不安

今は火曜日の夕方、というより世間ではお盆休みの真っ最中であろう。いつものように南向きの窓から空を見ると、小雨が先ほど降ったせいか青空は一点もなく白い雲に覆われている。まだ小粒の雨が窓越しに見える。自分たち老夫婦は、この連休中は我が家で過ごすことにしている。暑い中を出かけるのもしんどいし、人ごみの中はさらに疲れる。孫たちもそれなりに忙しく、昨年までのような全員が揃って一泊することは今年はない。娘と息子は少し気を遣ったせいか、一泊して帰っていった。我が家で夕食をするのも準備片付けが面倒なので、レストランに行って気兼ねなく連休の一時を楽しんだ。彼らは昨日帰ったので、老夫婦2人の生活に戻った。灼熱でも酷暑でもなく普通の暑さで物理的には気持ちの良い気温なのだが、空一面が灰色に見えるとどことなく寂寥感が湧いてきて、夏なのにとふと思う。夏はやはり照りつける太陽と、できれば風が吹いて欲しい。いくつになっても夏は、自由・さわやか・自然などの言葉が似合うからだ。ブログは公開日誌なので自分のありのままの姿をつづるのだが、私的なことは、はばかられる。だが生きていくことは綺麗事ではない。小さな心配ごともある。家内が腰から足首まで痛くなって、今週に手術を受け入院することになった。脊柱管狭窄症と医者はいう。ベテランの医師であっても、自分にとっては心が痛む。手術が成功しますように、後遺症が起きませんように、そして何より元気になれますようにと祈るしかない。今の予定では8月末までの入院だという。今朝留守中の諸々のことを家内に教えてもらい、メモを取り写真に撮った。ゴミの出し方・電気釜の使い方・台所の流し台・オーブンや電子レンジの使い方。魚の焼き方・ルンバの使い方・洗濯機の使い方とその乾燥の仕方など多岐にわたっている。これまで家内に任せっきりであった自分への罰である。男女共同参画だから、娘夫婦も息子夫婦もお互いに掃除や洗濯・料理・子育てなど平等にうまくやっているらしい。共稼ぎだから当然なのだが、古い人間だと難しいこともあり、自分も勉強しなくてはと思う。新聞に、ひとりづつ家族の減りてゆくことの練習ならむ母の入院(永田愛)の句があった。自分と似たような境遇を詠んだ句なのかもしれない。練習と捉えられれば、それを身につける喜びが潜んでいるが、自分の場合は不安の方が大きい。多分この作者は若くて元気なので、上手くやっていけるだろう。未知のことは誰でも不安になる。最近読んだ専門書の中に、人が不安になる67%は実際には起きない、そして17%は起きても解決できるという論文が紹介されていた。つまり不安になるのは、自分の頭の中で勝手に作り出していることなのだ。そして実際に起きたとしても解決することができると考えれば、気が楽になると思いつつも、あーでもないこーでもないと考えるのが凡人の常である。ただ、この頃感じることは、あっという間に時が経ち、あっという間に過ぎ去って、あれはなんだったのだろうと思うほど、あっけなく終わることが多い。つまり経験的にもこの論文は正しいようだ。そう思えば、不安ではなく、毎日毎時間を悔いのないように大切に過ごしていくしか方法はないようだ。

