昨日は自宅で仕事をする日だったが、プリンターが壊れた。無線接続なので、その接続が時々弱くなり、ルータ―の電源を入れ直したり、プリンターで手作業でパスコードを入力し直したり、いろいろ試みをしたが、結局接続ができなかった。恥ずかしながら、これはソフトのせいではないと判断して、破棄することにした。時間がもったいないので、仕方がない。デジタルの時代なので紙は必要ないと思うが、実はそうではない。メールを読んで、約束日が記載されている時は、印刷して書斎の壁にある白板の月毎ファイルに挟んで、毎日チェックしている。このファイルがないと、仕事が管理できないから、自分にとっては大変重要なのである。スキャナーで読み取ったファイルをメールの添付で送ることも多いが、それもできない。科研費で購入すると、証拠になる領収書も紙の印刷になっているので、相当に困る。このブログでも書いたが、愛用のモバイルパソコンのLetsNoteが壊れて、どうしても復旧できず廃棄した。お陰で、子供1人1台端末が所沢市内ではクロムブックなので、研修用に購入したが、これを机に置くことができた。プリンターは1万数千円という安さなので、価格的な未練はないが、未使用のインクが惜しいなどと思ったが、ないと困るので、すぐに市内の量販店に行って購入した。在宅勤務の関係で需要が多くて、気に入った安価のプリンターが1個だけあった。つい先日、他の部屋は点灯するが、居間だけ停電して、原因は何かと思ったが、配電盤のスイッチが壊れていたことに気が付いて、すぐに東電に電話して、部品を交換してもらって復旧した。電気が通じないと、冷蔵庫も電子レンジもポットも炊飯器も、すべてが止まるので、生活できない。配電盤が壊れたのは、初めてだった。人生、いろいろなことが起きるが、すぐに対応することが肝要で、お陰で、電気もプリンターもパソコンも元に収まって、生活もできるし仕事もできる、悩む暇があったら、それより気持ちを切り替えてすぐに行動しよう。時の流れに対応し、と、このブログでも書いている。
新しさを求める
昨日は、久し振りに都心の事務所に行った。新しいパソコンの設定や事務局会議、来客があって打ち合わせをした。面白かったのは、来客の打ち合わせだが、大学の研究室で研究打ち合わせをするような雰囲気だった。新しい情報や知見があると、何か目が輝くような気がして、知的興奮とはよく言ったもので、文字通り脳が活性化していることが実感できる。歳をとると、確かに物忘れが多くなって、人の名前、特にタレント系などは決して覚えられないし、すぐに忘れてしまう。どこか古い脳細胞が捨てられていく感じがする。しかし、知的興奮とは、新しい脳細胞が生まれてきて、それが今までの脳細胞に付加されるイメージである。知識が膨らむような感じで、満足感とか充実感とか、脳全体が包まれるような感じで、知識という栄養素を与えたようだ。内容を書くのはスペースがないが、AIやビッグデータの教育利用と言えば、分かりやすいだろう。先端の教育研究と言ってよいが、この先端ということが、脳にとって良き栄養剤だろう。古いものに脳は反応しない、ということは、常に新しいことを人は求め続けるのだろうか。昨日のブログで、日本人は老いると自然に戻ると書いたが、あれはどうなのか、と思ったが、正しくは自然体で臨む、とか、自然の流れのままに対応することで、新しさを求めるとは矛盾しないだろう。ということは、死ぬまで追い求めることが人の生き様だとしたら、自然体なのか対決姿勢なのかは別にして、欧米とのメンタル構造の差はないかもしれない。昨日は、事務所に自分宛に3冊の新刊の寄贈があった。1冊は事務所に置き、1冊は自宅に持って帰り、1冊は注文しようと思った。どうも注文しないと読まないような気がしたからだが、何か無性に勉強したくなった。学習の科学と言うか、理論的な内容が最近は弱くなったと感じているからである。研究とか学びに年齢は関係ないというのは、確かにその通りである。自分が尊敬する坂元先生のような偉大な先生は、最後の最後まで、ベットで原稿を書き論文を書いていたと聞いて、まさかと思ったが、その通りかもしれない、それが生きることの証だからであろう。
