真っ白なハンカチ

今は土曜日の夕方、書斎の中はクーラーで涼しくなっているのでほっとしているが、先ほどすぐ近くのスーパーに買い物に行ったが、歩いて2分程度の短い距離なのだがそれでも暑かった。老夫婦で買い物に行くのも珍しいのだが、自分が飲みたいビールの銘柄を家内に任せると間違うことがあるからなのだが、別の理由もある。年をとると足腰がだんだん弱ってくる。これは老化現象なので仕方がないのだが、家内も急に弱ってきた。だから買い物も小さな4輪車を引っ張っている。通販で買ったものだが、これでかなり体が楽になる。ビールとか夏の飲み物は量が多くて重くて、運ぶのが大変なのだ。家内に任せっきりだったので、少し手伝いたいと思って出かけた。今はスーパーは男性の方が多いぐらいで、年配者も夕食用の食材をあれこれ探していた。男女共同参画とはよく言ったもので、これが現代風で男女ともその方が居心地がよい。とは言っても昭和の男とすると買い物も料理も苦手である。だから夕食を準備してもらえるだけで有難いと思う。今夜は親子丼ぶりがメインで、なすびの料理や冷奴などがあって冷たいビールは絶品の味がするだろう。さて今日は何をしたのだろうと思い出すと、午前中は月一度のお墓参りに出かけた。墓地は夏を謳歌するように蝉の合唱で賑わっている。蝉の鳴き声とお線香の香りが一緒になって、そうか今は夏なのかとふと思う。お墓には父親と母親が入っていて、報告することもあるが願い事の方が多い。この頃家内の足が急に衰えて、昨日は病院に行って診断してもらったので、良くなるようにお願いした。娘夫婦や息子夫婦の孫のことなど、両親にいっぱいお願いした。自分はもう年なので願い事はしないが、平凡ながら健康でいたいと報告した。自分が家族を助けてやりたいと思うことはあっても、現実にはできないことがほとんどである。金銭的なことならお金を援助することもできるが、それは本当に助けることになるのかわからない。また現実にそんな願い事はない。若い内はむしろいろいろなことがある方が普通なのだ。それをなんとか乗り切っていくことが、日々の生活そのものである。だからご先祖様にお願いしするしかない。つまりお願いするだけで、現実は本人が解決するしかない。自分はいつものように休日はスポーツジムに通って、先ほど帰宅した。入院したこともなく大きな病気をしたこともないので、有難いとしか言えないが、いづれ入院したり大病を患うこともあるだろう。多分誰もが何らかの問題を抱えながら毎日を過ごしている。文脈は離れるが新聞に、今日のこと今日のハンカチ洗いつつ(今井千鶴子)の句があった。作者は著名な俳人のようだが、自分は知らなかった。新聞の俳壇の論評の中で紹介された句である。旅先なのかわからないが、女性らしく今日使ったハンカチを洗面台で洗いながら、今日は何があったか、どんな出会いがあったかなど、思い出している。自分は、今日の出来事を、南の空を眺めつつ、ブログを書いている。自分は知らなかったがハンカチは夏の季語らしい。多分真っ白なハンカチだろう。その方が今日のような夏空によく似合う。作者のように、今日のことはいろんなことがあっても、きれいに洗い流して真っ白な気持ちになって明日に備えると思えば、何かすがすがしい気持ちがする。真っ白なハンカチで朝を迎え、汚れたハンカチを夕方には洗い流して、明日に備えるとすれば、そんな生活も悪くはない。

