異文化

昨日は日曜日、午前に論文を書いたせいか、充実感があった。午後は、週に1回の外での昼食、買い物、スポーツジムなどであるが、平凡ながら、満たされていると感じる。昨日は、高齢者向けのスマホについて一般的な要求を書いたが、自分は新機種が気に入っているので有難い。今日は月曜日で、早速午後に市内の学校の研修会で、テザリングでパソコンとつなげて、見せたい画面があるので、役立つ。新しい機種や新しい仕組みや新しい方法などが導入されると、人はこれまでの使い方と違うので、違和感を覚えるのは仕方がないが、それは異文化接触であろう。異文化には経験することが一番で、今日の研修もGIGAへの対応なので、先生方に接してもらいたいと思って、実際の場面をデモしたいと思っている。今朝メールを見たら、論文の査読について新しい方法を導入したのだが、根回しの時間がなく不安だったが、どうも喜んでもらったようで、胸を撫でおろした。今日の研修会も、新しい方法を提案するので、不安と期待が入り混じっている。新しいことは、すべてが同じで、吉と出るか凶と出るかは、誰にも分からない、無難に切り抜けたい、とも思うが、それでは、面白くない。GIGAスクールを成功させるために、新しい仕組みを、市内の学校に導入したいと思っているが、簡単ではなさそうで、学校は、高齢者のスマホと同じように、ガラケーのほうが馴染んでいるので変えたくない気持ちと、同じようだ。だが、そこが踏ん張りどころで、すぐにうまくはいかないが、これが将来の学校に役立つと思えば、少々の抵抗は受けて立つ、次の手を考える、など、対応策はある。世の中は、常に動いてる、計画は計画通りに行かない、昨日も予定の行事がキャンセルになったが、それで良いのだ、逆に、自治体のセキュリティ対策とクラウドの有効活用の在り方を、あの手この手で、立ち向かっている研究者からメールをもらい、打ち合わせをしようと約束した。向かっていくことは、勇気が要るし、平穏ではないが、それが世の中を支えている力かもしれない。

スマホの機種変更

昨日は、土曜日、午前中は自分の仕事ができて充実していた、が、午後は買いものと、スマホの機種替えで、時間が潰れた。買い物は必需品なので納得がいくが、スマホの機種変更にこんなに時間がかかるとは思ってもみなかった。キャリアはソフトバンクであるが、ワイモバイルにすると通信料などが格安になるという大宣伝があって、通信規格が4Gから5Gの大容量になるというし、しかも5月中なら1万円の割引があるという、何でも5月中に機種変更しないと、庶民にとって絶好のチャンスを逃すのではないか、という恐れもあって、昨日の午後に予約していた。予想通りで、店内は密状態で、しかも待ち時間を含めて、時間がかかる。13時半に予約して、終わったのは17時過ぎだったので、約3時間半以上かかった計算だが、どうも参った。知識不足だが、格安になる背景や仕組みが分からないので、どこか納得しにくいのだが、各社が競争しているので、安くて便利で早くて快適なら、どこでもいいのだがと思いつつ、もう一つ要素があった。使いやすい、ということだ。この業界は進歩が急速で、機種が変わると、操作の仕方もメニューも、こちらの知識に関係なく、無造作に変えてしまう。担当者は親切に丁寧に対応していただいたが、今回の機種変更は、いろいろ条件が多く、安さと使いやすさの最適解を探すには、時間がかかる。隣でも年配者が機種変更なのだろうか、話がちぐはぐで伝わっていないようで、スマホ教室に行ってください、という声が聞こえてきたが、担当者としても、どこか困っている様子が伺える。家内と二人の機種変更で、なんとか契約して帰宅した。しかし、昨夜中にしておくことは、かなりあった、が、パソコンの前に座ると、設定などが楽なので、2人分のスマホ設定は、ほぼできたが、スマホは本当に必要なのか、パソコンがあれば十分という気がするが、高齢者向けに、もっと分かりやすいスマホを開発してもらう必要がある。スマホは、高齢者に不親切だ、と思うのは、自分だけではないだろう。これは、社会問題ではないのか。