日米首脳会談
昨日は日曜日、朝刊に日米首脳会談の記事が1面に掲載されていて、テレビニュースでもトップである。政治のことは触れないが、世の中は動いている。月々800円という安さで光回線でBSを視聴できるようにしたら、面白い番組などを録画することができる。録画の中で、アメリカの小鹿物語が素晴らしかった。原作の小説は読んだことはないが、古い時代のアメリカの森の中に暮らす農家で一人っ子の少年の物語で、小鹿をペットとして、というか、ベットに一緒に寝るほどの兄弟のような間柄で、少年にとって無くてなならぬ宝のような存在だったが、小鹿が大きくなるにつれて野生化していき、丹精込めて作った野菜などを全部食べてしまう、このような事件が数回起きた時、母親が小鹿を銃殺してしまう、少年は悲観に暮れて森の中に入っていき、筏に身を任せて川に流されていく、3日後に大きな船に助けられ、自宅に帰ることができた、そこで見たものは、暖かい暖炉のある部屋、美味しそうな食べ物などで、それは、野菜を作り、暴風雨を防ぎ、獣と戦って、得た宝であった。少年は自分だけの世界から、生活、家庭、広くは社会の世界に目が開かれた。そのために、大人は戦っているのだ、という少年から大人になっていく心の変遷を描いた作品で、映画としても高い評価を得た。ニュースを読んで、ふと小鹿物語を思い出した。バイデン大統領は、コロナと戦い、民主主義を守り、アジアの平和を維持し、という政策は、アメリカンスピリッツではないか。グレゴリーペックの扮した父親役を、世界を相手に演じようとするのか。アメリカでは今でも市民が銃を所持しているのは、戦うという精神構造があるからではないか、バイデン氏も高齢者であるが、その精神は壮年期と変わらないように見える。このブログで書いたように、自分も含めてほとんどの高齢者は、戦うことを止めて、流れに添って生きていく、言わば自然に戻る、輪廻の精神構造のような気がする。秀吉の辞世の句のように、浪花のことは壮年期の頃の話で、露に消えるという自然に帰る思想は、日本人のメンタリティである。日米首脳会談で、ふと感じた文化の違いである。
パソコンの異文化
昨日は土曜日、曇り空で時折小雨も降った天気だったが、いつものように午前中は書斎で仕事をし、午後はスポーツジムに行った。1週間前に、突然にパソコンが壊れた。自分が愛用してきたLetsNoteで、青色のカバーも気に入って、モバイル用として書斎の机に置いていた。机には、主となるLavieのパソコンとモバイル用の2台を置いているが、これは便利である。例えば、オンラインで会議中であっても、モバイル用で資料を探したり、別の仕事、内職もできる。2台あれば、何かと便利なことは、誰も経験しているだろう。そのLetsNoteが壊れた、それは初めての経験だった、あり得ないという感覚で、もう出始めからのファンで、東工大の生協で最初に購入したと自慢していたほどで、それから何台目になったのだろうか、ショックだったが仕方がない、初期状態にも戻れないので、廃棄した。実は、4月に入ってから、クロムブックを購入していた。これは、GIGAスクール構想のために、市内の学校すべてがクロムブックを導入して、自分は教育センターのアドバイザーのような立場になったからである。始めの設定だけしたら置き場所もなく、忙しかったので放置していた。最初に触った時、違和感があった。マウスも使えないのは、自分には合わない、と、どこか気に食わない相手や相性が悪い部下のような気持があった。幸か不幸か、良き相棒だったLetsNoteが壊れて、机のスペースが空いている。そこに相性の悪いクロムブックを置くしかないので、昨日、設定や機能やらいろいろ触れてみたが、少し腹が立ってきた。Windowsに慣れた身には、どうもGoogleOSは馴染めない。何故だろうと、考えた。それは異文化だからだと気が付いた。パソコンは文化であり、毎日触っていると、その文化、それは設計思想に洗脳されている、と言っても良い。MacOSが好きな人も、同じだろう。理屈は分かったが、解決はできない。触っている内に、タッチペンの設定があって、そうか、これはパソコンではない、タブレットなのだ、と当たり前のことに気付いて、指で画面に触れてみたら自由に操作できる、これは便利だ、これなら小学1年生でも操作できる、と納得した。異文化に適応するには、その良さを知ることなのだ、と改めて教えてもらった。昨日は、良い勉強をした。
