昨日は月曜日だったので、3つのオンライン会議があって、密度の濃い議論をしたが、いつも仕事の話もいかがか、と思うので、別の話題にしたい。月曜は、新聞の歌壇が掲載される曜日で、昨日のブログで認知症と書いたせいか、次の短歌が目に留まって、切り抜いた。ひとつまたひとつ壊れる夫の脳優しくできぬ我でない我(大館久仁江)。認知症になった夫の介護で、分かっているが、どうしても感情が言うことを効かない自分を振り返っている。以前にブログで紹介したが、母の日の許してほしきことばかり、を思い出す。そういえば、自分の心に住んでいるもう一人の自分を、鬼と称した短歌もあった。介護のことは、もうすっかり過去のことなので、思い出せないし、ほとんどすべて忘れてしまった。いつまでも、過去に引きずられると、人は生きていけない。確かに、そんなこともあった、どんなに大変なことがあっても、脳の古い細胞は分解されて排出されるのだから、心配ないのだ、と思っても、この短歌を詠んだ人は、今の自分を見つめながら、落ち込んでいるのかもしれない。句を詠むことで、落ちこんだ自分を拾い上げようとしているのかもしれない。俳句欄を見ると、春待つや空にあるもの皆動き(会田重太郎)、という明るい句があった。雲も鳥もすべて動き始める春を待つ心境がよく分かる。やがて、4月になれば、コロナも収まって、明るい笑顔が戻ってくるだろう、と誰も期待している。今は、待つ時期なのか、耐える季節なのか、わからないが、心配することはない、根拠や科学的データはないが、これまで生きてきた経験から言えば、楽しい季節が確実にやってくる。
生活の基本
昨日は日曜日、このブログではいつも仕事のことが中心だが、休日まで仕事の話はどうかと思うので、普通の生活のことを書く。と言っても、コロナ禍の今、平日と変わらないが、日曜のお昼だけは外食にしている、というのは、緊急事態宣言の前は、花金だと称して、金曜の夕食だけ外食にしたが、それもできないので、変更したのである。家内と焼き肉店に行ったら、密だった、テレビで、焼き肉店は換気が強力だから繁盛している、と言ったからかもしれない。安くて、ウマい。その後、買い物をして、日曜なのでスポーツジムに行った。ランニングで汗を流し、プールで泳いでさっぱりして、帰宅して、美味しい夕食を取り、NHKの大河ドラマを見る、という生活で、誰も同じようなものだろう。夕方に帰宅する途中で、ふと、マズローの欲求段階説を思い出した。確かに、衣食住が満たされなければ、生理的欲求である、食べる、寝るなどができないので、生活そのものが成り立たない、ホームレスになるしかない。自分はこの欲求は満たしている、と思い、最上位の自己実現の欲求は、仕事で生きがいを感じることとすれば、特に不満はない、なるほど、自分は今の生活でいいのか、と思う。だが待てよ、マズローは人間性の心理学と言われるが、現代社会では、まず健康、身体的にも精神的にも健康第1であり、足が痛い、腹痛だ、というだけで苦しく、うつ病とか認知症になれば、すべてが終わりのような気もする。昔、海外出張で成田空港に行ったとき、どういうわけか急な腹痛で空港内の病院に行った、そして点滴を打ってもらい、飛行機の便を翌日に変更してもらい、ひとまず帰宅したが、電車の中で祈った、まるで子供のように、決してこれから悪いことはしませんから、この腹痛を治してください、とずっとお腹を押さえていた。翌朝、嘘のように痛みが去ったとき、台風が去って青空一面のような気持になったことを思い出す。だから、マズローの欲求のように段階ではなく、最下位の体の健康、と、最上位の心の健康が、人の生活では基本ではないか、と思った。平凡だが、心身ともに健康、よく学びよく運動し、が大人の生活の基本だろう。
セミナーでの大失敗