偶然の出来事

今は土曜日の夕方、いつものように南向きの窓から見る空は青空で、雲ひとつ見えない。しかし先ほど小雨が降ったせいか涼しい。こんな天気なら気持ちも晴れやかで、先ほどすぐ近くのスーパーに、食後のお菓子と家内に頼まれた冷奴にかける小葱を買ってきた。土曜日なのでスポーツジムに行ったが、灼熱という暑さではなかったので往復の歩きも軽快だった。世の中は、今日9日から17日まで大型のお盆休みが始まる。テレビでは成田空港の様子を映し出していたが、海外旅行に出かける若い人たちは、満面の笑顔でインタビューに答えていた。自分たち老夫婦は特に出かける予定はない。迎え火や送り火などをして静かにお盆を過ごしたい。子供たちは、孫たちの高校受験の夏期講習などがあって、我が家には来ないようだ。それもよかろう、フリーランスの身としては平日も連休も区別がないから、毎日をそれなりに過ごしている。書斎で過ごす時間が最も長いので、ほとんどはパソコンの前で仕事をしたり用事をしたりしているが、時々スマホでニュースを読んだりする。パソコンは仕事だが、スマホは週刊誌のような興味本位の記事を読む。最近よく読むのは、定年後の老夫婦の生き方のレポートである。子供の頃から勉学に励み大学を卒業して大手企業に就職する。それなりの役職を経て65歳の定年になり、第二の人生を歩む。これは人も羨むような順風満帆な人生だろう。退職金とこれまでの貯金を合わせてかなりの金額があり、年金を毎月の生活費に当てれば、退職後の生活は、たまには海外旅行に行ったり時々温泉に行ったりささやかな趣味を楽しんだりするなどの夢を描ける。ところがスマホのレポートを読むと、それがことごとく挫折する。ただそのような事例だけを集めているのかもしれないが、なんとなく真実味があって妙に納得する。例えば突然一人息子が老夫婦の元にやってきて、今の職場を辞めて海外で勉強したいから老夫婦の貯金を借りたいと言って、計画が崩れてしまう。もっと厳しい事例は、娘が老夫婦の元に1人の孫を連れて転がり込んできた。聞けば離婚したという。それで甘い夢を見ていた老夫婦は、現実の厳しさを味わうことになった。あれほど頑健だったご主人が、仕事を離れて急に老け込み病院で検査の結果入院する運びとなった。これで仕事を離れて悠悠自適の生活はできなくなった。あるご主人は、退職の日にルンルン気分で我が家に帰ったら、奥さんから離婚届を突きつけられた。ある老夫婦は人気の高齢者向け高級マンションに引っ越した。スポーツ施設が完備され、腕利きのシェフがいて美味しい料理が食べられ、医療もいつでも対応できるという。初めのうちは満足していたが、数カ月もすれば飽きてきて、マンションの住民の人間関係がこじれて引きこもりになったという。どれもこれも第二の人生がもろくも崩れ去ったという記事である。改めて思う。第二の人生はそんなに甘くはない。ただ誤解のないように書くが、当然ながらこれは自分のことではない。午前中、理由は書かないが、道徳教育の専門書を読んでいた。道徳の徳目は、美味しい料理を食べるとか楽しい旅行をするとか健康になれるとかという目先の利益ではなく、そのように生きること自身が目的なのだと論じていた。その通りだと自分も納得しているのだが、本音は美味しい料理や楽しい旅行や病気になりたくないのであり、もし道徳の徳目がこの現実の利益や幸せと無関係ならば、何のために道徳教育を受けるのかよくわからない。文脈は離れるが新聞に、手もとより茶碗すべりて粉々に不意に来たりし命の終わり(森影千恵)の句があった。一瞬にして茶碗が割れて茶碗の命も終わったと同じように、人の幸不幸も一瞬にして生まれたり終わったりするのだろうか。茶碗が割れたのはふとしたはずみの偶然の出来事だとすれば、第二の人生を生きる老夫婦の幸不幸も、ふとした偶然の出来事なのか、あるいはこれまでの老夫婦の生き方に原因がある因果応報の結果なのか、自分にはわからない。

目先の楽しさ

今日も暑い暑い一日で、酷暑という名の通り、容赦なく太陽が体を照りつける。今日も手帳の予定に従って、午後スポーツジムに行った。その往復の歩く時間は約30分、簡易ゴルフクラブとリュックをしょって歩くと、それだけで汗びっしょりになる。お昼の時間に往復10分の距離を歩いて、用事を済ませた。これも太陽がまともに垂直に近い角度で頭に当たると、脳の芯まで熱くなるような気がする。昨日は都内でセミナーに参加したので、ほぼ一日中クーラーのきいた部屋だったが、行き帰りはジャケットを着て駅の階段を登ったり降りたり、駅までの道を歩いたりしたので、蒸し風呂のような気がした。これも仕方がないと思うのは、クーラーが効きすぎる部屋であればジャケットが必須だからである。いずれにしても寒暖の差が大きすぎて、皮膚呼吸もしているだろうから、体細胞が右往左往しているにちがいない。今時は自然の変化に体がついて受けず、風邪をひいたり熱中症とまでは言わないまでもそれに近い症状が出てくるかもしれない。先ほど家内も言っていたが、この暑さでパンがすぐ腐ってしまうと嘆いていた。そんなことがあるのかと思ったが、考えてみればそうかもしれない。自然の猛威の前には、なすすべもなく仕方がないと嘆息するしかないのか。ただ自分はスポーツジムの会員になっていて、本当に良かったと思っている。午後2時から4時といえば、気温が最高になる時間帯で、今日は所沢でも39度か40度という記録だったらしい。先ほど家内と近くのスーパーに行った。スーパーでの買い物もあるが、隣接しているクリーニング屋さんに冬物の衣服のクリーニングを依頼し、出来上がった衣服を受け取りに行き、その衣服の運び係りを自分が受け持った。そしてスーパーで刺身とガリガリ君と白菜の漬物を買ったのは、自分の好物だからである。何でもいいので少し手伝うと、家内も喜んで気を遣うようだ。帰宅して時間がないのですぐ書斎に上がりたかったが、それよりもガリガリ君や冷たい水を飲む方が先決で、この時期はお腹の中は水分でいっぱいだろう。書斎に上がったが、あまりよいアイディアも浮かばず、先ほど届いたアマゾンからの専門書を読みたいのだが、これも明日以降に先延ばしをする。やらねばならぬことはいろいろあるが、目の前のことからやっていくと、重要なことほど先伸ばしになる。戦略を変えて、重要なことを優先するように手帳に書いているのだが、重要なことほど時間がかかる。しかも重要なことほど短い時間の寄せ集めでは、文脈を思い出すだけで時間がかかるので、まとまった時間が必要なのだ。それならスポーツジムを休めばよいのかと思うのだが、これは優先したい。汗びっしょりになった後のプールや水中ウォーキングが、この上ない快感で皮膚にまつわりつくような水の流れに幸せ感を感じるからだ。つまり重要なことより目先の癒しの方が優先される。それは人が生きる知恵なのかもしれない。長くもない人生ならば、今の幸せを優先すればいい。文脈は遠く離れるが新聞に、子を打った後の食卓ふりかけのドラえもんだけ笑っておりぬ(本田岳)の句があった。何か問題があったのだろう、感情に任せて我が子に手を上げた。食卓のドラえもんはいつもと同じで笑っているのを見て、ふと自分を振り返ったのかもしれない。後味の悪さと後悔と気まずさが食卓に漂って、後の食事がまずかったかもしれない。こんなことは誰でも経験している。我が子でなくても他人であっても、批判したりすると後ですまないと思うことはよくある。当たり前だが、ドラえもんのように笑っていたい。その方が心地よいからだ。これは許せぬとかこれは最重要だとかどうしてもやらねばならぬとか、実は後になってみるとそれほどでもないことに気がつくことが多い。自分で勝手にそう思い込んでいるとすれば、子に手を挙げた親と同じで、けしからんと思っているだけなのかもしれない。そう思えば、目先の楽しさや癒しの方が、周囲も明るくなり物事がうまくいくような気がする。今日も夕食が楽しみである。