飽きない方法

昨日はオンラインが2つあって、どちらも平穏に過ぎたので、特に書くことはない。というのも、後半のオンラインは、自分は事前にビデオ録画した映像が流れただけで、リアルな話をしたわけではなく、youtubeの配信を受けただけである。他県に出張の予定だったのでビデオ録画したのだが、新型コロナの関係で延期になったからである。このように、刻々と世の中は動いている。一昨日のコンサルテーションで、飽きない教材とか教育方法の質問があったが、自分は、飽きない方法に関する論文は、これまで読んだことがなく、もしあれば、それは画期的な研究であるが、たぶんこれからもないだろう、と答えた。基本的に、人は飽きる、同じことを聞けば、すぐに欠伸が出るし、当たり前の論文は見たくもない。昨日の後半のオンラインで、明治大学の岸先生が、実践研究のパターンを3つに分類して、以下の議論を進めていたが、ハッとした。今まで聞いたことも見たこともない、分類だったからである。面白い、ということが、目を開かせる。ということは、刻々と世の中は動いている、そのことが、飽きさせない仕組みではないか、その動きに対応することではないか。平日はジョギングをするが、幼稚園か保育園の塀の前を通るが、幼児が園庭を駆け回っている、ジャングルジムに上っている、ジャンケンをしている、など大忙しの様子で、ふとある幼児に塀越しに目があったら、おじさんバイバイ、と手を振った。一昨日のことだが、初めての経験で、幼児は、すべて目に映ることが新しいのではないか、だからすぐに反応するのだろう、と思って、手を振ろうと思ったら、通り過ぎてしまった。しかし、何故か嬉しくなる。幼児や子供は、今がすべてであり、常に新しく、全力で駆け回って、たぶん飽きることはないのではないか。飽きない方法、それは、幼児や子供から学ぶことかもしれない。ふと、そんなことを思った。

役に立つこと

昨日は、午後にオンライン会議と学校訪問があった。何というか、両方とも満足できる内容だった。満足できるとは、自分が少しお役に立った、という意味である。仕事上のことで、詳細は書けないが、オンライン会議は、コンサルテーションのような内容で、これまでの研究知見や経験値を元に、自分の意見を述べて、参考にしてもらう、という趣旨だが、相手が、手を叩く、膝を打つ、ような納得の仕方だったので、ああ、自分も少しはお役に立ったのだ、これまでの経験も無駄ではなかったのだ、と思えたことで、満足できたのである。他の役に立つこと、それが仕事の生きがいと言っても良いだろう。学校訪問は、今年の市内の研究指定校になった学校で、その研究の進め方、次回の研修会での講演などの打ち合わせだが、このブログでも書いてきたが、小学校の実践に役立つのは、並大抵ではない。実践していないことは、理屈をいくら言っても、相手に響かない、だから、最大限の努力をして、答えなければならない。そのことを正直に言って、実は、自分は実践のことは素人なので、と言うと、謙遜でしょう、という表情をするが、真実ですから、自分のほうが、授業を見て勉強させてもらいたいが、こんな内容でいいか、という打ち合わせをした。すると、先生方も、自分も、それぞれの持ち場が明確になって、舞台の上で演ずる役者のように、どちらかが欠けると、全体が演劇にならない、という感じが掴めた。自分の役どころは、ここかと思って、少しお役に立てそうだ、と思ったのである。コロナ禍で在宅勤務になって有難いのは、移動時間がないだけ、原稿とか講演とかコンサルテーションなどに、時間をかけることができることだ。それは、それだけ愛着を持って関わることができるので、我が子のように、担任する生徒のように、ゼミの学生のように、どこか大切にする気持ちが出てきて、もっと役に立とうと思うので、満足したのである。