昨日は土曜日だが、午後はオンラインセミナーで、目いっぱい時間を使った活動だった。自分は、始まりの挨拶と最後のパネル討論の司会役だった。高校の教科「情報」についてのセミナーで、有料であったが、多数の参加者があったということは、関心が高いせいだろう。昨今は、小中学校の1人1台端末のGIGAスクール構想、オンライン学習・授業、高校「情報」の大学入試教科、デジタル教科書、AIやIoT、デジタル庁など、文科省だけでなく、経産省、総務省、内閣府など、政治家も官僚も、コロナ対策と社会のデジタル化に振り回されている。昨日のパネル討論は、その課題と展望についての熱い議論であったが、自分は、大失敗をした。パネル討論の盛り上がりの最中に、突然、相手の声が聞こえなくなり、映像がフリーズした、いつもの癖で、相手のパソコンがおかしい、と相手に疑問を持ったのがいけない、これで1分は損した、これは自分のパソコンが原因だと気付き、zoomのウェビナーだが、いったん退室して、書斎の隣のパソコンを見たら、ネットが切れているようだ、と気付き、1階に降りて、念のために1階のパソコンを立ち上げて確認したが、なんと馬鹿なことをと思ったのは、スマホを見ればすぐに分かるのに、これで2分は損している、それでWi-Fiルータをリブートして、1階のパソコンの画面を見ていたら、ようやくネットにつながるアイコンが表示された。これで2分の時間が経過して、2階の書斎に戻って、もう一度セミナーに入室したら、パネリストが話している最中だった。お帰りなさい、という声に励まされ司会を続けたが、実は、これまでに経験したことのない活発なパネル討論になった。多くの質問がQ&Aボタンから投稿されて、さばききれない、その後の懇親会と称するおまけのセミナーも、大勢の人が参加して、パネリストから参加者の場に変わった。なるほど、失敗は失敗だけではない、8分の遅れが、自分の気持ちを引き締め、その気持ちがパネリストや参加者に伝わったのかもしれない。人の世の出来事は、失敗は失敗だけではないところに、救いがある。
日常活動における学び
昨日の午前は、ある団体のオンライン審査だった。審査なので、事前の書類に目を通したが、得ることも多かった。審査ということは、当然ながら、審査員の目に触れるわけだから、申請者は、頭をひねり、額を寄せて、議論したに違いない。その書類から、内容を吟味する役目が審査員なので、紙の向こうにある真意を汲み取らなければならない。審査における議論とは、その眼力というか、ある意味で知力の勝負のような、目には見えない電磁波が、画面の向こうに飛び交っているような気がする。質問をする側も、それを受けて立つ側も、別の視点で切り込む側も、それぞれが、やはり凄い知力をもっていると感じる。その上で、相手を柔らかに受けて、確かにその通りだが、この視点からは、このような考えも出てきます、という、文字通り紳士であり、相手への気遣いも感じる。こんな芸当は、自分にはできない、なるほど、大人の議論、成熟した議論、とはこのようなことか、と勉強になった。自分は司会役だったので、発言の無かった委員に発言を促すと、その内容も、さすがで、場を読み、メタレベルから判断し、時間も配慮して、というから、きれいで美しい。満ち足りて、オンライン会議は終わった。考えてみれば、書類を読んで、そうか、このような方法があったか、とヒントをもらい、審査会に参加して、委員の皆さんの議論から、多くの示唆を受けて、いったい自分は何をしたのだろうか、と考えた。ほとんどすべての知識を他人からいただいている、というか、もっと高度な知恵や生きる上で必要な汎用的な知を、受けている。日常生活で活動する、それ自身が、高度な知恵を学ぶそのものではないだろうか。放送大学に入学することだけが、大人になってからの学びではない。日常生活、日常活動それ自身が、小さな生涯学習と呼んでいいのではないだろうか。
眠気を誘う午後の時間
