庭の花

昨日は土曜日なので、スポーツジムに行ったり小さな畑仕事をする予定になっている。今はバラの花が、赤やピンクや白などの色とりどりで周りを華やかにしてくれる。都忘れの小さな花も、バラにそっと寄り添い、山茶花の木に実が一杯ついているので、これからきれいな花を見せてくれるだろう。秋は、花の季節である、同時に紅葉の時期で、ハナミズキがきれいな赤で身を包み、枯葉が一杯落ちている。通りに面しているので、その落ち葉を片付けるのは、家内の役目である。その道具は、昔ながらの箒がよく、枯葉も堆肥になる。庭の小さな雑草などを集めて、積んでおくと枯葉になって、その枯葉で花壇の周囲を飾ると、安らぎがある。生態系の循環システムは素晴らしく、決して無駄がない。バラのような主役の花もあれば、都忘れのような脇役だが見とれるような魅力のある花もあり、これから咲く山茶花のような大勢で聴衆を圧倒させる歌劇団のような花もあり、生物は多様だと、つくづく思う。そして、枯れて肥沃な土になって、次世代につないでいく。この時期になると、次年度の人事の声が、耳に入る。定年退職する人、辞職した人、鬼籍に入った人、などがいる。自分も、交代の時期かと思う。役職にまったく未練はないが、まだやらなければならないこと、やりたいことが多く、自由に生きたい。自分にとって、交代とは自由になることと同義語である。

議員連盟の会議

昨日は議員会館の会議に出席するので、久しぶりに電車で出かけた。自分が所属する団体の事務所にも寄って打ち合わせをしたが、これも久しぶりだった。すべてがオンラインになったので、なんとなく雰囲気が違うが、やはり対面はそれなりの良さがある。議員会館では、密で席が近く肩がつくくらいだったが、慣れるとそれも平気になる、人は、すぐに慣れる動物らしい。地下鉄の階段の上り下りも苦にならず、コロナ以前とまったく変わっていないのが、不思議だった。自宅での暮らしは、すべて違っているので、都心に出かけるのは違和感がある。それでも、まるで何事もなかったように、街に、人は行きかい、食事をし、メールを見、打ち合わせをし、忙しそうに歩いている光景は、都会らしい。今日は10月31日、明日から11月だと思うと、1ヵ月の早いことに、驚かされる。ただ目の前に追われて月日が経っていくのは、昔から変わっていない。ある時は頭を抱え、ある時は笑みがこぼれ、ある時は不安になり、という繰り返しをしながら、ある年齢に達すると、まあ、いいか、と流れるような処し方が身についていく。ただ、政治家はどうも人種が異なるようで、昨日の会議でも、国会議員の先生は、昔の田中角栄のように、威勢がよく、口角泡を飛ばすの言葉通り、自説を述べて官僚を叱咤激励している、というより叱咤だけしている。どうしてこんなにいつまでも、若い時のような生き方ができるのだろうか、と思うことがあるが、たぶん、世の中が動いているので、止まっていないからだろう。いつも全力、ブルトーザーのような人達がいる。ただすごい、と感心するしかない。

小学生の見送り

昨日もつつがなく過ごして、平和な1日であった。朝8時前に、歩いて1分くらいの弘法大師を祭っている小さなお堂に行くのが日課だが、そこに小学生が通る。小学生の列に出会うとホッとするのだが、運悪く時刻が早かったり遅かったりすると、チャンスを逃す。自分は、非常勤の見守り隊と自認しているが、見ているだけで心が癒され平穏な気持ちになるのは、子供の持っている純粋さなのだろうか。運よく、昨日は出会た、というより、後ろ姿を見送った。少し家を出るのが遅かったからだが、お堂にお参りして、帰りに小川の橋の上から魚などを見るのも日課だが、秋になって魚が見えず、その代わりカモが数羽動いている光景に出会わすこともある。そんな日は、何か良いことが起きそうな気がする。朝の小学生に出会うこと、カモに出会うこと、それは、自分にとっての幸運のカギのような感じがして、昨日はいいかもしれない、と思って仕事をしたが、日ごろと変わりはなかった。しかし、心が温まるのである。少しづつ、秋が深まり季節が移っていく。今日は、久しぶりに都心に行かなければならない。霞が関の議員会館で、国会議員の皆さんとの会合がある。こちらは別世界で、政局の話、といっても教育に関わる内容だが、議員の皆さんの元気に出会うと、また自分も後押しされたような気分になるから不思議だ。自分は、自然や小学生や議員さんなどで、いつも応援してもらっている。そんな気がする。