真っ白なハンカチ

今は土曜日の夕方、書斎の中はクーラーで涼しくなっているのでほっとしているが、先ほどすぐ近くのスーパーに買い物に行ったが、歩いて2分程度の短い距離なのだがそれでも暑かった。老夫婦で買い物に行くのも珍しいのだが、自分が飲みたいビールの銘柄を家内に任せると間違うことがあるからなのだが、別の理由もある。年をとると足腰がだんだん弱ってくる。これは老化現象なので仕方がないのだが、家内も急に弱ってきた。だから買い物も小さな4輪車を引っ張っている。通販で買ったものだが、これでかなり体が楽になる。ビールとか夏の飲み物は量が多くて重くて、運ぶのが大変なのだ。家内に任せっきりだったので、少し手伝いたいと思って出かけた。今はスーパーは男性の方が多いぐらいで、年配者も夕食用の食材をあれこれ探していた。男女共同参画とはよく言ったもので、これが現代風で男女ともその方が居心地がよい。とは言っても昭和の男とすると買い物も料理も苦手である。だから夕食を準備してもらえるだけで有難いと思う。今夜は親子丼ぶりがメインで、なすびの料理や冷奴などがあって冷たいビールは絶品の味がするだろう。さて今日は何をしたのだろうと思い出すと、午前中は月一度のお墓参りに出かけた。墓地は夏を謳歌するように蝉の合唱で賑わっている。蝉の鳴き声とお線香の香りが一緒になって、そうか今は夏なのかとふと思う。お墓には父親と母親が入っていて、報告することもあるが願い事の方が多い。この頃家内の足が急に衰えて、昨日は病院に行って診断してもらったので、良くなるようにお願いした。娘夫婦や息子夫婦の孫のことなど、両親にいっぱいお願いした。自分はもう年なので願い事はしないが、平凡ながら健康でいたいと報告した。自分が家族を助けてやりたいと思うことはあっても、現実にはできないことがほとんどである。金銭的なことならお金を援助することもできるが、それは本当に助けることになるのかわからない。また現実にそんな願い事はない。若い内はむしろいろいろなことがある方が普通なのだ。それをなんとか乗り切っていくことが、日々の生活そのものである。だからご先祖様にお願いしするしかない。つまりお願いするだけで、現実は本人が解決するしかない。自分はいつものように休日はスポーツジムに通って、先ほど帰宅した。入院したこともなく大きな病気をしたこともないので、有難いとしか言えないが、いづれ入院したり大病を患うこともあるだろう。多分誰もが何らかの問題を抱えながら毎日を過ごしている。文脈は離れるが新聞に、今日のこと今日のハンカチ洗いつつ(今井千鶴子)の句があった。作者は著名な俳人のようだが、自分は知らなかった。新聞の俳壇の論評の中で紹介された句である。旅先なのかわからないが、女性らしく今日使ったハンカチを洗面台で洗いながら、今日は何があったか、どんな出会いがあったかなど、思い出している。自分は、今日の出来事を、南の空を眺めつつ、ブログを書いている。自分は知らなかったがハンカチは夏の季語らしい。多分真っ白なハンカチだろう。その方が今日のような夏空によく似合う。作者のように、今日のことはいろんなことがあっても、きれいに洗い流して真っ白な気持ちになって明日に備えると思えば、何かすがすがしい気持ちがする。真っ白なハンカチで朝を迎え、汚れたハンカチを夕方には洗い流して、明日に備えるとすれば、そんな生活も悪くはない。

