飽きがこない。始めは、家内がファンになった、次は自分もファンになった。このカレーの味が、なんとも美味しく、家庭では出ない味だと、家内が言っていた。確かにプロとは、そういうものだろう。たまに夕食前に、パソコンで落語を聞くことがある。夕食は居間なので1階だが、1階にもパソコンがあって、何かの時に開くが、名人芸なら同じ落語を何度聞いても、飽きがこないで面白く、大笑いする。確かにプロなのである。飽きがこない、とは、プロの仕事なのか、と思う時がある。昨日のブログでも、各分野での優秀さ、つまりプロについて書いたが、プロとは、人を飽きさせない、引き付ける、ような魅力があるのかもしれない。このブログでも紹介した、評価の三角形の研究発表も、聞きほれた。研究の凄さも、人を引き込む。人は、そのようなプロを目指して努力をしているかもしれない。この観点から振り返ると、自分はまだプロのレベルに達していない。

優秀さとは何か

昨日は、SSHの長い会議があった。いつも思うのは、文科省の担当者の優秀さである。この優秀さという意味は、どこか学力とは別である。学力は、教科という枠があって、そこには決められた目標があって、すべて行くべき道が見えている。道がないので、どうしたらいいか、少しオーバに言えば、国民のためになるには、どのような制度設計をしたらいいのか、という視点である。教科ではなく、研究でもなく、行政なのであろう。行政とは何か、全体を見渡し、目標を達成するための道筋を作る、規則を作る、などであろうが、仕事の段取りや進め方も早い。委員会の委員は、一応その分野の専門家なのだが、先に述べた教科や研究などの専門家なので、見方や考え方が微妙に違う。研究という観点では、あまり結果の責任を感じていない、というと誤解されるが、独創性とか、面白さなどで評価するので、国民全体とか結果の責任などは、あまり意識していない。だからこの会議は、面白いのかもしれない。研究者と称される人は、相手が誰であっても、主張すべきことは遠慮はしない、子供のような姿に似ているが、官僚は、優秀であって、しかも先を見て、かつ結果責任を負う、ことを意識しているので、発言も慎重なのかもしれない。昨日のブログでも、政治家、官僚、企業の人たちの特性に触れたが、学校教育で目指すべき優秀さとは、何であろうか。教科だけではなく、研究だけでもなく、全体を見渡せる官庁の事務官のタイプなのか、企業のような競争に打ち勝つタイプなのか、まだわからない。優秀さとは何だろうか。

菅内閣の発足

毎日オンラインの会議やセミナーや研究会などがある。そろそろ対面での会議やイベントも入ってきたので、世の中は動いているのだろう。政府も菅内閣が発足したが、確かにこの世の中は、じっと待ってはくれない。人は、歳をとるにつれて、時々過去を振り返るが、ずっとこのような生活だったような気がする。菅内閣の副総理の麻生大臣は79歳と新聞に記されていたから、ずっと活躍してきた人なのだろう。一度、議員の昼食会で講演を聴いたことがあるが、常に前を向いているようで、当時何かの問題でメディアに叩かれていたと思うが、どこ吹く風のごとく、聴衆を笑いに誘い、元気を与え、我が道を行くことが、国民の幸せに通じる、というような、多少独善的な印象の講演をした。自分も団体の役員をしている関係で、政治家とも多少は付き合うこともあるが、住む世界が違うので、意見が違うこともあるし、尊敬することもある。自分の所属している団体の活動の1つとして、省庁、国会議員、企業の3つを連携した議員連盟に関わるプロジェクトがある。省庁の役人は、鋭く議論をし、議員は、庶民の感覚も含ませながら、場合によっては人情も入れて主張し、企業側は、現場の意見も入れて、かつ技術的な観点から論理的に要求し、という会議が、年に数回ある。通常は、朝8時から議員会館会議室で、という早朝であるが、電車が混まない時間なので、意外に参加しやすい。菅内閣の発足で、ふとそんなことを思い出した。それぞれの分野で、人々は精一杯生きているようだ。