新幹線に乗る

昨日は、久しぶりに新幹線に乗った。岩手県盛岡市で講演があったからだが、大宮で乗車して、仙台、次が盛岡なので、乗車時間は2時間もかからず、こんなに楽とは知らなかった。会場近くの公園などの木々は黄色や赤に染められて、それが真っ青な空をバックにして背伸びをしている光景が、みちのくの自然だと思わせる。講演まで少し時間があったので、近くにある盛岡城跡の公園まで歩いたが、北上川のほとりは、吹く風も暖かく優しい。これからの仕事を忘れるような散歩だった。仕事が終わって、帰りの新幹線では、小説を堪能した。行きの新幹線では、パソコンをにらんで資料の見直しをするが、不思議なもので、やはりミスを見出して修正をする。帰りは、簡単な土産を買って、小説を読むと、その世界に引きこまれて、昨日の小学生の詩のように、自分だけの映画館が始まる、と、あっと言う間に大宮に着く。そして、自宅までの電車の中でも、小説の続きを読んでいる。いつかのブログでも書いたが、小説を読むのに、どこか小さな罪悪感があって、禁止していた時代があったが、帰りの新幹線の中は、誰にも遠慮はいらず、自分だけの映画館であり自分だけの世界に浸ることができる。今はできないが、海外出張で飛行機の中の映画鑑賞も好きで、いろいろな映画を思い出す。藤沢周平の武士の小説を映画化したものなどは、特に好きだった。暗い機内だと、涙を流しても分からないので、感動する場面では有難かった。新幹線や飛行機の中は、自分だけの物語の世界で時間を過ごしているのだろう。確かに至福の時間かもしれない。

子供たちの感性

昨日の読売新聞の編集手帳を読んでいたら、小学生の詩が紹介されていて、惹かれた。本を読むと、私だけの映画館が始まる、という文章で、原文は、ひらがなである。面白い。読書週間が昨日から始まる、その紹介に引用したのであろうが、子供の感性には、いつものことながら、学ぶことが多い。小説でも論文でもパソコンの資料でも写真でも、人は情報を見る時は、いつも自分だけの物語を作っているのかもしれない。それを、ロシアの哲学者バフチンは、自己対話と呼んだ、というと、哲学の専門家から批判されるかもしれないが、本筋は間違っていないだろう。感心するのは、哲学ではなくて、子供の感性である。アメリカのMITの認知科学者レズニックも、幼児の研究をして、その感性や創造性を伸ばすために、コンピュータ言語を開発したことはよく知られている。少し文脈は異なるが、昨日の夜の歌番組で、大阪の高校の吹奏楽部が出演した。役どころは、天童よしみの伴奏としての演奏だったが、素晴らしく魅了された。若い高校生の姿は、全国でもトップクラスの吹奏楽部なのだろうか、人を引き付けてやまない。それは、私たちの感性に訴えるからだろう。小学生も高校生も、自分の道を進んでいる姿は素晴らしく、自分はもう一度生まれ変わっても、高校教師になりたい。その時は分からなかったが、幸せの真っただ中で仕事をしていたのだ、ということに今は気が付く。

オンライン講演

昨日は、いろいろなオンライン会議などがあって、忙しい1日だった、と言っても、仕事をしている人は、皆同じだろう。オンラインフォーラムとかオンラインセミナーが、この頃頻繁に開催される。場所を確保しなくてよいし、講師も自宅でできるし、インターネットにつながっていれば、いつでもどこでも誰でもできるので、オンライン講習会が乱立していると、昨日の会議でも話題になった。リアルタイムだと、例えば昼間は別の仕事で、入ることができないことが多いので、ビデオオンデマンド方式にして、何時でも視聴できる、というスタイルも多くなった。ただしこの方式では、質問できない欠点はあるが、空いている時間に入ることができるので都合は良いが、少しリアリティに欠ける。昨日、自分は、オンラインフォーラムのビデオオンデマンド型の収録があった、と言っても、自宅からオンラインで講演しただけで、それを担当者が、そのまま録画してサイトにアップするだけなので、簡便である。講義する側に、対面とオンラインではどちらがやりやすいか、と聞かれると、自分はオンラインかもしれない。というのは、相手の顔が見えないので、自分の考えだけで自由奔放に話せる、忖度しなくてよい、という雰囲気が性に合っている。たぶん、大学の講義に慣れている先生は、ほぼ似た感覚なのではないか、と思う。小学校などでは、子供たちの顔を見ながらでないと、話しにくいのではないか、と思う。何でも、それぞれの特性がある。

手帳

昨日の日曜日は、雲一つない青空で、土日が連続晴れは8月以来だという。小さな庭だが、菜園をしているせいか、多少の世話は欠かせない。現実には、やろうと思っていてもできないのは、自分の仕事を優先するからだろう。土日は晴天に恵まれて、2日間、庭いじりと小さな畑仕事をした。しかし、晴天だけではない。手帳に予定を書かないと、自分は動けない。手帳にあると、それは脳にインプットされて、この時間は、こうすると、自然に行動に移せる。ところが、雨降りだと、その予定が変更されるので、脳のスイッチも切れて、もう一度入れ直すのにエネルギーが必要になる。手帳を見ると、オンライン会議などの仕事の他に、床屋、お墓参り、畑、などの予定が入っている。手帳はアナログの手書きだが、愛用している手帳で、40冊以上の手帳を毎年捨てずに書棚に置いているのは、愛着があるからだ。自分の足跡がある。しかし振り返って見たことがないのは、目の前が精一杯だからだろう。手帳を見ると、10月や11月は、オンライン会議は当然ながら、オンラインセミナー、フォーラム、出版などの締め切りがあって、かなり詰まっている。昨日の午前中は、毎年やっている研究実験の準備をした。今日も、午後はオンラインセミナーでの収録がある。手帳が私の先生である。今年も、もう残り少なくなった。