新しい気付き

今は火曜日の夕方、いつものように書斎の窓から南の空を眺めている。前回のブログを書いた時と同じように、真っ青な空が広がっていて、西日といえども容赦ない太陽が照りつけている。口から出てくるのは、暑いの一言である。部屋の中にいればそれなりに涼しいのだが、外に出れば炎天下、灼熱の日差しが皮膚にあたって痛いような感じすらする。こんなときは新聞やテレビが報道するように、熱中症にならないように外出は避けることであろう。とは言ってもずっと引きこもるわけにはいかず、用事があれば外に出る。今日も午後は2回ほど外出した。その1回はこの前のブログでも書いたが、スポーツジムである。自由業の身になって時間的な余裕が出てきて、というよりも手帳の余白が目立つので、何かしらの用事を埋めている。といっても無理に空白を詰めようとしているわけではない。自由業つまりフリーランスは、タレントを始め多様な職種の人がいるだろう。彼らはオファーがあれば出かけて、パフォーマンスを披露することが仕事だろう。自分たちの場合は、パフォーマンスというよりもそのための準備やプロセスの方に比重が高い。つまり結果ではなくプロセスなのである。それは強がりなのかと揶揄される方もいるかもしれないが、自分の感覚はその通りである。例えばイベントの司会や講演など、多くの参加者があり高い評価であれば、その仕事は成功だったと言える。ただ自分は、誤解を恐れずに書けば、そのような結果にはあまり重きを置いていない。その準備の時に、新しいアイディアが生まれたとか、これは研究としても優れているとか、何かしらの過去のイベントや講演とは違うオリジナリティーを求めるのである。それは大学に身をおいたものであれば、同じような感覚ではないかと思う。自分はどんな小さなイベントでも、過去とまったく同じ内容を話したくない。聴衆者が別だからとよく主催者は言うが、そこに新しさがない限り、自分自身が少し汚れていくような気がするからである。それは研究と同じなので、準備に時間がかかる。だから手帳の空白の時間は、その準備に当てているので、自分にとって、世の中はうまく出来ていると思う。午前中はそんなことでほとんど時間が潰れる。そして新しい気づきがあると嬉しくてニコニコしている。ただデスクワークばかりでは健康が維持できないので、休日と平日で週3日間をスポーツジムに行くことを自分に課している。今日はその平日の日であった。スポーツをすると気持ちが前向きになる。この前のブログでも書いたが、長い期間暑さが続くと限界になってきて、早く逃れたいと思う。今日も帰り道で、冷たい水とガリガリ君を思い出して家路を急いだ。つまりある事柄があまりにも強烈であれば、そのことだけに囚われてしまう。たぶんそれは誰でも同じだろう。そこから別のことに思考が広がらないのである。自分の気に入らないことや思いどうりにならないことがあって、そればかりに囚われたら、多分うつ病のような状態になるだろう。そこから逃げられないからである。研究も同じである。思考から別の思考に飛躍できずに、ぐるぐる回っているだけのような感じになる。だからプールで泳いでいる時は、新しい気付きもあるが、熱中症になるかと思うほどの炎天下では、ただただ早く帰宅したいだけで、それ以外は考えられないのである。文脈は離れるが新聞に、ためいきもビールの泡もCO2(渡辺しゅういち)の句があった。あっと声をあげるほど新鮮な響きがあった。なるほど両方とも地球温暖化に加担しているのかと、俳句の撰者も述べていた。地球温暖化と言えば自動車の排気ガスぐらいしか思い浮かばないが、この発想は面白い。これが新しい気づきである。しかも飛切り上等の気づきである。ビールは夏の季語だとネットに書いてあったが、そうであればキンキンに冷えたビールが眼に浮かぶ。今から夕食が楽しみである。それ以上の新しい気づきは自分にはない。