昨日は、午後に少し時間が空いて、ふと眠くなった。原因は分かっている。前の晩に酒に弱いくせに、つい飲みすぎて、夜中に目が覚めたせいか、その後の寝つきが良くなかったから、寝不足なのだ、だから気が緩んだのか、いいではないか、と夢見心地だったが、気が付いた。明日の午前にオンライン会議があった、普通はそれでよい、ただ、自分が司会をして仕切らなくてはならない。最後にまとめて、決定しなければならない、少し意見の食い違いがあるかもしれない、と思うと、送られてきた資料を、読んでおく必要がある、と思った。本当は、司会であろうと委員としての参加であろうと、せっかく送られてきた資料、しかも郵送だが、を読まないのは失礼なのだ。しかし、時間をいつも気にする、日頃の悪い癖で、事前よりも、その場で処理し、考える方が多い。午後の暖かい日差しが、2階の書斎の窓から一杯に入ってくると、どことなく眠気を誘うのだが、資料を読んでいく内に、司会用の台本を読んでいく内に、少しずつ、その世界に入っていき、そして、コメントをメモし、疑問点を書き出し、そうか、と面白い内容に蛍光ペンで印をつけている自分に、なっていた。それは、別件で気になっている、というか、昨日のブログで書いたような、GIGAスクール構想に関する多方面の課題を、どう構造化しようか、という疑問に、少し示唆をもらうような気がしたからである。なるほど、このような視点もあるか、というヒントは、子供が学ぶ時や探求する時と同じである。ということは、ヒントはどこにでもある、それを知らないのは、アクセスしないからだ、何故アクセスしないのか、と言えば、眠いから、と言うのは、理由にならない。正しくは、自分が明日司会をして仕切らなくてはならない、という意識だろう。つまり、自分事として物事を捉える、ことになる。単純には、参加だけなら他人事、司会をするなら自分事、になる。学校の子供たちに、自分事にさせるにはどうしたらいいだろうか、と考えると、それは、どの先生も追及している課題であろう。ただ、午後の時間、自分は得をした。
GIGAスクール構想
昨日は、オンラインの会議が2つあって、しっかり仕事をさせてもらった、という感覚がある。詳細はブログでは書けないが、どちらも自分にとっては大切な仕事である。前半の会議は企業の方と、後半は教育の方との会議であるが、企業と教育では、確かに文化が違う。教育工学の分野は、その両方の文化をつなげ、融合しようとする分野と言えるかもしれない。GIGAスクール構想が猛威を振るっている、良い意味であるが、3月末までに、すべての小中学校に端末が整備される、その対応で、GIGAスクール対応の教育担当者、主に指導主事の先生方は、大忙しだろう。その忙しさと心痛と緊張感は、たぶん異文化経験だと思う。そもそも、GIGAとは略字であり、もちろん、情報量のGIGAを当てたものだが、その情報量すらビットから始まり、OS、アプリ、のパソコンの基本、サーバー、クライアント、クラウド、アカウント、パスワード、セキュリティ、ハイブリッドなど、カタカナだらけで、最近まで学校では通用しなかった用語なのである。用語の理解すら、一般の教員には難しい世界、つまり、ICT文化が、いきなり学校に入ってきたのである。それは、コロナ禍における、新しい教育様式と無関係ではないが、このブログは論文ではないので省略するが、自分の専門の教育工学は、その2つの世界や文化を橋渡しするミッションを持っている、と言ってもよいだろう。昨日は、2つのオンラインの会議で、その違いが明確に分かったが、どう橋渡しするか、それは自分の課題である。一方では、スタディログ、DX、データーサイエンスなどを語り、他方では、学校間の温度差、主体的な学び、効果的な活用、GIGAスクールの背景や理念、などを語り、それが、教育という主軸できれいに並び、構造化できるか、という課題が、自分の仕事なのである。しかし、昨日の議論を振り返って、うーん、と考えながら、ここが突破口か、と頭をひねっていると、夢の中まで出てきて、ふと気が付くと、2つの文化をつなげる世界にどっぷりと自分は浸かっている。それは、本当に幸せな仕事なのだ、有難いことなのだ、と振り返った。
自分に都合の良い解釈