大学の会議

昨日は、久し振りに対面の会議であった。白鴎大学の理事会評議員会で、昼食を挟んでの対面会議で、なにしろ栃木県の小山市なので、通勤に時間がかかり、ほぼ1日を予定しなければならない。かつては、よく電車通勤していたと感心するが、当時は朝5時57分に自宅を出て新幹線通勤をしていたが、慣れてしまえばなんともないが、今では無理である。昨日は、往復とも在来線で、各駅停車なので、大宮から小山まで50分かかるので、片道2時間以上かかる。しかし、この50分、往復なので100分が有難く、読みたいと思っていた、失敗の科学、と仕事上の冊子を、夢中で読んだ。1000円支払えばグリーン車に乗れる、小さな机を出して、本でもパソコンでも置けるので、仕事もできる、極めて快適なのである。論文以外は、書斎ではなかなか読む時間がなく、ゆっくりと読んで、時々、目を外に向けると、大宮から北方向に向かう地帯には、畑や林など、緑で敷き詰められたような場所が多く、人家が点在する光景が続く。駅前であっても、人通りは少なく、商店街などはほとんどなく、どうして暮らしているのだろうか、と思うと、子供や若者がいることは貴重なことなのだ、と実感する。会議は、決算や事業報告が主な内容だが、その後の質疑、というより感想やコメントが面白い。小山に来るといつも思うのだが、大学は何故楽しいのか、それは学生がいるから、学校は何故素晴らしいのか、それは子供がいるから、公園は何故ホッとするのか、それは幼児がいるから、なのである。何故山に登るのか、と同じことであり、そこに人がいるからで、その存在自身が、楽しさや喜びやすべてを、もたらしてくれるのだ。時に、苦しみや悲しみを持ってくることもあるが、それで良い、もがきながら、失敗をしながら、子供や若者は成長していく。失敗の科学は、失敗と言う宝物を生かそう、という趣旨だが、教育にとって、きわめて大切である。昨日は、初夏のような日差しの中で、教育の揺りカゴにたっぶり浸かって、教師の顔になった。

対面講演

昨日は、オンライン会議はなく、対面の仕事があった。所沢市内の研究指定校での初回の会合で、密にならないように、会議室を透明版で仕切って、かつ距離をとっているので、大勢の先生方が入る訳にもいかず、2部屋に分散しての辞令交付と会議と、講演会であった。自分は、講演をしたのだが、久し振りの対面講演だと、どうも勝手が違う。オンライン講演に慣れると、オンラインのほうが日常で、対面のほうが非日常になるので、人とはすぐに慣れるものだと妙に感心したが、マスクをつけたままマイクに向かって話し、かつ別の部屋には、オンラインで転送しているようで、なにかちぐはぐな印象がある。学校文化は、どうしても対面から離れないようで、今でも学校への連絡はファックスか電話のようで、確かに自宅の固定電話に教育委員会から連絡がくるが、メールにしてもらいたいと思っても、すぐに返信がないので、逆に不安になる。先のブログでも書いたが、資料を作っていた時、どうもピンと来ないので、ほとんどを変えた、削除したり追加したりしたが、その資料を使っての講演であった。一番前の席の先生には少し申し訳ない気がするのは、スクリーンを映すために照明を暗くするので、眠気を誘うし、一番後ろの席は、スクリーンが小さくなって見えにくい、これなら、オンラインで、目の前にパソコン画面を置いて、視聴したほうがよほど見やすいのに、と思っても、対面が基本なので仕方がない。そして、思ったことは、やはり資料を変えて良かった、虫の知らせ、というか、何かおかしい、という直感が働いて、変えたのだが、先生方の反応が、変えた資料の講演の時は、メモが多くなる、表情が違っている、後でセンターの所長さんに聞いても、同じであった。まるで、鏡のように、こちらの気持ちが相手に通じている、なるほど、これは対面でしか分からない、小中学校では、子供たちの表情を見ながら授業をするので、対面文化になっていることに納得した。それにしても、資料準備の時、どうして変えようと思ったのだろうか、ドイツの著名な科学者が書いた名著、なぜ直感のほうが上手くいくのか、の本を書棚から引き出した、詳細は述べないが、直感の凄さは既に科学として証明されている。