新しい気付き

今は火曜日の夕方、いつものように書斎の窓から南の空を眺めている。前回のブログを書いた時と同じように、真っ青な空が広がっていて、西日といえども容赦ない太陽が照りつけている。口から出てくるのは、暑いの一言である。部屋の中にいればそれなりに涼しいのだが、外に出れば炎天下、灼熱の日差しが皮膚にあたって痛いような感じすらする。こんなときは新聞やテレビが報道するように、熱中症にならないように外出は避けることであろう。とは言ってもずっと引きこもるわけにはいかず、用事があれば外に出る。今日も午後は2回ほど外出した。その1回はこの前のブログでも書いたが、スポーツジムである。自由業の身になって時間的な余裕が出てきて、というよりも手帳の余白が目立つので、何かしらの用事を埋めている。といっても無理に空白を詰めようとしているわけではない。自由業つまりフリーランスは、タレントを始め多様な職種の人がいるだろう。彼らはオファーがあれば出かけて、パフォーマンスを披露することが仕事だろう。自分たちの場合は、パフォーマンスというよりもそのための準備やプロセスの方に比重が高い。つまり結果ではなくプロセスなのである。それは強がりなのかと揶揄される方もいるかもしれないが、自分の感覚はその通りである。例えばイベントの司会や講演など、多くの参加者があり高い評価であれば、その仕事は成功だったと言える。ただ自分は、誤解を恐れずに書けば、そのような結果にはあまり重きを置いていない。その準備の時に、新しいアイディアが生まれたとか、これは研究としても優れているとか、何かしらの過去のイベントや講演とは違うオリジナリティーを求めるのである。それは大学に身をおいたものであれば、同じような感覚ではないかと思う。自分はどんな小さなイベントでも、過去とまったく同じ内容を話したくない。聴衆者が別だからとよく主催者は言うが、そこに新しさがない限り、自分自身が少し汚れていくような気がするからである。それは研究と同じなので、準備に時間がかかる。だから手帳の空白の時間は、その準備に当てているので、自分にとって、世の中はうまく出来ていると思う。午前中はそんなことでほとんど時間が潰れる。そして新しい気づきがあると嬉しくてニコニコしている。ただデスクワークばかりでは健康が維持できないので、休日と平日で週3日間をスポーツジムに行くことを自分に課している。今日はその平日の日であった。スポーツをすると気持ちが前向きになる。この前のブログでも書いたが、長い期間暑さが続くと限界になってきて、早く逃れたいと思う。今日も帰り道で、冷たい水とガリガリ君を思い出して家路を急いだ。つまりある事柄があまりにも強烈であれば、そのことだけに囚われてしまう。たぶんそれは誰でも同じだろう。そこから別のことに思考が広がらないのである。自分の気に入らないことや思いどうりにならないことがあって、そればかりに囚われたら、多分うつ病のような状態になるだろう。そこから逃げられないからである。研究も同じである。思考から別の思考に飛躍できずに、ぐるぐる回っているだけのような感じになる。だからプールで泳いでいる時は、新しい気付きもあるが、熱中症になるかと思うほどの炎天下では、ただただ早く帰宅したいだけで、それ以外は考えられないのである。文脈は離れるが新聞に、ためいきもビールの泡もCO2(渡辺しゅういち)の句があった。あっと声をあげるほど新鮮な響きがあった。なるほど両方とも地球温暖化に加担しているのかと、俳句の撰者も述べていた。地球温暖化と言えば自動車の排気ガスぐらいしか思い浮かばないが、この発想は面白い。これが新しい気づきである。しかも飛切り上等の気づきである。ビールは夏の季語だとネットに書いてあったが、そうであればキンキンに冷えたビールが眼に浮かぶ。今から夕食が楽しみである。それ以上の新しい気づきは自分にはない。

暑さ

今日は土曜日の夕方、いつもの通り2階の書斎の窓から空を眺める。すごい天気としか言いようがないが、一点の雲もなく青一色である。西日がマンションや民家を照り付けて、長い影が見える。暮れるのはまだ早い。いつもの土曜日のように、今日もスポーツジムに行って帰ってきた。何しろこの暑さで徒歩15分ほどかかるジムまでたどり着くのに汗びっしょりで、下手なゴルフクラブを振って汗だくになり、その後プールに入ってこの上ない心地良い一時を過ごす。さらにサウナに入ってまた汗をびっしょりかいて、水中ウォーキングをすると、皮膚が活力をもらったようで元気になる。そして真夏の日差しを浴びながら屋外のジャグジーにつかれば、この上無いセレブな気持ちになる。考えてみれば、いっぱい汗をかき、水とお湯で汗を流しの繰り返しで、体が新陳代謝をしているようだ。古い細胞を吐出し新しい細胞が生まれてくるような気持ちがして、体全体が生き生きするような時間であった。ジムからの帰り道、西日が直接顔に当たるのを避けるために帽子をかぶっているが、また汗が吹き出して、早く冷蔵庫に冷やしてある水とアイスキャンデーを食べたいと思った。暑さが人間の限界に近くなると、難しいことは考えられない。幼児か子供のような考えに戻るらしい。歩きながら頭の中は、水と氷のイメージで満たされて、他のことはあまり思い浮かばない。ただ途中にコミュニティ広場があって、いくつかのテントがあり櫓が組んであった。そうか盆踊りかと思ったが、午後4時過ぎぐらいではとても踊れない。だから関係者が数人いただけで、夜を待っているらしい。そうかもう盆踊りかと思いつつ、何回かやるのかもしれないと思って通り過ぎようとしたら、ミストの装置があった。そのそばに行くと冷たい霧が降ってきて、一瞬暑さを忘れた。今夜はこの地域の人たちが集まって踊るのかなどと思ったが、コンクリートの地面では、いくら夜になっても涼しいとは言えないだろう。それよりもクーラーのきいた我が家で、冷たいビールを飲んで夕食を取る方がどんなにかありがたいなどと思った。自宅の近所に弘法大師の御社があり、大きな銀杏の木があって、その周りは小さな広場になっている。その横を小川が流れている。植物があったり雑草でも緑が目に入ると、暑くても少し涼しげな気持ちになる。まして小川があって水が流れているから、コミュニティ広場より風情がある。8月の下旬には小さな盆踊りが毎年行われる。町内会なので寄付はするが、盆踊りの手伝いはお許し願っている。もうこんな季節なのだ。7月も終わりに近づいてきた。暑い暑いと言いながら毎日を過ごしているのだ。今日は何をしたのだろうか。午前中はそれなりに仕事をし、お昼にいくつかの用事を済ませ、午後2時から4時半まではスポーツジムの時間だった。しかしあまり思い出せない。暑いということだけはしっかりと体に染みているようだ。文脈は離れるが新聞に、脳髄のずしりと重し炎天下(折戸洋)の句があった。気持ちは分かる。今日は脳の中まで暑さが染み込んできたのか、それなら難しいことは考えられないはずだ。クーラーのきいた部屋でなければ、とても考え事ができない。脳髄まで染み込んできたら、元に戻るのに時間がかかるだろう。そういえば今日のブログは何が主題だったのか、わからない。ただ暑いと、暑さから逃れることだけ考えて頭が単純になるということなのか。ここで急に夕立でも来れば、どんなにか気持ちが良いだろうかなどと、つまらぬことが思い浮かんだ。もう少しすればクーラーも効いてくるので、まともな考えが浮かぶかもしれないが、紙面が尽きた。これでお許しいただきたい。