昨日は祝日で、オンライン会議などはなかった。その代わり宿題があったので、それを一生懸命やっていたのだが、昨日のブログで書いた、古い細胞と新しい細胞の話が気になったので、少しきちんと書いておこう。福岡伸一先生と言われる生命科学の専門家で、正式には、動的平衡、という理論だった。人の細胞は、新しい細胞を生成すると同時に、古い細胞を壊して排出している、ことで、常に外界と調和を保つ、つまり動的に平衡を保っている、という、素人なりの解釈である。だから、外界がどのような状態になっても、人の体の内部で、細胞の生成と分解を繰り返して、均衡を保つ、というのである。自分に都合の良い解釈をすれば、自分にとって面白くないこと、逃げたいことがあっても、それを感じた細胞も壊れて排出されるので、ほっとけばいいし、どんなに素晴らしい知的な興奮や楽しい経験も、いづれ冷めて、その時の細胞もやがて分解されて排出されるので、将来までずっと続かない、と思えばよい、ことになろう。ということは、あまりくよくよせず、楽しいことや面白いことは、今を楽しんだほうが得策で、先になったら、冷めるだろうから、と自分にとってプラスになるように、解釈したほうが良いだろう。昨日は、宿題と書いたが、以前に録画した教員の免許更新講習の問題を作成していたのだが、当時は、その資料作りに没頭して夢中だったが、今はその興奮は冷めて、つまり福岡先生の理論通りに、冷静に考えていた。問題と言っても、40問の選択問題と4問の記述問題なので、時間はかかる。しかし、作っている内に、ポイントを思い出し、また送られてきた動画を視聴しながら、つい中身に入ってしまうので、時間がすぐに経ってしまう。とすれば、冷めても、夢中になれることはある、まんざら捨てたものではない。つまり人は、楽しんだり、冷めたり、時に落ち込んだり、また夢中になることに出会ったり、そのように、浮き沈みの中で生活しているようだ。前のブログでも書いたが、さざ波のような生活の中で、人は喜びや悲しみを感じているのだろう、それは平凡だが、有難いことなのだ。
古い細胞と新しい細胞
昨日は、月曜日で定例の所属団体の会議が午後あり、午前中は地元の中学校の評議委員会があり、夕方は研究会があった。中学校の評議委員会は対面の会議であったが、その他はオンラインである。研究会では、自分が発表したが、3年間か4年間をかけた研究の総まとめのような内容で、自分は、データ分析をしている時、楽しくて仕方がなかった。研究仮説通りの結果で、きれいな結果に自分でも驚いた、というより、興奮した。仮説通りだったのだ、と言っても、内容を言わないと分からないだろうが、知的興奮とは、このようなもので、本人しか味わえない喜びで、分析をしている期間は、それだけで頭が密になっている状態で、寝ている間もデータやグラフが浮かんでくる。やはり、4年前の自分の研究的直観は正しかったのだ、と思うと、それは小さな発見と呼んでもいいだろう。昨日は、その研究の初めての発表だった。オンラインであっても、自分の研究の喜びが伝わるだろう、と思ったが、実は、その知的興奮は冷めていた。自分は、なんと薄情な人間なのか、と思ったが、事実その通りで、なるべく早く話を切り上げようと思ったくらいである。ふと思い出した。福岡先生という脳科学の専門家の講演記事の中で、生命は流れている、という魅力的な言葉に出会った。通常、食料を体内に入れて、血肉となりエネルギーとなると思っていたが、どうもそれだけでなく、細胞自身が新たに作られていくと同時に、古い細胞は分解されて捨てられる、つまり、細胞は常に新しくなっている、と言うのだ。それならば、今日の自分は、昨日の自分と細胞レベルでも異なって当然、1ヵ月前にあれほど知的興奮した細胞は、すでに排出されているのかもしれない、と思えば、納得できる。団体の仕事でも、個人的なことでも、自分の好都合のことばかりではなく、不都合なこと、嫌なこと、苦手なことも起きるのが自然である。昨日も、いくつかあったが、明日には、その細胞も古くなって捨てられる、と思えば、何でもない。池に石を投げれば、始めの波の大きな振幅は、やがて小さくなっていく、それならば、いつまでも脳に残して気に病むことはない、と思ったのである。そして、午前に訪問した、はつらつとした中学生から元気をもらったので、新しい細胞に生まれ変わっている。
教育は楽しい仕事