暑さ

今日は土曜日の夕方、いつもの通り2階の書斎の窓から空を眺める。すごい天気としか言いようがないが、一点の雲もなく青一色である。西日がマンションや民家を照り付けて、長い影が見える。暮れるのはまだ早い。いつもの土曜日のように、今日もスポーツジムに行って帰ってきた。何しろこの暑さで徒歩15分ほどかかるジムまでたどり着くのに汗びっしょりで、下手なゴルフクラブを振って汗だくになり、その後プールに入ってこの上ない心地良い一時を過ごす。さらにサウナに入ってまた汗をびっしょりかいて、水中ウォーキングをすると、皮膚が活力をもらったようで元気になる。そして真夏の日差しを浴びながら屋外のジャグジーにつかれば、この上無いセレブな気持ちになる。考えてみれば、いっぱい汗をかき、水とお湯で汗を流しの繰り返しで、体が新陳代謝をしているようだ。古い細胞を吐出し新しい細胞が生まれてくるような気持ちがして、体全体が生き生きするような時間であった。ジムからの帰り道、西日が直接顔に当たるのを避けるために帽子をかぶっているが、また汗が吹き出して、早く冷蔵庫に冷やしてある水とアイスキャンデーを食べたいと思った。暑さが人間の限界に近くなると、難しいことは考えられない。幼児か子供のような考えに戻るらしい。歩きながら頭の中は、水と氷のイメージで満たされて、他のことはあまり思い浮かばない。ただ途中にコミュニティ広場があって、いくつかのテントがあり櫓が組んであった。そうか盆踊りかと思ったが、午後4時過ぎぐらいではとても踊れない。だから関係者が数人いただけで、夜を待っているらしい。そうかもう盆踊りかと思いつつ、何回かやるのかもしれないと思って通り過ぎようとしたら、ミストの装置があった。そのそばに行くと冷たい霧が降ってきて、一瞬暑さを忘れた。今夜はこの地域の人たちが集まって踊るのかなどと思ったが、コンクリートの地面では、いくら夜になっても涼しいとは言えないだろう。それよりもクーラーのきいた我が家で、冷たいビールを飲んで夕食を取る方がどんなにかありがたいなどと思った。自宅の近所に弘法大師の御社があり、大きな銀杏の木があって、その周りは小さな広場になっている。その横を小川が流れている。植物があったり雑草でも緑が目に入ると、暑くても少し涼しげな気持ちになる。まして小川があって水が流れているから、コミュニティ広場より風情がある。8月の下旬には小さな盆踊りが毎年行われる。町内会なので寄付はするが、盆踊りの手伝いはお許し願っている。もうこんな季節なのだ。7月も終わりに近づいてきた。暑い暑いと言いながら毎日を過ごしているのだ。今日は何をしたのだろうか。午前中はそれなりに仕事をし、お昼にいくつかの用事を済ませ、午後2時から4時半まではスポーツジムの時間だった。しかしあまり思い出せない。暑いということだけはしっかりと体に染みているようだ。文脈は離れるが新聞に、脳髄のずしりと重し炎天下(折戸洋)の句があった。気持ちは分かる。今日は脳の中まで暑さが染み込んできたのか、それなら難しいことは考えられないはずだ。クーラーのきいた部屋でなければ、とても考え事ができない。脳髄まで染み込んできたら、元に戻るのに時間がかかるだろう。そういえば今日のブログは何が主題だったのか、わからない。ただ暑いと、暑さから逃れることだけ考えて頭が単純になるということなのか。ここで急に夕立でも来れば、どんなにか気持ちが良いだろうかなどと、つまらぬことが思い浮かんだ。もう少しすればクーラーも効いてくるので、まともな考えが浮かぶかもしれないが、紙面が尽きた。これでお許しいただきたい。

