昨日は日曜日、いつもの通りだが、午後はスポーツジムに行って、帰宅してシャワーを浴びると、1日が終わったような気がするが、夕方は書斎に入ることが多くなった。これまでは、お風呂上りと夕食の間は、ぽっかり空いた時間で、居間で小説などを読むのを楽しみにしていたが、スポーツジムやジョギングをすると、仕事や研究上のことで思いつくことが多いので、どうしてもそれを確かめたくなり、パソコンの前に座るからである。思いつくとか、気付くとか、それは新しいアイデアの場合もあるし、自分の勘違いの場合もある。おかしいな、どうして返信が来ないのか、などと考える時は、たいてい自分の勘違いのことが多い。昨日も、メールを見落としていた、それに気が付いた時は、ほっとした、そうか、自分の責任なのか、これからは気を付けよう、と思ったのだが、自分のことは、なかなか見えないものである。気付き、それは素晴らしいことで、多くの科学の発見などは、それがヒントになって、自然が見えてくると言うが、凡人には、自分の姿のことである。自分が、勘違いしていないか、見落としていないかと、まず自分の姿を確かめると、大事に至らないで済む。昨日は、その経験をして、今後はそのようなことがないように、いろいろ工夫をした。講演なども、準備期間を予定に入れるように、以前の内容と重複がないように、などを考えると、頭で記憶する、手帳に書くだけは、不十分で、外部記憶が必要になる。気付きメモとか、講演メモとか、文献の優れた考察とか、実践からのメッセージとか、やはりパソコンに保存していかないと、引き出すことができない。昨日の夕方は、そんなデジタルメモを作っていたら、直ぐに夕食になった。
予定外のこと
昨日は土曜日、朝から良く晴れている、梅雨が明けたからだろう。朝ふと実験のことが気になって、共同研究者にメールを出した、直ぐに返信が届いて、数時間後に、オンライン打ち合わせをした。仕事のことや研究のこと、気になることは、誰でもあるだろう。今の世の中は、スマホでもパソコンでもネットにつながっていれば、直ぐに連絡ができる、調べられる、チェックできる、これは素晴らしいことである。just in learinigと本に書かれていたが、その通りである。霧が晴れるように、梅雨明けの晴天のように、実験することが楽しみになった。午後は、家内と市街に用事があって電車で出かけて、街を歩くと、その暑さは尋常ではなく、家内の日傘のお裾分けをもらって歩いたが、どうも歩きにくい。持っていた扇子でささやかな日陰を作って、抵抗したくらいである。帰宅して一息ついたら、今日は土曜だからスポーツジムに行く日だったが、行く気がしなかった。お日様が少し西に傾く頃、庭の緑がきれいに見えたので、予定を変えて、東の公園にジョギングに行った。灼熱と思っていたら、風が爽やかで、暑さも吹き飛んでいき、公園の緑が深く、太陽を浴びて背伸びをしているようで、帰宅した時は、満足感があった。家内が、今日は外出したので、お風呂を沸かす時間が無かったので、シャワーでよろしく、と言われ、シャワーを浴びたら、汗がきれいに流されて、文字通り、身も心もさっぱりした。思えば、昨日は、すべて予定外のことばかりで、手帳に書いていないことで、日が過ぎた。予定は、その時の事情や、気付きによって、変わる、変わることは、生きている証拠なのである。
研究と仕事
昨日は、仕事の事でいろいろあったが、仕事とはこのようなものだろう。行き違いや考え方のすれ違いや、それぞれの顔が違うように、違うのが当たり前なので、難しいのである。所属する団体は、企画や事業の進捗状況は順調なので、平穏無事かというと、徐々に、いろいろな課題が出てくる、それが仕事の性格なのかもしれない。うーん、と頭をひねる、実質的にはスタッフが仕事を遂行するが、一応形式的には代表なので、自分の立場で眺めると、いろいろな問題が目に入ってくる。ブログでは内容は書けないが、どこにでもある困りごとで、問題は、これに、どう対応するか、である。菅総理などは、コロナへの対応、五輪の開催、秋の総選挙など、一般人が見ていても、同情したくなるほど、問題が山積して、すべてうまくいくとは到底思えないが、放り出すことはできない。外野は、五輪を止めてしまえ、能力がないからだ、と言いたいことを言えるが、当事者は、成し遂げなければならない、そこが、大きな違いである。だが、その対応を、どう捉えるかである。