当たり前のこと

昨日は月曜日、仕事の週始めなので、2つのオンライン会議があった。5月と6月は、理事会や役員会シーズンなので、時間が取られるが、自分がやりたい仕事、研究や講演資料や文献調査などは、およそ午前の時間に充てて、午後に対外的な仕事に割り振るのが通例である。昨日は、13時から14時まで所属団体の事務局会議、14時半から16時までが他団体の理事会だったので、効率が良い。対面では、移動時間がかかるので、こうはいかない。その後、ジョギングをして、という生活パターンである。お昼は、自宅で、およそパン食で、NHKニュースや連ドラを見ながら、12時54分になると、2階の書斎に上がる。お昼は、家内と一緒の食事で、食パンに卵やソーセージなどの定番のメニューだが、不思議と飽きない。夕食は、こうはいかず、家内はいろいろ工夫をして、昨日も、古いiPadを手に持って、キャベツ、鶏肉などの食材を音声入力して、料理レシピを探している。少し驚いたのは、ネットの世界は、音声入力や音声出力が当たり前で、レシピがテキストと音声、場合によって動画などで表示される、これを参考にして夕食を作るのが、家内のやり方だが、このような方法で、冷蔵庫にある余った食材を、無駄なく使っている。主婦は、優れたIT利用者で、理屈や仕組みは知らなくても、いとも簡単にそして実用的に、パソコンを使いこなしている。講演資料を作る時、資料提示では、テキストや写真に音声を加えたほうが理解しやすい、などと書いているが、ふと頭を抱えた。自分は何をやっているのだろうか、こんな当たり前のこと、主婦なら誰でも知っていること、教師も日常的に資料を提示しているから、よく知っていることを、講演で話して、何が面白いのだろうか、独りよがりになっていないのか、dual coding theoryなどと言っているが、まるで裸の王様ではないのか、と自省した。うーん、難しい。自分の分野の研究などは、教師が知っている当たり前のことを、その証拠や根拠を提示することに過ぎないのか、仕方がない、自分は、主婦や先生方から、その当たり前のことを学ぶしかないのか、と思ったが、先生方も、実は子供から、子供にとっての当たり前を学んでいるのではないか、と思った。同じかも知れない。

老後の生活

昨日は日曜日、しかも久しぶりに良く晴れた天気で、頬を撫でる風が嬉しい。こんな日は、ガーデニング、などという洒落た言葉は似合わないが、小さな庭の雑草を取り、爽やかな一時を過ごして、土日なのでスポーツジムに行った。プールでは、2レーンをつないで、水泳レッスンをやっていて、女性のインストラクターが身振り手振りで、手本を見せて、受講生達を指導している。ちょうど小学校のプール指導のような光景で、受講生も楽しそうで、水に浸かって、苦い顔をする人はいない。受講生は年配も中年も、男女もいるが、楽しそうな表情は女性のほうで、中には隣同士で話をしている、マスクがないから、黙話と分かっていても、声を掛けたくなるのだろう。自分は、隣のレーンで泳ぎ、往復するとプールの端で、窓越しに外の景色を見るのが好きで、昨日は青空が良く見えて、心が癒される。そう言えば、筋トレやランニングマシーンの階でも、休憩中によく話しているのは、女性の方である。男は、自分も含めて、ほとんどが黙って運動している。話し掛けられるのも煩わしいし、自分のメニューに従ってやっているので、好きにさせてくれ、と思っている。ランニングマシーンの時は、仕事や研究のことを考えたり、プールの屋外ジャグジーでは、椅子に座って空を眺めるのが好きで、いろいろなことを子供のように空想する。帰宅する途中で、ああ、今日も居るな、と思うのは、石台に座って、行き交う人を眺めるお爺さんに会ったからである。晴れた日は、よく座っていて、所在なく時を過ごすようで、どことなく侘しさを感じさせる。独り者なのだろうか、洗濯もしていないような服装で、哀れとしか言いようがない。男は、スポーツジムでも一人で運動するが、老後になって、話し相手が居なくなったら、こんな姿になるのだろうか、新聞に投稿された句、独りとは声なき暮し寒の月(黛衛和)、を思い出した。老いて楽しむ人生もあれば、孤独になる人生もある。老後になって楽しむのは、女性の方が多く、男性は孤独になりやすい傾向があるようで、著名な女性作家や女性大学教授が書いた、おひとり様のすすめ、などの本がベストセラーになっている。自分もいつ独りで寂しくなるか分からない、今から家内孝行を心掛けておこう。