選挙結果

今日は火曜日の夕方、いつものようにこの時間に書斎の窓からから空を見上げる。白い雲がいっぱい広がっているが、夏の青空である。お昼にテレビの番組を見ると、参議院議員の選挙結果で盛り上がっている。勝っても負けても、政治家は元気なので驚く。川の流れに身を任せではなく、流れを食い止めるとか別の流れを作るなど自然体ではない仕事が、政治の本流らしい。いつまでも夢を追いかけるのは、歳をとれば、それがいかに難しいかを実感する。それは持続することの凄さである。かつて国会議員の先生方との会合があって、自分は4勝3敗だったとある議員が言ったので、何のことですかと聞いたら、選挙結果だと言った。落選したらただの人と言うが、ただどころか文字どうり浪人生活である。捲土重来を期して、歯ぎしりするような生活をする覚悟がないとできない。その根性は信じられないぐらい強靭である。そのぐらいの強い気持ちを持っていなければ、国会の赤い絨毯は踏めないらしい。それが3度続いたというのは、何と表現していいか、奥さんも苦労の連続だったに違いない。昼食をとりながらのお昼の番組で、そんなことをふと思った。今回の選挙でも多くの人が落選したが、その人たちはどんな思いをしているのだろうか。当選を夢見てまだ頑張るのだろうか、晴れて国会議員になれば家族の皆さんも喜ばれるだろうが、そうでない人の方が多いのだ。考えてみれば世の中は、なりたい自分になれない人の方が圧倒的に多い。そんな時人は、最期の時まで夢を追いかけるのか、夢を捨てて現実に生きるのか、現状に妥協して生きるのか、諦めて別の道を歩むのか、いろいろな生き方があるだろう。テレビで放映されている人は一握りの人であって、ほとんどの人は挫折を味わい、打ちひしがれた精神状態にいる。総理大臣の映像を見ても、苦渋を滲ませながらそれでも継続すると宣言したが、誰もそれが厳しい茨の道であることも知っている。それほどまでに政治に魅力があるのかと思いたいが、それは多分素人の考えで、本人にしてみれば魅力とか権力などではなく、それがすべてなのではないかとふと思う。歌手なども苦節10年とか赤貧の生活をしたなどと、耳にする。プロ野球の選手もごく一部の人が脚光を浴びるが、ほとんどの選手は仮にマウンドに上がって成績を残したとしても、短い時間だけのスポットライトを浴びる経験だけで、人生を終わりになる場合が多い。その職業が晴れやかであればあるほど、その競争は熾烈であり、ほとんどの人は報われることもなく人生の幕を降ろすのだ。文脈は離れるが新聞に、細き文字「元気でいてね」文残し兄は逝きたりはや一周忌(関雪子)の句があった。どんな家族であったのか、この句からはわからない。しかし妹だから兄の気持ちはよくわかっている。やりたい仕事を全てやった大往生だったのか、それとも心残りのことがいくつかあったのか、妹に言いたかったことがあったのか、多分後者であろう。繰り返すがほとんどの人は、この句のようにやり残したことやうまくいかなかったことやさまざまな思いを込めて、最後を迎えるのかもしれない。しかし今日の選挙結果のテレビ番組を見て、勝った陣営負けた陣営の落差を見て、それも一時のスポットライトではないのかと思った。それはほんの短い時間だけであり、長い間には勝っても負けても、大きな波や小さな波がくるのだ。それならばその1瞬だけではない長い時間をどう過ごすかが、より大切である。自分は政治家でもタレントでもないごく普通の世界に生きている。1瞬にかける人たちを尊敬はするが、自分には全く遠い世界であり、自分は平凡な生き方が最も合っている。その世界では比較的小さな波で終わることが多い。自分も最後はこの句のように、心残りのことがあるかもしれないが、それでもいいのだ。それはたぶん小さな波だから。

当たり前

今日は土曜日の夕方、といっても南側の窓から見る空は夏一色で、青空に白い雲が浮かんでいる。先ほどスポーツジムから帰宅したばかりであるが、暑いの一言である。スマホの天気予報を見ると、今日の最高温度は32度らしい。風もなかったので体感温度はもっと高かった。暑い暑いと言いながら、西日を直接に顔に受けて帰宅したので無理もない。スポーツジムと自宅の途中に旧市役所の前のコミュニティ広場があって、子供や親子連れなどで賑っている。盆踊りではないが、舞台も設置してあるのでイベントである。さすがに日中はうだるような暑さのせいか、夕方から始まるようだ。生ビールや子供の好きなりんご飴や焼きそばなど、屋台も並んでいる。容赦なく西日が照りつけるので、たくさんの長椅子と机も用意してあるが、そこではなくテントの日陰に集まって、アイスクリームなどを食べている。この広場は地域住民や市民にとっては憩いの場で、8月には盆踊りもあるが、かなりの頻度で人が集まるイベントがある。太鼓の共演とか、よさこい踊りとか、市民音楽隊の演奏会などで、もちろん祝日や休日である。今日も浴衣を着た女の子たちが集っていた。ベビーカーに赤ちゃんや幼児を乗せた親子連れ、大人も子供もニコニコしながら夏のひと時を楽しんでいる。そういえば学校も今日から夏休みだろう。小中学生もいたようだ。酷暑だといっても、子供達にとって楽しい夏休みなのだ。男の子も女の子も、長い夏休みの始まりでその開会式のようなイベントなのだろう。ふと思う。こんなふうに人が集まったり街の通りを行き交うことは、なんと素晴らしいのだろうか。実は昨日小さな温泉旅行から老夫婦で帰ってきた。東北の小さな町では、誰も通りを歩いている人はいなかった。車は走っていても人影は何も見えなかった。自分は我が目を疑った。どうして生活しているのだろうか、どんな仕事をしているのだろうか、などと素朴な疑問があったが、多分これが日本の現実なのだろう。人口が2極化しているのである。最近NHKの番組で、タレントが地方の街を散歩するのだが、同じような光景で誰も通りを歩いていなかった。自分達が子供の頃、こんなことは経験したことがなかった。人が人と出会い、集まり、すれ違うこと、それが生活することの定義のような考えていたが、今日の地方はそうではないらしい。誰が考えてもそれは寂しい。人は人と寄り添って生きていける。地方に行けば複式学級も珍しくはない。明日は参議院議員の選挙である。当たり前のことが当たり前にできる社会を、ぜひ作っていただきたい。汗をびっしょりかいてスポーツジムから帰ってきて、冷たい水とアイスキャンデーを食べてクーラーの冷たい風に当たると、生きた心地がする。素直にありがたいと感謝する。夏風邪をひいていた時、クーラーの風にあたると寒くてスイッチをオフにした。すると家内が暑すぎると言ってオンにした。自分は寒すぎてオフにした。こんなことを続けていると、多分夫婦喧嘩になるだろう。どこでどう折り合ったのか忘れたが、そのうち夏風邪が治った。今日の自分は、クーラーの冷たい風はなんと気持ちがいいのだろうと思った。当たり前が当たり前に感じる時、それは体で言えば健康である。当たり前に感じない時は、病気なのである。その意味で、地方は恐縮だが病気の状態にあるのかもしれない。新聞に、病む人の暑さも言はぬこと憂う(深沢ふさ江)の句があった。今の季節なら、病床であっても今日は暑いねなどの会話をするだろう。この病人は病気のことが気がかりで、普通の人が交わす会話も言わなかった。作者はそのことが心配だったのである。病人は当たり前の生活ではない生活を送っている。ということは当たり前に生きていけることは素晴らしいことなのだ。スポーツジムは二面がガラス張りで、青空がよく見え外は灼熱であったとしても、その日光がプールの水面を照らしてキラキラと反射している。自分はなんと贅沢なことをしているのだろうかと、ふと思う。今自分は書斎でブログを書いている。自分の生き様を誰に遠慮することもなく表現できることも、ありがたいことなのだ。この後お風呂に入って夕食をいただくことも、楽しみである。当たり前のことだが、その当たり前に過ごせることが、今の自分には極上の生き方である。自分だけでなく誰でも同じだろう。