選挙結果

今日は火曜日の夕方、いつものようにこの時間に書斎の窓からから空を見上げる。白い雲がいっぱい広がっているが、夏の青空である。お昼にテレビの番組を見ると、参議院議員の選挙結果で盛り上がっている。勝っても負けても、政治家は元気なので驚く。川の流れに身を任せではなく、流れを食い止めるとか別の流れを作るなど自然体ではない仕事が、政治の本流らしい。いつまでも夢を追いかけるのは、歳をとれば、それがいかに難しいかを実感する。それは持続することの凄さである。かつて国会議員の先生方との会合があって、自分は4勝3敗だったとある議員が言ったので、何のことですかと聞いたら、選挙結果だと言った。落選したらただの人と言うが、ただどころか文字どうり浪人生活である。捲土重来を期して、歯ぎしりするような生活をする覚悟がないとできない。その根性は信じられないぐらい強靭である。そのぐらいの強い気持ちを持っていなければ、国会の赤い絨毯は踏めないらしい。それが3度続いたというのは、何と表現していいか、奥さんも苦労の連続だったに違いない。昼食をとりながらのお昼の番組で、そんなことをふと思った。今回の選挙でも多くの人が落選したが、その人たちはどんな思いをしているのだろうか。当選を夢見てまだ頑張るのだろうか、晴れて国会議員になれば家族の皆さんも喜ばれるだろうが、そうでない人の方が多いのだ。考えてみれば世の中は、なりたい自分になれない人の方が圧倒的に多い。そんな時人は、最期の時まで夢を追いかけるのか、夢を捨てて現実に生きるのか、現状に妥協して生きるのか、諦めて別の道を歩むのか、いろいろな生き方があるだろう。テレビで放映されている人は一握りの人であって、ほとんどの人は挫折を味わい、打ちひしがれた精神状態にいる。総理大臣の映像を見ても、苦渋を滲ませながらそれでも継続すると宣言したが、誰もそれが厳しい茨の道であることも知っている。それほどまでに政治に魅力があるのかと思いたいが、それは多分素人の考えで、本人にしてみれば魅力とか権力などではなく、それがすべてなのではないかとふと思う。歌手なども苦節10年とか赤貧の生活をしたなどと、耳にする。プロ野球の選手もごく一部の人が脚光を浴びるが、ほとんどの選手は仮にマウンドに上がって成績を残したとしても、短い時間だけのスポットライトを浴びる経験だけで、人生を終わりになる場合が多い。その職業が晴れやかであればあるほど、その競争は熾烈であり、ほとんどの人は報われることもなく人生の幕を降ろすのだ。文脈は離れるが新聞に、細き文字「元気でいてね」文残し兄は逝きたりはや一周忌(関雪子)の句があった。どんな家族であったのか、この句からはわからない。しかし妹だから兄の気持ちはよくわかっている。やりたい仕事を全てやった大往生だったのか、それとも心残りのことがいくつかあったのか、妹に言いたかったことがあったのか、多分後者であろう。繰り返すがほとんどの人は、この句のようにやり残したことやうまくいかなかったことやさまざまな思いを込めて、最後を迎えるのかもしれない。しかし今日の選挙結果のテレビ番組を見て、勝った陣営負けた陣営の落差を見て、それも一時のスポットライトではないのかと思った。それはほんの短い時間だけであり、長い間には勝っても負けても、大きな波や小さな波がくるのだ。それならばその1瞬だけではない長い時間をどう過ごすかが、より大切である。自分は政治家でもタレントでもないごく普通の世界に生きている。1瞬にかける人たちを尊敬はするが、自分には全く遠い世界であり、自分は平凡な生き方が最も合っている。その世界では比較的小さな波で終わることが多い。自分も最後はこの句のように、心残りのことがあるかもしれないが、それでもいいのだ。それはたぶん小さな波だから。