博士ちゃん

昨日は土曜日、時々小雨が降るすっきりしない曇り空だったが、土日の午後は、外食したりスポーツジムに行ったり、という生活スタイルである。夜は夕食をしながら、テレビを観るが、土曜は、博士ちゃんと池上彰さんの番組を楽しみにしている。博士ちゃんは、こんなに凄い小学生がいるのか、と驚くし、池上さんの本質を突いた分かりやすい時事解説に、いつも感心する。池上さんが、超多忙の中で、東工大を始め多くの大学で講義していることも、敬服している。共通しているのは、お笑いでも、ドラマでも、音楽でも、エンターテイメントでもない、ということだ。学校の教室で勉強するような内容だが、たぶん視聴率も高いだろう。 エンターテイメント 、つまり娯楽、楽しむ、内容ではないが、面白いのは何故だろう。ブログでもよく紹介するが、俳句の番組も面白い、つまり、国語、算数、社会、理科など、教科の学習をしているようなものである。自分がまだ大学に勤めていた頃、打ち合わせのために、研究室に企業人が何人か来たことがあるが、ああ、もう一度勉強したいな、まるで天国のようだ、と述懐した人がいる。皆で、学生時代のことを話したが、誰も同じ思いをしているようで、顔がほころんで、至福の時を過ごしている表情をした。小中学校では、授業を受けるのが嫌いな子供も多いだろう、勉強は、何かしなければならない、という強制があるが、博士ちゃんの小学生を見ると、嬉しくて仕方がない、こんな面白いのに、と、先の企業人と同じ表情をする。それは、知らないことを知ることの喜びを知ったからだろう、今の学校教育の柱の1つは、探究型学習である。知らないことを知りたい、何故だろう、と思うのは、誰にも備わっている本性のようなもので、ある小学生は、パンフレットか模型かを見て、オオカミに興味を持った、それから研究してみると、オオカミを怖いと思わせたのは、人間の方だった、と気付いて作文にした、という記憶がよみがえって、昨日の博士ちゃんの、日本オオカミの絶滅の話に、さらに興味を持った。生物でも、社会でも、俳句でも、こんなに面白い世界がある、と、先見の明のあるテレビ番組制作者は気付いていたのであろう。テレビ番組制作者に、教育方法の改善の研修講師をやってもらったら、どうだろうか、文科省や教育委員会は、考えてもいいだろう。

カモの親子

昨日は、整体院に行った。手帳を見ると、夕方の予定に入っている。整体院であっても、医療保険が効くので、3割負担なので安いのである。しかし治療の名目なので、毎週行かないと、保健が効かなくなるので、手帳にメモして、忘れないようにしている。夕方、自宅を出ると、近所の小川の橋から、4,5名の大人が、中学生も混じって、川を見ている。自分も覗いてみると、親ガモと5羽の子ガモがいた。そうか、子ガモが生まれたのか、今年も、無事に育ってくれるといいが、と思って、よちよち歩きの子ガモの姿に見とれた。そういえば、数年前に、親ガモが子ガモを教育している姿を見たことがある。この場所から上流に歩いて数分くらいの川に、段差がある。その時も、同じように、親ガモ、たぶん母親であろう、が先頭を歩いて、下流から上流に向かって、段差を飛び越えた、そして下流にいる7羽くらいの子ガモを見ている。子ガモは、親ガモを見習って、なんとか段差を飛び越えようとするが、どうもうまく行かない。その時、親ガモが、ビッと声を出した。まるで、スタート合図の笛のような、しっかりしろ、と激励するような声であった。それを聞いて、7羽の子ガモはさらに頑張って、段差を飛び超えようとし、また流され、また飛び越える、という動作を繰り返して、ようやくすべての子ガモが成功した。親ガモは、それをじっと見ている。子供たち全員が揃ったところで、母親は安心したのだろうか、その場所の草むらで、親子が歩いたり、草をつついていた。親ガモは、まるで教師だった。後で家内から、子ガモはカラスに狙われて、半分くらいに減ると聞いた。動物の世界の生存競争は厳しい、と思いつつ、愛らしい子ガモと、肝っ玉母さんのような愛情と頼もしさを持った親ガモに、無事で育ってほしいという思いを込めて、自分も近所の人達も眺めている。切り抜いた新聞の歌壇に、こんな句があった、どこからか子を叱る声聞こえくる良きかな春の夕暮れの路地(椎名昭雄)。ホッとするような一コマである。