雨降り

今は火曜日の夕方、といってもまるで真昼のような天気で、南側の窓から青空が見える。今日は一日中変な天気であった。早朝にまるで豪雨のような激しい雨が降ったというが、自分はぐっすりと寝ていたせいか、全く覚えていない。午前中は書斎で調べものをしていて、時折窓から外を見るが、晴天のような曇りのようなそして小雨が降るような、わけがわからない天気であった。昨日は関東地方にも台風が接近するからそれなりに身構えていたが、何事もなく、少し雨が降った程度で拍子抜けした。今日明日は天気予報によれば1日中雨マークになっていたが、どうも良く分からない。週に1回整体院に通っているが、お昼のちょうど12時に予約していて、整体の先生と話をしたら、豪雨で大変な目にあったと言っていたので、そうなのかと思った程度であった。気象情報はスマホでチェックするのが最も早いのだが、それがコロコロとよく変わる。台風であったり低気圧であったり、まるで生き物のようにあっちに行ったりこっちに来たり、世界の政治情勢のような変わり方である。自分は自由の身になり、自由業だとこのブログで書いたが、辞書で調べてみるとフリーランスの方が良さそうだ。フリーターとフリーランスの区別も良く知らずお恥ずかしい限りだが、ネットによればフリーランスは自分の専門知識を生かして個人として契約を結ぶらしい。自分はこのような身分が合っている。だからフリーランスの立場だとすると、自分で自由に仕事や時間を操作できるので、手帳を見ながら埋めている。ただ若い頃のような仕事量ではないから、空白が目立つ。ただ1つの仕事に対してそれなりの時間がかかることが分かったので、自分にはこの程度でよいと思っている。この立場になって、体と心と脳の健康が大切なことがより一層分かった。またこれらは多分関連し合っているだろうから、体を動かし、専門書や論文を読んだりして脳を働かせ、人間関係や煩わしいことはなるべく肯定的に受け止め、毎日を平穏に暮らすことを心掛けている。今日午前中読んでいた非認知能力の本でも、日頃我々が感じている心のあり方なども、科学的な実験で実証されているらしい。たぶん一番難しいのは、自己肯定感であろう。このブログでも何回も書いているが、家内からは反省病と言われているので、意識して自分を認めていこうと思っている。整体院の先生が、随分きれいな髪の毛ですねとか、声も張りがあって若々しいですね、などと言われたが、半分はビジネスかと思いながらも、受け入れようと思っている。自分を受け入れることができれば、世界が違って見えてくる。フリーランスになってから、平日プラス休日の週3回スポーツジムに行く予定を立てて、今日はその日であった。帰宅する時、小雨ではあったが、風が強く傘が飛びそうになった。1日中こんな天気だったのかと思いながらも、運動した後はどこか楽しい。サウナでびっしょり汗をかき、水中ウォーキングで子供のように動き回り、プールで泳いで快い疲れを感じることは、誰が考えてもプラスの脳内ホルモンが分泌されるだろう。そして元気をもらいながら帰宅すると、いつものようにアイスキャンデーを食べて、家内とよもやま話をして、ブログを書きに2階の書斎に上がってくる。2階から、我が家の庭の向こうに日本風の家が見える。屋根の瓦が雨にぬれて、しっとりとした風情があって、なんとなく日本の家屋はいいなあと思う。歳をとってくると、自然や日本文化にも惹かれることが多くなる。新聞に、雨の日が好きあぢさゐの青が好き(中島由美子)の句があった。どんな文脈かわからないが、今日のような雨降りで、あじさいの青色がより一層際立っていたのだろう。自分も近所の庭に咲く濃い青色のあじさいが好きで、見とれたことがある。雨降りで憂鬱な気分になる人もいれば、この作者のように雨の日が好きな人もいる。今日午前中に読んでいた本の中に、脳はいい加減であるという文章があった。集中しなければ何も見えず、意識しなければただ通りすぎてしまう。雨降りが好きな人も嫌いな人も、思い方次第でどうにでもなる。そんな単純なと思うけれども、脳科学で実証されているようだ。とすれば、当たり前だがプラス思考で行くほうがよい。それはいい加減な脳を都合の良いようにすることかもしれない。それでいいのだ。何が真実かは神も仏もわからないだろうから。