当たり前

今日は土曜日の夕方、といっても南側の窓から見る空は夏一色で、青空に白い雲が浮かんでいる。先ほどスポーツジムから帰宅したばかりであるが、暑いの一言である。スマホの天気予報を見ると、今日の最高温度は32度らしい。風もなかったので体感温度はもっと高かった。暑い暑いと言いながら、西日を直接に顔に受けて帰宅したので無理もない。スポーツジムと自宅の途中に旧市役所の前のコミュニティ広場があって、子供や親子連れなどで賑っている。盆踊りではないが、舞台も設置してあるのでイベントである。さすがに日中はうだるような暑さのせいか、夕方から始まるようだ。生ビールや子供の好きなりんご飴や焼きそばなど、屋台も並んでいる。容赦なく西日が照りつけるので、たくさんの長椅子と机も用意してあるが、そこではなくテントの日陰に集まって、アイスクリームなどを食べている。この広場は地域住民や市民にとっては憩いの場で、8月には盆踊りもあるが、かなりの頻度で人が集まるイベントがある。太鼓の共演とか、よさこい踊りとか、市民音楽隊の演奏会などで、もちろん祝日や休日である。今日も浴衣を着た女の子たちが集っていた。ベビーカーに赤ちゃんや幼児を乗せた親子連れ、大人も子供もニコニコしながら夏のひと時を楽しんでいる。そういえば学校も今日から夏休みだろう。小中学生もいたようだ。酷暑だといっても、子供達にとって楽しい夏休みなのだ。男の子も女の子も、長い夏休みの始まりでその開会式のようなイベントなのだろう。ふと思う。こんなふうに人が集まったり街の通りを行き交うことは、なんと素晴らしいのだろうか。実は昨日小さな温泉旅行から老夫婦で帰ってきた。東北の小さな町では、誰も通りを歩いている人はいなかった。車は走っていても人影は何も見えなかった。自分は我が目を疑った。どうして生活しているのだろうか、どんな仕事をしているのだろうか、などと素朴な疑問があったが、多分これが日本の現実なのだろう。人口が2極化しているのである。最近NHKの番組で、タレントが地方の街を散歩するのだが、同じような光景で誰も通りを歩いていなかった。自分達が子供の頃、こんなことは経験したことがなかった。人が人と出会い、集まり、すれ違うこと、それが生活することの定義のような考えていたが、今日の地方はそうではないらしい。誰が考えてもそれは寂しい。人は人と寄り添って生きていける。地方に行けば複式学級も珍しくはない。明日は参議院議員の選挙である。当たり前のことが当たり前にできる社会を、ぜひ作っていただきたい。汗をびっしょりかいてスポーツジムから帰ってきて、冷たい水とアイスキャンデーを食べてクーラーの冷たい風に当たると、生きた心地がする。素直にありがたいと感謝する。夏風邪をひいていた時、クーラーの風にあたると寒くてスイッチをオフにした。すると家内が暑すぎると言ってオンにした。自分は寒すぎてオフにした。こんなことを続けていると、多分夫婦喧嘩になるだろう。どこでどう折り合ったのか忘れたが、そのうち夏風邪が治った。今日の自分は、クーラーの冷たい風はなんと気持ちがいいのだろうと思った。当たり前が当たり前に感じる時、それは体で言えば健康である。当たり前に感じない時は、病気なのである。その意味で、地方は恐縮だが病気の状態にあるのかもしれない。新聞に、病む人の暑さも言はぬこと憂う(深沢ふさ江)の句があった。今の季節なら、病床であっても今日は暑いねなどの会話をするだろう。この病人は病気のことが気がかりで、普通の人が交わす会話も言わなかった。作者はそのことが心配だったのである。病人は当たり前の生活ではない生活を送っている。ということは当たり前に生きていけることは素晴らしいことなのだ。スポーツジムは二面がガラス張りで、青空がよく見え外は灼熱であったとしても、その日光がプールの水面を照らしてキラキラと反射している。自分はなんと贅沢なことをしているのだろうかと、ふと思う。今自分は書斎でブログを書いている。自分の生き様を誰に遠慮することもなく表現できることも、ありがたいことなのだ。この後お風呂に入って夕食をいただくことも、楽しみである。当たり前のことだが、その当たり前に過ごせることが、今の自分には極上の生き方である。自分だけでなく誰でも同じだろう。