セミナーに参加して

昨日は、素晴らしいオンラインセミナーに参加した。国立教育政策研究所の主催の教育評価についてのセミナーだったが、午後から夕方まであったが、仕事の関係から前半だけ視聴した。センサーなどが至る所に使われる現在、教育も例外でなくなるが、例えば、教室での発言、表情、しぐさなど、膨大なデータが収集され、AIが分析することが可能になるだろう。個人情報の問題はあるだろうが、そのデータ、それはセンサーでも人の目や耳でもいいが、観察によって得られる証拠、エビデンス、であるが、そのデータを元に、人は、この子は優れている、劣っている、と解釈するが、それには、何をもって、そう解釈するか、という認識の仕方、見方や考え方に依存する、という枠組みである。それを、観察、解釈、認知、という関係で、教育評価を捉える、という方法論と実際のテストへの応用についての議論であった。面白い。特に、認知に依存するという視点が独創的で、どのように現象やデータを認知するかで、解釈や評価の結果は、雲泥の差になる。後半は聞けなかったが、その認知は、たぶん教師の経験や教科の見方考え方、文化的な背景に依存するだろう。昨日のブログでも、日本の合わせの文化と欧米の選びの文化の違いに触れたが、どのような文化や価値観を持っているかで、同じデータや証拠を見ても、解釈は異なるので、評価は難しい。PISAの問題自身に、文化が反映されているので、完全に平等の結果にならないことは、かつて言われたことでもある。この評価の枠組みを拡張すれは、子供たちの成育歴や家庭環境などによって、つまり個によって感じ方が違うので、個の評価は、難しいことになるだろう。セミナーに参加して良かったと思うのは、その内容の深さだろう。

秋を感じる頃

朝も夕も涼しくなって、夜には鈴虫が鳴いている。鈴虫の鳴き声は、心を和ませるような優しさがあって、季節を感じる。昼間はまだ気温は高いが、空を見れば、うろこ雲や、すじ雲のような、もくもくとした形容ではなく、刷毛でこすったような、手でちぎったような雲が多くなり、秋を感じさせる。今年は、前半の長雨で、毎日雨ばかりでいつ青空が見えるのだろうか、と思っていたら、急に気温が上昇して、灼熱の夏になったので、いつまで暑さが続くのかと思っていたら、朝夕はめっきり秋らしくなった。自然は、人に季節という贈り物をすることを忘れてはいないようで、私たちは、自然と対話しながら暮らしている。NHKの日曜日朝の番組、小さな旅が好きで、音楽も素晴らしいが、日本の自然やそこで暮らす人々の人情に、心が動かされる。つい最近、大分県日田市の陶磁器村が紹介された。その村では、川の水を利用した水車で、その地域の土を細かな土にして、ろくろで素朴な陶磁器を形をつくり、窯で焼いて出来上がるが、その作業は、文字通り職人芸であり、長年の修業が必要とされる。この道、何十年の職人が、自分が作っているのではない、自然が作る、と語っていたが、そうかもしれない。土も水も窯もすべて自然のものであり、人がしているのは、ほんの少しだけ手を加えただけなのだ。人が、自然と共生する考えは、日本人の思想であり、よく知られているように、合わせ、の文化として、欧米の、選び、の文化と対比される。年を経るにしたがって、人の心は原点に戻るようで、自然に合わせ、人に合わせ、地域に合わせる、生き方が馴染むようになる。自分の専門であるテクノロジーとの合わせは、少し別の文化なので、またの時に考察しよう。