新聞で、面白い記事を読んだ、映画だが、日本のプロ野球監督は、野球は遊びじゃない、仕事だ、と言って、選手を叱咤激励する。それを聞いたアメリカの選手は、子供の頃、仕事と思って野球をしたか、と反論する。深刻に考えるのか、楽しく考えるのか、の違いが面白い。この記事を読んで、その通りで、研究などは、あれは趣味であって、研究で悩むとか、難しいとか、それは素人だと、自分もよく言っていた。研究以外の仕事も同じで、どんなことにも、面白いことがある、ワクワクすることがある、同じするなら、深刻な顔ではなく、笑顔で引き受けたい、すると、良いアイデアが浮かんでくる。それは、研究とまったく同じである。
免許更新講習
昨日は、オンライン採点をした。ある団体が主催する免許更新講習をオンラインで実施しているが、その受講生の試験をオンライン採点するのである。多肢選択問題は、自動採点できるが、記述式問題は、人間の手で、出題者の意図に添って、採点しなければならないので、オンライン採点になる。毎週木曜日に採点することになっているので、手帳に予定が書かれていて、授業時間割のように、実行している。新聞報道では、この免許更新講習の評判が悪く、実践に役立たない、教育委員会と同じような内容だ、授業や生徒指導に忙殺されて時間が生み出せない、など、教員からの苦情が多いので、廃止の方向を検討していると、言う。そうかもしれない、自分が受講生の立場だとしたら、同じような不満を言ったかもしれない。私立大学教育学部に勤めていた時は、当然ながら対面で講習を行っていた。夏休みの時期だったと思うが、300人くらい入れる大教室で、250名くらいの先生方を前にして、100分だと思うが、毎年講義をしていた。講義の後直ぐに、試験を実施するが、感想を書いてくる先生もいる。日頃教える立場から、受ける立場になることで、自分を知るチャンスになる。自分で言うのも気が引けるが、大学では最も評判が高かった、ので、この講習会は楽しみでもあった。自分は、高校の経験はあっても、小中学校の経験がない、それが劣等感で、その思いが、先生方を尊敬しながら講義していたようで、それが相手に伝わっていたような気がする。知識を知らない学生に講義するのだ、と同じ気持ちだったら、受講生から、しっぺ返しを受けるであろう。講習の在り方は、難しい。
二つの会議
昨日は2つのオンライン会議があったが、1つは専門的でかなり重い審査系の会議、他方は自分の専門の会議で、自分で仕切るので、比較的軽い会議である。専門的な会議、特に自分の専門外の会議で、審査系だと、事前の準備も必要で、何回か分厚い資料を読んだ。この場合は、紙に印刷して下線を引いたりメモしたりすると効果的で、プレゼンを聞きながら、書き込みをした。専門分野以外では、何を質問していいかわからない、ことを経験した。知識がバラバラなので、いかにも素人の質問になるが、専門分野であれば、よく見えるので、メタレベルで質問ができる。他分野の質問内容を聞くと、同じようにメタレベルの質問をして、本質的である。つまり専門家とは、常に本質とか中心とかを意識していることを、改めて認識した。3時間の長時間で、しかも休憩はなく、トイレなどは、自由に行ってほしい、というコーディネータの言葉に、いかにも技術的で専門家集団の文化を感じる。他方、夕方の気持ちが軽い会議は、面白く、楽しく、和気あいあい、の言葉がぴったり合う会議だった。研究企画のような内容で、審査系でないこともあるが、メンバーが気心の知れた研究仲間だったこともある。こうして、昨日は、終わったが、ふと思う、どちらが、良い会議なのだろうか。他の専門家がいる会議では、多少緊張もし、自分が謙虚になれる、そうか、彼もこんな良いところもあるじゃないか、と、他人の良さが見えるようになる。仲間内の会議では、そんなことはなく、お山の大将とか井の中の蛙のような意識になる。井戸端会議のような雰囲気になれば、そこにいない他人の良くない点が見えてくる。なるほど、人の美点が見える時、人の欠点が見える時、がある。それが、人間関係を難しくしているのかもしれない。だから、自分はもう駄目だ、と落ち込むことも良いではないか、まだまだ大丈夫だと自信を持つことも、もちろん良い、とすれば、世に中はよくできている。
長い会議