雨降り

今は火曜日の夕方、といってもまるで真昼のような天気で、南側の窓から青空が見える。今日は一日中変な天気であった。早朝にまるで豪雨のような激しい雨が降ったというが、自分はぐっすりと寝ていたせいか、全く覚えていない。午前中は書斎で調べものをしていて、時折窓から外を見るが、晴天のような曇りのようなそして小雨が降るような、わけがわからない天気であった。昨日は関東地方にも台風が接近するからそれなりに身構えていたが、何事もなく、少し雨が降った程度で拍子抜けした。今日明日は天気予報によれば1日中雨マークになっていたが、どうも良く分からない。週に1回整体院に通っているが、お昼のちょうど12時に予約していて、整体の先生と話をしたら、豪雨で大変な目にあったと言っていたので、そうなのかと思った程度であった。気象情報はスマホでチェックするのが最も早いのだが、それがコロコロとよく変わる。台風であったり低気圧であったり、まるで生き物のようにあっちに行ったりこっちに来たり、世界の政治情勢のような変わり方である。自分は自由の身になり、自由業だとこのブログで書いたが、辞書で調べてみるとフリーランスの方が良さそうだ。フリーターとフリーランスの区別も良く知らずお恥ずかしい限りだが、ネットによればフリーランスは自分の専門知識を生かして個人として契約を結ぶらしい。自分はこのような身分が合っている。だからフリーランスの立場だとすると、自分で自由に仕事や時間を操作できるので、手帳を見ながら埋めている。ただ若い頃のような仕事量ではないから、空白が目立つ。ただ1つの仕事に対してそれなりの時間がかかることが分かったので、自分にはこの程度でよいと思っている。この立場になって、体と心と脳の健康が大切なことがより一層分かった。またこれらは多分関連し合っているだろうから、体を動かし、専門書や論文を読んだりして脳を働かせ、人間関係や煩わしいことはなるべく肯定的に受け止め、毎日を平穏に暮らすことを心掛けている。今日午前中読んでいた非認知能力の本でも、日頃我々が感じている心のあり方なども、科学的な実験で実証されているらしい。たぶん一番難しいのは、自己肯定感であろう。このブログでも何回も書いているが、家内からは反省病と言われているので、意識して自分を認めていこうと思っている。整体院の先生が、随分きれいな髪の毛ですねとか、声も張りがあって若々しいですね、などと言われたが、半分はビジネスかと思いながらも、受け入れようと思っている。自分を受け入れることができれば、世界が違って見えてくる。フリーランスになってから、平日プラス休日の週3回スポーツジムに行く予定を立てて、今日はその日であった。帰宅する時、小雨ではあったが、風が強く傘が飛びそうになった。1日中こんな天気だったのかと思いながらも、運動した後はどこか楽しい。サウナでびっしょり汗をかき、水中ウォーキングで子供のように動き回り、プールで泳いで快い疲れを感じることは、誰が考えてもプラスの脳内ホルモンが分泌されるだろう。そして元気をもらいながら帰宅すると、いつものようにアイスキャンデーを食べて、家内とよもやま話をして、ブログを書きに2階の書斎に上がってくる。2階から、我が家の庭の向こうに日本風の家が見える。屋根の瓦が雨にぬれて、しっとりとした風情があって、なんとなく日本の家屋はいいなあと思う。歳をとってくると、自然や日本文化にも惹かれることが多くなる。新聞に、雨の日が好きあぢさゐの青が好き(中島由美子)の句があった。どんな文脈かわからないが、今日のような雨降りで、あじさいの青色がより一層際立っていたのだろう。自分も近所の庭に咲く濃い青色のあじさいが好きで、見とれたことがある。雨降りで憂鬱な気分になる人もいれば、この作者のように雨の日が好きな人もいる。今日午前中に読んでいた本の中に、脳はいい加減であるという文章があった。集中しなければ何も見えず、意識しなければただ通りすぎてしまう。雨降りが好きな人も嫌いな人も、思い方次第でどうにでもなる。そんな単純なと思うけれども、脳科学で実証されているようだ。とすれば、当たり前だがプラス思考で行くほうがよい。それはいい加減な脳を都合の良いようにすることかもしれない。それでいいのだ。何が真実かは神も仏もわからないだろうから。