老いの心境
昨日は午前中にオンライン会議があったが、審査系なのでここでは書かない。新聞の朝刊を見たら、地方版に歌壇があった。老いること許されてをり春愉し(兼子義明)が目に留まった。そうだな、今仮に自分が癌だと告知されても、手術はしないだろう、癌細胞共に、最後まで付き合う、そのほうが老いの生き様に合っている、と思う。若い頃や働き盛りの頃は、戦うこと、病気でも事業でも運営でも研究でも、仕事の種類は何であれ、なんとかしよう、という自分の意に添って、対象を変えること、それが生き方であった。しかし、老いることは、変える、戦う、なんとかする、よりも、受け入れる、添う、流れる、という自然な生き方がふさわしくなる。それは、ある意味で心地よく、春風に吹かれて、気負いもなく、今を楽しむ心境になる。前に、こんな句もあった。春風やどこまでもゆきたくなりぬ(北村和枝)、風って、どこまでいくのだろうか、ついて行ったら、山に行くのか海に行くのか町に行くのか、流れるままに風に乗ったら、どんな気持ちだろう、と思うのも、老いの気持ちに似ている。だから、老いは怖くないのだ。若い頃は、そう思わなかった、寂しいかもしれない、どう生活したらいいのだろう、と想像していたが、実はそうではない。春風のように、爽やかなのだ。それは、逆説的であるが、適度な仕事、適度な運動、適度な変化、適度な問題などが、あるからかもしれない。前のブログでも書いたが、適度ということを、さざ波と表現したが、大波では困る、老いの身では乗り切れないが、適度ならば、ビーチで海水に素足を入れて歩くような心地よさがある。コロナとの戦いは、医者も為政者にも是非努力してもらいたいが、これは世界中の人々の願いだが、高齢者は、反面において、生物多様性のように、コロナ菌と共生する気持ちも持っている。こんなことを言うと、関係者に叱られるかもしれない。お許しいただきたい。
俳句の認知
昨日の午前中は、採点をした。免許更新講習のeラーニングシステムで試験があって、その採点だが、久し振りに教員感覚になった。受講生のレポートには個性があって面白い。木曜の夜は、俳句のTV番組が老夫婦の楽しみで、昨日のお題はリュックであった。最下位は、父亡くす、という想像の句で、嘘だと言われて酷評されたが、さすがは芸能人で、そこで笑いを引き出す。1位は、ちびリュック 中身はおむつ 山笑う、の句で、後で家内に聞いたら、本上まなみ、さんという女優さんである。彼女には2歳の女の子がいて、リュックを背負いたがるので、少学生の真似をしたがるのだろうか、小さなリュックを背負わせるのだが、中身がない、しかたがないので、おむつを入れる、春の季語の山笑う、のように、リュックを背負って散歩するのだろうか、親子の歩く姿が春の季節に良く合って、頬が緩む。出演者も同感のようで、光景が目に浮かんできて、思わず笑いたくなる、それが、山笑うの季語にも響いている、とコメントしていた。俳句も、相手に伝えることが重要だと認識したが、先の採点を思い出した。父亡くす、のように独りよがりのレポートもあれば、ちびリュックのように、自分もこのような経験があって同感する、と思わせるレポートもある。少し拡大解釈することをお許しいただきたいが、父亡くす、は、作者の想像であるが、同時に創造でもある、もし父が亡くなったら、こんな気持ちだろう、と自分なりに意味を作る、意味を構成する、つまり個における認知、構成主義に立っている。これに対して、ちびリュックは、親子の対話、コミュニケーション、関係性、そこに意味を作る、構成するので、社会構成主義になるだろう。どちらが良いとは言えない。学習方法においても、個別もあればグループもある、個なのか社会なのか、それは授業デザインによる。昨日のブログは構成主義のテーマだったので、思い出して拡大解釈してみた。