昨日は火曜日、久し振りに対面の会議があった。対面の会議は、教育関係の会議が多い。何故か分からないが、教育は、元々対面で、子供の顔を見て、という原則が生きているからかもしれない。教育委員会宛ての連絡では、メールは難しく、電話かFAXである。教育委員会では、アンケートやチラシなど情報が過多で、とても対処しきれない、ことが本音だろう。それと、文科省を始め、役所の中にあるので、官の世界である、つまり、何かの意思決定では、責任上、上司の許可が必要で、勝手に決められない。もしメールの返信で、自分の意見を書いたら、文字なので証拠が残る。役所という所は、江戸の昔から、武士の世界がまだ生きているようで、自分のような人間には、肩が凝る。昨日の会議の内容は、ブログでは書けないが、会議の時間が、3時間半という、超時間である。長時間を超えているで、途中で、もう少し時間を考えたらどうか、と発言しそうになった。会議の雰囲気では、言えそうもなく、言葉を飲み込んだ。自分の世界、特に研究の会議では、上下は関係なく、いつも、自分の意見を言う、それもなるべく新規性のある意見、つまり他とは違う意見のほうが価値が高いので、教育委員会の会議とは、文化がまったく異なる。この会議は、我慢大会か、と苦々しく思っていたが、ふと待てよ、と考えた。武士とは我慢の代名詞のような印象があるが、武士の優れている点は、潔さであろう。それならば、よし、じっと聞いてみよう、それも内容が複雑だから、書類に関係図を書いて可視化して、背景となる枠組みを考えていたら、かなり深く理解できた。終わってから、不満が残らないで、今日は良い勉強をした、と思った。決意すること、それは、事を逆転することなのだ。
駅の顔
昨日は月曜日、週始めなので定例の事務局会議があるが、3ヵ月に1度の歯科医院に行く日だった。久しぶりの都内で、自宅から徒歩6分の西所沢駅から急行電車に乗った。いつもは混む急行だが、所沢駅より1つ手前の駅なので、この時刻だとゆっくり座れる。昨日のブログで書いたように、所沢駅界隈は、まるで都心並みの賑やかさと、マンションや洒落た専門店やレストランで、ここは原宿か新宿かと見紛うほどである。巷の噂では、駅前の建設中のマンションなどは、億ションだと言われ、すでに予約で売却済だというから、世の中は分からない。しかし、通勤するには不便だろう、所沢駅からの乗客が圧倒的に多いので、座れる確率は低いのである。1つ手前の駅ならば、ゆったりと座って、乗車の様子を見ることができる。仕事や生活の仕方も、似たような所があって、便利なことは、別の角度から見ると、それが不便になる。ともかく、電車で都内に出かけ、電車の中で、仕事上の審査系の書類を読んだ。歯科医院も事務所も、溜池山王駅で降るのだが、この駅が好きで、アメリカ大使館、超高層ビル、高級ホテル、洒落たレストランなどが、周辺にある。歯科医院では、歯の治療というより歯の掃除なので、機械で歯をきれいに磨くだけである。超高層の森ビルの近くだが、そこからアメリカ大使館辺りを通ると、緑の木々と人工的な小川が流れている散歩道があって、そこを歩くのが好きである。ベンチがあるので、若い人たちが弁当やサンドイッチなどで、昼食を取っている。自分は、そこを通り抜け、庶民的な店の、なか卯で、ざるうどんを食べて、事務所に行って、午後1時からの会議に参加した。住まいのある西所沢駅、休日に行く所沢駅、事務所のある溜池山王駅、どれも好きな駅である。駅にも、それぞれの顔があって、周辺にも、それぞれの個性がある。自分の今の生活は、たまに都内に出かけるので、それぞれの駅の良い面だけを見ているような気がする。毎日通勤だと、その良さが見えず、ストレスになるのは、人の世と同じだろう。
大雨の日
昨日は日曜日、いつもながら休日の過ごし方がある。午前中は書斎で机に向かい、午後は、お中元の返礼の買い物をするので、駅前に歩いていった。25分かかるが、健康に良いので、老夫婦は、なるべく徒歩で出かけるようにしている。久しぶりに、駅近くのスパゲティー店で昼食をとったが、渡り蟹パスタが好きで、コロナ禍以前は、この店によく来た。窓際の席がお気に入りで、2階から眺める光景が、どこかヨーロッパを思わせる。食後のコーヒ―も、ゆったりとした気持ちに寄り添って、その香りが楽しめる。駅は、全体がきらびやかな商業施設になって、老いも若きも、休日を楽しんでいる。昔と変わらない密な空間で、自粛とは言え、庶民はそれなりに楽しむ術を知っている。