偶然と必然

今は土曜日の夕方、いつものように書斎の窓から南向きの空を見ている。熱帯性低気圧が南側の太平洋に発生して、いずれ台風になるだろうと報道しているようで、今日は1日中曇り空であった。ここ数日間涼しい日が続いて、ほっとしている。これでようやく人間らしい生活ができる。このブログでも書いたが、1週間ほど前に内科クリニックに行って風邪の薬をもらってきた。その前の2週間ぐらいゴホンゴホンとしていたから、今日で約3週間治っていなかった。そして今日ようやく咳が止まって元気になった。昨日までまだ少し風邪気味で、夕方に床屋に行った時に、カミソリでひげを剃っている最中に、咳が出そうで我慢するのに困った。こんな天候不順な毎日であれば、誰でも風邪ぐらい引くだろう。昨日まではクーラーの風に直接当たると寒気がし、クーラーの電源をオフにすると暑くてたまらない、そのそんな矛盾の中で温度調節をしていた。今朝になって風邪の菌がようやく体内から外に出たのか、ほとんど咳も出ず寒くも暑くもなく元気も出てきたようだ。そのせいかどうかわからないが、ずっと気になっていたことを今朝やってみようと思った。我が家の庭に、雑草やごみなどを入れて堆肥にする大きなポリバケツがある。我が家は、このポリバケツを別の用途で使っている。詳細は書かないが、これをどうしても固定したいと思っていた。それはなぜだと言われてもスペースが必要なので省略する。気にはなっていたのだが、連日の猛暑とここ数日間の豪雨があって、すっかりどこかに逃げてしまった。体が元気になったのと、朝はめっきり涼しくなったので、今日この仕事をやろうと思った。しかし新しいことを始める時には気力が必要である。やらねばならぬとは思いつつ、面倒だから今日は止めようという心が勝って、ほとんど日にちだけが過ぎ去っていくのが凡人の姿である。雑草が我が物顔に生えている庭を見ていると、ますます面倒になる。ただこの時そのポリバケツを見て、ふと思いついたことがあった。そうかその方法があったかもしれない、などと書いても、何のことか読者にはわからないだろうが、お許しいただきたい。すぐに物置を探したら、まるで自分を待っていたかのように、2枚の板がしっかりと保管されていた。これだ、れでうまくいくかもしれないと思った。朝5時起床で洗顔をして5時半からこの作業に取りかかった。色々なアイディアが湧いてきて、イメージ通りのポリバケツの設置ができた。今日は何なんだろう、朝は涼しく、ぴったりの材料が手に入り、仕上げも見た目も上出来だった。たまにこんな出来事もある。それは研究に似ている。研究のテーマそのものは、どこかいつも気になっている。それが水中の泡のように表面に浮かんでくる。そしてそれに取りかかろうとすると、待っていましたと言いたいほどの資料や先行研究などが浮かんできたり、探し当てたりする時がある。まるで磁石のように、その研究の遂行に必要な材料を引き付けるのである。それは偶然かもしれない。今日の仕事も偶然にできたのだが、非科学的だが必然のような気もする。稀なことだが誰でもそんな経験があるだろう。そんなことを考えながら、新聞の花壇や俳壇を探してみたが、都合の良い句はなかった。そうだろう、それでいいのだ。あればそれは偶然であり必然ではない。文脈は全くないが新聞に、さやさやと風とたはむる植田かな(田辺英男)の句があった。自分の地域には田んぼはないが、今の季節には、田んぼは一面の水に覆われて、苗が規則正しく水の上に顔を出している。風が吹くと、さやさやと苗が揺れていて、その風情は初夏なんだなという思いを抱かせる。こんな光景を見たら、きっと心が安らかになるに違いない。人は自然に触れると、故郷に戻ったような気がするのは、それが必然だからだろう。今の季節に田んぼに水がなかったら無惨であり、悲しい気持ちになる。自然とは、必然に従って流れゆくことである。だから今日の自分の仕事は、偶然ではなく必然だと思いたくなるのは、仕事の手順が、上流から下流に向かうような自然な流れだったかもしれない。