原稿書き
昨日は水曜日で、原稿を書いた。この歳で原稿依頼があると、本当に有難いと、いつも思う。そして、テーマは同じでも、なるべく新しい内容で、と思うのは、研究者ならば誰でも同意するだろう。ふとガーゲンの社会構成主義をチェックしたいと思って、本棚を探したが見当たらない、1つの段に前後の2層か3層に入れるので、後ろや中の層だと探すのに時間がかかるので、諦めた。自分の友人で亡くなった阪大の菅井勝男先生を思い出した。我コミュニケーションする、故に我在り、というガーゲンの言葉を引き出して、社会や対話や人と人のつながりの中で人は認知する、と話したことである。昔、ガーゲンが来日したことがあったが、自分は行けなかったが、菅井先生は、その時の感動を話してくれた。そういえば、京都の西之園晴夫先生はご健在だと聞いているが、昔、よく間主観の話をされていた。主観とは個人の頭での認知で、間主観だから人と人の間で交わされる認知、つまりガーゲンと同じ考えであるが、彼は、授業実践をどう理論化するかという難しい研究をされていた。当時、自分は日本教育工学会論文誌の編集担当をしていて、授業実践の論文査読をどうするかで、先生とよく議論させてもらったからである。当時は、まだ認知や構成主義が主流で、東大の佐伯胖先生が一世を風靡されていて、算数の時間でね、子供が、分かったけれども分からない、と言うんだよ、と語って、聴衆を魅了した。やり方は分かったが、納得していない、という個の頭で生じる認知の話でガーゲンとは違うが、認知科学や認知心理学のレジェンドで、彼の講演会は多くの研究者を集めたが、現在でもご健在であろう。探し物をしながら、昔のことを思い出した。自分も、もうそんな歳になったのか、昭和や平成は遠くなりにけり、だが、多くの優れた大先達のお陰で、まだ原稿を書かせてもらっている。
褒めるとは
昨日は火曜日、平穏な1日だった。原稿を書きたかったが、当面の仕事を先に片付ける必要があって、取り掛かる。すると、別の用事を思い出す、など、どうも仕事の管理がうまくいってない。机の前にメモ用紙を張ってチェックしているが、抜ける時がある。日数がかかる時はToDoリストに書いて、パソコンのディスプレイに置いて、いつでも見れるようにしているが、やはり見落としてしまう。手帳に書いたことは、見落としが少ないようで、自分はアナログの手帳とデジタルのToDoリストを併用している。その日のことは手帳で、ある期間のことはToDoリストで、という方法である。併用すること、ハイブリッドということは、教育でも、対面とオンラインというように、主流の考えである。当たり前のことで、それぞれのメディアの良さを生かすことだろう。昔は、手帳に予定だけでなく、感じたことを後ろのメモ欄に書いていて、特に利用するわけでもないが、文字通りメモしていた。日誌代わりに手帳を使っていたが、今では、このブログがその代用になった。アナログからデジタルへの移行である。ただし、手帳には、腹が立った、会議で不満に思った、ムシャクシャした、嫌気がさした、など、マイナスのことは書かないようにしていた。因果関係はないが、そのほうが手帳の使い方としては優れている、と経験的に感じていたからである。教育現場では、子供を褒めよ、と言われているが、褒めてばかりいたら、人間的な成長はしない、非指示的カウンセリングの受け売りだろう、と思っていたが、どうもそうでもないようだ。というのは、時折手帳を見ると、後ろのメモ欄に、良いこと、つまり自分を褒める言葉を読むと、自分で自分を認めることができて、元気が出る経験をしたからである。だから、このブログも、マイナスのことは書かない、プラスのことを書くようにしている。その方が、楽しく前向きに生きられるからである。