昨日は日曜日だったが、朝9時から夕方5時まで、オンラインイベントがあって、パソコンの前に張り付いていた。固有名詞もかまわないだろう、minecraftcup2020の発表会と表彰式で、初めてのオンライン開催で、多くの子供たちの作品が画面上で見ることができた。自分は、何日か前に、賞を出す候補作品の審査にオンラインで参加したので、およその作品は知っている。自分は、審査員ではない、minecraft、略して、マイクラの専門家ではないので、運営委員とアドバイザーという立場なのだが、それでも作品を見ているだけで面白い。それは、子供が作品のデモをしながら、着想に至った背景、技術的な難しさ、などを語るからだが、それは、子供なりの思想や世界観を表現しているからだろう。大人もハマる、と言われ、KAZUさんも審査員なのだが、子供たちからは、ヒーローのように崇められているが、その審査員のコメントも、聞かせる内容が多い。なるほど、専門家は、こう考えるのだ、こんなふうに感じるのか、と、その話に引き付けられた。メールで、鈴木寛先生、通称、鈴寛(スズカン)さんが、教育はやっぱり楽しいね、と書いておられたが、その通りだと思う。実は、2台のパソコンで、1台で見ながら聞きながら、もう1台で仕事をしていた。並列処理であるが、ビデオも音声もオフなので可能で、それも審査員ではない役得なのだが、どこか後ろめたい気もするが、ずっと見っぱなしでは、どうも時間が持たない。学生が受ける授業なら、ノートしたり、質問したり、議論したり、何らかの活動が伴うが、この場合は、文字通り手も足も出ない状態なのである。なるほど、じっとしていることは、難しい、武士は、その昔謹慎というと、文字通りじっとしていた、とテレビで見たが、それは相当に厳しい罰である。昨日は、昼食も15分程度だったので、文字通りパソコンに釘付けだった。午後5時に終わった時、肩が凝って、これはいかん、と思い、スポーツジムに行った。ランニングマシーンで30分間、その他の筋トレをして、帰宅の途につくと、もう真っ暗の街並みだったが、先の、教育はやっぱり楽しいね、の言葉を思い出した。そうか、自分は、その楽しい仕事を、ずっとさせてもらっている、本当に幸せな生き方だ、と実感した。帰り道も、心が弾む。
メンタルモデルが変わる
昨日は土曜日だったが、私用も含めてだが、忙しかった。と言っても、土日はスポーツジムに行って、健康維持を心掛けている。と同時に、体を動かすと気持ちが明るくなるからでもある。ランニングで汗をびっしょりかいて、2階のプールで軽く泳ぐのが自分のコースだが、昨日、珍しくプールで声をかけられた。きれいな泳ぎですね、と言われ、どぎまぎして、いいえ、我流なので、と言って、すぐに別れたが、お世辞だろうと思いながらも、泳ぎ、特に平泳ぎは、自分は下手だと思って、他の上手い人を見ることが多いので、正直に驚いた。クロールはなんとなく早い気がするので、おかしくなさそうだが、平泳ぎは他人より遅い気がして、引け目をもっていたからである。昨日のブログで書いたが、原稿を書いて、5回以上も修正して、しかも印刷までして、見つからなかった誤字があった。それは、小学2年生、の文字で、それまで、小学校2年と書くことが多かったので、生の文字を数字の後に入れなければ、という思いが強くあって、小学2生になっていたのだが、5回も見て気付かなかった。不思議な気がする。平泳ぎも同じかもしれない、そう自分で思い込んでいるだけかもしれない、そう言えば、平泳ぎで泳いでも、ほとんど疲れないし、息も荒くならないのは、むしろ自然な泳ぎなのかもしれない、と思うのは、他人に言われたからである。なるほど、誤字も泳ぎも、思い込みであり、他から見れば、そうではない、ということを考えば、振り返りや他との協調の意味が、理解できる。原稿を書いていて思うのは、最近話題のGIGAスクールのことである。どの学校にも、1人1台の端末が整備される、それはいいとして、本当に授業で使えるのか、埃をかぶらないのか、という心配は誰も持っている。これまでの経験からすれば、その懸念は自然だろうと思う。が、ひょっとして、それは、思い込みではないだろうか。コロナ禍で、在宅勤務になって、自分は新しい世界を経験し、快適に生活し、もう通勤の世界には戻れない、などと思うのは、自分の意識や認識が変わったからであろう。自分の原稿では、メンタルモデルが変わる、これまでの学校モデルを捨てよう、と書いたが、自分も納得できる気がする。