経験値

今は火曜日の夕方だが、少し時間が過ぎた。自由業といえども、仕事の内容は常勤の人とあまり変わらない。午前中は学校訪問があって、コメントを送ってほっとした。今日で1学期の学校訪問が終了して、次回は2学期の9月からである。珍しく校長先生も授業を参観して終わった後、校長室で数分間の短い時間だが、感想を述べあった。というより自分がほとんど聞き役で、なるほどなるほどと、相づちを打った。長い間の経験値があるので、授業を見る目は確かなのである。自分は理屈は知っているかもしれないが、実践の技や隠された輝きは見えない。正しくは感じないのであろう。研究室で学生を相手にした研究打ち合わせは数え切れないほど実施したから、10分も話し合えば相手の力量はすぐ分かる。その分かり方は、論文に代表される研究が尺度になっている。その研究をベースにして学生と話し合うのだから、経験値が違うので、大学の研究室の光景とすればごく自然である。ところが今自分がやっている小中学校を訪問して、授業のコメントを書いて送るのは、どこか不自然なのである。今日校長先生が感じた印象や感想や助言などは、まさに的確である。長い間の経験が、教師と子供の織り成す活動の1つ1つを鋭く見抜いている。例えはよくないが、刑事が犯人を追い詰める鋭いまなざしであるとか、職人が伝統工芸の作品を作る技の凄さとか、そのような姿にかぶって見える。なるほどこれがプロなのかと、いつも思う。かつてはそれが自分の嘆きであった。しかし今はニュアンスが若干違う。自分の感想やコメントは、実践の経験値には程遠いが、研究の経験値はあるといってよいだろう。自分は、実践の経験値の上に研究の経験値を重ねれば、もっと素晴らしい実践を生成できるのではないかと思っている。だから自分のコメントは、先生方にとってはどこか違和感があるかもしれないし、ハッとする気づきがあるかもしれない。今日のコメントにも書いたのだが、自分の弱点は、こうした方が良いという改善点を明記しないことである、というより明記できない、少なくとも自信を持って書くことができないのだ。ただ今日も、教頭先生が、教職員の皆さんが先生のコメントを読むことを楽しみにしています、と言われたことが自分の支えになった。文脈は離れるが新聞に、しゃがみては花の声聴く夏の径(一式正明)の句があった。今の時期は、草も花も太陽をいっぱい浴びて伸びている。小さな道にもそんな花が咲いていて、花は何を思っているのだろうかと、しゃがんで花に寄り添ったのかもしれない。花が好きな人は花の声を聴きたいのだ。子供が好きな先生は子供の声を聞きたいのだ。その声をどう聞き分けるかは、長い間の経験が必要である。言葉で表現できない職人芸のような聞き分け方なのかもしれない。その経験がない自分にできることは、実験計画法と統計的検定によって得られた科学的な知見という耳で、聞き分けようとしている。どちらが正しいとか優れているとかは言えない。自分は自分なりの方法で真実に近づいていき、最後は先生方のお役に立ちたいと願っている。

夏風邪

今は金曜日の夕方、明日土曜日にブログを書く予定だったが、明日は午後から夕方までオンライン審査がずっと入っていて、夕方には書けない可能性が高いので、今日に変更した。別に変わった事件があるわけでもなく、平穏な日々が続いていることは有難い。ただ連日の猛暑には体がついていけない。夏風邪をひいたのはいつからだろう、もう数週間以上経っても一向に治らない。喉が痛く咳が出て鼻水が出て、かろうじて熱が出ないだけなんとか持っている。さすがに昨日は、かかりつけの内科クリニックに行って薬をもらってきた。今日の午前中も学校訪問の仕事があって、マスクはつけているものの、ゴホンゴホンと大きな咳をするのは恐縮で、子供たちに感染しないかとヒヤヒヤしていた。朝1限の授業なので、行きは8時台なので爽やかで気持ちが良いが、帰りは10時を過ぎるので汗びっしょりになる。なるべく歩くことを自分に課しているので徒歩で出かけたが、帰りは厳しかった。今年はこんなにも暑いのかと、当たり前のことを独り言のように何度も言う。学校に授業のコメントを書いて送るのが遅れて、午後になった。私的な仕事をこなすと、すぐにスポーツジムに行く時間になった。そんな風邪を引いてスポーツは止めた方がよい、ますますひどくなるという、家内の忠告を空耳で聞いて出かけた。明日土曜日に行くジムを今日に変更したのだ。行きも帰りも突き刺すような日光を浴びて歩いた。さすがに水の中は気持ち良かった。プールでの水しぶき、水中ウォーキング、太陽を浴びながらのジャグジー、そしてサウナに入って体中が汗いっぱいになった。これで体内の風邪の病原菌が体外に出たのだという非科学的な理屈をつけて、自宅を出てから2時間ほどの時間を過ごした。さてこの試みは凶と出るか吉と出るかはわからない。明日は審査の仕事はあるものの土曜日だという気楽さがあって、今日ジムに行ったのだと思う。人の行動はどうも合理的には出来ていないようで、その時の気分によって変わるようだ。それでも納得するには多少の理屈が必要なので、あまり意味のないことを考えた。それでも帰宅して、冷たいお水を飲みアイスキャンデーを食べると、ああ行って良かった、少しオーバーだが生きていて良かったなどと思う。今日の午前中の社会科の授業は、熱血教師と呼ぶならその通りの先生だった。授業のうまさやメディアの活用の仕方などのスキルを超えて、熱弁をふるい子供たちの中に入っていった。現代にこんな先生もまだいたのだという思いが、自分を惹きつけた。1時間が彼にとっての精一杯のパフォーマンスの時間だった。それはまるで舞台で演技する役者と同じである。舞台が終われば、汗びっしょりになっているだろう。文脈は遠く離れるが新聞に、柿若葉日毎に陰を濃く深く(佐藤光義)の句があった。近所に柿の木があって、その葉は文字通り若葉で新鮮さを感じさせる。そして日が経つにつれて、濃くなっていき深くなっていくのだ。植物も精一杯彼らのパフォーマンスを演じている。それが見る人の心の中に入ってきて、季節の移り変わりを感じさせるのだ。自分は熱血教師とも柿若葉とも違うが、年齢に応じて自分でできる精一杯を演じてみたいと思っている。夏風邪だからクーラーにあたって静かに横になっているのも大切であるが、その演じ方は人によって異なる。自分にはジムに行く方が似合っている。家内が夕食は焼肉だという。ブログもほぼ書けた。あとは楽しい夕食を待つとしよう。