偶然と必然

今は土曜日の夕方、いつものように書斎の窓から南向きの空を見ている。熱帯性低気圧が南側の太平洋に発生して、いずれ台風になるだろうと報道しているようで、今日は1日中曇り空であった。ここ数日間涼しい日が続いて、ほっとしている。これでようやく人間らしい生活ができる。このブログでも書いたが、1週間ほど前に内科クリニックに行って風邪の薬をもらってきた。その前の2週間ぐらいゴホンゴホンとしていたから、今日で約3週間治っていなかった。そして今日ようやく咳が止まって元気になった。昨日までまだ少し風邪気味で、夕方に床屋に行った時に、カミソリでひげを剃っている最中に、咳が出そうで我慢するのに困った。こんな天候不順な毎日であれば、誰でも風邪ぐらい引くだろう。昨日まではクーラーの風に直接当たると寒気がし、クーラーの電源をオフにすると暑くてたまらない、そのそんな矛盾の中で温度調節をしていた。今朝になって風邪の菌がようやく体内から外に出たのか、ほとんど咳も出ず寒くも暑くもなく元気も出てきたようだ。そのせいかどうかわからないが、ずっと気になっていたことを今朝やってみようと思った。我が家の庭に、雑草やごみなどを入れて堆肥にする大きなポリバケツがある。我が家は、このポリバケツを別の用途で使っている。詳細は書かないが、これをどうしても固定したいと思っていた。それはなぜだと言われてもスペースが必要なので省略する。気にはなっていたのだが、連日の猛暑とここ数日間の豪雨があって、すっかりどこかに逃げてしまった。体が元気になったのと、朝はめっきり涼しくなったので、今日この仕事をやろうと思った。しかし新しいことを始める時には気力が必要である。やらねばならぬとは思いつつ、面倒だから今日は止めようという心が勝って、ほとんど日にちだけが過ぎ去っていくのが凡人の姿である。雑草が我が物顔に生えている庭を見ていると、ますます面倒になる。ただこの時そのポリバケツを見て、ふと思いついたことがあった。そうかその方法があったかもしれない、などと書いても、何のことか読者にはわからないだろうが、お許しいただきたい。すぐに物置を探したら、まるで自分を待っていたかのように、2枚の板がしっかりと保管されていた。これだ、れでうまくいくかもしれないと思った。朝5時起床で洗顔をして5時半からこの作業に取りかかった。色々なアイディアが湧いてきて、イメージ通りのポリバケツの設置ができた。今日は何なんだろう、朝は涼しく、ぴったりの材料が手に入り、仕上げも見た目も上出来だった。たまにこんな出来事もある。それは研究に似ている。研究のテーマそのものは、どこかいつも気になっている。それが水中の泡のように表面に浮かんでくる。そしてそれに取りかかろうとすると、待っていましたと言いたいほどの資料や先行研究などが浮かんできたり、探し当てたりする時がある。まるで磁石のように、その研究の遂行に必要な材料を引き付けるのである。それは偶然かもしれない。今日の仕事も偶然にできたのだが、非科学的だが必然のような気もする。稀なことだが誰でもそんな経験があるだろう。そんなことを考えながら、新聞の花壇や俳壇を探してみたが、都合の良い句はなかった。そうだろう、それでいいのだ。あればそれは偶然であり必然ではない。文脈は全くないが新聞に、さやさやと風とたはむる植田かな(田辺英男)の句があった。自分の地域には田んぼはないが、今の季節には、田んぼは一面の水に覆われて、苗が規則正しく水の上に顔を出している。風が吹くと、さやさやと苗が揺れていて、その風情は初夏なんだなという思いを抱かせる。こんな光景を見たら、きっと心が安らかになるに違いない。人は自然に触れると、故郷に戻ったような気がするのは、それが必然だからだろう。今の季節に田んぼに水がなかったら無惨であり、悲しい気持ちになる。自然とは、必然に従って流れゆくことである。だから今日の自分の仕事は、偶然ではなく必然だと思いたくなるのは、仕事の手順が、上流から下流に向かうような自然な流れだったかもしれない。