家内との買い物を済ませて、自分は、駅と自宅を結ぶ道路に面しているスポーツジムに行って、帰宅した。ジムを出たとき、空は曇り空だったが、1分も経たない内に、猛烈な大粒の雨が降ってきた。食事をしている時、買い物をしている時、積乱雲が覆っているが、空は青く真夏の天気だったが、一転して、大雨が地面を叩きつけ、大音響の雷が鳴っている。傘は持っているが、帰宅途中の市民図書館の広場の屋根の下で、雨宿りをした。小さな男の子が、この土砂降りが嬉しいのか、雨の中ではしゃいでいる。小さい時は、何でも嬉しいのだ、と思いながら、帰宅した。昨日は、猛暑の夏の時間と、雷のとどろきと猛烈な土砂降りの時間、の両方を体験したが、どれも良いだろう。毎日を平穏で無事に過ごすことは、そうありたいと願っても、無理なことで、食後のコーヒーを楽しむような平穏無事な日もあり、稲妻の光を伴った大雨に打たれて避難する緊急の日もある、そんな生活が、自然なのであろう。
夏のような日
昨日は土曜日、午前にオンライン会議があって、午後はスポーツジムに行った。プールで泳いで、2階の屋外にジャグジーがあって、そこに椅子が置いてある。足をコンクリート台に投げ出し、椅子に座って、街や空を見ていると、いつもながら、リゾートに行ったような気持がして、楽しい。それでも、まったく考えることがないわけではなく、いろいろな事が浮かんでくる。多くは、仕事の事や研究の事などで、私的なことは、ほとんどない。それは、平穏だから、とも言えるが、自分は、身の回りや家族や子供や孫のこと近所のこと、健康や金銭的なことなどは、頭が回らず、あまり興味がないからかもしれない。ボーとしながら、空を眺めていると、昔のことや、いろいろなことが浮かんでくると、すぐに時間が経ってしまう。昨日の空は、夏真っ盛りで、梅雨の合間だが、30度を超すかもと思える気温で、気持ちは、石垣島かバリ島に行ったようだ。街を眺めていると、マンションのベランダに、洗濯物が干してある。新聞に載っていた、干してあるシャツの白さよ夏きたる(高科謙称)を思い出した。投稿者の名前は、自宅に帰って切り抜きで調べたが、そんな光景である。海外旅行など、今は死語に近い。スポーツジムからの帰り道、あまりの暑さに、自宅近所のスーパーに寄って、アイスキャンディを買った。ガリガリ君という、棒にアイス氷が付いているだけの素朴な形だが、自宅に帰って、食べようとしたら、家内も食べたいと言って、老夫婦の2人で、今年初めてのアイスを食べた。ふと、夏が来れば思い出す、の歌が浮かんできた。夏は、どこか昔の子供の頃に戻るようだ。
毎日の生活
昨日はオンライン会議が1つ、ジョギングをして、夕方に整体院に行って、という生活だった。すべて手帳に書いている予定通りで、生活が時間ときちんと連携しながら進んでいるので、快適である。その間は、原稿を書いたり、今は論文の修正をしたり、書類の作成などをしているが、自分は今の生活スタイルが気に入っている。自分のやりたい仕事、講演資料の作成とか、気になる文献の調査とか、データの分析などは、すぐに時間が経って、ずっとやっていたいのは人情だが、そこが重要で、手帳の予定表が、それを許さない。今日は、走るのを止めておこうか、などと思うことは多いが、長年の経験では、予定に従って行動する方が、結果的に良い。突発的な出来事には、予定を変えて対応しなければならないが、それ以外では、なるべく予定通りに行動している。手帳は、自分の授業時間割だと、思っているからである。そして、小さな変化も起きる。昨日は、透明のビニール傘が壊れたので、ゴミ箱に捨てて、近所のスーパーに買いに行った。透明ではなく青色のビニール傘にしたが、何故か嬉しい。整体院に行く時、傘を持って行ったら、途中で雨が降ってきて、ワクワクした。着いて、傘を振ったら、青色のビニールが、雨粒をはじいて飛ばし、青春真っただ中の若者のように思えた。子供から、父の日には遅いが、黒牛のステーキの贈り物が届いて、夕食で食べたら、柔らかく、舌触りが良く、極上だった。何気ないことだが、歳をとっていくと、子供の気持ちに戻るのだろうか。気に入った傘をニコニコしながらさしている、美味しいステーキに幸せを感じる、時間割に従って規則正しく生活をし、その間に、小さな喜びが舞い込み、時には、苦しい思いもしながら、毎日を過ごしているのは、幼稚園か小学校に通う子供のような生活かもしれない。自分には、上等の生活である。