布を針で縫う

今は火曜日の夕方、いつもの通り書斎の窓から外を見る。あまりの暑さに窓を白いカーテンをして日光をふさいでいるが、隙間から見える南の空は夏空である。暑くても青空を見ると、どこか嬉しくなるような気がする。これはその時の気分によって違って、夏が来ないのに、この暑さかとゲンナリする場合もあれば、夏休みのようなものだから、気楽に行こうと考える場合もある。自由業の身になって、スケジュールをいろいろ変えてみた。スポーツジムは土日だけにしていたが、平日もいいではないかと思って週3日に変更した。平日プラス土日なのだが、今週はあいにくと土曜日が終日審査の仕事が入っている。では今週は火金日にしようと手帳に書き込んだ。手帳に書くとそのまま実行したくなるのが自分の癖で、半分真面目のような半分融通が利かないような性癖であるが、今日はそのジムに行く日であった。午前中は学校訪問があって忙しく、昨日は静岡に出張があって午後はつぶれた。明日からも午前中はすべて学校訪問が入っている。このようにそれなりのスケジュールはあるのだが、今の心境はどこか気楽さがある。これが自由業の真髄なのだと言いたいところだが、そうでもない。準備ができていないと気持ちは焦り、準備が出来ていれば鷹揚に構えることができる。今日ジムに行ったのは時間的な余裕があったからで、自分の殻を少し破りたかったという意思も働いた。それよりもスポーツをすると気持ちが前向きになることは確かで、まあ何とかなるだろうと今はそんなことを考えている。今日の午前中は小学校の家庭科の授業参観をした。布を針にかけた糸で縫うのだが、子供の様子を見ていると面白い。どの授業でも、自分は授業者の先生向けに1600文字のコメントを書いて送っている。今日はその一部を引用しよう。「さらに布を縫う方法にも、いろいろな工夫があることがわかりました。はじめはお手本通り、表から裏に針を通して、布をひっくり返して裏から表に針を通すやり方を繰り返していました。次のレベルになると布をひっくり返さなくなりました。ひっくり返さなくても裏から針を突き刺せば表からも見えるからです。さらに別の子供は、表の布に小さな山を作り表の針を通す点から次の点までを、その小さな山を突き通すような方法で縫っていました。これには自分は驚きました。素晴らしい技でした。たぶんこれは何度も同じ操作を繰り返すうちに、気がついたのではないかと思いました。したがって、この方法をはじめから教えては、学びになりません。繰り返すことでより優れた方法に気づくこと、これがこの単元の狙いではないかと思いました。」この文章を見ればわかるように、自分は子供から教わることが多い。授業を参観して思うことは、同じことの繰り返しを通して気づくと書いたが、実はそれは同じことではないのだ。少しでも前に進みたいという潜在的な力があるから気づくのだ。子供たちはロボットではないから、全く同じことの繰り返しは耐えられないはずである。前に進みたいことが人間の本姓なのだと思っている。文脈は離れるが新聞に、夏野菜の無人販売所まで行けばたっぷり汗かく夏日となりぬ(柴田和彦)の句があった。情景が眼に浮かぶ。新鮮な野菜が欲しいという気持ちだけではなく、どこかしっかりと汗をかいて、夏日に身を任せたい、野菜のおいしさと共に、太陽からも恵をもらいたい気持ちがあったのはないか。自分が今日スポーツジムに行ったのも、そんな気持ちであった。平日にジムに行くのも、同じことではなく年相応に前を向いて変えてみたいと、心の中で思っているからだろう。布を針で縫う子供とどこか似ているかもしれない。