他人の働き
昨日は、久しぶりに都心に出かけた。歯科医院と所属団体の事務所と新宿の事務所に行って、会議や用事を済ませた。歯科医院は、コロナ禍以前から通っているので、3ヵ月に1回、治療というか歯の掃除をしてもらっているが、少し歯茎が弱っているようで、直してもらった。所属の事務所も歯科医院も溜池山王にあって、徒歩で行って会議に参加する。会議が面白い、というとニュアンスが伝わりにくいが、知的な興味と事業的な面白さがあって、対話に惹かれるのである。対話と書いたが、会議と言うより自分の感覚では対話に近い。なんとなく大学の研究室で議論する光景に似ていて、会議ではなく、追求、探求、解決案の模索、のような感じがする。そこには、メンバーに共通する基盤が必要で、会議がちぐはぐになったり、すれ違ったり、鋭く対立したりする時は、お互いのスキームが異なっている場合である。自分は、この会議や事務所や雰囲気が好きで、単純には居心地が良い。それは、自分がどこかスタッフを尊敬しているからかもしれない。誰もが、自分にできないものを持っていいる。彼らの知恵やスキルで、この団体が運営されていると思えば、自分の役割は、応援しアドバイスする、セレモニーで挨拶する程度である。新宿の別の事務所に行って、机の片付けをして、廃棄する書類や自宅へ郵送してもらう物品を整理して、メモ書きをして依頼した。これも、スタッフのお陰である。ある高校生が、社会科の時間に、自分の身の回りを調べる授業があって、いろいろ調べて分かったことは、いかに他人に助けられて生きているかであった。何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、それ以来この高校生は、当たり前が当たり前でない凄いことなのだと思うようになって、成績が急速に向上したと言う。歯の治療はもちろん、団体の事業運営も、書類の郵送も、自分ではできない、専門家やスタッフのお陰、と思うだけで、心が明るくなる。春風に向かって口笛を吹きたくなる。
mustとwant
昨日は日曜日、オンライン会議はなく、土日は少し気ままな曜日である。が、昨日が締め切りの審査、正確には今日が締め切りだが、今日は都心に行くので時間がない、があって、午前中はそれに集中して終えなければならない。人は、このようにmustで仕事をするが、やっていく内に、その中に引き込まれていくのは、誰も経験しているだろう。英語が正しいかどうかわからないが、wantに変化するのである。審査なので、内容には触れないが、徐々にその浅さや深さ、申請者の意図が見えてくる、これは適当に書き流している、これは思わず相づちを打ちたくなる、など、手に取るように伝わってきて、審査する側が勉強になる。歳をとってくると、審査系の仕事が多くなって、年中審査をしているような気がする。頭の芯が痛くなるような論文審査もあるが、そのような難解な内容でも、調べたり何回も読んだりしていると、ふと気付くこともある。研究と同じかもしれないので、どこか惹かれる。昨日は、スポーツジムの日である。午後の早い時間に出かけたが、前半はランニングマシーンと筋トレで、後半はプールである。正直に言うと、昨日は気持ちの良い快晴の天気なので、公園をジョギングしようかなど考える。スポーツジムに行くと2時間半の時間を費やすが、ジョギングは1時間で済む、という時間もあるが、どこかmustの気持ちがあって、出かけるのである。が、ランニングでびっしょり汗をかくと、やって良かった、と思い、プールでその汗を流して、同じフロアだが屋外にあるジャグジーに身体に浸していると、天国のような気がして、wantに切り替わる。特に昨日は快晴だったから、温泉宿かリゾートホテルに行ったと同じである。mustがwantになるから、仕事でもスポーツでも続くのだろう。拡大解釈すれば、物事は、苦しさだけはなく楽しさに転嫁する。