秋深し

昨日は土曜だから気が休まるが、コロナ禍以降は在宅勤務なので曜日の感覚がなく、いつも同じ仕事パターンであるが、気持ちだけはまだ土日の感覚が残っていて、どこかホッとするのであろう。天気の良い、正統派の秋晴れであった。土日は、街中のジョギングではなく、スポーツジムに行くが、そこでもマシンでランニングをする。街中や公園を走ると言っても、ゆっくりなので、若い人から見れば散歩レベルだろうが、マシンになると速度が速く、しかも風景が変わらないので時間経過が遅く感じるので、何か考えごとをしながら時計を見て走っている。昨日は、オンラインセミナーの内容について考えていたが、ふとこの構成のほうがいいかもしれない、と思いついた。ジムから帰って、早速書斎でその構成に変えてみたら、自分で納得できる内容になった。そんなことがあると、ジムのランニングマシンの有難味がわかる。一定のリズムで走ると、床から脳に一定の刺激が来るので、それが脳を活性化して、水面下に沈んでいたアイデアが浮かんでくる、という説を信じたくなる。今日は、良いことを思いついた、と思いながら、ジムからの帰宅途中に、夕日が沈む光景が見えて、光が当たる茜色と影の灰色の二色の雲が西方の空いっぱいに広がっていると、今日も良い日だった、という感慨が起きる。秋深し、秋のど真ん中、は、どこか静かで平和で平凡で、という雰囲気がある。

返信する

原稿を書いて送る、資料を送る、それだけでも、確かに受け取りました、とか、ありがとうございます、という返事が来ると嬉しい。自分の努力に対する評価とか反応があるからだ、というと当たり前であるが、反応がないとやる気が継続しないことは、スキナーの行動心理学で証明されているが、相手によって、その反応は違う。よく送ってくれた、という気持ちは、メールであっても行間で分かる、しかし、そうでもなく、ただ仕事としてやっている、という反応の時は、こちらの努力も知らないで、と言いたくなる。スキナーの行動主義は、まだ生きていて、相手からのフィードバックによって、こちらの動機付けが変わることは、確かである。出版社などは、その微妙な心理が分かっているようで、玉稿をいただき、など、たぶん習慣的だとは思うが、相手の気持ちに添う返信がやってくる。そうでない素人的な業者では、例えば、学生アルバイトか、早く仕事が終わらないかと窓から外を見ている人のようなイメージがあって、プロではない、と分かる。それも、行間でわかる。メールというテキストだけではわかならいだろう、と思うが、そうではない、という海外の論文があって、きちんと統計的な検定で裏付けている。プロなのか素人なのか、きちんと読んでいるのか適当に処理しているのか、努力を汲んでいいるのか何も考えていないのか、手に取るように分かる。プロの返信を昨日もらったが、ただそれだけで努力が報われた気がする。人は、何気ない言葉で、元気にもなれば、嫌になることもある。自分も、心して返信したい。

審査の意味とは

昨日も、オンライン審査で明け暮れた、が、前のブロブでも書いた通り、充実感があって、どこかその香りが体に残っていて、温泉の湯船にそっと浸かっていたい気持ちに似ているが、これで終わった。昨日も書いたが、質問をする側も答える側も、どこか真剣勝負のような感があって、その緊張感も今は懐かしい。丁々発止のようなやり取りは、審査だけに限らず、どこの世界でも同じだろう。先ほどメールを見たら、たぶん間違いメールだと思うが、人気お笑い芸人からFacebookの友達リクエストが来ていたが、承認しなかったが、TVタレントもコロナ禍で出演が少ないのではないか、と推測した。それは、あの丁々発止の緊張感が欲しかったのかもしれない。審査の専門家は、知識を俯瞰する力、メタ認知ができている、と書いたが、もっと言えば、詳細な知識も持っていて、それらの知識をつなげる知識がある、というより、そのメタの知識は、desciplineというか、概念というか、物理法則のような確固としてゆるぎない知識のようだ。そこに、いろいろな表面上の現象が紐づいていて、そのメタ知識で解釈したり、分析したりするように思える。ということは、審査でも仕事でもお笑い芸でも、そこに交わされる言葉は、背景に何かゆるぎない知識、それは物理法則のように公式として可視化できていないかもしれないが、何かがあって、その暗黙知が確かなものなので説得力があるのだろう。表面だけの会話なら、それは日常会話にすぎず、審査にもならず他人に見せるお笑い芸にもならないだろう。