ポスターセッション

昨日も、日本教育工学会の大会のポスターセッションに参加して、勉強させてもらった。やはり、双方向の同期型と非同期型では、学習の仕方も、印象も、効果も異なるようで、休校措置におけるオンライン学習の在り方について、身をもって体験した。双方向で同期型が効果的であることは間違いないが、対面での臨場感には、勝てないだろう。しかし、それは現在の状況に依存するのであり、どのように選択するかは、一律に言えない。現実や対面では、すべての存在がメッセージを発しているのは、presence理論の示すところであり、このことは、近著であるオンライン学習の中でも触れた。対面では、ノートしたり、話し合ったり、という何かしらの行動が伴うが、オンラインでは、特に昨日のようなポスターセッションでは、読むだけなので、受け取った内容、印象、解釈など、どこにも表現できない、つまり脳に入力されただけなので、学習効果は少ないだろう。昨日は、時間がなかった。別の資料作りで、時間がとられたので、今日、昨日の発表で気になった内容をメモしておきたい。このように考えると、確かに情報を受け取るだけでは、本物になっていない、どこかで、自分なりに解釈した内容を出力しなければ、その内容は未熟であり、自分のモノになっていない。自分事として受け止めていない。やはり、人は外に表現しないと、学習にならないのだろう。アクティブラーニングというなら、そうかもしれない。

学会の発表会

昨日は、日本教育工学会の秋季大会でオンライン開催だった。オンラインも悪くない。ポスターセッションは、好きな発表だけ選んで読める、と書いたのは、聴けるのではなくて、ポスターを読むからである。発表会ならば、リアルにやり取りができるが、ポスターは膨大な数の発表があるので、その資料を読むのである。質問があれば、ボードに書込むこともできるので便利だが、音声がないのが残念だが仕方がない。ともかく昨日の初日は良かった。若い人たちが、面白い研究をし、新しい考えを披露するのは、素晴らしく、研究は進歩しながら、次の世代に継続されていることに、感慨を覚えた。すべてのことは、留まることはなく、発展していくことが、自然の摂理である。過去の学会参加を思い出すと、楽しいことばかりだった。ポスターセッションは、発表者のすぐ傍で質問できるので、時の経つのを忘れて、夢中になった。ただただ、面白かった。大学にいる頃は、学生たち、と言っても、大学院生だが、と一緒に参加して、まだポスターセッションがない時代だったので、発表会場を見て回った。海外の国際会議にも、大学院生たちと一緒に、よく参加した。ある時は、JA(農協)か、と言われたこともあった。研究室の学生たちを大勢連れて、会場を行き来する姿が、海外旅行するJAの団体に見えたのだろう。そんな光景は、今はないし、そのような時代ではない。進歩しているのだ。老兵は、横から若い人たちを見ながら、拍手を送る姿が、似合っている。

楽しんで生きる

昨日はいろいろなことがあった。主に仕事のことであるが、オンラインで相談すると、メールの文字だけよりは、確かにコミュニケーションしやすい。ただ、意見の食い違いがある時は、オンラインで画面を見ながらでも、時間はかかる。昨日は、お互いに合意に達して、嬉しくなった。週に1回、主に金曜日であるが、夕食を外で食べることにしている。医者から、健康維持のために、夫婦とも、減量を言われ、お昼をよく外食にしていたが、自宅で簡単なパンとか麺とかにしたために、楽しみが減った。その分、ハナ金の夕食を、外にしようとなって、昨日は所沢駅内の新装なった商店街に行った。すごいお客で、コロナ禍以前に戻ったような印象だ。所沢駅内全体が、きらびやかで、近くも高層マンションが建って、ここは新宿か、と見間違うようだ。自宅から、一駅3分なので、久しぶりに電車で行ったので、生ビールが飲めた。注文した品は、カツ定食だから、昼食の代わりのようなものだが、周りに人も多く、活気があって、冷えた生ビールを飲むと、ワクワクしてくる。やはり、自粛よりも、羽を伸ばす方が良い。オンラインの相談も、前向きな結論に達したので、心が弾んだ。いろいろなことが起きるだろうが、人はどんな時でも、前を向いた方が楽しい。生きている甲斐がある。残り短い人生ならば、大いに歌いたい歌を歌い、生活を楽しんで生きたい。